霧が、潮が引くかのように、ナルトと白を中心にして後退していく。
白のチャクラによって維持されていた結界だからこそ、白にそれができなくなった時点で、この術は消えていく定めにある。
まさか血継限界の使い手が二人もいるなんてことは、ない。
つまり、白とナルトの結界を巡る攻防に関して言えば、既に勝負がついてしまっている。
現在の残存する戦力で比べても、チャクラの激減したであろう白と、同じく消耗してはいるが三対一の数の有利があるナルト達では、圧倒的に後者が有利だ。
理性で考えるならば、これ以上の戦闘は無意味。
合理的な白がそのことをわかっていないはずがない。
だが、白は立ち上がった。チャクラ不足なのだろう。その動きは緩慢で、精彩さの欠片もない。しかし、そうだというのに、武器もなくただ、拳を握りしめてナルトを睨み返していた。
その内に激しい炎を燃やしながらも、同時に白は困惑していた。
それがナルトにはわかった。察したのではない。文字通り、『分かち合って』しまったのだ。
―――なぜボクは立ち上がっている?
流れ込んで来る意思が言葉を伴ってナルトの心を通り抜けていく。白が理性によって導き出される答えに辿り着くよりも早く、ナルトは一歩踏み出した。
自問していたが故にナルトの接近に気が付かなった白が顔を上げたと同時に、ナルトはその頬に拳を振るった。
無抵抗に、白はその拳を受けた。
「がっ」
耐えることができずに崩れ落ちる。その体に宿った意思の炎も同じように揺らぐ。
その炎に向かって、ナルトは焚きつける言葉を探して、投げつける。
「どうした? もう諦めるのか」
「…………………」
「再不斬に、オレ達を止めるように言われたんじゃなかったのか」
「―――っ!!」
白が、蹲りながら拳を握った。内側に宿る炎がどす黒く燃え上がる。
そのとき、ナルトはその直後の白の動きを目で見て予想したわけではなかった。かと言って当てずっぽうで動いたわけでもない。ただそう感知できた、としか表現できない。白がどう動き、どのように拳を振るうのか、それがおぼろげにナルトの意識に浮かび上がった。咄嗟に、その予想通りにナルトは身を躱した。ナルトは白が立ち上がるよりも早く身体を傾け、白が振り返って拳を振るよりも早く地面を蹴った。予想と寸分違わず、白は立ち上がると、振り返ってナルトに向かって拳を振るった。拳は空を切り、白の体が泳ぐ。
白の動きは精彩さに欠け、尚且つ素早くもなかった。目で見ていたとしても、躱すことは容易だ。故にこの異常な感覚について察した者はナルト以外いなかっただろう。
ナルトだけが、この異様な現実を実感していた。
僅かに、恐ろしさを覚える。この術は一体どういう術なのか。
―――じいちゃんは、一体オレに何を教えていたんだ?
今更ながら、そんな疑問が浮かび上がる。
ただ、今は無駄な思考だ。その答えを欲しながらも、ナルトはそれを捨て置いた。
だが突然、ナルトの思わぬところから答えが返ってきた。
【…………それは仙術だ】
―――ンン?
【仙道の術だと言ったのだ】
―――センドーの術ってなんだ?
【…………チッ】
―――おい。
思わぬ所から回答に一瞬戸惑う。問い返すが、答えはなく、九尾の気配も消えてしまった。身勝手なことだ。だが、この状態が『センドー』の『セン術』という術だと呼ぶらしいことだけわかった。あるいは、知らない単語が増えて疑問が二つほど追加されてしまったとも捉えられるが。意味があったかどうかで考えると微妙だ。
しかし、どうしてか、妙に嬉しかった。
―――訳わかんねーことだけ言って黙りやがって。
体をよろめかせながら、白は再び拳を握り、踏み込んだ。ナルトが思考に没頭したのは僅かな時間だったが、それは戦いの最中では随分と悠長な行動だったはずだ。そのうえ疲労しているとはいえ、白は歴戦の忍びだ。だが、ナルトはまるで脅威を感じなかった。
「キミみたいな、キミみたい奴になにが…………!!」
ナルトの感覚はまたしても白の動きを教えてくれていた。どう動くのかも、そしてどう動けばいいのかも。
それは至極簡単な作業で、――そしてナルトはそれに従わなかった。
大ぶりな拳が、ナルトの左頬に迫り、そして乾いた音を立てた。歯を食いしばったが、いい衝撃が響き、ナルトはたたらを踏んだ。
【阿呆】
「っぐぅ」
意識が揺れる。
一瞬あらぬ方角に向いた視線を戻すと、殴った白自身が驚いた顔をしていた。殴っておきながら当たるとは思っていなかったようだ。それを少し可笑しく思いながら、ナルトは殴り返した。
「おらぁ!」
全力で殴ったが、脳が揺れていたせいかあまり腰の入らない一撃になってしまった。殴られ返された白も虚を突かれたようで、踏ん張れずに吹き飛んだ。
口の中を切ったらしい、口の中に血の味が広がった。痛みはなく、鉄の味を感じたことで理解する。いつの間にか混じっていた砂利と共に血の混じった唾を吐き捨てて、口の端に垂れた血を袖で拭い、笑い、九尾に答えを返す。
―――うるせぇ。
白が再び起き上がるのを待つ。
すぐ近くで殺気が巻き上がるのを感知した。しかしそれは、白ではなかった。
目の前から視線を切り、そちらに意識を向ける。
サスケが、その両目を見開いてこちらを凝視している。写輪眼持ちがその目を見開いている姿には、その見た目だけで異様な迫力があった。ナルトはこんな時だったが、思わず少し引いた。
サスケとサクラが困惑していたのは、見ずとも知っていた。その気持ちは良くわかる。しかし、白がナルトを殴った瞬間、サスケの困惑が一気に黒い炎に変化したのだ。その変わり身の早さにナルトは戸惑いを隠せない。サスケの心は、白ほどには見通すことはできない。
怒っている、ということだけがわかった。
この状態は、ナルトの自由自在とはいかない。今、白との繋がりを切ってしまえばもう二度と繋ぎ直せない気がしていた。
「サスケ、大丈夫だ」
短く声を出す。なんとなく、興奮する犬を宥めている時と同じ気分を味わった。
更なる困惑が伝わってくる。しかし、ナルトは自分の行動を変えるつもりはなかった。
サスケは多分、あんな一撃を貰ったナルトに対しても怒っている気がした。サスケとの組手のときは、散々殴り合ったが結局一発しか貰わなかった。そういう細かいところでプライドが高いのがサスケだ。
だが、そこは受け入れてもらうしかない。何故ならこれからもっと殴られる。
「二人とも手出ししないでくれ」
「…………………なんだと」
「頼む」
「お前のそれにどんな意味がある」
「意味はあるってばよ」
「……だったらそれを説明しやがれ」
「サスケ、オレを信じてくれ」
「…………………」
困惑、動揺。その感情の波動を受け取りながら、ナルトはサスケを見つめる。狡い話だが、ナルトにサスケを説得するに足る言葉などなかった。全て行き当たりばったりだ。
これまでの実績という名の偶然の積み重ねを持って、誤解してくれることを期待するだけ。
果たして、渋々とサスケは押し黙った。ひとまずは任せてくれるようだ。
「さんきゅー……」
白が起き上がるのを待つ。内側に燻る火は、随分と小さくなった。しかし、それに反してその色彩は濁っていく。暗く、昏く。
ナルトを見る目は、いまや憎悪に塗れている。
「なん、の、……なんの、つもりですか」
「さぁな」
「いたぶっているつもり、ですか。それともまさか、敵を殺せない、とでも、言うつもりですか」
「…………………………………」
肯定も否定も返さなかったが、白はそれを是、と受け取ったようだ。
「ははは、やはりキミは甘いですね」
明らかな嘲笑。
「それは優しさなんかじゃないですよ。ただ、自分の手を汚す覚悟がないだけです。自分が人を殺したという現実を受け入れたくないだけでしょう。そういう奴は自分の手ででさえなければ、それで満足できてしまう。その後のことなんて考えもしないで。命だけは助けてやろう、などと。……それだけで自分の慈悲深さに酔うことができるんですから」
「…………………」
「気持ちいいですか。圧倒的な強者の立場で相手に慈悲を与えることがそんなにも」
白の言葉そのものも、確かに本音だろう。しかし、それは本音の上辺でしかない。
いまのナルトには、もっと別の物を感じることができた。
――――、『怒れ』。『怯えろ』。『憎め』。『蔑め』。
『諦めろ』。『諦めろ』。『諦めろ』。
言葉という装飾を剥ぎ取られ、剥き出しになった白の感情が波になって、何度も押し寄せる。それは、言葉の意味からは想像できないような、懇願にすら近かった。
白が、ナルトがただ恵まれた人生を送っている奴だと、そう勘違いしていることは知っていた。ナルトが誰からも愛され、才能に恵まれ、不幸を知らず、苦しさを知らず、輝かしい日々を過ごしてきたと。
今更、そんなことを訂正するつもりもない。
そうでなかったところで、ナルトは愛を知っている。
それは白とは違う。
「いまのオレはチャクラが残り少ない」
「…………………?」
「体力も気力も、もうほとんど残ってない」
「何を言ってるんですか?」
「オマケにサービスで今から攻撃も避けないでいてやる。これならお前でも勝てる」
「…………………なにを」
「ごちゃごちゃ負ける言い訳言ってねーでかかってこいよ。男だろ?」
ナルトも、笑って返す。嘲笑ではない。ただ楽しそうに笑ってやる。それが最大の挑発になることを知っていながら。
「―――それとも怖いのか?」
自信に溢れ、大胆不敵に。……そういう演技をする。絶対に、諦めなどしないと、言外に告げてやる。
言葉の上では、まるで繋がっていない、ピント外れの言葉のように見えても、白にだけはそれが解かったはずだ。
自分の在り方は、それだけは絶対に諦めないと、そう決めたのだから。
自分の言葉を真っすぐに曲げない。
そういう風に在ると。
「何故、何故、そんな」
「決まってる。そうしたいからだ」
「ふざ、けるな」
ふざけてなどいない。大まじめだ。
「ふざけるなふざけるなふざけるな」
言葉のやり取りで、土台、ナルトが白に勝てるはずもない。だからこそ、自分の土俵に引っ張り込んだのだ。
これは言葉の戦いではない。結局どこまでいっても感情の勝負だ。
白の端正な顔が歪んだ。まるで眩しさに目を細めるように。
「そんなことに意味などあるものか」
ならばこれから証明していくだけだ。
白の憎悪がこれ以上ないほど、激しく強く燃え盛っていく。
拳を握る。フラつく体で、白に近づいていく。
間合いに入ったとき、白は躊躇なく拳を振った。
それは、まるで振り払うかのような、怯えた動きだった。
ナルトはそれを、全てわかった上で、受け止めた。
逆に殴り返す。
意識が揺れる。視界が滲み、黒く染まる。だが、白も同じだ。
白は悲鳴のような声で叫び、再び殴りかかってくる。ガツンと頭に響く一撃。またしても意識が飛びかける。
一つわかったことがある。
殴り返しながら、ナルトは実感した。
―――ヤバイ、この体、前より打たれ弱い。