「……それで?」
という惣一の問いに、
「うん、まあ。逃げられたわ」
と紫はあっさり答えた。
ここはSRC島中央商店街の喫茶店『イリーレスト』。
先日座ったものと同じ座席で紫は、身体の温まりそうなホットミルクをすすりながら、年老いた猫のようにのんびりとしていた。
今日は、服装は紫のドレスではない。白を基調とした、道教の道士のような法衣だ。惣一が一言だけ服について聞くと、「修繕が必要なのよ」とだけ答えた。
「……大言壮語しておいてそれか」
惣一は半目で紫を見た。
紫もさすがに忸怩たるものがあるのか、すぐに真顔で忌々しげに言った。
「正直甘く見てたのは確かね。あいつら、実力もそうだけど予想以上にしぶとくて。確かに私も幻想郷での平和な環境に慣れて、本当の外道を相手に戦う経験が足りてなかったかも知れないわね。反省しないと」
「くだらんな。まったく呑気な女だ」
惣一はそういって、琥珀色の液体をグイッと煽った。
水割りのスコッチ・ウイスキーだ。普段、喫茶店であるイリーレストでメニューに出ているものではないが、恭祐が惣一の頼みで特別に出したものだ。二十歳をすでに四歳も過ぎている惣一が飲むのは、当然ながら合法であった。
「反省するなら猿でもできる。戦争なら、反省する前にすでに斬られて死んでいるものだ。そんな呑気な台詞が言えるだけでも充分恵まれているというべきだな、妖怪」
惣一は、酒を呷りながら、「妖怪の賢者」と呼ばれた大妖怪をこきおろした。
言われた紫もおとなしく、
「言ってくれるわね。まあ、私のミスだから抗弁する気もないけれど。でも次は、必ず借りを返してやるわ」
と返した。
「そう願いたいものだな。特にあの木原は、きっちり殺してもらいたいものだ」
言った惣一の眼鏡が、ぎらりと光った。
「あの男は危険だ。戦闘能力や科学技術もそうだが、あの決断力や判断力、情け容赦のなさは、まさに悪の天才といっていい。あんな男を野放しにしていては、どれだけ禍根になるか知れん。八雲紫、貴様が釣り逃した魚は大きいぞ」
「そうかもね。でも、これからの世界、危険人物はいくらでもいるわよ。ザボエラの主、大魔王バーン。学園都市の王アレイスター。いずれも木原より強大で危険よ。いかに私といえども、世界の危機とすべて戦うことはできないわ。そう、霧間さんのいっていた、噂の黒帽子の死神さんでもない限り、ね」
「人が最も美しい瞬間に現れ、それ以上醜くなる前に殺す……とかいうやつか。フン、くだらんな」
「女の子たちの伝説だからね。男の貴方はそう思うかもね」
そう言って紫は、片目をつむって惣一を見た。
「貴方は私を甘いと言うけど、貴方も充分優しいんじゃない? 結局あのザボエラとエトナは助けてあげたんでしょ」
「生かした方が使えると判断したまでだ。二人とも、どこかの組織の人間らしいからな」
面白からぬ話題に話が転換して、惣一は仏頂面で答えた。
「場合によっては、金と引き換えに解放してもいい。先方から申し出るまでは、SRC島懲罰棟にぶち込んでおくつもりだ」
「そううまくいくといいんだけどねえ。まあ、貴方らしい発言ではあるわね。貴方は騎士団の子たちには事情を話さないの? 貴方一人で抱え込むには、いささか厄介な問題でしょう」
「くだらんな。貴様からの依頼は果たした。問題など、もう起こっていない」
惣一は、事なかれ主義者の最古参騎士としての発言をした。
「俺のような老頭児は茶でも飲んでいるのが似合いだ。これ以上煩わされることなど――」
だが、その言葉を最後まで言い終えることはできなかった。
「おーい、河内さん! なんか最近、またこの島で変な奴らが悪巧みしてるんだってさ。あたしも手伝うからやっつけに行こうぜ。今度はあたしの友達も連れてきたからさ!」
一斉にバタバタと、静かな喫茶店内に闖入してきた人間たちの、その先頭に立つ十歳年下の赤髪の腕白娘に遮られたからだ。
「この人が河内さん? うわー、本当に気難しそうな顔してるわね」
短い青髪の魔法少女が、無遠慮に惣一をのぞき込んで言った。
それへ、長い黒髪の少女探偵が、苦笑して弁護した。
「まあ、そう言うなって。こう見えて河内さん、結構優しいところあるんだぜ。ナンパな男には厳しいから、健太郎とは相性悪いかも知れないけどな」
ちらり、といたずらっぽい流し目をくれる相棒に、ハッカーの青年が抗議の声を上げた。
「ひでーなぁ。俺は凪一筋だぜ?」
「す、すみません河内正騎士……止めたんですが、みんなちっとも聞いてくれなくて」
一連隊の後方からついてきた、苦労人そうな女騎士――内田深雪が、ハンカチで冷や汗を拭いながら、へこへこと頭を下げた。
そして、室内をしげしげと見渡して、
「でもすごいですね。こんなに外の世界のお客さんが来るなんて、麻生総代でもめったに……あたっ!」
「のんきなことを言ってる場合か、内田正騎士。虎牢卿、どうかご無礼を容赦願いたい」
同僚の頭に拳骨を見舞った鷹村誓史が、丁寧に敬礼をした。
「この者たちとて悪気があるわけではないのです。お察しいただければ幸いに存じます」
「…………」
惣一は何も言わない。
ただ憮然たる視線で、酒杯と群衆とを見比べていた。
「千客万来ね。私が呼んだのは二人だけなのに」
と、紫は微笑して言い、入り口の外に合図した。
「入っていいわよ? どうせもう二人ばかり増えても大した違いはないでしょうから」
その言葉に応じて、喫茶店に入ってきたのは。
「こんにちはー! この間は助けてくれてありがとうねー」
黒いドレスに金髪の、幼い少女。
すっかり元気を回復した、ルーミアだった。
「お礼に友達のミスティア連れてきたよー。ミスティアはお料理が大得意なんだよ! 歌もうまいし、きっと惣一を退屈させないよ!」
その言葉に、横にいた、背中とそして耳の位置から羽根を生やした少女、ミスティアが唇をとがらせた。
「もー、久々に会ったと思ったら人を便利屋扱いして。でも、ルーミアを助けてくれたお礼はしないとね」
そう言って、「夜雀の妖怪」は快活に片目をつむった。
「せっかく大勢いることだし、ヤツメウナギの蒲焼パーティーもいいわね。眼鏡の貴方、目がよくなるわよ! 店長さーん、ちょっと台所借りていいー?」
その言葉に、恭祐が微笑して答えた。
「はいはい。よろしければ、さばくの手伝いますよ。私も一応、魚をさばいたりするのも慣れてますからね」
「そう? ありがとー、じゃ半分頼むわ。店長さんの分も作るから、楽しみにしててね!」
「ありがとうございます。あと、私は店長じゃないですよ。店を任されてるだけの、ただのバイトなんでね。まあ、この店に来てそれなりに長いんですけどね」
「へえ、そうなんだ。バイトにしちゃ落ち着いてるね」
凪が笑って言うと、恭祐も笑って答えた。
「まあ、それなりに場数は踏んでますからね」
「この島だと色々大変ですものね。あ、ミルクティーおかわりください」と深雪。
「あたしはチョコパフェもう一杯! バナナたっぷりつけてくれよなー!」と杏子。
「お肉ー! お肉ちょうだいー!」とルーミア。
「やれやれ。ルーミアは、本当に大食いだな」
「そうだよー。おいしいもの食べると、すっごく幸せになれるもん」
そう言って、ルーミアは杏子に、笑みを――はっとするほど、優しく柔らかな笑みを向けた。
「杏子は私がなに好きかって聞いたよね? 私、食べるの大好きだよ」
その言葉に、杏子が目を見張った。
「……! お前……覚えて」
ルーミアはコクンと頷いて、笑った。
「私のこと助けてくれてありがとね、杏子。友達になろうよ、私たちと」
ミスティアも笑顔で言い添えた。
「一緒に遊んだり歌を歌ったり、いっぱいおいしいもの食べよ!」
「……っ、お前ら……」
そう言いかけて絶句した杏子の顔を、なんと表現すればいいのか。
喜びで笑っているような。嬉し泣きで顔が崩れそうなような。照れ隠しを押し殺しているような――なんとも表現しようのない、しかしそれは紛れもない、歓喜の顔だった。
過酷な運命を歩む魔法少女がまず浮かべることのかなわなさそうな、そんな表情だった。
「おやおやー。杏子ったら、モテモテじゃないの」
それへ、さやかも、屈託なくからかいの言葉を投げる。
「隅に置けないわよねー。さやかさんとも、友達になってくれるのかしら?」
ルーミアも笑顔で答えた。
「もちろん! 友達はたくさんいた方が楽しいもんね」
「杏子も食べるの好きなんだよね。みんなで、大食い競争やろうよ!」
そしてミスティアが、元気のいい声を出す。
「店員さーん、蒲焼焼けたよ! どんどん持ってって、それにお料理たくさん作って!」
「了解ですよ。さあ新入りの皆、さっそく運んでってくれよ」
恭祐の言葉に応じて、香ばしいにおいをたてるヤツメウナギの蒲焼の皿を運びにかかる店員たちの姿を見て、杏子は目を見張った。
「了解ッス!」
「いやー、ここはいい職場ッスね」
「ほんとッスよ。休みはとれるわ、給料はちゃんともらえるわで。こんな職場を知ったらもうエトナの所なんか絶対戻れないッスよね~!」
「あ……あいつら、ここに就職したんだ……」
やや呆然として杏子は、給仕するプリニーたちの姿を眺めた。
「ただ遊ばせておくわけにもいかんということでな。見た目は変だが、よく働いてくれる」と誓史。
「一段落ついたら、君たちもジュース飲んでいいよ」
『ありがとうッスー!!』
唱和して、プリニーたちはどたどたと店内を駆け回る。
その喧噪の中で、惣一は、ため息をついて肩をすくめた。
「……騒々しい奴らだ。まったく、面倒きわまりないな」
「あら、幻想郷は大体こんなノリよ? 騒いではしゃぐのも、皆が無事に戻って来れたからこそよ」
そう言って紫は、穏やかな視線を、遥かに年下の、頑固者の古参騎士という役割を律儀に演じ続ける二十四歳の青年へと向けた。
「貴方だってずっと、こんな日常を守るために戦っていた。そうじゃなくって、騎士様?」
「……フン」
大妖怪のウインクへ、惣一は鼻息を返した。
そして、疲れた目を休めるようにして、軽くまぶたを閉ざした。そうすると惣一の顔から頑固で老けた雰囲気がふっと影をひそめ、その顔が驚くほど年相応の若者めいて見えた。
ストレンジャーズ 宵闇の消失
完