構え、打ち、構え、打ち。
俺は一体どれだけの間、そんな事を繰り返してきたのだろうか。
春のうららかな日に構え、夏の暑い日に踏み込み、秋ののどかな日に打ち込み、冬の寒い日に残身する。
朝も、昼も、夜も、時間があればいつも繰り返してきた。
前世より不器用な俺は多彩な技に手を出さず、昔漫画か何かで読んだ一撃必倒の拳を愚直に俺の骨肉に刷り込もうと、浮気することなく行い続けた。
きっといつかこの拳が弟に届くと信じて――想いを届かせると誓って。
だが、俺の拳は届かなかった。
弟ではなく、俺よりも十は年下の少女にも。
彼女の噂は聞いていた。
幾度か試合を申し込んだ麻帆良の武術を志す人たちに。
だからこそ、踏み台という言い方は悪いのかもしれないが、それに準ずる意味を持たせようとするために、俺は彼女――古菲という少女に試合を挑んだ。
――雨が降る。
ぽつぽつと、いつの間にか火照っていた顔を降り注ぎ、勢いを増す雨が濡らしていく。
俺は左手を前に、右手を腰に添えて、かつて麻帆良中国拳法研究会に顧問としてやってきていたらしい老人から教わった技を打つ。
パシャリと水溜りから跳ねる音が立つ。
俺はただ、冷えていく身体を気にもせず、一つ一つ動作を確認しながら技を繰り返していく。
その日、就職して初めて俺は会社を休んだ。
「つまり長年身体を鍛えてきた天津神さんだったら気を扱えるはずなんですよ」
人差し指を立てて俺に意見を差し出した田中くんは、そう言って腹に力をこめるように顔を強張らせた。
なんとも形容しがたい、妙な圧力のようなものが徐々に正面の彼から湧き出してくるのを、茫然とした視線で俺は見詰めていた。
大きく息を吐き出して、田中くんは俺に対して微笑みかける。
じゃっかんと膝を曲げ、地面をけり軽く飛び上がっただけに見えた彼の足の裏が俺の真上に見えた。
「と、まぁこれが気ですね」
じゃりと土に覆われた地面とで滑るような音を奏で、田中くんはおれのほうへと歩み寄ってきた。
――魔物という非現実的なものが存在するように、この世の中には魔力や気といった漫画の中にだけであるはずの空想的観念があるらしい。
そうでもなければ俺ほとんど力を込めずに飛び上がって見えた垂直跳びが、先ほどのような高さまで到達できるはずもないのだろう。
オリンピック選手も――まっさおな身体能力だ。
「気は自分自身の生命力に準ずるものだそうなんです。俺も人から――俺の師匠から聞いた話なんですけどね、消えかけている灯火がもう一度燃えあがろうとするその勢いが気だそうで。まぁ俺自身しっかり理解して使ってるわけじゃないんですけど」
たははっと頭をかいて、田中くんは続ける。
「何にせよ天津神さん、気を扱えるようにならなきゃ話にならないですよ」
話にならない――というのはおそらく弟に対してのことだ。
弟は稀有なほどの膨大な気と魔力を持っているらしく、それを武器に身体を強化して戦ったらしい。
――戦争に出て、人を殺して。
前世も変わらず平和な世に生まれた日本人の俺は、同じように育った弟がこの世界でそんな事をしていたとは夢にも思っていなかった。
その手で人を殺し、多大な戦果をあげて、弟は英雄と魔物の存在する世界では弟は称賛されているそうだ。
信じられなかった――というよりも信じたくなかった。
あの弟が、俺の弟が、人を殺して生計を立てていたなんて言う事実は。
俺は心底嘘であった欲しかった。
――だが、そうではないらしい。
マホネットと呼ばれる裏世界――俺の生きているところを表世界と考えるならその呼び方が妥当だろう――の情報サイトで、まざまざとそれが真実だということを痛感させられた。
アップされていた写真にはしっかりと、赤く全身を染め上げて立つ弟の姿が映っていたのだから。
「え~と、まずは気を感じるのが先決らしくて、とりあえず俺が天津神さんの身体に俺の気を流しますから感じ取ってください」
そう告げて、田中くんは俺の肩へと手を添えた。
そして俺はその手を――ぱっと振りほどいた。
「……天津神さん?」
怪訝そうな顔で田中くんが俺を見つめる。
そんな彼に対して背を向けて、俺は弟の居るであろう方向へと視線を送った。
西洋造りの、中世を思わせる建築。
麻帆良学園の校舎と、そのシンボルでもある世界樹を視界に収めてやる。
――不意に、目頭が熱くなった。
「田中くん、俺は遠慮しとくよ」
へっと、間の抜けた声が漏れる。
「でも天津神さんはアイツと――弟さんと向かい合うんでしょ? だったら気でも覚えとかなきゃ――」
「俺と零児は兄弟だから」
彼の声は、それに込められた気持ちは、純粋に心配からのものなのだろう。
田中くんは俺を利用しようとしている風だが、それは俺にも同じことが言える。
俺もまた、弟のために田中くんを利用しているのだ。
今の声はそんな損得勘定を抜きにした、親切心から出た言葉だということは十分に理解している。
だが――それでも俺は――
「俺が零児とやろうとしていることはどこまで行っても兄弟の話だ。そこにそんな――ただ相手を屈服させるための技術なんてものはいらないさ」
俺の言葉は心の内に確かにある僅かな逃げによって構成されているのかもしれない。
また先日のように、気などという神秘の力に手を出してまで負けたくないというちっぽけなプライドが喉のあたりを刺激して出てきた感情なのかもしれない。
あるいはこれまで一般人として生きてきて、積み重ねてきた俺の努力を、人生を、一笑に蹴散らすものに手を出したくないという妙な俺の矜持なのかもしれない。
しかし――それをそうだと俺は認めたくないのだ。
気を扱えるようになった方が良いのは理解できる。
気に手を出さないのは俺の誓いだ。
「俺がやるのはどこまで行っても兄弟喧嘩だからな」
泣かせるために拳を握ったのではない。
怒らせるために拳を握ったのではない。
笑いあうために拳を握ったんだ。
研鑽の日々を無駄にしたくない。
十は年下の少女に負けたとしても、これが俺の掴んだ力。
これこそが俺の誓いの結晶。
そう考えると胸の奥が熱くなった気がした。
敗北からも学ぶことが膨大な学問でもある中国拳法を更にひとつ上の次元に運ぶのだと、そう俺に拳の握り方を教えてくれた老人が言っていたことが思い起こされた。
向き合えると――変な確信が俺の中で芽生えた気がした。
「おぃおぃ、これって気? いや、一般人だった天津神さんが使えるとは思えねぇし、それになんか魔力の気配もするんだけど……」
戸惑うような視線が田中くんから注がれる。
そんな彼へとくしゃり潰れかけていた表情を笑顔に変えて、俺は彼の鮮やかな金髪に目を向ける。
「ま、俺も兄貴として気概を見せるさ」
敗北より生まれた陰鬱な塊は、吹き抜ける風がどこかに運んでいったようだった。
仕事帰りに麻帆良女子中等部の校舎近くを通るのは、もはや日課になっていた。
もしかしたら弟に会えるかもしれないという勝手な願望を胸に秘めて、多分あったら嫌な顔をされるんだろうなぁと考えつつ、歩く足取りは軽い。
会社の制服姿の俺にも頭を下げて、さよならのあいさつをくれる生徒たちになんとなくあたたかい気持ちを抱きながら、俺はまた前へと進む。
気がつけば結局弟の姿を見かけることもなく、女子中等部エリアの外へと出ていた。
一目でも良いから見たかったと勝手な感情をしまいこんで、俺は自宅の方向へとつま先を向けた。
「なぁなぁ、せんせはちゃんと見てくれるんよな? うちが学園祭で頑張るところ」
おっとりとした言葉が耳に飛び込んできた。
関西かどこかの方言だろう、標準語で話す人の多い麻帆良では気を引くしゃべり口調だ。
――そういば、そろそろと麻帆良は学園祭の季節だ。
つい一週間ほど前に部長より通達があった。
毎年学園祭の時期になると麻帆良にはたくさんの人が訪れるから、今年もしっかりと気合を入れるようにというありがたいお言葉をいただいてたのだ。
出し物がどこぞの一大イベント顔負けの規模で行われる学園祭は俺も毎年楽しみにしている。
昨年は確か麻帆良全体を使った鬼ごっこなんてものをやっていたが、今年はどんなイベントがあるのだろうか?
そんな華々しくなること確定な未来に思いを馳せつつ、俺はふと声の方へと視線を寄せてみた。
「喫茶店、絶対行くからよ」
「ふぇ? 喫茶店てまだきまっとらんよ」
「あ~……はは、早とちりだったか」
「なんやせんせ、喫茶店やってほしんか? ほなら今度の話し合いのときに提案してみるわぁ」
そこには艶やかな黒髪を腰のあたりまで流した少女と笑いあう弟の姿があった。
制服姿だということは生徒だろう。
仲のよさそうな掛け合いに無駄なほどの距離の近さを感じながら、俺はまたあたたかな気持ちが胸の中で芽生えていくのを感じていった。
声をかけようか――そう思うが、俺が出て行って弟の気分を損ねることもないだろう。
遠巻きに二人の姿を見つめ、さて帰るかと思い至ったところで弟と俺の視線がガチンとぶつかった。
とりあえずひらひらと手を振ってみた――踵を返された。
「せんせ、あの人知り合いさん?」
「あ、いや、べつにんな訳じゃ……」
「待ち合わせしとったらそうやてゆうてくれればええのに。ほなせんせ、また明日なぁ」
そう言うと黒髪の少女はぺこりと俺に向けてお辞儀をし、とてとてとさくら通りの方向へと歩いて行った。
少女がいなくなった途端と、睨むような視線が注がれた。
足がまるで鉛のように重くなるのを感じたが、俺は気にしたそぶりを見せないように弟の方へと歩いていった。
「仲良さそうだな、受け持ちの生徒さんか?」
弟は俺の言葉を無視して歩き始めた。
「いや、うまくやってるみたいで良かったよ。昔から頭良かったもんな? 俺には教師なんて勤まらないし、人に誇れる仕事についててうらやましいわ」
俺は前を行く弟の後を追いかける。
「仕事とか終わったか? もし終わったなら飯でもいかね? 俺がおごるし」
足を速め、弟の隣に並ぶ。
その双眸は俺には向けられていなかった。
「ああ、教師だもんな、文化祭の時期だし忙しいよな。だったらコーヒーでもどうよ、そこの自販機で買ってくるから」
「……ウゼェ」
「そんなこと言うなよ、寂しいじゃねぇの」
俺の言葉に弟の足がピタリと止まる。
そして指を突き付けながら、反論を許さぬ口調と視線で俺へと宣告した。
「俺とテメェの人生は重なり合ってねェンだよ。いつまで兄貴なつもりだ、あァ?」
「いつまでもだろ、そんなの。なにか悩みごとでもあんのか? 悩みがあると口調が荒くぽくなるもんな、お前は」
弟は壮絶な、形容しがたい圧力を伴った視線で俺を射抜く。
だが俺は引いてはいけない、視線をそむけてもいけない。
俺はただまっすぐに、俺の気持ちを伝えるのだ。
「悩みごとがあるなら俺がいつだって相談に乗ってやるぞ。なんたって俺は――」
ぶわりと突風が俺と弟の間を突き抜ける。
「いつだってお前の味方だからな」
伝えたかった想いは届かず、虚空に揺られて消えていった。