――母が結婚した。
それはひどく喜ばしい事だ。
18歳で俺を生み、今まで二十数年間と母は俺のために働いてくれた。
そんな母が良い人を見つけて結婚したのだ。
式場でのスピーチはつい震える声で、感情を抑えきれず参列者の耳を覆わせてしまったのは悪いことをした。
母の手を取り歩いたバージンロード。
参列者の中に母の親類はいないというのに、それでも良いと受け入れてくれた母の相手――父とその親類には感謝している。
母と父の出会いはもう二十年近く前になる。
二人は同じ職場だ。
俺がまだ小学校にも入らない時期から、俺も一緒に受け止めると母にアプローチをしていたらしい。
だが母は――自分の境遇を事細かに話し、もっと良い人がいるからと父のアプローチを袖にした。
人に頼るのではなく息子は自分の力で大人にしてやりたいと――母は、本当に母は――
親類縁者から勘当され、コブ付きになった女よりも、もっと良い女がいると母は伝えたかったそうだ。
だが父は、それでも諦めなかった。
以来二十年近く、同僚として母に接し、俺が大学を卒業すると同時にもう一度アプローチをした。
――変わらずに貴女が好きです、あのときよりもずっと綺麗になった貴女が。
その日仕事場から帰って来た母は、麻帆良中等部の女の子たちよりもずっと純情可憐に見えた。
母は美しいと思う。
飛び抜けた容姿をしている訳でもなく、張りのある若さを保っている訳でもない。
年相応に老けて、俺の生まれた頃よりも小さくなっている。
故に、母は美しい。
その全てが今日まで身を粉にしてきた証。
ウエディングドレスを着た母は、この世の何よりも美しかった。
――母が結婚した。
それに対して文句などというものは何もない。
俺の心には幸福観しかあり得ない。
ただ、やはり生まれてからずっと暮らしてきたアパートに帰っていくら待とうとも、母がただいまと扉を開くことがないことは、少し寂しいものがある。
嫁に行ったのだからと、母は父の家に行った。
一緒に暮らそうかと、母は言わなかった。
それで良かった、それが良かった。
――女子中等部での授業を終えて、俺は喫煙所にぼんやり立っていた。
季節は冬。
二年近くこの仕事を続けているとはいえ、まだ中々慣れない。
校舎の少し外に立てられた灰皿の前で、どんよりとした雲を見上げる。
そう言えば今日は雪が降るかもしれないらしい。
今年に入って初めての雪だ。
天気予報士がそう言っていただけあって、俺の頬を撫でる風は冷たい。
だがそれにまったく不快感も、凍えるような寒さも感じないのは、やはりこの肉体によるものか。
フィルターを口に咥え、ライターで火を付けて――
「あぁっ、何してるアルか!」
そこで元気な声が俺の背中へと掛けられた。
マフラーを首に巻き、学園指定のベージュのコートを着ているのは褐色肌の少女。
頭の上で二つ結った金髪が、憤りのためかふりふり揺れている。
「武術を志す者としてタバコは良くないアル!」
「……俺、将棋部顧問なんだが」
「煙草を吸てたら疲れるのが早くなるアル。そしたら勝負のときに不利になるネ」
どうやらぷりぷり頬を膨らませているこの少女は、俺の話を聞いていない。
――だが、気にする必要はないか。
そう思って煙を灰に取り込もうとした時、にゅっと煙草へと手が伸びて来た。
俺の意志とはまるで関係のない地上最強の生物としての反射が、その手を思わず掴みとった。
「――ほぉ、さすがでござる」
感心したような声を上げたのは、中学一年生だというに俺と大して変わらぬ身長の少女。
いつもにこにことしている糸目が、少し見開かれじっと俺の顔を見ている。
――掴んでも壊さなくなったのはこの肉体の制御方法を少しは理解したから。
そんな俺自身の成長に感心しながら手を離せば、少女の手首には痣のように白い肌を青く、しっかりと俺の手形が付いていた。
「スマン」
俺は深々と年下の少女に頭を下げる。
意識を集中してやれば卵でも握れるようになった俺であるが、反射はまだまだ自由にはならない。
背後から飛んできたバスケットボールに指で穴をあけてしまったこともある。
車のハンドルをガチガチになって両手で握っている状態なのだ。
悠々と余裕を持ち、片手で運転できる日はまだ遠い。
「いやいや、拙者の悪ふざけによるものでござる。先生が気に病む必要はないでござるよ」
「だが女の肌に傷を付けたのは事実だ。治療費だけで済むとは思ってねぇが、それだけでも俺にさせてくれ」
今度は壊れ物でも扱うように、細心の注意を払って少女の手を取る。
やはり青い痣が痛ましい。
――母にこの力の所為で迷惑をかけて、また違う人にも迷惑をかけるのか。
寿命以外で死ぬことのないであろうこの身体が今は憎い。
変わりに殴ってくれと、そう言ったとしても俺自身に痛みはほとんどないのだ。
「――むぅ」
「ムムっ」
二種類の呟きが聞こえたところで、
「中学生相手に厭らしい手つき……セクハラだね」
くくっと喉を鳴らして別の声が飛び込んで来た。
「龍宮、そこまで言う様な事か?」
「馬鹿を言うな。傍から構図を見てみろ、子供と野獣じゃないか」
「――いや、しかしだな」
「否定できなかったな。つまりはそう言う事だ」
褐色肌で俺と同じくらいの身長の少女に、サイドポニーの少女。
からかうような口調といさめるような口調を織り交ぜながら、こちらに歩いてくる。
――どうやら俺はこの四人に慕われているらしい。
理由を聞いたことがあるが、強いからだとか、なんとなくだとか、肌がピリピリする感覚が心地いいだとか、鋭さを見比べれるからだとか、俺には良くわからない理由ばかりだった。
教師としては喜ばしいことだが、そして今俺に過った思考は教師としてあるまじきことだが――俺は正直この四人が苦手だ。
息を吸い込み、そして吐き出す。
それだけで煙草は丸々一本灰になり、白い煙がもうもうと口から広がった。
四人の少女たちの眼が感心の色に染まった気がした。
「寒いうえに、煙草は身体に良くない。部活に行くなり遊ぶなりしたらどうだ?」
「オォ! だから老師を誘いに来たアル! 一緒に拳法しないアルか?」
「……そういえば古菲はいつも拳法の練習をしているな。努力できる姿はかっこいいぞ」
「エヘヘ、そうアルか」
上目遣いで身体をくねくねさせている拳法少女。
話を逸らすことには成功したらしい――が、他の三人からはじとっとした視線が注がれる。
「イヤ、でも麻帆良に来て知たアルが、ずっとずっと毎日拳法の修行している人がいたヨ。その人に比べたらまだまだアル」
「でござるがクー、お主も昔から毎日拳法の修行をしてたのではござらんか?」
「あいあい、楓の言うとーりアル。でもその人、ずっとずっと崩拳の練習以外してないて中国拳法研究会の卒業生さんから聞いたネ。尚雲祥を思い起こさせる人だテ」
――こんな地上最強の生物の肉体を望むだけあり、前世で俺は格闘技が好きだった。
空手、柔道、ボクシング、プロレス、無差別格闘技等々。
時間に余裕があれば俺は何時もテレビで観戦し、会場に足しげく通った。
自分の肉体を鍛え上げ、腕っ節一つでわがままを通そうという姿――男として、俺は純粋に憧れた。
俺自身も空手の道場に通い、日々研鑽を積み重ねていた。
――とはいえ人並みの才能しかなく、ただ同期や後輩が辞めていく中、好きで続けることしか出来なかった凡人なのだが。
そんな俺だからこそ、尚雲祥の名は良く知っている。
――半歩崩拳、あまねく天下を打つ――そう讃えられた、中国拳法の一つである形意拳の達人だ。
「刹那、わかって聞いているか?」
「もちろんだとも。うん、私も尊敬している武術家の一人だ、うん」
「……まぁ深くは聞かないでおこう」
腕を組み首を振るサイドポニーの少女に、長身褐色肌の少女は年不相応にニヒルな笑みを浮かべる。
――尚雲祥はただひたすら崩拳の型のみを日々研鑽し続つづけて功夫を得たという逸話を残す人物。
逸話なのか、本当の話なのか、それは俺にはわからない。
ただこの話はきっと――弱者が強者より身を護るために身につける武術、それは日々の練磨を重ねれば誰にでも実をその手で握ることが出来る――そんな努力の大切さを含んでいるのだろう。
「だから老師、一緒に武術を始めるアル!」
「……話しが繋がっていない気がするが」
「そんなことないヨ。老師は絶対強いアル、それに凄い才能もあるはずアル、だから武術を始めるべきネ」
「俺は強いんだろ? だったらそんなことする必要がないと思うがな」
「違うヨ。ダカラ、老師は強いから、武術を始めなきゃいけないネ」
そう言って拳を握ると型を作り――スパンと拳が虚空に打ちこまれる。
「強くて才能のある人はその才能を伸ばしてもっと強くなるべきネ。山のてっぺんが高くなれば高くなるほどみんな山に登りたくなるヨ」
「――中々と、含蓄のある言葉でござるな」
「師匠の受け売りアル!」
にかっと微笑んで見せる少女に、納得の三重奏が捧げられた。
――真っ直ぐとした眼、強い意志を宿した瞳。
嗚呼、やはりこの少女たちの事が俺は苦手だ。
むくむくと欲望が下半身に集っていくのがわかる。
地上最強の生物としての本能が――この四人を孕ませたいと俺に囁く。
目の前の少女たちは強い。
俺の眼は他の生徒たち――いや、母を含めたこれまでにあった様々な女よりも、目の前の少女たちが肉体的に優れていることを俺に知らせる。
強き身体と強き精神。
俺の子を生むに相応しい――狂った思考だ。
決して生徒に抱いて良い考えではない。
――強き生物は子を残そうという本能は小さくなるらしい。
存在が強靭であるが故に、多くの子を残す必要がないのだ。
もし幻想の生物であるドラゴンが居たとして、彼らはきっと数年に一度ほどしか繁殖期を迎えないだろう。
彼らは強い――故にだ。
もし幻想の生物であるドラゴンがこの世界に居たとしたならば――俺は彼らより強い生物なのだ。
だが同時に俺は人間という脆弱な容器に収納されている。
地上最強の生物としての肉体は、年中繁殖を望む肉体的には脆い人の器で、地上最強の生物として成り立っている。
俺には性欲が少ない。
普段の生活の中では自慰をしようなどとはめったに思わない。
だがその反動からか、この目の前の四人に加えて同じクラスの金髪の幼い少女とツインテールオッドアイの少女と接したとき、自分でも引くほど出る。
具体的に言えば、バケツ数杯分ほども。
彼女たち以外にも、胸の内に強い何かを持っている少女たちはいる。
学園長先生の孫などが良い例だ。
だが脆い身体の彼女たちに、目の前の四人ほどの強烈な劣情は覚えない。
――故に、俺は彼女たちが苦手だ。
俺の地上最強の生物としての本能を、俺の脆弱な理性で繋ぎとめておくのが酷くきつい。
だからまた刺すような視線を受けながらも煙草を吸って、一箱を見る見るうちに灰にしてみせる。
「俺は仕ご、とが残っている、からな。そろそ、ろ戻る事にする」
ひらひらっと手を振って、声をかける彼女たちの方を振り返ることなく俺はトイレへと向かう。
そして狭い個室の中できつく、きつく、自分の身体を抱きしめるのだ。
背中からスーツが千切れ、めりめりとシャツが布切れに変わり、股ぐらではズボンをを破り去った俺の欲望がいきり立っている。
俺は教師で彼女たちは生徒だ。
教師が生徒に、中学生の彼女たちに、劣情を催すなどあるまじき感情だ。
故に――そう最近思うようになった。
故に――教師という職は、母の教えを少しでも多くの人に知ってほしいと願い就いた教師という職は、俺にとって揚げてはならない選択肢だったのだろうか?