第一試験が開始してから十分後、ナルトは支給されたペンを机に置いて、解答用紙を裏にして伏せた。
もう用紙を見る理由もなく、そしてこのペンももう、必要ない。
中忍選抜試験の第一試験は、ナルトの記憶の通りペーパーテストのままで、特に変化はなかった。
第一試験の試験官である森乃イビキの試験の説明にも大きな差異はないように思えたし、実際に渡された解答用紙を見ても、以前の記憶と異なるところは見受けられないように感じた。
かつてと違うところを上げるとするならば、主に三つ。
第一試験に参加した忍の人数、そして各々の座った席順、ナルトの持っている実力、ぐらいなものだろう。
まず一つ目の、参加している忍の数についてだが、これは明らかに前回よりも少ない。
理由は、多分、これもまたナルトと我愛羅のせい、なのだろう。
特に、他国の里に遠征してきたわけではない、開催国出身の木の葉隠れの忍の参加者の目減りが大きいように見えた。試験参加は強制的ではないのだから、参加しなくても大した痛手ではない人間にとっては、今回の試験はリスクの方が大きいと判断したのだろう。
少し複雑だがそれは別に構わないし、特に問題ない。
二つ目の席順の変更は、それに伴った変化だ。
状況が変われば、座る場所も変わるのが道理だ。
前回のときは、日向ヒナタがナルトの隣に座っていた。
いつものように頬を紅潮させながら、目をキラキラさせて、『お、お互い頑張ろうね……』と控えめに言っていたものだ。
今回のナルトの隣には薬師カブトが座っていた。
まったく熱のこもらない冷めた顔面を晒しながら、眼鏡をキラキラ反射させて表情が伺い知れない様子で、『ボクたち、どうやら隣同士みたいだね……』と薄く微笑んでいた。
──こっちに来んな。
サスケの方へ行け。いや、行くな絶対。自分の目の届かない場所にいて欲しい。いや、それはそれで困る。
と、矛盾したことを考えながら、ナルトは横に視線を向けて「ああ」、とだけ答えた。
未だナルトはこの男に対して消化できない想いがあった。
演技が苦手なこともあるが、それ以上に、一度は友達だったこともあったからこそ、簡単にはただの敵だ、とも割り切れずに、抑えきれないまま必要以上に過剰に忌避してしまっているところがあった。
この状態が良くないことは十分にわかってはいる。なにより、こういうことをグチャグチャ考えている自分と、考えなくてはならない状況が嫌でしょうがなかった。
だからこそ、気兼ねなくぶん殴れるようになるそのときまで、ナルトは薬師カブトが苦手だったし、できる限り意識したくもなかった。
席に座ってすぐにイビキの第一試験の説明が始まったので、余計な会話をほとんどすることがなくナルトは安堵した。
配られた解答用紙を表に返して、ナルトはさっさと問題に集中することにした。
ナルトは、以前に試験を受けたときに見た問題の内容は一切覚えていなかったが、とはいえかつての自分とは持っている知識の量が違う。
苦手な勉強を積み重ねて、今この場で向かい合っているのだ。
それゆえに、かつては問われている内容すらわからなかった問題の意味を全て、完璧に理解することができるようになっていた。
ナルトは問いを上から下までしっかりと順繰りに眺めていき、ややあってペンを一度くるりと指の上で回した。
そして、目を閉じると、フッと笑った。
──こんなの……、一問たりともわかんねぇ…………。
以前とは違う。それは間違いない。何故なら、自分がこの問題のなにが解かってないのか、どういう情報があればこれに答えられるのか、それぐらいまでは大体わかったからだ。
その成果が、最後の一問を除けば、出された問題全てを一問たりとも絶対に自力では解けないという究極の事実を突き止めたということだっただけだ。
まだ大丈夫、ナルトは自分に言い聞かせた。
確かにこのテストがただの筆記試験であったのなら、ここでナルトは落第が確定していたが、幸いこれは、忍の能力を測るテストだ。
情報処理能力を試す試験でもあり、つまりカンニング行為が暗黙の了解で許されている。
五回失敗するまでは、カンニングがバレても減点で済む。
べつにカンニング自体は、できなくはない。
ナルトは、自身の左手首の法印に触れた。
しかし、考え直して、手を離した。
隣に座っているカブトの存在が気にかかったからだ。
なにを考えているのか読めないが、以前の記憶から考えると、いまこの時点では、この男はまだナルトを警戒してはいない、はずだ。
なるべくこの男には、自分の手札をギリギリまで隠しておきたかった。
──マジでこっち来んな、だったってばよ。マジで。
ナルトは内心で頭を抱えた。
とはいえ、試験の内容が前回とすべて変わっていないのなら、そもそもカンニングをする意味がないともいえる。
なぜなら、最後の問いで『試験を辞退する』という選択さえとらなければ、解答用紙が白紙でも第一試験は突破できるからだ。
ただ、そこまで徹底的に試験に参加しないというのもズル過ぎる気もする。
しかし、一度クリアしたことのある試験ということは、ある意味ナルトはこの試験を合格するに値している忍であることはすでに証明している、と解釈できないこともない。
つまりなにもせずに試験が終わるのを待っていてもべつにズルくはない、と考えることもできる。
ただし、試験の内容が以前と完全に一致しているとは限らない。最終問題がナルトが予想だにしていなかった問題である可能性もなくはない。
皆が問題と格闘している最中、試験とはまったく関係していないところで、ナルトは一人頭を悩ませていた。
試験、第七班の仲間、大蛇丸、三代目、様々な存在が、ナルトの中の天秤のそれぞれに乗ってその皿を揺らしていった。
その最後に、ふと、いま教室の檀上に立って受験者を睥睨している森乃イビキの、額当てを取った姿を思い出していた。
剥き出しになった地肌に刻まれた拷問の痕を合格者全員に見せて、彼は笑ってその傷跡の由来を語ってみせた。
『なぜなら、……情報とはその時々において命よりも重い価値を発し、任務や戦場では常に命懸けで奪い合われるものだからだ』
と。
それを思い出した瞬間に、ナルトの中の天秤は傾き、決意を固めさせた。
一度、深く息を吸って、吐いて、────そしてナルトは自分の解答用紙を裏にして伏せ、顔の前で指を組んで前を見据えた。
これは情報戦の試験だとイビキは言っていた。
そして試験とは、実戦のために存在するものなのだ。
ナルトの持つ情報とは、未来の知識と、そして今の自分の持つ実力だ。
この二つが命よりも重い価値を発するというのならば、今はこうすることが、きっと正しいはずなのだ。
背中に汗を滲ませながら、ナルトは顔だけは涼しく装って、ただ前を見つめた。
隣でカブトが驚いた様子が伝わってきた。どうやら、こっそりとこちらの様子を窺っていたらしかった。
やはり自分の判断は正しかったようだ。
表情にはおくびにも出さずにナルトは少し安堵した。
少しキツイがこのまま四十五分経つのを待って、最後の問いをクリアすれば第一試験を突破できる、はずだ。
そう思ったときだった。
たまたまナルトの目の先に立っていた森乃イビキと、視線が合ってしまった。
ナルトは固まった。
「…………」
「…………」
無言で見つめ合う。一度イビキの視線が伏せられているナルトの解答用紙に向かい、そして再びナルト自身に視線が戻る。
イビキの、何をしているんだコイツは、という訝し気な視線がナルトに突き刺さった。
…………よく考えると、試験開始十分後になにも書かずにペンを置いて解答用紙を伏せるのは、流石に少しやりすぎたかもしれない。
ナルトは固まったまま視線を剥がせず、そしてイビキも視線を逸らすことはなかった。
ペンの走る音が響くような静かな教室の中で、イビキとナルトはただ見つめ合った。
──やべェ。
ナルトは更に背中から汗が流れるのを感じた。
ふと、イビキが何かを察したような表情に変わり、ニヤリ、と口元を歪めた。
小さく漏らした笑い声は大きくはなかったが、静寂した試験場の中ではよく響いた。
「────なるほど、どうやら一人、小賢しいヤツがいるようだな」
ハッキリとナルトを見つめながら、イビキは独り言というにはあまりに大きな声でそう言った。
──やべェ。
ナルトは再びそう思った。
イビキはどこか愉しそうに目を細めると、腕を後ろに組んでゆっくりと教壇を横切るように歩いた。
ざわめきはなかったが、ペンが走る音が戸惑うように途切れた。
「試験の内容を鑑みれば、自ずと推察できることもあるだろうが、……流石にそれは少々度が過ぎていると言わざるを得ないな」
窓際まで歩いていくと今度は身を翻して、反対側にある扉の方に歩いていく。ゆっくりと、しかし緊張感を伴っている。
「試験官と言うものは、物語の作家のように自分が出した試験の裏側を考察して欲しがるものだ。自分が出した演出についてそれを見た客が深く考えを巡らせて、裏の裏を読もうとする行為にある種の快感を見出す。しかし、それにも程度というものがある。勇んで劇場の舞台の裏側まで覗き込むような輩には、──流石に苛立ちを覚えるというものだ」
苛立つ、と言う割にはどこか愉しそうに、イビキは言葉を紡いだ。
なにを言っているのか正直よくわからなかったが、たぶん、ナルトがこの試験の答えを知っているという事実を、イビキはあっさりと看破したようだった。
目の前の男は拷問と尋問を専門とする、いわゆる情報収集のプロだ。
決してなめてかかっていい相手ではなかった。今さらながら後悔が浮かぶ。
ナルトはなんとか表情筋を平静に保ちつつ、もう一度フッと笑った。
──やばいってばよぉ……。マジでェ…………。
我愛羅や大蛇丸の対処がどうとか考える前に、今この瞬間の対応を誤るだけで、ナルトたちの試験は終了してしまうかもしれない。
中忍選抜試験最大かもしれない危機が目の前に迫っていた。半分は自分、残り半分は主にカブトのせいで。
「随分と自分の推測に自信があるようだが、…………果たしてそれが真実であると、どうやって判断する?」
「………………」
やっぱり今からカンニングします、とは言い出せない雰囲気だった。
「そしてもう一つ。たとえそれが本当に正しい情報だったとしても、それを誇示するような振る舞いは度し難い愚か者だといえる。なぜなら、情報を得たことを敵に悟られた時点で、その情報は正確性を失うかもしれないからだ」
「………………」
ナルトはただ黙って、イビキの言葉を聞いた。
表情筋を動かさないこと以外にできることがないだけだった。
イビキは今、言葉を続けながらじっくりとナルトの様子を観察している。言っている内容が正しく、ぐうの音も出ないほど間違いがない。だが、それは本命ではない。
それに対する反応こそが相手が引き出したい情報なのだ。
だからこそ、怯えは見せない。
三代目との仙術の修業の日々は決して肉体の鍛錬だけではなかった。
むしろ精神的動揺を抑える鍛錬の方が、辟易するほど執拗なまでにやらされた記憶があった。
ゆえに法印でチャクラ感知を絞った状態でも、表面上の動揺を隠す駆け引きぐらいはできる。
背汗をダラダラ流しながら、逆にナルトはわずかに感じるイビキのチャクラの反応を観察した。
「………………なにより自分が得た情報を過信してそれに班の命運を軽々に委ねてしまうような輩に、中忍になる資格などない」
会話に思ったような手応えが無かったのか、イビキの内にわずかに動揺が生じたように感じられた。
ここだ。ナルトはこの小さな隙に畳みかけることにした。
ナルトは左腕を真っすぐに上げた。
イビキは表情は変えなかったが、内心では少しだけ動揺した様子だった。
「…………なんだ」
「──そう思うなら、そうすればいい」
「フム?」
「これは中忍試験なんだろ? だったらアンタはただ、中忍にはなれないと思ったやつを──」
ナルトは上げた腕をゆっくりと下げて机に掌を置いてみせた。
「落とせばいいだけだってばよ」
「………………」
意識しなかったにせよ、これはナルトが売ってしまった喧嘩だ。
だからこそ、芋を引かないという意志を込めて、真っすぐにイビキの目を見返した。
「…………ふん」
結局のところ、ここでなにを言ったところで、イビキがナルトを中忍に値すると思うかどうかがすべてだ。
ナルトは怯まずに自分のできることをただ示すだけだ。
「……試験中だ。余計な私語は慎め」
イビキはくるりと黒板の方を向くと、そう一言だけ告げただけで、それ以上の言及はしなかった。
なぜか我愛羅がザワリ、と気配を蠢かしてナルトが背筋を凍らせた一幕を挟みつつ、最終的に第七班は問題なく一次試験を突破した。
──死ぬほど疲れた。
二次試験に残った人数は意外なことに前回のときと大差なかった。
一次試験の最終問題でリタイアを宣言した者が前回よりも少なかったのが原因だった。おそらく昨日の騒ぎのせいで、試験参加を決めた段階で覚悟を固めてきた者が多かったのだろう。あるいはナルトと試験官であるイビキの口論がなにかしらの影響を与えたのか。
追求するほどの意味は感じないので、どうでもいいが。
第二の試験会場は例年通り第44演習場、またの名を『死の森』だった。
ここからが、本番だ。
なぜか今の時点で前回よりも精神的に疲弊を感じていたが、ナルトは意識を切り替えた。
前回大蛇丸が変装していた草隠れの忍は一次試験を突破したようだ。けれど、それが本当に今回も大蛇丸が入れ替わっているのかどうか、外見だけでは確信が持てない。
纏っている雰囲気も、かつての底知れない不気味さは感じない。
三代目にはすでに前回の記憶にある限り伝えてあるのだから、もしかすると今回は大蛇丸とは無関係なのかもしれない。
注目し過ぎるのもよくないので、ナルトは半ばそうだと確信しつつも、それを確定することは一旦保留にした。
そして、赤い髪のあの子もまた、第一試験を突破していたようだった。
第44演習場は直径約二十キロの広大な円形の演習場だ。その中央には塔が鎮座しておりその周囲を森が囲っている。演習場の中央を横切るように流れる一本の大きな川があるが水量はそれほど多くはないようだ。
この中に入って二種類の巻物を巡って争う、それが二次試験の概要だ。制限時間は五日。
ナルトは死亡同意書にサインを書いて、前回通り、一対の巻物の片割れを受け取った。
『地』とだけ書かれた巻物をバックパックの底に仕舞うと指定のゲートの前に立つ。
一次試験での揉め事についてサクラから軽くツッコミと説教はあったが、どうやら割と色々諦められている節があり、本格的な探りのようなものはなかった。
サスケは、なにも聞いてこなかった。
時折、視線のようなものを感じるが、イマイチどういう感情を抱いているのかよくわからない。
試験に集中しているだけ、なのだろうか。
違う気がしてきた。
──何かあっても自分から言ってこねぇからなぁ。
ナルトは警戒心を少し上げた。
今は試験に集中しなければならないが、タイミングをみてサスケと落ち着いて会話する時間を作ろうとナルトは思った。