――変化のない湖に身を任せて揺蕩うような意識の中に、芳醇な野生の旨味がじんわりと広がるのを感じた。
「――?」
そっと目を開けて見ると、手元にはジューシーなこんがり肉があった。
一口分くらいかじってある。
舌の上に、とろけそうなくらいに濃厚な旨みが残っている。
思わずかぶりついた。
口の中に肉汁天国が生まれた。
うん、おいしい。
「……ぇ」
雑草たちの上にちょこんと座ったまま、きょろきょろと辺りを見回す。
背の高い落葉樹の木々が生い茂る森の中、見覚えのある落葉の景色、放り出された肉焼きセット、地面に倒れ伏したイャンクック先生、懇々と湧き出る鮮血の泉。
特筆すべき所も特にない、ごく普通の狩り場で、古代林は今日も平和だとありきたりな感想を抱き、
「ぇ」
それはおかしい。
落ち着いて整理しよう。
「悪い夢を見て、トウガラシとネムリ草を間違えて、今……?」
ちっとも整理できなかった。
どうしてクック先生の死体がそこにあるのか。
どうして自分はこんがり肉を持っているのか。
そもそも、誰がクック先生を…………?
私は確かに、イャンクック狩りを我慢したはず。
では、どこからが夢…………?
「…………」
ナッシェはごくいつも通りに思考を放棄した。
考えても仕方のない不可思議なことは、往々にして存在するものだ。
大抵の場合、どこかしらに人間の錯覚が存在しているが故に不可思議なものになる。
錯覚の正体が分からない以上、解明の思索は無駄なのだ。
ふと、目覚めの衝撃で忘れかけていた空腹感を思い出したナッシェは、手元のこんがり肉に目が釘付けになった。
ジュージューという美味しそうな音を小さく立てながら、こんこんと湧き出る肉汁。
お肉を食べて、気持ちを切り換えよう。
それがいい。
食べかけのこんがり肉に、吸い込まれるように歯を当てた。
ガブリと噛み千切って、一口分のこんがり肉を咀嚼し、飲み込んだ。
「…………おいしい」
ほうと出た溜め息と共に、思わず感嘆の声が漏れる。
コクのある硬めの肉は、噛めば噛むほど旨みが口の中に広がって、一口をゴクリと飲み下すまでのひとときは、夢から覚めるような心地だった。
肉体の疲労が駆逐されていくような感覚と一緒に、果たすべき使命を成し遂げることへの前向きな希望が生まれてきた。
頭上を見上げれば、太陽は天頂まであと二時間の所に来ていて、燦々と輝く光が落葉を照らし上げ、ふかふかの地面に黄金の斑点を映し出している。
ゆらゆらと揺れる光のヴェールを破り捨てるように、お姫様を覆い隠す白い夢を壊してしまうように、ナッシェは勢いよく駆けだした。
お昼ご飯までには、まだ時間がある。
私を、私の到着を待ってくれている人がいるのだ。
少しも弟子の成功を疑わず、貪食の王と冷静に対峙している人がいるのだ。
私は、信じられている。
私がどんな立ち位置にあるかなぞ、問題ではない。
私は既に、レオンハルト先生にとってかけがえのない弟子であり、仲間であるのだ。
アピールしなくては、などと言ってはいられない。
私は信頼されている。
つまり、私は愛されているのだ。
私は、彼の仲間という唯一無二の愛を託されているのだ。
私は愛されるのだ。
私は愛されたいのだ。
待っていて下さい、先生。
耳をこそばゆい風が駆け抜ける。
耳朶を穿った姫の声はもう聞こえない。
ナゥシエルカは、自分の夢に自分を捧げられる女の子だ。
私は信頼に報いなければならぬ。
私は愛に応えなければならぬ。
何故なら、私がそう望むからだ。
走れ、ナッシェ!
▼ △ ▼ △ ▼ △
「────そぉい!」
気合いの入った掛け声と共に、マッカォがブンと投げ飛ばされた。
緑の矮躯が飛んでいく先は、暴食の王の口の中。
「ギャァッッ!? ア゛ッ」
バキボキと嫌な音を立てて咀嚼されていくマッカォ。
目の前で展開される悲惨なスプラッタを前に、マッカォの群れは一も二もなく逃げ出していく。
そんな彼らを後ろから追いかけるのは…………。
「オラオラオラァ! 逃げるんじゃねぇゴルァ!?」
マッカォの肉を、自分の代わりにイビルジョーに捧げてはオラつくレオンハルトだった。
血赤色の瞳孔は逃げ惑うマッカォ達から離れず、充血した目は完全にキテしまっている人間のそれだ。
端的に行って、レオンハルトの背中を追い回すイビルジョーの瞳とあまり変わらない。
古代林の平原で、神様も真っ青な極限の生存競争が行われていた。
マッカォからしたら、突然襲いかかってきた悪魔達によるただの殺戮劇である。
猛然とマッカォを追い立てたレオンハルトは、群れの最後尾に位置していた一頭の尻尾をガッチリ掴み、人外の膂力を以て回転運動を始め、ハンマー投げの要領でイビルジョーに投げつけた。
飛び込んできた肉を容赦なく喰らうイビルジョー。
喰われるマッカォ。
逃げ惑うモンスターたち。
追いかけるモンスターたち。
まさにこの世の地獄だ。
レオンハルトにとっては、武器なしでイビルジョーから逃げ続けることが出来、更に増えすぎたマッカォ達の討伐も出来るという、一石二鳥のアイデアである。
インナーの中が久しぶりの悲劇に見舞われそうなのだ、手段を選んでいる暇はない。
自業自得とはこのことだ。
兎にも角にも、今は、
「ナッシェ! まだ!?」
この一言に尽きる。
本当に、早く来てくれないと
やはり何かあったのではないだろうか。
送り出すときも心配ではあったのだ。
ここ最近は特に、弟子の雰囲気が普段と違っている様子であった。
一人で狩りをすることにはある程度慣れさせてきたのだから大丈夫だろうという判断をしたのだが…………。
師匠というのは、想像以上に気配りの大変な立ち位置だった。
自分の体調ではないから判断がつきにくかったりもする。
自分以外のハンターのことをよく知らないのだ、判断材料の乏しさというのは全くよろしくない。
人生経験の少なさが一番響くのは、誰かと一緒に過ごすときであると日々実感しているレオンハルトである。
彼女の具合を判断しようにも、もしかしたら“女の子の日”とかなのかもしれないと思ったり、ただの風邪かもしれないと思ったり。
女の子の日だったら激しい運動は控えた方がいいのかとか、ただの風邪なら普通に狩りが出来るとか、色々考えてはみた。
しかしながら、全力で可愛がっている女の子──しかも金髪のお姫様みたいな美少女──に、「女の子の日来たの?」と尋ねるのは、デリカシーの無さに定評のあるレオンハルトにも少しばかり難易度が高い。
色々なベクトルでコミュ障歴を積んできた彼を以てしても、この質問は繰り出せない。
そんなこんなで、マッカォ九匹をイビルジョーの胃袋に送り終えたレオンハルトは、緑の草原を全力で疾走していた。
「ッ、このッ、爽ッ快ッ感ッ!!」
舌を噛みそうになりながら、人生の浮き沈みを謳歌するレオンハルトは、背の高い木々の生い茂る森へと駆けている。
イビルジョーは、やはり空腹感を満たすことが出来なかったようで、レオンハルトを追いかけていた。
本当に迷惑な
ドンッ!!
「ヒエッ」
背後の地面を押し潰した落石の衝撃に、レオンハルトは悲鳴を上げながら飛び上がった。
そこにあるのは、常日頃のハンター然とした姿勢ではなく、ガーグァのように潔い逃げの姿勢だ。
「イヤァァァァァ!!」
空中を踊る巨躯をジャンピング土下座で回避し、カタパルトの如き岩の雨をかいくぐり、地面を総嘗めにする黒い雷のようなブレスをベリーロールで飛び越えて、とうとうレオンハルトは大きな森の一角へと辿り着いた。
「ヒャッホゥ、待ってたぜぇ!?」
怖い地上はもう嫌だとばかりに、先祖返りした猿の如く、ババコンガも顔負けの木登りテクニックで樹上へと登っていく。
道具を失った
古代林の木々が木材として出荷されていなくて良かったと、本心から思ったレオンハルト。
わずかな引っかかりに足をかけ指をかけ、ヌルヌルと枝を掴んで上に行くその様は、ヘビかゴキブリのようである。
遅れて森の端へと到着したイビルジョーが、憎きエサを揺すり落とさんとばかりに、木への全身タックルを仕掛けたのはその時だった。
ドォォォン!!
メギメギメギィッッ!!
「あ、この木折れそう」
事も無げに呟いたレオンハルトは、申し訳ないなと思いつつ、シュッと首を横に傾ける。
刹那、レオンハルトの顔があった場所へ、ドスッと一振りの刃が突き刺さった。
レオンハルトが止まる木の幹へと飛来したのは、“雷狼竜”ジンオウガの中でも二つ名を受けたほどの強力な個体、“金雷公”から剥ぎ取った素材をふんだんに使った一級片手剣、『金狼牙剣【折雷】』だった。
研ぎ澄まされた刃は鋭く、その身が易々と木の内側へと入り込んでいるほどだ。
「待ってたぜぇ、ナッシェ! だけどな!」
レオンハルトは右手で枝の根本を掴み、突き立てられた剣を抜きながら、ブーメランの如く回転して飛んできた盾を両足でバシッとキャッチして、背後にいるであろう弟子へと叫んだ。
「武器を投げたら危ないだろ!!」
モンスターと対峙しているときに、武器を投げてしまったら危なくなるのは自明。
それが出来るということは、一人前のハンターの証なのだ。
レオンハルトはそう思う。
つい三週間前にガンランスを投擲して破壊した男は、嬉しそうに弟子の成長を喜んだ。
器用に全行程を終了したレオンハルトは、両脚を枝の上に回して引っかけると、コウモリのようにぶら下がりながら盾を右腕に装着した。
勿論、イビルジョーによるタックル攻撃のせいで、木全体かものすごく揺れている。
「あー、もー、気持ち悪いなー」
その顔に、先ほどまでの情けない泣きっ面はもう浮かんでいない。
あるのは、本能に身を任せて暴れ回る、獰猛な獣の闘争心だ。
あと、せめて弟子の前では格好をつけたい。
腹筋の要領で枝の上に起き上がったレオンハルトは、木が折れる前に飛んでしまおうと、大した感慨もなく自由落下へ踏み切った。
「よっしゃ、反撃開始ィ!」
風がビュンビュンと頬を切り、地獄絵図の鬼は歓喜と憤怒の咆哮を浴びせてくる。
ああ、やっぱり、追われるより追う方が好きだわ。
真紅の血飛沫が舞い、蒼と黒の雷が入り乱れる。
血に飢えて爛々と輝く赤い瞳は、早くコイツと殺し合おうと、一途な視線を向け続けた。
「やっぱり
頭上からイビルジョーを急襲し、斬撃の嵐を生み始めたレオンハルトを見つめながら、ナッシェはうっとりと呟いた。
常識をつける前に失ってしまった箱入り少女は、近くの岩に腰掛けて、新鮮な肉の丸焼きを食べながら、一番大好きな演劇の舞台を一等席で観覧し始めるのだった。
ピリリと辛みの効いたトウガラシが美味しい。
▼ △ ▼ △ ▼ △
────ベルナ村へと続く地中を、一匹のオトモアイルーが掘り進んでいた。
プルプルと毛に付いた土を払う事もなく、アイルー族が誇る地下潜行力を遺憾なく発揮して、真っ黒に汚れたアイルーは全力で土を掻き続ける。
つぶらな瞳には、被虐を追求する普段のだらしなさが微塵も映らず、ひたむきに目の前の土を掘り進め、耳を常にそばだてて地上の様子を確認しながら、どんどん先へ進んでいく。
旦ニャ様のピンチニャ。
一世一代の大ピンチニャ。
こんなこと、これまでは全然無かったのニャ。
ニャーがオトモし始めてから、初めての大ピンチニャ。
ザブトンは、オスのアイルーだ。
レオンハルトとはとある狩り場で偶然出会った。
彼の腕に惚れ込んで、勝手にお供し始めたのだ。
オトモアイルーを始めて八年、レオンハルトの武勇伝(多少の誇張有り)を聞いたって、ここまでの窮地に立たされたことがあっただろうか。
ザブトンは悲しいほどに変態で、アイルー仲間の中にすら彼の性癖を理解する者はいなかったが、彼のご主人様は完璧だった。
ドMというものを理解し、的確な責めを与えてくれて、尚且つ見るだけでも絶頂を覚えるような絶技でモンスターを屠っていく。
最早神域にすら手を伸ばさんとするそのレオンハルトが、これまでにない窮地へ立たされている。
いかなザブトンが認めた最強のハンターといえど、素手で立ち向かえるモンスターには限度がある。
さあ、急げ、もっと掘れ、もっと早く。
己に出来る全てを尽くして、旦ニャ様に奉公せねば。