「すまない……私はお前との約束を守れそうにない」
細い声は上から下へと流れていく。
いつもの場所で、いつもの曜日の、いつもの時間にやって来た私がベンチに腰掛ける前に、エヴァからそうやって声がかけられた。
――エヴァと会うのは数週間ぶり。
あの時、エヴァの彼氏さんみたいな人の前で私がみっともない姿を見せて、私は外に出るのがまた怖くなってしまってたんだ。
私に注がれた視線は怪訝なもので――もちろん初めてあった私への視線だから、もしかしたら何もおかしくないものだったのかもしれないけれど。
私は怖くて、私はママやパパやエヴァ以外に見られるのが怖くなって、約束を何度か破ってしまったんだ。
だから、私はぺこりと頭を下げる。
先程告げられたエヴァの言葉は正直私の耳を脳裏に留まることなく右から左に流れていた。
乗せた想いはまるでわからないほどに、受け止めることすらまともに出来ないほどに――私はたったひとつの感情の海に沈み切っていたからだ。
「私もごめんね、エヴァ。私のせいでプロポーズを台無しにしちゃって……」
「――はぁ? おっ、おまっ――」
私は自分本位にそう並べ立てた。
――結婚はとても大きな出来事だ。
知らない人に見られることを嫌がる私でも、誰かを見ることを恐がる私でも、前世は腐女子な私でも、私はやっぱり女の子だから結婚には憧れるのだ。
ママとパパの馴れ初めを聞くと、どきどきとどうしても胸が高まる。
包帯で眼を覆っているから聞くだけになる恋愛ドラマでも、やっぱりふわっと胸があたたかくなる気持ちはあるんだ。
だからこそ、エヴァにあわせる顔がなかった。
大事で大切な、一生の思い出になる大好きな人から貰った想いを、私のせいで――
「私、未来の旦那さんには謝りに行くから、私のせいでごめんなさいって行くから、だから――」
朱い万華鏡を納める私の眼から、じわじわとしょっぱい水が流れ出す。
包帯はそこだけちょっぴり重くなって、抑えきれない申し訳なさが染み出した。
――ひっく、ひっく。
赤ん坊みたいに私の喉はしゃくりをあげる。
ずっと考えていた。
エヴァに会ったらこう言おうって、ずっとずっと頭の中で考えていた。
それは――また他人の前で吐いてしまったというみっともなさよりも、私に視線をくれる誰かを見返してしまうって言う怖さよりも。
――いつの間にか大きくて、ずっともっと大きくて、私が何ものにも代えがたいと思っていたことだったから。
だから私は今、目の前に居るエヴァに伝えなきゃいけないのに――私の眼からは涙が止まらなくて。
きっとペットボトルいっぱいになるくらいまで涙が溢れても、まだ止まらなくて。
おろおろとしたエヴァの慰めが、やさしく背中をさすってくれるあったかい手が、包み込んでくれるようなエヴァの眼差しが――私にくれるエヴァの気持ちが私の想いをどんどんと溢れさせていった。
「――落ち着いたか?」
「……うん、ゴメンね」
「謝るなイタチ。そのようなちっぽけな事を私は気にしないさ」
投げかけられた言葉はまるでおひさまのにおいでいっぱいになった布団のように心地良いもので、私の中の決意を崩して、さっき以上に固め上げた。
そんなエヴァだからこそ、こころやさしい私の友達だからこそ、私はきちんと謝らなければいけないんだ。
硬いベンチの上に置いたお尻を座りやすい様におき直して、私はエヴァの方へと向く。
いつもより包帯はきつく巻かれ、その上のニット帽は深くまでかぶっているような気がした。
私の両手を包み込むように握ってくれるエヴァの小さな手を感じながら、私は心が赴くがままに言葉を走らせた。
「でもね、ゴメンなんだよエヴァ。せっかくのプロポーズを私のせいで台無しにして――」
「ちょっと待て、待て」
だけどそんな私の感情はすぐさま訝しがるようなエヴァに止められて――
「プロポーズとは何のことだ?」
喉に詰まっていた棘だらけの感情が、一度に引っ込んだんだ。
――正直、エヴァの言葉に頭がついていかない。
だってあの時確かに、空みたいに済んだ声に男の人はエヴァにプロポーズしてた訳で。
「この前会ったとき、エヴァはプロポーズされてたよ」
「私がか?」
「その、家族になろうって、言われてて、それで――」
あ~と唸るように、エヴァの口から音が漏れる。
何かを思い出してるんだろうか――だけどプロポーズのことって忘れるようなことだとは思えないけれど。
ママとパパは未だに覚えているって、私も何度も聞かされたことがあるから、そう言っていたのに。
「――ずぇっ!」
そんな考えが私の頭の中でぐるぐる回っていたら、突然カエルがへしゃげたみたいな声がエヴァから出てきた。
包帯越しに、つんつん痛いような視線が突き刺さってくる。
「イタチ、お前もしかして天津神のことを言っているんじゃないだろうな……?」
「この前会った人がそうならその人のことだけ――」
「やめろ、さぶいぼが出る」
私の言葉が終わるまえに、ぴしゃりとエヴァは言い切った。
否定を許さないような、そんなはっきりした声だった風に私は思う。
でも、だとしたら――
「結婚するんじゃないの?」
「今ふと考えを巡らせた私の全身は毛のむしられたニワトリに様になっているが」
鳥肌――そこまで嫌ってこと?
だったら私は勘違いしてたってことになって、あのプロポーズはあの人がただエヴァのことを好きなだけで、想いは一方通行だった。
それでエヴァ本人は、あの人のことを好きな訳では無くて――
ぎしぎしと軋んでいた頭がそこまでゆっくりと回ったところで、私の瞳はまたボロボロと熱くなった。
「おっ、お前、本当に大丈夫なのか? 体調が悪いなら無理しなくても――ああ、イヤ、私がイタチに会いたくない訳じゃない訳じゃなくて、お前が私の前で吐かれると、だな」
矢継ぎに言葉を繋げていくエヴァに、瞳が更に熱くなる。
赤が朱として、まるで燃えてるみたいに。
「とにかく! 私の前で泣くな、私が困るんだっ!」
むにりと私の頬が潰れる。
小さな手が私に添えられて、きっと今私の目の前で真っ直ぐエヴァは私の顔を見つめてくれているんだ。
「ゴメンねっ、ゴメンねエヴァ」
ひっくひく、エヴァの手をほどいて俯いた私はさっきみたいにまたしゃくりあげる。
さっきとは違って胸にじんじん痛むものはもうなくて、だけど私は高ぶった感情をそのままに、さっき伝えたかったことを口にした。
「嫌われたって、エヴァが私のこと嫌いになったって、そう思ったの」
私は怖い、他人の視線が。
私は怖い、私が誰かを見てしまうことが。
だけどそれ以上に私は――ママと、パパと、エヴァに嫌われるのが怖いんだ。
――だから私はずっと外に出られなくて、エヴァにあわす顔がないって思って、でも嫌われたくなくって、私は今日勇気を出してここに来た。
プロポーズに聞こえた場面で私はエヴァの邪魔をしたって思ってた。
エヴァの一生で一番大切な瞬間を、私のせいで壊してしまったって思ってた。
だから私は、ただエヴァに嫌われたくなくって、こうやってエヴァと話す時間をなくしたくなくって――
ぬぐっても、ぬぐっても、涙がボロボロと溢れる。
けどその涙は少し前のしょっぱいだけのそれとは違って――甘い涙のようだと私は感じた。
「――ふんっ」
素っ気ない声と一緒に、私の頭は包み込まれた。
そこはママと違ってぺったんこで、ママと同じように安心できる、エヴァの胸の中で。
熱い身体を気遣う粉雪のような、冷たいけれどやさしい声が私の頭の上から降り注いだ。
「実に下らない話だ――そもそもの起こりで無理矢理私と会話しようとしたのはお前だろう。だったらお前はいつも無神経に私に話しかけていれば良いんだ」
「……うん」
「まぁ気が向いたら、私は寛容だからな、耳を傾けてやろう――フハハハハハハッ!」
高らかな声と、気づかうようにして回された腕に、私の想いはほぐされていく。
やっぱりエヴァは意地っ張りで、プライドが高くって、やさしいままで――だから私はエヴァに伝えたいひとつの感情が私の中で芽を出した。
ずっとずっとがちがちに固まっていた暗く乾いた土の中で眠っていて。
けれどいつもママがさくさくと耕してくれて、いつもパパがぽわぽわと照らしてくれて、いつもエヴァがさらさらと水をあげてくれて、私の心の芽は外に顔を出したと感じた。
――想いが強くなる。
何かをするときには、逃しちゃいけないタイミングがあるとはよく言う話で、私にとってそのタイミングはきっと今。
だから私は湿ってくしゃくしゃの口元を崩して笑みの形にして、私はうつむいていた顔を持ち上げてエヴァの顔を包帯越しに見つめた。
「ねぇエヴァ、私ね――見て欲しいものがあるんだ」
瞼を閉じて、瞳を開かず、世界を拒絶していた眼でエヴァの顔は見れない。
ニット帽を頭から外し、細いばかりの私の黒髪が久々に日光に触れる。
そしてゆっくりと包帯の結び目に私の手がかかる。
そんな仕草を何を言うでもなく、エヴァはじっと私の鼻の上――両目の辺りを見つめてくれていた。
思い返せば私が眼を逸らしてエヴァと話していた頃から――エヴァはずっとそうだった。
ひとつ解こうと指がかかり、私の細いかさかさの指は動いてくれない。
胃の辺りが熱くなり、呼吸が荒くなる。
骨が筋肉といっしょに震えている気もする。
でも――でも私は――
「私ね、エヴァに言ってないことがいっぱいあるんだ」
「――私もだ」
はらりと包帯がほどけ、はらはらと周囲からの視線が強くなったような錯覚を受けた。
脳を、胃を、身体全体を震わせるように視線が降り注いでいる気がする。
だけどそのすべて蹴散らすような強靭で、あたたかな視線が私の意識を前へと集中させた。
いつの間にかきつく結ばれていた口元が徐々に垂れ下がってくる。
はらはらと包帯がほどけ、はらはらりと瞼に思わず力を込めた。
まるで冬になったみたいに、芯から身体が小刻みに振動している。
だけど私の身体全体を包み込むようにして握られた小さな手が、震えを溶かしてしまった。
そしてはらはらりと包帯がほどけ、私の顔を覆うものが何ひとつ無くなった。
――重くなってしまっていた瞼から光が差し込んでくる。
数年ぶりに開けた視界は曖昧にぼんやりとしていて――だけどはっきりと目の前に居るエヴァを私に映し出した。
太陽の光の中で輝くエヴァの髪は一本一本が本当に細く紡がれた金みたいに格調高い美しさを私に感じさせて、ただ整っているとしか言い表せない容貌は妙な大人っぽさと、それ以上のあたたかさで彩られていた。
そんなエヴァの姿は私が想像していたようで、私が想像していた以上だった。
「――朱く綺麗な万華鏡だ」
そして飛び込んできたエヴァの言葉に、私はじっと彼女の眼を見つめた。
きっと今、私の顔は間違いなく、満点の笑みに染められているんだ。