生きてました。
瞳を伏せて、努めて敵意を抑える。
握手を解くと、ナルトはすぐにカブトから目を背けた。
敵が近くにいるというのに平静を装わなくてはならないのは、ナルトの精神構造上、非常に辛いものがある。それが自分よりも格上ならば猶更だ。
なにより一度は尊敬したこともある相手だ。
強い決意を漲らせられないならば、心に残った怒りや、恐れ、動揺から目を逸らすことは難しい。
だからこそカブトが場を収めようとしていたのは、渡りに船であった。
ナルトは自分がこれ以上ボロを出す前にさっさとこの男から離れたかった。
サスケは納得がいっていないようであったが、周囲の雰囲気はすでに解散に傾きつつある。
想定外のトラブルであったが、とにかくなんとかなった。
そうナルトが思ったときであった。
なにか、忍らしからぬ騒がしい音を立てて誰かが近づいてくるのがわかった。それも高速で。ナルトだけではなく他の全員もまた察知できるほどに、まったく気配を隠していない。
屋根を蹴って跳ぶその男の特徴的な格好を見た時、ナルトは、ああ、と一人忘れていたことを思い出した。
確かに中忍選抜試験を受ける下忍のほとんど全員が、今日だけは任務や修行を休養し、明日に備えて体力を温存するのは間違いない。
けれど、たった一人。
この男だけは変わらずに修行に打ち込んでいたのだろうことは考えてみれば至極当然のことだった。
「ダイナミック──────」
大きく屈んでから強く屋根を蹴って跳び上がり、空中でクルリと縦に回転して軌道を修正すると、ナルトの真正面に大きな音を立てて片膝を突いて着地した。
「エントリー!!!」
無駄にカッコいい登場を経て、ロック・リーがエントリーしてきた。
ナルトを背に庇うようにして立ち上がると、片手の甲を相手に向ける独特の構えをとりながら混乱する周囲を睥睨した。
「遅れてしまい申し訳ありません!! しかし!! ここからナルトさんはボクが守ります!!」
場を再び沈黙が支配した。
今度はまったく別の意味で。
守る、と言われたナルト自身ですらこの状況を理解できていなかった。リーがこの場に遅れて来た理由はわかる。けれど何故自分を守るなどと言いだしたのかはわからない。どういう経緯かは知らないが中途半端にこの状況について把握はしているようだった。
守る、と言ったのはリーにとってはナルトは知り合いの女の子だからなのだろうと、とりあえずそう当たりをつけて、反射的にちょっと屈辱を覚えながらナルトはすぐにそれを飲み込んだ。
忍にしてもよくいえば個性的な格好をしているリーに気を取られていた面々も、ようやくリーがナルトの名を口にしていたことを認識したのか、サクラとサスケ辺りから問うような視線を感じた。
ナルトは軽く息を吐くと、リーに呼びかけた。
「リーさん、もう終わったってばよ」
「ええ!?」
リーは大げさなぐらい肩を飛び上がらせて情けない声を上げた。
構えを解いてうかがうような視線でナルトを振り返ったリーに「いや、ホントだってばよ」と続けると、今度は面白いぐらいに落ち込んだ。うずくまって膝を抱え、ブツブツと自分自身への叱責を欝々と呟き始めた。
一瞬前に魅せたあの素晴らしい身体能力の持ち主とは到底思えない奇行に、ネジとナルトを除いた全員が唖然とした様子でそれを眺めた。
どこか懐かしさすら感じるそのコミカルな動きに、ナルトはこれまでの緊迫した空気も忘れて、思わず強張った頬を緩ませた。
───ゲジマユのこういうところ、やっぱオレ結構好きだ。
素直で真っすぐで考えるよりまず動く。
リーのせいでまた状況がややこしくなってしまったのは事実であったが、ナルトは迷惑に感じながらも少し肩の荷が軽くなった気がした。
さて、どうしたものかと考えている、屋根の上からさらにもう一人がこの場に静かに降り立った。
黒髪のお団子頭の忍の少女だ。リーと同じ第三班の一人で、名はテンテン、だったはず。
「………………」
一瞬、ナルトを見やり、視線をリーの方に動かして溜息をついたあと、ネジの方に足を向けた。
これでどうやら第三班も勢ぞろいしてしまったらしい。
こうなってくると、もはや明日中忍選抜試験を受けるであろう木の葉の下忍のほとんどが、今この場に集まってしまっているという状態になってしまっているらしい。
「なんだ。お前らも来たのか」
同じような感想を抱いたらしいネジが、つまらなさそうにそう呟いた。
その声に反応したリーが素早く顔を上げると、信じられないものを見たような表情でネジを見返した。
そしてなぜかナルトとネジの顔を交互に見つめた。
「?」
ナルトは首を傾げた。
「ま、まさか…………」
震える指先をネジに向けると、
「────敵に襲われたナルトさんを颯爽と助けた挙句に恩に着せるでもなく別にお前を庇ったわけじゃない的なことを言って去り際までナイスガイに決めたりしてたわけじゃ、そんな状況じゃありませんよね!?」
「………………」
大体当たっていた。
こういう言いがかりは的外れなのが相場なのだと思うのだけれども、ニュアンスに若干の違いがあるが奇跡的に訂正する箇所が見当たらないぐらいには合っている。
「…………くだらない」
面倒くさかったのか是とも否とも言わずにネジはそうやって切って捨てた。
このノリに付きあうメリットを感じなかったのだろう。ただ、その態度は図星をさされたように見えなくもなかった。
案の定、リーはいきり立った。
「ネジ! ボクと決着を付けましょう! 今ここで!」
「やるわけがないだろう馬鹿が」
ネジは付き合ってられんとばかりに背を向けた。
その様子を眺めていたサクラが突然ナルトの肩に手を置いた。
「ねぇ。あのリーさんって人、もしかしてナルトに気があるの?」
内緒話するように声を狭めたサクラがそんな世迷言をナルトの耳元で囁いた。
くすぐったさに肩を震わせながら、そんなわけないだろう、とナルトは内心でツッコミを入れた。
未来の知識からナルトはリーが好きな相手が誰なのかを既に知っている。
その相手は他ならぬナルトの目の前にいる少女、サクラだ。
リーがナルトを守りたかったのは、ナルト自身の事を気遣ったのもあるのだろうが、一番の理由はサクラに頼りがいのある姿を見せたかったからのはずだ。
少なくともナルトはそう解釈していた。
───サクラちゃんってサスケ以外眼中にねーからなぁ。
ナルトは同じ片思い仲間のリーを気の毒に思いながら、やれやれとばかりに溜息をついた。
本来ならばナルトにはリーの恋路を応援する義理は無かったはずだったが、しかしナルトはリーに大きな借りが一つあった。
リーは君麻呂に足止めされていたナルトを、手術直後のまともに動けるはずもない状態で助けに来てくれたのだ。
そのおかげでナルトは何とかサスケに追いつくことができたのだ。
その結果の不甲斐なさは、自分を罵る言葉も見つからないが。
あの後のリーはどうなったのだろうか。
ナルトにはもう確かめる術がない。
おそらく、君麻呂に殺されてしまった可能性が一番高い。
ナルトはそうなることが薄々わかっていながら、サスケを追うためにリーにその場を託した。
リー自身が覚悟を決めていたのがわかったからこそ、躊躇うことが侮辱になると知っていたから。
サクラとナルトの約束の意味を、その重さを、リーが一番真摯に受け止めてくれていたと思う。
だからこそ、ナルトはリーを尊敬していたし、そして同時に負い目を感じていた。
ナルトの視線の動きをどう解釈したのか、サクラはくいっとナルトの服の袖をひっぱった。
「──自覚ないかもしれないけれど、アンタは結構可愛いんだからね?」
だから気を付けなさいよ、と忠告めいて告げる。
前にも似たようなことを言われた気がする。
そういうんじゃないんだけどなぁ、と思いつつもナルトがリーの想いを代弁するのも違う気がして、上手く言葉には纏まらなかった。
丁度リーとネジのイザコザも終わりを迎えたようで、というよりも相手するのも億劫になったらしいネジがさっさと立ち去ろうとしているのが見えた。
そのネジの目の前に、サスケが立ちふさがった。
「待て。……話はまだ終わってねぇ」
緩みかけた空気など意にも介さずにサスケは鋭い視線をネジに向けた。カブトが諦めたように溜息をついた。どうせ困っているフリだろう。ナルトはイラっとした。
カブトの姿を見かけてからナルトは半ば確信していた。
この一連の騒動は、偶然に見せかけてこの男がコントロールしていたに違いない、と。目的は情報収集とかそんなところだろう。
巻き込まれた形のナルトはひどく業腹だった。
ネジは一呼吸だけ速度を緩めたが、しかし足は止めずにサスケの横を通り抜けた。
「時間の無駄だ」
そうあっさりと言い捨てる。
「今のお前ではオレはおろか、そこにいるリーの相手にすらならない」
「なんだと……」
まるで確定した事実かのように、ネジは断定した。
客観的な立場というにはややサスケ贔屓なナルトであったが、正直今のサスケではネジやリーには敵わないのは事実だ。けれど相手にならないかどうかは話が別だ。
白眼や柔拳の初見殺しは厳しいかもしれないが、それを差し引けば勝てはしないとしてもまったく歯が立たないほど絶望的な差があるとも思えない。
とはいえ、すぐに断言したがるネジらしい発言ではある。天才ゆえか境遇のせいか、ネジの思考の視野は、その目に反して広くない。
だからこそ、その隙を突かれ、格下であるはずのナルトに敗北してしまったのだから。
しかしそんな事情を知らないサスケには、その迷いのない言葉が強く響いたようだった。
やり取りに引きずり込まれたリーは、そこで初めてサスケに視線を向けた。
「…………いえ、そんなことはありませんよ。見ただけで分かります。キミは強い」
それは周りの空気に流されない冷静な意見だった。
そして次に飛び出した言葉もまた、リーの本心だっただろう。
「キミたちの来季の中忍試験が楽しみですよ」
一瞬の静寂の後に、堪えきれなかったネジの哄笑が広場に響き渡った。
このときのリーはおそらく、ナルトたちが中忍選抜試験を受けることを知らなかったのだろう。
だからこそ、その発言に裏はなく、故にその言葉はどんな挑発よりも深く、サスケに突き刺さったはずだ。少なくとも同じ言葉を受ければ、ナルトだったらぶち切れている。
雰囲気が完全に切り替わったのは、そこにいる誰もが感じ取っただろう。
「おい、そこのゲジマユ」
両目に再び写輪眼を浮かび上がらせながら、サスケは限界に達する直前のような震えの籠った声で、言った。
「オレと闘え」
実際のところ、この争いそのものは決して悪いイベントではなかった。
前回のときも似たようなことはあったし、サスケにとっても良い経験になるはずだ。
他の忍の注目もあったので、リーの提案で場所は移すことにした。
やや広めの運動場で、フェンスで覆われた囲いがあり、人目もさほどない。
遠巻きにフェンスにもたれながら、ナルトはこの闘いの行方を眺めることにした。
反対するつもりはない。
だが、不満はある。
まず、自分が戦えないことだ。
前回はサスケの前座としてだがまずナルトとリーが手合わせをしたのだ。この流れなら行けるかと思ってまずはナルトとリーが闘うのはどうかと一応申し出てみたのだが、リーからは「な、ナルトさん…………?」困惑した目で見られるし、サクラには「アンタは本当に意味がわからない」と怒られるし散々な目にあった。
男女差別だ。オレとも殴り合え。
ナルトは自分を棚に上げて内心で文句を言った。無論、反省もしていない。
未だ、リーとの手合わせの約束も果たされていないし、猿とばかり組手をさせられていたナルトは欲求不満であった。
そして、もう一つ不満なことがあった。
それはこの状況に至ったことをほくそ笑んでいるだろう奴が少なくとも一人はいるということだった。
「いやー、ボクも止めたんだけどね」
そう言って薬師カブトはナルトの隣で気の抜けたような笑みを浮かべた。
「…………なんでこっちにくるんだってばよ」
「始まっちゃった以上は、ボクもこのカードに興味があるんだよね。あのうちはの末裔と体術最強と噂される下忍。同じ試験を受ける身としては見逃せないよ」
そういう意味ではなく、暗にオレに近寄るなと言ったつもりだったがカブトには通じなかったらしい。当然だが、通じなかったのではなく気付かなかったフリをしているだけだ。この男がその程度の機微がわからないはずがない。
ナルトとサクラから少し離れた場所ではあるものの、声が届く位置にカブトは陣取っていた。
どうやらついでにこちらの情報も収集しておきたいようだった。
それに気が付いてさらにイライラしながらナルトはカブトから視線を外した。
もっとあからさまにはねつければ、拒否できるかもしれないが、それはあまりに不自然だ。後に厄介な出来事を引き寄せかねない。
故にここは堪えるしかない。
ナルトの視線の先では、サスケとリーが向い合せで睨み合っていた。
そこには熱い闘志が渦巻いていた。
怒りや苛立ちといったほの暗い感情もあるが、それをかき消すような強くて激しい熱気が確かにそこにはある。
まさしく中忍選抜試験前哨戦だ。
羨ましい。
それがナルトの率直な感想だった。
なにが悲しくて、欝々と陰気な気分になりながら、殴りたくても殴れない男の横で思考をぶん回して自分の企みを隠す作業を続けなければいけないのか。
なにも楽しくない。
──オレもあっちで闘いてぇ。
何も考えずに中忍試験を愉しむ側に心底回りたかった。少し歩けばすぐに近寄れる場所のはずなのに、その距離が酷く遠いように感じられた。
「こんにちは」
柔らかな声音に顏を上げると、お団子頭の少女、テンテンがそこにいた。
やや上向きの目尻やその身体から滲み出る自分への自信が、いかにも勝気そうな気配を漂わせている。
さっさと立ち去ったネジの姿は隣にはなく今は一人のようだった。「どうも」、とサクラがやや警戒したように返事をする。
「あたしもここで観戦していいかな?」
尋ねてはいるものの、断られるとは思っていない口調だった。
ナルトとしては特に拒否感はないので気にしなかった。
ナルトが了承を返すと、サクラとは反対側の、ナルトを挟むような位置にテンテンはやってきた。
ニコリ、と社交的な笑み。
「ごめんねー、うちの天才くんと努力バカが無神経なこと言っちゃって」
と、軽い感じにまずは謝罪を述べてきた。
「だけどさ、事情は聞いたんだけど、リーはともかくネジは言い方は良くなかったかもしれないけど、ちゃんと本気で忠告してたんだと思うんだよね」
「忠告、ですか」
「そう。わたしたちも一年、中忍選抜試験を先送りにしてるから。そこに立ってる人みたいに何年も受験し続けている人も沢山いる。別に一年じっくり実力をつけて、経験を積んでからだって全然遅くないと思うから」
それは親身な言葉だった。自分にだけは微妙に無神経な言葉にカブトは苦笑を浮かべていたが、テンテンの言ったことに嘘や間違いはないだろう。サクラもその言葉を受けて考え込んでいる。
けれど、何故だろう。認めたくないが最近発達してきたナルトの妙な女の勘のようなものが、それだけではないと告げている。
「────ああ、そういえば。キミは、リーと知り合いなんだっけ? じゃあそこら辺の事情はもう知ってるんだ?」
今回聞いてはいないが前回の記憶から知ってはいる、という微妙なラインな情報だったので、ナルトは少し脳内で言葉を選んだ。
ややあって首を振って否定し、知らなかったことを告げる。
「………………へぇ」
「あ、そういえばあたしも聞いてないんだけど。ナルト、いつの間にリーさんと知り合ったのよ」
そう言われても、特筆して語ることなどない。言ってしまえば、ただの偶然だ。ナルトがリーを見知っていた、というのが理由としては一番大きいかもしれないが、それを言うと話が非常にややこしくなるので、当然言わない。
「──そっかー。おもしろい偶然だね」
またニコリ、とテンテンは笑みを浮かべる。
「あのバカの相手は大変だったでしょ。暑苦しいし、空気読めないし、なにかにつけて努力、とか言い出すしさ」
「…………いや」
「でも、いい奴なんだよ、本当に。困ってる人は放っておかないし、自分だって大して余裕ない癖に、すぐに人の心配しだすようなバカでさ。たまたま同じ班になっただけの仲だってのに、余計なお世話ばっかり焼こうとしてくるしさ」
だから、とテンテンは続けた。
「アタシもなんかほっておけないんだよねアイツのこと。──アイツが勝手に舞い上がって玉砕するのはぜんぜん構わないけど、アイツの気持ちを分かっていながらそれを弄んで、利用して、馬鹿にするような奴がいるとしたら」
アタシはきっと、そいつを許さない。
そう、感情の乗らない声で呟いた。
静かな目でナルトを見た後に、また、ニコリ、と笑みを浮かべた。
「……なんてね。あ、そろそろ始まりそうだよ」
いくらなんでもナルトでも流石に察することができる。
テンテンから感じるこれは。
これは、敵意、だ。
よくわからない。よくわからないが、サクラと揉めたときと同じように、理解の範囲外の何かが始まっていることだけはわかる。
視線を前に戻す。
そこには互いに熱い闘気をぶつけ合う二人の若き忍の青々しいプライドを賭けた戦いが、今まさに始まろうとしているところだった。
ナルトは横を窺った。その視線に気が付いたテンテンが再び、ニコリ、とほほ笑みかけてきた。
気が付いてみれば、何故わからなかったのかわからないぐらい、暖かさを微塵も感じさせない無機質な笑みだった。
相互理解からは程遠い、寒々しい隔意がそこには横たわっていた。
対処の仕方は、無論ナルトがわかるハズもなかった。
────なんで。
黙って顔を前に戻しつつ、ナルトは内心で血の涙を流した。
────なんでオレばっかりこんな目に遭うんだってばよぉ……!
ナルトの悲しみの涙を余所に、サスケとリーの闘いの火蓋が切られたのだった。