こいし探訪   作:チャーシューメン

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凧揚げ

「それっ!」

 中指と薬指でしっかりと紐を握りしめ、そのまま素早く腕を突き出す。手首のスナップを効かせるのがコツなのよ、とは姉のさとりの言葉である。

 こいしの手から放たれた独楽が美しい放物線を描いて飛ぶ。七色の渦巻き模様が描かれたそれは、カチリと音を立てて着地すると、鮮やかな虹になった。ざらざらとしたアスファルトの上で踊るせいで、不安定に揺れてカラカラ音を立てている。それがまた心地良いとこいしは思う。

「わぁ、上手だね」

 小さな女の子が手を叩いた。冷たい地面におしりをペタリとつけて、虹色になった独楽を覗き込んで喜ぶ。こいしは少しこそばゆくなって、鼻をこすった。

「でしょ? お姉ちゃん直伝なんだから!」

「おねぇちゃんのおねぇちゃん?」

「うん。とっても優しくて、あったかいのよ」

「いいなぁ」

「ふふん。いいでしょ」

 ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。

 大きな川を一望する堤防の上で、古明地こいしは独楽遊びに興じていた。

 堤防と言っても、子どもが遊ぶには十分すぎる広さがある。小高く分厚い堤防の上には道路が舗装され、大人が数人手を広げても余りあるほどの広さの道が、川上から川下へと延々伸びているのだ。こいしには知る由も無いが、ここは地元でも有名なランニングコースになっている。普段は散歩する人や汗を流す人々で賑わう道。とは言え、年明け早々の朝である。大人たちはこたつで丸くなる頃合い。今は風になった子どもたちの恰好の遊び場になっていた。

 澄み渡る青空の下、はしゃぎ回る子どもたちの声が楽しげに響く。大人達は早々に疲れてしまったのか、堤防の端に座ってそれを眺めている。時々手なんて振って。その姿がなんとなく姉に重なる。昔はよくお姉ちゃんと羽子板勝負をしたものだわ。懐かしさが込み上げて、胸の辺りがくすぐったくなるこいしだった。

 独楽に紐を巻き付けていると、何かがちらりと視界の端を横切った。誘われて見下ろした河川敷では、子どもたちが凧揚げに興じている。

 凧揚げ。

 そう言えば、こいしはあまり凧揚げをした事がなかった。妖怪である身上。凧を揚げるまでもなく、こいしは空を飛べる。飛ばすよりも飛ぼうと思うのは当然かもしれない。昔、姉のさとりに揚げ方を教わったけれど……。

 ふと、こいしは服の袖を小さく引っ張られるのを感じた。

 小さな女の子が、期待のこもった目でこいしを見上げている。

「あれやりたい。やろうよ、おねぇちゃん」

「凧揚げ、かあ。私、飛べるからなぁ……」

「おねぇちゃん、おそら飛べるの?」

「ひみつだよ?」

 唇に指を当てて、ナイショのポーズ。

 さぞ食い付いて来るだろうと思いきや、

「わたしは飛べないもん。やろうよ」

 女の子はそう言ってなおも袖を強く引っ張ってくる。見ると、後ろ手に真新しい凧を隠していた。そういう事か、とこいしは思った。

「ん。じゃ、やろっか!」

 女の子の手を引っ張って、こいしは土手を駆け下りた。

 河川敷の広場に出て、両手を広げる。心地良い風が吹き抜けて、心がウキウキと弾むのを感じる。そのまま深呼吸、胸を満たす冷たくて清々しい風。なんだか身体の中からキレイになっていくよう。

 赤いビニール製の凧の本体には何かの絵本のキャラクターがプリントされていた。こいしはそのキャラクターを知らなかったが、優しい絵柄が気に入った。空を見上げると、一面の青。この青の中を凧が飛び行く様を想像すると、自然と気持ちが逸る。ああ、そうかとこいしは思う。今まで凧揚げに心惹かれなかったのは、きっと地底に青いお空が足りないからなんだわ。

 女の子に糸巻きを持たせてあげて、こいしは風下に立ち凧を掲げた。

「少しずつ糸を出しながら、風に向かって一緒に走るのよ。凧が風に乗ったら時々糸を引くの」

「う、うん」

「それじゃ、行くよ!」

 掛け声とともにこいしと少女は走り出した。

 少し走ってから、こいしが掲げた凧を放そうとしたその時。少女がすてんと転んでしまった。後ろの凧が気になって、足元がおろそかになっていたのだ。

「だ、大丈夫?」

 こいしが駆け寄って声をかけると、

「うん。もう一回」

 少女はにっこり笑って頷いた。

 再び走り出す二人。

 流れる景色。風が吹くのを肌で感じる。今だ。掲げた凧を上へ押し上げるようにして放した。

 走る少女の後を追うようにして凧はしばらく滑空していたが、やがてくるりと一回転すると、地面に墜落してしまった。

「また失敗かぁ。……もう一回!」

 少女はあきらめない。

 走って、転んで、起き上がって、また走って。

 それでも凧は揚がらない。

「せっかくパパに買ってもらったのに……」

「うーん……」

 がっかりした顔で少女が言うから、こいしもすっかり困ってしまった。

 所在なく凧の糸を手繰っていた時、

「あ」

 こいしは不意に、姉のさとりの言葉を思い出した。

『こいし。今日は風が弱いから、糸目を少し上にずらしましょう。そうすると、風の弱い日でも揚がりやすいのよ』上手く揚がらなくて泣いたあの日。そう言って糸目をいじる姉のあの手つき、あの横顔。折角教えてもらったのに……結局、別の遊びばかりやっていた。

 あのときの姉も、こんな気持だったのだろうか。

「……ごめんね、お姉ちゃん」

 思わず口をついて出る言葉。つぶやきは風に乗って冷たい空に散っていってしまった。

 あの日には、もう戻れないけれど。

「これくらい……かな」

 こいしは姉の手つきを思い出しながら、凧の糸目を少し上にずらした。

「今度は揚がるよ、きっと」

「ほんとう?」

「もちろん。お姉ちゃん直伝なんだから!」

 こいしが胸を張ってそう言うと、泣きそうだった女の子も笑った。

 風に向かい、もう一度走るこいしと少女。

 こいしが掲げた凧を押し上げるようにして放した時。風を捉えた凧はぐんぐんと上昇し、大空高く舞い上がった。

「揚がった、揚がった!」

 女の子が歓声を上げる。こいしも少女に駆け寄って、一緒になって糸を引いた。

 凧はその赤い身を自慢げにひるがえしながら、悠々と風に揺れていた。

「すごいすごい、高い!」

 興奮してはしゃいでいる女の子を見て、こいしも嬉しくなった。

 見上げた青い空には、あの日揚げられなかった凧が元気よく泳いでいる。

 こいしは、大空に向かって手を伸ばした。

「届かないものに手を伸ばすのも、楽しいね」

 

 

「ただいま、お姉ちゃん」

「あら、こいし。お帰りなさい」姉のさとりは口元に運びかけた箸を戻して、こいしに笑いかけた。「おせちあるわよ、おせち。一緒に食べましょ。栗きんとんあるわよ、栗きんとん。いやぁ、おせちの何が好きって、やっぱコレよねえ」

「お姉ちゃん、凧揚げしよ、凧揚げ」

「え、凧揚げ?」

「そうそう、お正月だし!」

 こいしは興奮してバシバシテーブルを叩くのである。

「えー、でも、栗きんとん……」

「いいから、早くやろうやろう!」

 こいしが手を引くものだから、栗きんとんに後ろ髪を強く引かれつつも、さとりは中庭に出やった。

「ほらほらこれこれ」

「あら懐かしい。こんなのまだ在ったのね」

 倉庫から引っ張り出してきたのか、こいしは埃だらけの和凧を抱えている。

「そう言えば昔、二人で揚げたわね。あんたは揚げるの下手くそで、すぐ飽きちゃって……」

「いいからやろう!」

「分かった分かった、分かったって」

 埃を払い、凧の状態を確認する。長く放置していた割にはどこも朽ちていないようだ。これならまだ十分に使えるだろう。今日は風が弱いから、糸目は上だ。クイクイと糸目を引き絞って調節する。その様子をこいしがニヤニヤしながら見ている。こんな地味な作業を見て何が楽しいのだろう。この娘は時々分からない。

 風上へ向けて軽く走りながら糸を送り出す。風の手応えを感じたその時に軽く糸を引くと、凧はスルスルと揚がった。

「うわすごい。さっすがお姉ちゃん!」

 こいしが手を叩いて喜んだ。尊敬の眼差しがこそばゆい。初詣のおみくじも大吉だったし、今年は良い事ありそうだ。

「うふふ。すごいでしょ。これでも昔は地底の遊戯王って呼ばれてたんだから」

「すごすぎてちょっと引くわ」

「えっ」

「貸して貸して」

 こいしがせがむので糸巻きを渡すと、こいしは夢中でそれを引いていた。そのはしゃぎように、わんぱくだった幼いころの妹の姿が重なる。なんだかあの頃に戻ったみたいだなあと、ノスタルジーを感じたり。……まあ、こいしは今も十分、わんぱくだけれども。

「あら、独楽もあるのね」

 これも倉庫にあったものだろうか。こいしが広げたお正月の遊び道具一式から、さとりは投げ独楽を取り出した。

「懐かしいわね。これは手首のスナップを効かせるのがコツなのよねえ」

「うんうん」

 糸を巻きながら言うと、こいしはニコニコと頷いた。

 独楽回しも久しぶりだ。さとりは感覚を思い出すようにゆっくり糸を巻き込むと、中指と薬指でしっかりと紐を握りしめ、そのまま素早く腕を突き出した。

「それっ! ……あ」

 気合一閃、放たれた独楽は勢い余って地霊殿の窓ガラスを突き破り、派手な音を立てた。

 唖然とするさとりの背中を、こいしの視線がちくちくと刺す。

「お姉ちゃん……」

「ちがうのよ、こいし、手が滑って」

「台無し……」

「こいし」

 こいしの尊敬の視線が見る間に溜め息に変わった。

 しかも正月早々、大掃除決定である。なんてツイてないんだろうか。何が大吉だ、博麗神社のおみくじなんてもう絶対信じないぞ。さとりはそう心に誓うのだった。

 


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