カサリ、カサリと腰丈の枯れ草をかき分けて、ゆっくりと進んでいく。
霧のおかげで視界は不良、こういった環境では、大型モンスターはその図体が仇となって、ハンターに先手を打たれることが多い。
時たま頭上を横切るブナハブラは、手持ちの毒けむり玉を焚いて適当に間引いておく。
ランゴスタしかり、ブナハブラしかり、狩猟の邪魔になることが多い虫型の小型モンスターは、出来るだけ処理しておくに限る。
「…………っ」
心臓が一つ跳ねる。
左腕の肘先にしがみつかせた
大丈夫、この子がいる。
右手の双眼鏡をポーチへこっそりとしまい、代わりに白い玉を一つ取り出して地面へ打ち付ける。
ポフン、と柔らかな音がして、素材玉とネンチャク草から調合したけむり玉が白煙を出し、アナスタシアの全身を覆い隠した。
背中の操虫棍を抜き、クルクルと手で回してからしっかりと掴む。
感覚よし。
「…………ふぅ」
全身の力を抜いて、最小音、最高速度を心がけて一気に前進する。
敵は風上、灰緑色の草原をふわりと撫でていく風を遡上して、モンスターへと接近していく。
目線の高さの草むらは少しくすぐったかった。
太陽の光を受ければ黄金に輝くであろう、強力な千刃竜の個体から剥ぎ取った鱗とトゲを随所に用いて作成された防具、“レギオスXシリーズ”は、上手い具合に枯れ草の中へ溶け込んでいる。
慣れた手順、物心付いたときから繰り返してきた日常、思考が洗練され、意識が鋭敏化していく。
手になじんだ相棒と一体となり、意識は自然へと沈み、殺意の刃は泥沼より獲物の喉笛を噛みちぎらんと研ぎ澄まされる。
そのモンスターのすぐ近くまで走り寄って、全身が目に飛び込んできた。
「っ」
濃い藍色を纏う
ビロンと伸びたしっぽは柔軟性に富み、今は向こうを向いている頭には強烈な閃光をもたらす生体鉱石があるのだろう。
藍色の体躯に、赤紫色の翼膜のそいつは、毒を自在に操り、湿地帯を好む狡猾な鳥竜種。
黄金に輝く千刃を纏いし竜とは、違う。
アレは、狩り慣れたセルレギオスじゃない。
「────っ」
額がかあっと熱を帯びて、纏まっていた意識が分散し、頭の中が真っ白になった。
バクバクと恐怖に高鳴る心臓。
誰もいない、自分の隣には誰もいない、目の前にいるのはセルレギオスではない。
分かっているのに、何度も自分に言い聞かせたのに、今度こそ大丈夫だと思ったのに。
怯えに食らいつかれた殺意がぬっと顔を出し、気が散ってしまったせいで足下が疎かになり、ガサリと大きな音を立ててしまった。
「しま────っ!」
“しまった”なんて、自分で言ったのは初めてだなぁと、どこか冷静な部分がそんなことを考えていた。
奇妙な形のトサカと共に、ずる賢さのにじむ双眸がぐるりとアナスタシアをねめつける。
“毒怪鳥”ゲリョス。
自然界のカーストでは、千刃竜に比べれば遙かに劣る鳥竜種の一。
戦闘力だって、他の飛竜に比べてしまえば天と地ほどの差がある。
だけれども。
かち合った視線にぶわりと汗が噴き出し、踏み出していた右膝から力が抜けて、ガクンと身体が傾いた。
怖い。
アナスタシアを発見したゲリョスは、気持ちの悪い形をしたクチバシがガバッと開き、翼を大きく広げ、体全体で威嚇するようにしながら、
「ヒギャアァアッ!!」
と怯えを多分にはらんだ威嚇を放った。
「ひっ」
体勢を立て直しきれずに足がもつれて ゲリョスの前に倒れ込みそうになる。
こわい。
明らかに私の格下じゃない。
下位のゲリョス?
飛竜ですらない、こいつの毒なんて解毒薬で一発だし、攻撃力も大したことない、人の物を盗む手癖の悪さとかメラルーみたいで卑しくてロクでもないし、空中で他の飛竜に襲われたらまずもってたたき落とされる、弱いモンスター。
“ハンターランク5”の狩人の相手じゃない。
だけど、私は、こいつに殺されるかもしれない。
ゲリョスが体勢を崩したアナスタシアを見て好機と悟ったのだろう、脚に力を溜めて、ザリッと枯れ草だらけの地を蹴った。
ああ、ヤバい、踏み潰されて死ぬ?ひき殺されて死ぬ?食い殺されて死ぬ?毒死?それとも、あんなコトやこんなコトをされて、自分で死にたくなる?
狩り場での思考速度が早くなる気質を持つハンターという職種からか、浮かんでくる悪い妄想は全てが一瞬の内に成された。
こわい。
本当に怖い。
でも、こいつの目の前に倒れるのは、もっと怖かった。
「あ、へ、あへ」
よく分からない呟きとともに、身体に染み着いた動作が思い出されて、腕に纏っていた虫を飛ばしながら、棍の根元をギリギリの所で地面に突くと、次の瞬間には無意識の内に身体を宙に浮かばせて、くるりと宙返りをしながら蒼色の刃を振り抜いていた。
草の中から一転、開ける視界。
思考するよりも早く空気を切り裂いた刃は、しかしてアナスタシアへと突貫してきたゲリョスのうなじへ易々と入り、弾力性のあるものを斬る時特有の手応えを手に伝えた。
鋭い鎌型の腕を振るうエルドラーンに首下を斬られ、うなじを裂かれたゲリョスの体表から鮮血が吹き出し、白い薄霧を赤く染め上げる。
ビャッ、という叫び声を背後に、アナスタシアはゲリョスの肉を斬る気色悪い感覚に身体を硬直させて、ドサッ!と背中から地面に不時着した。
肺から空気が押し出され、衝撃に視界が明滅する。
身体が動きを覚えていてくれたおかげで、いくらか落下の勢いを殺すことは出来たけれども。
ケホケホと咳き込んでから、エルドラーンを回収する。
モンスターの体液を少し吸い取って帰ってきた
自身の体内で即精製した“強化エキス”を、飼い主であるアナスタシアに注入する。
思考が加速し、全身の感覚がさらに鋭く研ぎ澄まされていく。
大空を自在に飛び回るセルレギオスを狩るために、棍を使って空中に飛び上がる、刃を振るう伝統的な狩りの方法。
年長者から教わる子供達の中で、誰より早く、誰より若く、誰より上手く、宙を自在に駆けて見える光景に手を出したのは、他ならぬアナスタシアだった。
棒を地面に突いて、下手くそな高跳びを繰り返す子供達。
それを一人、高みから見下ろす景色。
自分らを見下ろすセルレギオスと同じ場所にいるのだという爽快感────。
────唐突に、ぐらつく頭が意識を現実へと戻した。
こみ上げてきた吐き気を飲み下す。
“高い知性”と謳われるゲリョスの、稚拙で無謀な突撃に、慌てて飛び上がって恐怖のままに棍を振り、あまりに鈍くさい着地をして、涙目になりながら地に這いつくばる自分の姿は、どうしようもなく滑稽だった。
「へへ、はへ」
思わずこみ上げてくる笑いを止められない。
バカバカしいくらいに無様だ。
────恐れる者は、モンスターの前に立つな。
「はは、あはは…………」
ごめんなさい、 とと様。
背後から、危機感と怒りに駆り立てられたゲリョスが阿呆のように嘶きながら再び駆け寄ってくるのが分かる。
とろくさい、のろま、自由自在に宙を駆る黄金のセルレギオスに比べて、なんと矮小なことだろう。
同じ空を駆るモンスターであるというのに、腹立たしくなるくらいのこの差は一体何だというのだろう。
「────情けなく、ないの?」
弱さに濡れたその言葉は、誰に向けて放ったものだろう。
棍から転げ落ちた彼らだろうか。
チンタラと駆け寄ってくるゲリョスだろうか。
泣き虫で弱い自分だろうか。
惨めな私と、惨めなこのゲリョスの違いは、一体何だろう。
恐れの心は常に隣にあって、にじむ視界は決して離れていかない。
憧憬は、地面に這いつくばる自分を置き去りにして、どんどん見えない所に行ってしまう。
嫌だった。
でも、待ってもらうのは、もっと嫌だ。