ヨシッ! 一か月以内ィ!
周りの景色、当たり前の日常であるはずの木の葉隠れの景色が深い水底の世界に塗りつぶされていく。人も建物もすべて、我愛羅と自分だけを残してナルトの視界から弾きだされていってしまう。
これは仙道に深く潜っていくと稀に見ることのできるチャクラ感知の世界だ。
仙術の修業で調子が良いときに、ナルトは何度かこの景色を見たことがある。けれど、これほどまでに急速に引きずり込まれるようにこの場所に来たのは初めてだった。
我愛羅にはこの景色は見えていないのだろうか。微動だにすることなく、ナルトだけを見つめている。
その我愛羅の顔が困惑したように、歪んだ。
「お前は、お前は、……………………なんだ?」
我愛羅は確か、尾獣という存在がいることをまだ知らなかったはずだ。
それ故、この邂逅の意味をすぐには飲み込めないようであった。
ナルトが答えを言うよりも早く、我愛羅すらも塗りつぶすようにして巨大な何かが、底すら知れぬ水底から浮かび上がってきた。
左手の法印がナルトに危機を伝えるよりも早く、その怪物が放つ威容にナルトの全身がビリビリと震えた。
山のように巨大な砂でできた身体。その身体を波打つように走る薄紫の紋様まではっきりと見える。
かつて見たままに、砂隠れの尾獣、一尾、守鶴がナルトの眼前に聳えていた。
【オオオオオオオオオオオオオ!】
逃げる間もなく、そのチャクラの波がナルトを襲った。
【シャハハハハハハハハ!! よりにもよってやっぱテメェかよ!!!】
【………………………………】
【理由は知らねえが、──んなもん関係ねぇ!! 来いよ、今度こそぶっ殺してやんよぉ!!】
どうやら九喇嘛と守鶴はナルトの与り知らぬ関係があったらしい。考えてみれば尾獣という同じの括りの存在どうしだ。そうであっても不思議ではない。
ナルトの背後からも目の前の守鶴と同等の気配が沸き上がっている。
途切れ途切れの視界の端に、金色の尾が揺らめくのが微かに見えた。
しかし今はそちらに意識を割く余裕がない。
守鶴はナルトを認識してすらいない。だが、ナルトはその存在の余波だけですでに意識が掻き消されそうになってしまっていた。
【……………………こうなると思っておったわ。なまじ猿の仙術なんぞを齧るからこういう目に逢うのだ小娘】
盛大な溜息のような音が響いた。
ナルトの左右から巨大な壁のようなものが迫り、身体を包み込んだ。
分厚いそれに視界が完全に覆われると、わずかに一尾の気配が弱まった。
ナルトは、自身を守るように覆うその壁が、九喇嘛の両の手であることに気が付いた。
【はやく法印を絞れ。今のお前如きが尾獣同士のチャクラを繋げていれば、すぐに経絡系が焼き切れて、死ぬぞ】
上から響いてくるその声に、ナルトは躊躇わずに従った。
ナルトは目を閉じると、呼吸を整えながら左手首に刻まれた『金 緊 禁』の三重の緊箍児の法印の上に震える右手を乗せ、ゆっくりと、時計周りにひねった。
仙道が閉じていくのと同時に、深い水の世界が急速に遠のいていく。
【おい、待てバカ狐テメェ! 逃げんじゃねぇ!】
【────たかが尾が一本の分際でワシに対等な口を叩くな。阿呆が】
守鶴の怒り狂った咆哮が響くが、それもどんどんと小さくなり、やがて聞こえなくなった。慎重に目を開けると、ナルトの視界は元の現実に戻っていた。
凍り付いたように冷たくなった息を吐く。
原因はよくわからないが、どうやら仙術が暴走してしまっていたらしい。
狒々の仙術は『繋ぐ力』が強いと、三代目は言っていた。
人柱力どうしだからだろうか、それともナルトの未熟さ故なのか、我愛羅とナルトのチャクラが繋がってしまったようだった。
おそらく三代目にとっても想定外ではあったのだろう。
そうだとしても。
──二度目だぞクソジジイ……。
脳裏に真顔でピースしている三代目のイメージが浮かびあがって、割とガチで殺意を覚えながらナルトは怨嗟の呪詛を紡いだ。
どうしてこう、ちょっとした不具合でいちいち死にかけなくてはいけないのか。まるで意味がわからない。
ナルトが助かったのは偏に、九喇嘛が守ってくれたおかげだ。
そう、あの九喇嘛が、だ。
【……前を見ろ】
ナルトが何かを想うよりも早く、九喇嘛が足早にそう告げた。
現実世界の自分は、まったく動いてはいなかったようだが、しかしどうやら現実の時間の方は止まってはくれていなかったようだ。
気が付くとナルトのすぐ近くまで我愛羅が迫ってきていた。
あと数歩で手を伸ばせば触れられそうな距離だ。
尋常ではないその表情にナルトはハッとなったが、やや遅かった。
我愛羅が足を踏み出して、そして遮るように人影がナルトと我愛羅の間に立ちふさがった。
その背の主はサスケ、ではなかった。
ナルトよりも少しだけ上背のある、白と黒の忍装束の、長い黒髪の男だ。
こちらの人物も、ナルトは良く知っていた。
「どけ」
「そうもいかないな」
「────何故、庇う」
「……別に、庇ったつもりもないが」
緊張した様子もなくそう返すと、その男は掌を我愛羅に向けた。
進むな、という意味ではない。
進むなら容赦しない、という意味の、戦うための構えだ。この構えのことも、ナルトは嫌になるほどよく知っていた。
「木の葉隠れの里の内部で、これ以上他国の忍に我が物顔で好き勝手されるわけにはいかないんだよ」
「………………」
そう言って、木の葉隠れの名門である日向一族に生まれた希代の天才日向ネジが、我愛羅の前に立ちはだかっていた。
我愛羅といえど有象無象のように無視できる相手ではない。
どうしてネジがここにいるのか、とナルトは疑問を覚えたが、すぐに察した。
ナルトの意識が半ば飛んでいた間に、我愛羅の様子が急変していた。おそらく少しの間とはいえチャクラが繋がっていたせいだろう。尾獣という概念は知らなくても、ナルトと我愛羅の中にある存在がとても良く似た何かであるということだけには気が付いてしまっているようだった。
面倒なことになったな、とナルトは内心で頭を抱えた。ただでさえ余計なミッションが多い中忍選抜試験だというのに、更にややこしい問題が一個余計に生えてきた。
他の誰かに執着されるよりは自分を狙ってくれる方がましではあるのだが、しかし正直、九尾の力を使えない以上は、我愛羅の存在は今のナルトでは手に余る。
そして、なにより今の状況はあまり良くない。
ナルトは、この場所に続々と無数の忍の気配が集結しつつあることに気が付いていた。
今日は中忍試験の前日だ。
故に、明日この試験を受験する下忍たちが次の日に備えて、任務や修行に行くこともなく精神を研ぎ澄ましながら、静かに英気を養っていたはずなのだ。
そこに、我愛羅のあまりに強大なチャクラと存在感が撒き散らされれば、さて一体どういうことが起こるだろうか。
そんなものは火を見るよりも明らかだ。
明日中忍選抜試験を受けるであろう各国の下忍たちが、吸い寄せられるようにこの場に集まってくるに決まっていた。
我愛羅とナルトを中心にして。
建物の屋根を見上げれば、幾つもの視線が矢のように降り注いできた。
その中には、見知った顔も幾つか見られた。
その端の方にキバの姿も見つけたが、視線が合うと同時に建物の影に隠れた。
大蛇丸の化けている草隠れの忍の姿は見当たらない。まぁ、それを探し過ぎて逆に気取られてしまう方が拙かろう。それに仮に見つけたところで、ナルトにできることはなにもない。
シカマルやいのもそこで周りの気配に気が付いたのか、焦ったような声を上げた。
「中忍試験を前に、この衆人環視の中で己の手札を明かすつもりか」
それでもオレは構わないが、と言わんばかりの強者の自信に満ちた声。
「が、我愛羅。これ以上は流石に……」
金髪の、確かテマリという名の少女が上ずった声で呟いた。
「──何故、そいつをお前が庇う?」
我愛羅は心底理解できないといった風情で、再びそう呟いた。
「?」
ネジは質問の意味がよくわからないといった様子でわずかに首を傾げた。他の誰もが我愛羅が状況を理解できていないとでも思ったかもしれない。
けれどナルトには我愛羅が言っていることの内容が、よくわかった。
我愛羅は『何故この化け物を庇うのか』と訊いているのだ。
それは我愛羅の常識では考えられないことだから。
「まさか、お前は、──いや『お前たち』は、その背に庇っているモノがなんなのかを、まったく知らされていないのか?」
「────どういう意味だ」
「……………………」
我愛羅は答えなかった。
ただ、その瞳には理性的な色が戻りつつあるのが見えた。
顎に手を当てて少し考えるように視線を反らした。
「…………」
そうして、少し思案してから、なにかを理解したかのように小さく哂いを溢した。
「………………クク」
ナルトに視線を向けると、愉しそうに目を見開いて嘲笑うように口を歪めた。
「…………なんだお前。化け物のくせに、まさかまだ人間のフリなんか続けているのか?」
ナルトは、その言葉を聞いた周囲の忍の視線が自分に集まったように感じた。他国の忍ばかりではなく、木の葉の仲間の視線も含めて。
「────」
「取り繕うなよ。何の為にオレ達がこんなモノを背負わされていると思っている? この身に宿った力を振るうことだけが、憎悪と呪いに苛まれながら生き地獄を歩まねばならないオレ達にとっての唯一の楽しみのはずだろう」
自身の言葉に一切の疑いを感じていない確信に満ちた口調だった。
【人柱力としては中々まともな奴だな】
九喇嘛は同調と揶揄が籠った声でそう言った。
「………………オレは」
我愛羅の言葉にナルトは反感を覚えた。
けれど即座に反論はできなかった。
我愛羅の言葉にどこかで理解できてしまう部分があるからだ。
ナルト自身も、様々な意味で九喇嘛の存在に苦しみながらも、その代償として、九喇嘛を都合の良いドーピングの道具として利用してきたのは事実だ。楽しいかどうかはともかくとして、そうしてきたことは間違いない。
必要に迫られたからそうしてきたのであって、人柱力であることの当然の対価だと割り切ることもできることだと思う。けれど、ナルトはそう考えることに心のどこかで欺瞞を感じ始めていた。
九喇嘛を自身の身体に封印していることは、まだ誰にも話していないことだ。
殊更に吹聴することではないのは確かだけれど、しかしそれだけが理由ではないことは自分が一番理解している。
どこかで後ろめたく、隠しておきたいという気持ちがあったのだ。
里の大人達から憎まれたり避けられたりすることにはもう慣れたけれど、だが一度親しくなった相手から忌避されることは、とても怖い。
ナルトは、九喇嘛と理解し合いたい。それは事実だ。
けれど、そこにどんな事情があったにせよ、九喇嘛が里の人間を大勢虐殺したこともまた変えることのできない過去なのだ。
彼らに九喇嘛を憎むなとは、言えない。
我愛羅は人柱力であることは呪いだと言った。
ナルトは、それを完全には否定することはできない。少なくとも、まだ。
だからこそ、自身の存在を隠すことなく堂々と誇示している我愛羅に対して引け目を感じてしまった。
その在り方を正しいとは思わないけれど、しかし我愛羅に迷いはなく、うずまきナルトにはまだ確信というものはない。
だからこそ、言う。
「…………オレは、呪いだとは思わない」
【……………………】
確信はないけれど、虚勢だけれど、在りたいように、目指す存在に少しでも近づけるように、そう振る舞ってみせる。
そうすると、もう決めたからだ。
呪いではないなら一体なんなのだ、と聞かれたら、まだ納得のいく答えは返せないのだけれども。
「オレとお前は、同じじゃない」
尾獣の存在も、自分が人柱力であることも、まだナルトの中では完結してはいない。
だからこそ安易な答えに飛びつきたくはなかった。
我愛羅の気配が、ザワリと蠢いた。
ナルトは身構えた。
「…………………………いいや、同じだ」
そう呟くと我愛羅は、意外なことにチャクラの圧を収めてみせた。表情を消して、寒気のするほど静かな視線で周囲を見渡した後、ナルトを見つめ返した。
「お前も、すぐに思い知る」
決して大きな声ではない、しかし強い言葉を残して、我愛羅はナルトに背を向けて去っていく。
二人の砂の忍を連れて。
慌ててついていく二人の忍を視界に入れたとき、ナルトはふと違和感を覚えた。
「────?」
確か、そいつはカンクロウ、というような名の砂の忍だった。
彼の背負っているミイラのように包帯が巻いてあるあの荷物。あれの中身は傀儡と呼ばれるカラクリ人形、だったはず。
けれど、前のときに見たときは彼の背負っていたそれは一つだった。
今は、どういうことかその背に、二つ背負っている。
重要なことかどうかはわからないが、一応、ナルトは頭の片隅に入れておくことにした。
「…………去ったか」
くるり、とネジが振り返った。
その特異な白の瞳が、探るような視線でナルトを見下ろした。
こいつはこいつでやっかいなんだよな、とナルトは顔に出さないようにしつつ、内心で汗をかいた。
──つーか、やっかいな奴しかいねぇ…………。
カブト、我愛羅、ネジ、さらにこの後に控えている大蛇丸に至ってはまだ姿すら見ていないのに、すでにこの現状だ。
息のつく暇もないとはまさにこのことだろう。
なんなら例えの方がやや役者不足感すらある。
そう思いながら、首筋に髪の当たる感触が妙に気になり、半ば無意識に触れてみて、そこでその理由に思い至った。
何時の間にか髪留めが外れてしまっている。
「やべ、髪留め、──―」
と振り返って、自身に降り注ぐ視線に直面した。
困惑、戸惑い、────そして恐れ。
怒りと憎しみが含まれてはないけれど、それを除けばよく見知った視線だ。
ナルトは思わず、言葉を切った。
いまさら、この手の視線に動揺するとは思わなかった。
ぐい、とナルトの肩を誰かかが抑えた。
「──サクラ」
「…………ホラ、髪留め落としてたわよ」
そう言って自然な動作でいつものようにナルトの髪を結ってくれた。
「…………あ、ありがとう」
「なんか、かなり面倒臭そうな奴に目付けられちまったなお前」
シカマルとチョウジが周りを窺うようにしながらナルトの傍に歩いてきた。
「あんな奴が中忍試験受けるならボク、やっぱり止めておこうかな……」
「割とマジでそれな。──で、お前はどうすんだよ、ナルト」
「オレは、……受けるってばよ」
「マジかよ」
本気で驚いたような表情でシカマルは呻いた。
「………………」
やや離れた場所でこちらを見ていた、いのも、一度息を吐くと、ゆっくりとこちらに歩み寄って来た。
流石に表情はどこか硬い。
「あ、あはは、私も、なんか急展開すぎてびっくりしちゃった」
後頭部に手をやって落ち着きなく、乾いた笑いを浮かべた。
「試験については置いといても、なんにせよあのヤバそうな奴には関わらない方が良さそうね。普通じゃないわよ、アイツ」
思い出したように肩を震わせながらいのは声を潜めた。明らかにナルトの方に視線を向けないようにしながら。
「……………………」
「ナルト、────そうか、お前がリーが最近、夢中になっている女か」
奇妙に空いた間に、ネジの独白が響いた。なんとなく全員がそちらの方に意識を向けた。
「あ、あのナルトを庇って下さってありがとうございます」
ネジを背格好からか、年上と判断したらしいサクラが丁寧に感謝を述べた。
「言っただろ。別に庇ったわけじゃない。成り行きだ」
つっけんどんな、謙遜などではなく本当に本心から言っている口調だった。実際、ネジの性格を知っているナルトはそれが事実であることがわかる。本当に他国の忍が好き勝手やっているのが我慢ならなかっただけなのだろう。
「ただ、お前たちのことはオレの『担当上忍』からもよく聞かされていた。少しは期待………………していたんだがな」
そう言ってから、ネジはナルト達の後方へ視線を向けた。
そこには、不自然なまでに黙りこくっていたサスケが立っていた。
「まさかあのうちはの末裔が、女の後ろで怯えて突っ立っているだけだとは思わなかった」
「…………なんだと」
何故そこでサスケに喧嘩を売るんだ。
ナルトは本気で迷惑に思いながら内心で突っ込んだ。
一旦は収まり掛けていた場の空気がまた張りつめてきた。
どうしてか、何時になく余裕のない表情でサスケはネジを睨んだ。
「先輩として忠告してやるが、力不足だと理解できたなら今年中忍試験を受けるなんて真似は止めておくことだ。そのザマでは、無駄に命を落とすだけだ」
「てめぇ……」
「いやいやいや」
隣で立っていたカブトが割り込みながら、両手を振った。
「そこまでにしときなよ。今すごく目立ってるみたいだし、これ以上騒ぐと治安部隊が出てきかねない。そうなったら明日の中忍試験を受けることもできないかもしれないよ」
ネジとサスケにだけでなく、周りにも聞こえる声量でそう告げる。
ナルト達の動向を探っていた周囲の忍たちもそれを聞いて、疎らに元いた場所へと戻って行き始めた。
カブトはそれを横目に眺めながら、ホッと息を吐いている。
それを視界の端で捕らえながら、頼むからこっちを向くな、とナルトは思ったが、それに反してカブトはにこやかな笑顔でナルトの方を見た。
「いやー、キミも災難だったね。ナルトさん、だったよね?」
「……………………………………ああ、そうだってばよ」
感情を押し殺して、ナルトは答えた。
「ボクの名前は薬師カブト。よろしく」
そう言うと、右手を差し出してきた。
不意に思い出すのは、その手によって綱手やシズネをぼろぼろに追い詰め、そして自分を本気で殺そうとしてきた、この男の姿だった。
──まだだ。まだそのときじゃない。
ナルトは固まった表情筋を無理やり動かして笑みを作ると、怒りで震えそうになる手を必死に制御しながらカブトの手を握り返した。
「……………………よろしく」
「………………うん。よろしく」
カブトは嬉しそうにニコリ、と人当たりのいいお人好しな笑みを浮かべた。