白は、物心ついた頃に実の父親を殺した。そうナルトに話した。――しかし厳密には逆だ。その記憶こそが、白の始まり。父を殺す前までの記憶は、どこか霧がかかっていて断片的で夢の中のように覚束なかった。平和だったと思う。愛されていたとも思う。
微睡の中でふと思い出すこともある。目を覚ますとほとんど忘れてしまっているけれど、暖かな日だまりのような、朧げな記憶。
自己とは己を守る殻だ。だからこそ、きっと白はそれを必要としないぐらいに、健やかに育てられていた。
白がハッキリと思い出せる最初の記憶は、初めて人を殺した、悍ましくも生々しい感触だった。
鮮明な色の赤。それが白の記憶の始まり。
そこが白という人間の自我の芽生えだ。
それほどあまりにも唐突に、幼かった白は誰かに頼らなくては生きてはいけない幼子でいることを許されなくなってしまった。
故に母親の顔を思い出すことはできないが、父親の最期の表情は脳裏に焼き付いて離れることはない。
血だまりに沈む自分の妻を呆然と見下ろす顔。ふと白の方を見る感情のない顔。悲しみとも怒りとも取れない壮絶な表情でぎらつく刃物を振り上げる姿。
「お前は悪くない。全てお前に流れる血のせいだ」
父はそう言った。
「お前は生きていてはいけない」
父は、白を見てはいなかった。白を通して何か別の大きな物を見ていた。
血だ。母から白へ受け継がれたであろう血継限界という力。それは忍びに非ざる者に取っては災いにしかならない過ぎた力だ。
故に絶やさなくていけない。
白が生まれた村では、そうすることが掟だった。
汚らわしいものを見る目で父は白を見下ろしていた。
白は動けなかった。ただ、ぼんやり父親を、見上げていた。危機であることすら、理解していなかった。――しかし白の体は自分を守った。
刃物が振り下ろされる寸前に地面から湧き出した氷の柱が、父親の首を切り裂いていた。
誰に教わったわけでもなく、それを行ったのが自分だと直感した。
白がただの子供でしかなかったのなら、死んでいたのは白だったはずだ。
結局、死んだのは襲ってきた父親の方だった。
武器を持った大人の男を幼子が容易く殺せるほどの異質な力。なるほど、父は正しかった。
血によって母は死に、血によって父を殺した。
その時、白は、悲しみよりも罪悪感よりも怒りよりもただただ、一つの実感に打ちのめされた。それを言語化できるのはもう少し時間が経ったころだ。けれど、間違いなくその瞬間に、白はそれを理解したのだ。
強張った父の死顔を見下ろしながら悟らざるを得なかった真実。
『白』という存在には何の価値もなく。
自分は、自分の中に流れる血の、その器でしかない存在なのだと。
再不斬に拾われたのもそうだ。白に流れる血の価値が、再不斬にとって有用だったからこそ、白は野垂れ死なずに生かされた。
忍びになり、そして追い忍になったのもそう。
『忍びを殺す忍び』になるだけの才能が白にはあったからだ。
人間を殺す感触は、耐えがたいほど悍ましかった。自分の手を赤く染める度、父のことを思い出した。
だが、白はそれをこなし続けた。
仮面を被り、心を凍らせることですべてを忘れた気になって。
そして白はそれ故に、その時が来ることを覚悟していた。
自分が才能によって人を殺すのならば。
いずれ白自身もまた、己を上回る忍びによって殺されなくてはならないことを。
覚悟していた、はずだった。
なのに、何故自分は、みっともなく殴り合っているのか。チャクラは尽き、武器も術も残っていない。
うずまきナルトは、自分よりも年若く、才能に溢れた忍だ。
初めて会った時から、その力強い瞳に惹かれていた。
けれど、そんな目であまりにも真っすぐに白を見てくる。それが厭わしい。それは白が初めて感じる不快感だった。どんなに術や言葉で揺らしても、決してその目を逸らすことはない。
恐ろしかった。
四代目火影の遺児として生まれ、三代目火影の加護の下に育った、まさしく生まれながらのサラブレット。
猿飛の術は、猿飛に連なる者にのみ伝わる秘伝忍術。螺旋丸は四代目火影が編み出した超高難易度の術だ。どちらも、白の血継限界など足元にも及ばない本当の秘術だ。
そして、それだけの力がありながらその性根は、驕らず、真っすぐで揺るがず、少しも後ろめたいこともない。
この世界に愛された一握りの人間。
まさしく英雄になるべくして生まれた存在だ。
殺される相手として、これほど妥当な相手はいない。
血によって生き、それを超える血によって殺される。皮肉めいて、まるであつらえたように自分に相応しい最期だ。
こんな殴り合いなどする必要はない。今すぐにでも負けを認めて己の命を絶てばいい。そういう存在であるべくして、これまで生きてきたのだから。
そうやって『逃げ出して』しまいたかったのに。
ああ、だけど。
心から響く、衝動を止めることができない。
―――だって、そんなのあんまりじゃないか。
白の血継限界は、白の存在意義そのものだった。
母が殺され、父を殺した力。再不斬に見初められ拾われた理由。
それですら、自分の持っていないものを全て与えられた少女に勝てない。
たった一つ、白が唯一持っているもの。白を呪い、そして生かしてきたこの力ですら、この綺麗な少女に及ばないのなら。
一体自分は何のために存在してきたのか。
英雄の歩く道の路傍の石ころのように、ただ蹴り飛ばされるためだけに存在したとでもいうのか。――こんな感傷など必要ない。理性はそう告げる。しかし仮面を失い、そして朦朧とする意識の中、感情を押しとどめる事ができない。
―――負けたくない。
他の全てが何一つ敵わないとしても、それだけはどうしても負けたくない。
「はははっ!」
ナルトが笑った。
何を笑う。白は憤りを感じた。顔面は腫れ、足はもうフラフラだ。拳を受けて今にも倒れそうになりながらも、楽しそうに笑っている。
意味が分からない。何一つ楽しくなどない。
殴り返され、意識が一瞬飛ぶ。
「来いよ白! オレってばまだまだ全然余裕だっってばよ!」
嘘だ。今にも倒れそうなくせに。
肉体的にはそこまで強い子ではない。
なのに、有利を捨てて真正面から殴り合っている。馬鹿だ。
だけどこの少女がそう言うと不思議と本当にそうなのかもしれないと、思ってしまう。それもまた腹立たしい。
意識が明滅する。
「オレに負けたくないんだろ! なら」
口上が終わる前に意地で殴り返す。
負けたくない。そうだ。その通りだ。
せめて戦いでだけは負けたくない。
―――そうか?
疑問が巡る。
気付いてはいけないことに気が付こうとしている。
それ以上は駄目だ。考えてはいけない。
頭に登った血が心臓に戻らずにぐるぐるとその場で巡っているような気がした。父親の死顔が思い浮かぶ。
父だけではない。次々と今まで殺めてきた人間の最期の顔が走馬灯のように浮かんでは消える。
自分の為に何人殺したと思っている?
今更だ。許されていいはずがない。
「違う……」
「―――違う?」
自分でも何を言っているのか、思考に追いつかない。
この少女があまりに無遠慮に土足で白の内側に入り込むから。意識が朦朧としているから。
ただ、これ以上続けてはいけないことだけはわかる。取り返しのつかないことを口走ろうとしている。
続けてはいけないのに、ナルトはただ真っすぐに白を見ていた。それだけで、留める意思が解けてしまいそうになる。
視線を彷徨わせる。
仮面を探す。だが、見つからない。言葉が止められなくなる。
「本当はそれすらどうだってよかったんだ」
言うな。
「ボクは」
言うな。
言ってどうなる。
許されない。意味がない。ただ後悔するだけだ。
それはわかっているのに。
「……………………ただボクは誰かに言ってほしかった」
誰でもよかった。たった一人だけでよかった。
血や才能の器としてではなく、便利な道具でもなく、ただの白として。
そんなものは関係ないと。
「お前はここにいていいんだって、―――そう誰かに言ってほしかったんだ!!」
ああ、気が付いてしまった。
認めてはいけないことを、認めてしまった。
気力と共になにもかもが抜けていく感覚があった。
心の奥の奥に必死に押し込めて。
誰にも、再不斬にも、自分にすら隠してきたのに。
何という自分勝手な悍ましい願いだ。道具であろうとして、どれだけの人を殺めてきたのか。再不斬を理由にして、仮面を被って。
なのに、縋ってしまった。救われたいなどと、思ってしまったのだ。この少女と話していると、それに手が届きそうな気がしてしまったのだ。
忍びとして道具として生きてきた自分がいたことは、決して消えないのに。
白以外にわかるはずもない言葉だ。
「わかった」
ナルトは何も訊き返さなかった。変わらずに白を真っすぐに見ていた。
「任せろ」
そう短く告げて、容赦なく白を殴り飛ばした。
死にかけた。
意識は飛び飛びで、心なしか奥歯もぐらぐらしている気がする。口の中は血反吐塗れだろう。頭を支える首も、引きつったような痛みを発している。なにがどう痛いというよりも全身が痛い。
今すぐにでも倒れ込んでしまいたい。
「ナルト!」
サクラとサスケが走り寄ってくる。
「サ」
「馬鹿!」
ナルトが何か言うよりも早くサクラによる罵倒が飛んできた。疲労困憊なのか、サクラも今にも倒れそうだが、怒鳴り声にはまだ張りがあった。
「いきなり殴り合いなんかして! 一体どういうつもりだったのよ!」
ごもっともだ。返す言葉もない。
痛々しそうにナルトの顔を見る。
「ああ、こんなに傷だらけになって……」
「ごめん。心配かけた」
「……どんな理由があったかは知らないけど、アンタは忍びだけど一応女の子でもあるのよ。自覚ないの?」
残念だがそれは全くなかった。この傷もどうせ九尾のチャクラで治るからどうでもいいとすら思っている。
「サスケもさんきゅーな」
「……………………」
サスケがサクラを押しとどめてくれたのは横目に見えていた。サスケは背を向けて、白の方に歩いていく。表情は見えない。まさか殺しはしないだろうが、なんとなく不安だ。
目で追っていたが、ただ捕縛するだけのようだ。
「…………サスケ君すごく苛立ってたわよ」
「え?」
「なんでもない」
その場に強制的に座らされる。
呆れたような顔でサクラが血を拭い、消毒をしてくれた。手際がいい。
「はぁ。ま、でもこれでわたし達の仕事は終わったのよね」
作業がひと段落するとサクラは息を吐いた。
疑問ではなく、自分自身に向けて呟いたようだ。
「いや」
「―――いや?」
ナルトの否定に不思議そうに首を傾げた。言葉の意味そのものがよくわからないと言った顔だった。
ナルトは応えずに立ち上がると、目端に映っていたある物に近づいていく。
「まだやることがあるってばよ」
拾い上げる。白が付けていた、頬の辺りが砕けて壊れたお面だ。土汚れを払い、掌でくるくると回して状態を確認する。
一応、まだつけることはできそうだ。
「やることっていったい何よ」
サクラがやや警戒したような声で訊ねた。
お面をかぶったナルトはなんてことないように答えた。
「――――――鬼退治」
ちなみに今回の殴り合いのイメージは酎vs浦飯のナイフエッジデスマッチをちょっと可愛くした感じです。