プロローグ
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飛び交う怒号。
セルレギオスではない大型モンスターの、聞き慣れず、そして聞くに耐えない破滅的な
メキメキと音を立てながら倒れていく幾本もの木々。
蹂躙され破壊された森は、温かくて大切な場所にとても近い。
そこを守らなくちゃと、身の内側から、外側から迫られているのに。
「…………は、ひっ」
それは、地獄のような光景だった。
半ばから引きちぎられたかのような大木の生々しい傷痕が、柔らかな土を引き裂き
視界に入る何もかもが、有無を言わせない優しさをもって、両脚を地面に縫い止めていた。
ドクドクドクと、臆病な心臓がけたたましく胸をたたいている。
耳が熱い。
全身がプルプルと震えている。
思わずへたり込んでしまった地面は、誰かの血でびちょびちょに濡れていた。
座っているのに、大空を飛んでいるかのような浮遊感。
ぐるぐると天地が廻り、巡って血飛沫が吹き出してしまいそう。
自分の心臓の脈動は止まっていないかと、恐る恐る首筋に指を当ててみると、異常なくらいに脈打っていた。
気持ち悪い。
「ぅ、おぇぇぇえええっ」
自分をひっくり返されるような感覚、喉元を逆流していく内容物にようやく人心地がついて、ふと目線を上げれば。
「…………、あ」
族長が、ちょうど
ボーンメイルというらしい、
ほとんど喋らなかったけど、狩りの時と、仲間が死んだときには大声で叫んでいた族長。
背が高くて、茶色の肌で、でもそれはみんなと同じで、右頬に引っかかれた傷があって、
頭に乗っけてくれた手は大きくて、温かくて。
どこかで見たような赤黒い雷を纏った大きな口が、バリバリバリと三回動いて、族長はあっさりと呑み込まれた。
食事完了。
あ。
今食べられたのって、私のお父さんじゃん。
「え、あ、え?」
それでも、ヤツは止まらずに次を食らおうとする。
私のお父さんを食べておいて、まだ食べようとする。
「へ…………、え?」
口を開けて、空気以外の何かを噛んで、咀嚼もせずに飲み下す。
族長が食べられて、動揺してしまった皆を、ひょいっと上に投げてはパクッとやって、ビュチュッと踏み潰しては木の幹に喰らいついた。
視界が明滅する。
こんなの、夢だ。悪い夢だ。
「嫌だ……いやだよ…………」
何本もの棍が突き立てられ、何十本もの矢に射抜かれても、その暴食の勢いは一向に止まらず、傷口から垂れ流される赤黒い血を上回る量の血が、太く脈動する喉を流れている。
また一人、噛みちぎられた。
首だけが飛んで、赤い木の実のようにころころと転がった。
木の幹になすりつけられた胴体がボロリと落ちて、嫌な音を立てる。
あらかた皆を食べ尽くしてから、ソイツは私の方を見た。
充血したのか破裂したのか、あれは瞳孔なのか、黒と白と赤とがグチャグチャになってよく分からなくなった瞳と、かっちりと視線が重なった。
ズンズンと近づいてくる地響き。
下腹部がキュッと動いて、温い液体が脚の付け根をじんわりと濡らして、お尻の方へ伝っていく。
でも、それは全く恥ずかしいことじゃなくて、むしろ、生き物としてはごく当たり前の反応である気さえした。
良かった。まだ食べられてないんだ。
気がついたら、誰かの棍を拾って、アイツの元に駆け出していた。
地を蹴るアイツ。
吐き出される黒い雷霧。
背中とお腹を同時に圧されるような浮遊感。
「────わぁぁぁああああっ!」
「ビニャァァァァァ!?」
ガバッと上体を起こしてみれば、風景は夕日の射し込む気球船内に変わっていた。
バクバクと強烈に動く心拍に、思わず左胸に手を当てて、ドクドクドクドクと打ち続けるそれを感じて、これが現実なんだとゆっくり認識した。
はぁ、はぁ、と荒くなった息。
思わず手元に愛用の操虫棍を手繰り寄せていた。
狩りに行く前だというのに、うたた寝でかいた寝汗のせいで下着がびっしょりだ。
不快な気分を和らげようと、手元の水筒を開けて水を喉に流し込んだ。
それから、ハッとなって内ももに手を当てる。
…………内ももは微かに痙攣しているだけで、分泌もどうやら汗の範囲で止まってくれたようだ。
ぐっじょぶ、私の身体。
下着の替えは一組しかないのだ、非常にナイスプレーである。
「…………ニャー、ハンターさんハンターさん、いきなり大声出すのは反則ニャ、ビックリしちゃうのニャ。運転ミスしたらどうするのニャ」
「あ、ごめんね、アイルーくん」
そう言えば、この気球船には同乗者がいたのだった。
やってしまわなくて良かった。
アイルー族は鼻が良いし、そもそも、ネコ達に
逆立ってしまったしっぽの毛をなだめつけるアイルーに素直に謝って、アナスタシアは気球船の垣に背を預けて座り直した。
本当、狩りに行く前の身には、ロクな夢見じゃなかった。
汗で張り付いた前髪を右手でかきあげながら、武器の整備でもしようと、蒼い刃を煌めかせる赤い操虫棍を手に取る。
──手元に寄せて、砥石で研ごうとする刃の先が、プルプルと震動していることに気づいた。
「あ、あれ?」
違った。
震えているのは、私の手だ。
アナスタシアはこぼれそうになるため息を飲み込んで、代わりに一つ深呼吸をした。
セルレギオス
ふと、今頃古代林で可愛い女の子と楽しくしていやがるであろうハンターのことを思い浮かべながら、ポツリと呟いていた。
「……気づいてない……かな……」
こんな情けないところは、あの人には見せたくないし、見られたくないけれど。
私のことは、見てくれないのかな。
しばらくぼーっとしていたアナスタシアは、心配そうに声をかけてきてくれたアイルーに、「なんでもない」と返事をして、今度はキチンと操虫棍の整備を始めた。