結界が崩壊し、少し時間が経った頃。
カカシと再不斬は、『それ』をほとんど同時に感じとっていた。結界の均衡が崩れていく前の、漣のような、わずかな前兆。二人の歴戦の忍びの、命懸けの戦いで研ぎ澄まされた感覚が、それが間違いではないことを告げていた。
一度目の戦いの結末によく似ている。
故にお互いの動揺は薄かった。
意外じゃなかったわけではない。三人の力を合わせて乗り切れとは言ったが、まさか乗り切るどころかあの状態をひっくり返して敵を打ち倒してしまうとは。
何があったのか、どんな経緯でこの結果に導かれたのか、カカシにはまったく伺いしれない。
どうしてこう、あの少女はいつも想像の範疇に収まってくれていないのか。カカシは安堵と、呆れを、僅かな空恐ろしさと共に覚えた。だがその内心の結びの言葉は当然、決まっている。
『よくやった三人とも』、だ。
「……あぁ。敗けたかあいつは」
再不斬は誰に言うでもなく、呟いた。
厳密に考えるならば、そう決めつけるのはまだ早計だろう。今わかっているのは結界が壊れたという事実だけだ。戦いの勝敗が確定したと判断するのは、まだ早い。
だが、再不斬はそれを否定した。
そこには甘えた希望を許さない、忍びとしての厳しさがあった。
あるいは信頼か。白という少年が、戦う力を残していながら結界を解いてしまうような失態を犯すはずがない、と。
いずれにせよ、互いに手札を出し尽くし、そして結果は返ってきた。
二人の忍びは、それをただそれぞれの結論で受け止めたのだった。
「まあ、──しょうがねえな。あの小娘が白を上回った。ただそれだけのことだ」
「……思ったよりも寛大な言葉だな」
「白はまさしく道具そのものなんだよ。何時いかなる時でも揺れることなく冷徹に、実力のすべてを発揮できる。そういう風にオレが仕込んだ。だからこそ運が悪かったとか実力を発揮できなかったとかいう言い訳は挟む余地がねえ」
「……あの子の安否は気にならないのか?」
「二度、機会は与えた。それでも役にも立てねえ道具なんぞに興味はねえよ」
「…………」
「テメエの左目と同じようなもんだ。自分には無い血継限界という力を持っていた稀有な道具だった。だから欲し、手に入れた。ただそれだけだ」
「そうか」
「だから、しょうがねえ。テメエを殺した後で、白とやり合って消耗したあのガキどもを殺しに行く。それですべて──」
「再不斬、もう黙れ」
再不斬の言葉は、忍びの価値観としては正しい。だが、そうだったとしても、その語り様は酷く目障りだった。
自分の部下を道具と言い切り、そしてカカシの写輪眼もそれに等しく侮辱した。
左目の写輪眼は、カカシの誇りだ。自分自身を如何ほど貶されたところで、この左目へのたった一つの嘲りに勝ることなどない。
そして写輪眼と共に託された『言葉』もまた、カカシのもっとも深い所に根付く信念となった。
意図していなかったとしても、再不斬はカカシの誇りを嘲り、カカシの信念を吐き捨てた。
だがそんなことを目の前の男に伝えるつもりなどない。
ただ、また一つ、相手に容赦する理由がなくなった。
どのみち、この男は野放しにして置くのは危険すぎる。
カカシやナルトたちはもちろん、この波の国の人々にとっても。
生かしておく理由はなく、そして生かしてやるつもりもない。
カカシは殺意を留めるのを止めた。ナルトたちの状況が分かった今、もはやカカシを縛る条件はなにもない。全力で目の前の敵を仕留めにいける。
「もうお前の長話は聞き飽きた」
「…………ふん」
再不斬はカカシの殺気を受けて少し目を見開いたが、それだけだった。ただ、頬を歪めて嘲るように嗤った。
「そのザマでよくそれだけの口を叩けたもんだ」
己の勝利を半ば確信した、余裕。
そしてそれは決して侮りなどではない正当な理由があった。
人質の無事が確認できるまで戦いを長引かせるカカシの目論見は成功した。しかしそれには当然、上忍一人相手に時間稼ぎをするための対価を支払った。
体力、精神力、そして術。
写輪眼の連続使用による体の異変。本来の持ち主に非ざる肉体への負荷はすでに精神で無視できる範疇を超えている。
加えて、対霧隠れの忍び用の術でもあった忍犬の口寄せは既に見せてしまった。
最後の切り札だけは未だ切っていない。だが、こと、この戦闘に於いての客観的な有利不利は明らかだ。
違いがあるとすれば、先ほどまでと比べて条件が一つ変わっている。
「ふっ!」
「オォッ!」
カカシが踏み込み、そして再不斬が迎え撃った。
消耗を感じさせない鋭い踏み込みが、再不斬の大刀の領域を大きく侵した。だが、再不斬の斬撃の速度は、さらにそれを上回る。初動で遅れたはずの大刀が、カカシがクナイの間合いに入るよりも早く振り切られる。異常な剣速。初太刀を、身を捻って躱す。二撃目の間髪入れない横薙ぎを、溜まらず下がって躱す。容易に、間合いを突き放される。三撃目の振り下ろしは、躱せずに両手のクナイで受け流す。しかし大刀の重さを全ては流しきれず体が沈み、片膝が突く。
重い衝撃で濁る視界の端で、再不斬の横薙ぎが迫るのが見えた。
カカシの胴体を消し飛ばす幻影。当たれば、現実になるだろう。
その斬撃に加速が乗る瞬間の、刹那の前。カカシは両手のクナイを投擲した。
狙いは首の動脈と胴体。同時にカカシは一瞬、完全に無防備になる。再不斬と視線を交わす。驚愕、動揺、怒り。それに対し、カカシは覚悟を持って返した。目まぐるしい感情が一瞬で流れる。先ほどまではやれなかった命の駆け引き。大刀が、遮る武器がなくなったカカシの横腹に迫る。
互いの脳裏に無数の選択肢が次々に雷鳴の如く走り抜けて消える。
再不斬は一瞬の躊躇いの後、加速が乗ってしまった大刀を強引に引き戻しクナイを受けた。
カカシは当然、その隙を逃さなかった。
地を抉る勢いで前に飛び込む。再不斬の間合いを密着することで完全に潰し、左手で大刀を押さえ、鳩尾を右拳で抉り、下がってきた顎を掌底でかちあげる。血反吐が巻き上がった。逃がさない。さらに詰める。再不斬の反撃の左拳の裏拳を後頭部を掠めながら屈んで躱し、カウンターで顔面に一撃。
再不斬がのけ反り、一歩後退する。
そこでようやく再不斬は首切り包丁を手放した。地面に落下する寸前に、再不斬が大刀の峰を蹴り上げる。カカシの手首を切り上げる軌道。追撃の動作が止まり、掴んでいた手を離す。再不斬はすぐには柄を持たずに刀身を掌で一度回す。反動を付け、柄を握り込んだ時には即座に大刀を振れる状態に入る。
「……………………」
血と憎悪に塗れた悪鬼の表情でカカシをねめつけた。
同時にカカシもクナイを取り出し終える。
再不斬が大刀を振るった。霧が割け、遅れて破れた空気が破裂する鈍い音が響く。ギリギリの距離で躱す。躱し切れず、僅かに皮膚が裂けた。カカシの反撃よりも速く、再不斬の大刀が振られる。また辛うじて躱す。もはや再不斬の剣戟の速度にカカシは付いてこれなくなっていた。大刀という巨大な武器を振るう再不斬の方が軽装のカカシよりも速いという異常な光景。
連撃に切れ目などなく、それどころかさらに加速していく。
もはや受け流すのも至難。しかし、カカシはその嵐の中を退こうとはしなかった。ギリギリの距離を保ち、斬撃を紙一重で躱し続ける。再不斬が首切り包丁を振るう度、僅かに身を削られながら、しかし退かない。
隙とも呼べない、小さな間に強引に反撃を捻じ込む。クナイの切っ先が当たるか当たらないかの小さな傷。
それは再不斬にはまるで致命傷には至らない。血が滲み、僅かに垂れる程度。
動きに支障はでない。しかし、カカシは構わずに積み重ねる。
互いに、体中を削り合っていく。
肉を削らせ、肉を削る。
どちらの体力が尽きるか、あるいは集中力が途切れて致命傷を喰らうまで。
「テメェ…………!」
遅れてカカシの狙いに気が付いた再不斬から忌々しそうに悪態が漏れた。
この小さな相討ちを続けた結果に待つ、未来の予想図。
例え、カカシに勝つことが出来たとしても、それで終われるわけではない。そのあとに戦うべき相手も、果たすべき仕事も残っている。
白がまだ健在なら、こんなことにはならなかっただろう。
だが、現実はナルト達が勝利し白は敗北した。
故に再不斬は余力を使い切るような真似はできないはずだ。
無論、カカシはここで死ぬつもりはない。ただ、己の命を、確実性の無い賭け台に、そっと乗せたのだった。
出目の分は五分。
しかし状況は悪くない。
初めて、再不斬の表情に焦りが僅かに浮かんだ。
それを振り払うように、再び、斬撃の嵐が吹き荒れる。一撃一撃が必殺の技術と力が込められた、触れるものを残らず切り刻み、人に当たるならば血霧にすら変えてしまいそうな恐るべき嵐だ。
だが、カカシはそれを悉く躱し続ける。
そこで、ようやく再不斬の斬撃が乱れ始めた。
一つ一つは、僅かな隙だ。しかし、それは歴戦の忍びの拮抗した白兵戦においては大きな差となる。
「ぐぅ……!」
大刀を横に振り切った再不斬の体が、堪えきれずに横に振れる。
横薙ぎを屈んで躱したカカシは完全に一手、上を行った。次の一撃に、再不斬は間に合わない。
そこで、カカシはクナイを振り上げ──―。
放てる状態のはずではない、再不斬の神速の斬撃が割り込んだ。
対写輪眼の、斬撃。
カカシのクナイはすでに加速している。クナイでの受けは間に合わない。
再不斬の表情に、堪えきれない愉悦が浮かぶ。脳裏に走るのは、両断されたカカシの姿か。目尻を歪めて哂うその顔は、笑顔というよりも獣の相貌がたまたま人間の表情に似ていただけの、笑顔とは似て非なる別のナニかといった方がまだ理解出来る、狂喜の相。
悪鬼が口を歪めて嗤う。
必殺の一撃を、カカシの手甲に阻まれるまでは。
カカシの手甲は再不斬の力が大刀に完全に乗り切る位置よりも手前で、それを受け止めていた。
それでも左手の手甲は切り裂かれ地肌を抉る。右の手甲は衝撃で撓む。だが、そこまでだった。
再不斬が驚愕の表情を浮かべた。
──ま、写輪眼『如き』を舐めすぎたな。
声に出さずにカカシは意趣を返した。いくら必殺の一撃だろうと、来るタイミングさえ読めれば、写輪眼に見切れない攻撃など存在しない。
再不斬が晒したのは、振り切るはずだった大刀を不自然な位置で止められた、隙だらけの姿だった。再不斬が思わず押し返そうと腕に力を込めた瞬間をカカシの写輪眼は逃さなかった。あえて力を抜き、逆らわずに受け流してやる。想定していたはずの抵抗がなくなった再不斬は今度こそ本当に大きく身体を揺らめかせた。大刀の先端が、力なく地に付いた。
カカシは左のクナイを手首のスナップで素早く鋭く投擲した。
再不斬は後ろに体勢を大きく崩しながら、顔を逸らして避ける。
同時にもう一本の右腕に残ったクナイを再不斬に向かって切り上げた。地から浮いた足はもはやいかなる迎撃も間に合わない。
首に向かっていったそれを、辛うじて再不斬は右腕で受けた。
肉を抉り、硬い骨に当たる感触。
「があああああああ!!」
再不斬は吠えた。クナイを持つカカシの腕を掴むと、その剛力で無理やり振り払うように投げ飛ばす。鮮血がまき散る。
カカシは受け身も取れずに地面を転がる。
勢いが止まると、手を付き、体を持ち上げる。精彩はない。
身体が鉛のように重かった。
「ぐぅ!」
左目を押さえる。写輪眼から発する鋭い痛みが限界が近いことを告げていた。
距離が離れたのは、むしろカカシにとって都合が良かった。
持久戦に持ち込む素振りは、ただのブラフだった。本命は写輪眼の使用限界ギリギリの短期決戦だ。そしてカカシは賭けに勝った。
額当てを下ろし、写輪眼を隠す。そうした瞬間に、どっと、今までのすべての疲労がその体に伸し掛かってきたようだった。身体を支える腕が、震える。
写輪眼は使えてあと一回。『切り札と併用』して一瞬だけ使えるぐらいか。
だが、それで十分だった。
カカシは残った右目で前を見据えた。
右手を押さえた再不斬が、歯を食いしばり、汗を流しながらカカシを睨んでいた。固く掴んでいたはずの首切り包丁は、地面に投げ出されている。
「あぁ、『借りを返す』、だったか? 悪いな再不斬、これで二度目だ。───そして三度目はない」
「テメェ……!」
再不斬もカカシに欺かれたことを理解したようだ。カカシにまんまと嵌められ、利き腕を潰されたことに。
再不斬は痛みに顏をしかめながら、ゆっくりと左手で再び、大刀を拾い上げる。利き腕を失ってなおその長大な武器に拘るその在り様は、愚直か、あるいは誇り故か。
互いに荒い息を吐きながら、決して相手から視線を逸らさない。
一分。二分。相手の隙を窺いながら己の呼吸を整える。
恐らく。次か、その次の交戦で、どちらかが命を落とす。
この場に誰も居なくてよかったと、内心でカカシは思った。
この戦は旧い時代の忍びの戦いの在り様だ。
鍛えた身体と精神と術、そして血脈に培われたすべてを、ただ敵の命を奪う為だけに使う。
なんとも下らなく馬鹿馬鹿しいことか。
今を生きる忍びには似つかわしくない。似つかわしくあって欲しくない。
今がまだそういう時代の只中で、そしてこの思想がただの理想論であるとわかっていても。やはり、カカシには新しい世代には、こんな死闘が遠い過去になっていて欲しいと、そう思う。
終わらせよう。
状態は、ある程度、整った。
体に力を込める。万全には程遠いが、動く。
「……………………」
「…………」
足先に力を込め、踵を浮かす。
意識が張りつめていく。互いに。
そしてカカシが足を踏み出そうとした、その時。
近くの家屋の屋根に何かが降って来た。
いや、誰かが。
その姿を、その仮面を見た瞬間にカカシは思わず、戦慄した。
まだ僅かに薄霧が残り、十数メートルの距離でも視界が少し通らないがそこに誰かが立っているのは間違いない。
「白、────いや」
再不斬が、言いかけて否定する。
カカシはその全貌を確認できた瞬間、思わず叫んだ。
「ナルト!」
何故か、うずまきナルトが、あの少年の仮面を付けその場に立っていた。
砕けて鮮血に染まったその白い仮面に遮られて、その表情は窺えない。よほど急いで移動したのか、肩で息をしている。
どうして?
カカシの脳裏に浮かんだのはそんな曖昧な疑問だった。それはどうしてこれほど早くやってきたのか、どうして二人は一緒じゃないのか、どうしてその仮面を付けているのか、という複数の問いを合わせたが故の疑問だった。
ナルトはただじっと、二人の方を向いたままただ立っていた。
「…………」
短く、何かを呟いた、ように聞こえた。しかしそれは意味のある形ではカカシの耳に届かなかった。
「───よぉ、再不斬」
ナルトがそう言った時、カカシは思わず耳を疑った。それはナルトらしからぬ、傲岸な響きがはっきりと籠められていたからだ。
そのまま嘲るように、ナルトは吐き捨てた。
「白は、死んだぜ」
受け継がれる卑遁