今のところ、影分身はまだ一体も倒されていない。それと同時に、未だカカシたちと連絡できたという情報も伝わってこない。膠着している、と見るべきだ。
どうしても心配はしてしまう。イナリの手前、顔には出せないが。
開けた場所に出る。お世辞にも新しいとは言えない古びた木造の一階建てが立ち並ぶ中、他の家よりも一回りは大きい屋敷が見えた。突出して広大なわけではなく、見た感じではイナリの家と同程度だが、周囲はよく掃除されている。
ここが、町長の家だろうか。
「ギイチのおじちゃん!」
「イナリ!」
家の前に立っていた初老の痩せた男に、イナリが駆け寄っていく。ナルトも後を追う。
「この霧の中をひとりで町まで来たのか? タズナは一緒じゃないのか?」
「ひとりじゃないよ、ナルトの姉ちゃんも一緒」
「………アンタは確か、タズナが雇った木の葉の忍び、だったか?」
「どうもー」
「こんな子供が……、いや、忍びに歳は関係がないというが。……なんにせよ、イナリ、今はあまり出歩かない方がいい。早く家に戻れ。この霧はどうにもおかしい。今日は漁にもいかんつもりじゃ」
両肩を震わせながら、ギイチはぼやいた。ぶっきらぼうな口調だが、声音は優しい。悪い人ではなさそうだ。
ナルトは端的に、事の状況を説明した。この霧が敵の忍びの攻撃であること。タズナが今、襲われていること。
ギイチは、目を見開くと、大きく身震いをした。
「………………………………そうか」
なにかを察したように、ギイチの表情はさっと抜け落ちた。下におろした視線をナルトに向けたときには、瞳に暗い色が現れていた。
「で、ワシになにをさせるつもりだ」
それは、赤の他人であるナルトでも、はっきりとわかる恐れと拒絶の感情が含まれていた。
―――これ、大丈夫か?
ナルトは、そう危惧した。
「じいちゃんと一緒に戦ってほしいんだ! 今がガトーに勝つ最後のチャンスなんだよ!」
イナリはそれに、気付いているのかいないのか、ただ必死な声でそう叫ぶ。ギイチの顔には同情が色濃く浮かんだ。しかし、その拒絶の色は消えない。
「すまん、イナリ。ワシらはもう戦うことを諦めたんじゃ。…………戦いさえしなければ、命を取られることはない」
「戦わなければ勝てないじゃないかっ」
「イナリ、わかったようなことを言うな………。ワシらにも大事な者がおる。それをもう失いたくない。イナリ、お前だってそうだ」
「じゃあ、じいちゃんは? じいちゃんは今、命懸けで、この国のために戦ってるのに」
「そ、それは……」
イナリは緊張した様子で、ギイチを見つめた。真っすぐな視線。二人に流れる雰囲気は、けして心地よいものではなさそうだ。
ナルトは居心地の悪さを覚えながら、やや後ろで見守る。
ギイチは動かない。小さく「スマン………」と呟いただけ。
それは、タズナを見捨てるという意味にも、ナルトには聞こえた。
イナリは動揺しなかった。
「ボクは、行くよ」
ただ静かにそう告げると、ナルトを振り返った。ギイチの視線は、まだ下を向いたままだ。
イナリは、真っすぐに背を向けて歩いていく。
「…………イナリ」
「いいんだ、ダメならしょうがないよ」
イナリがそう言うなら、ナルトに是非はない。だが、一応、言うべきことを言っておく。
「これからオレたちはこの霧のことと、タズナのじいちゃんのことを町の人たちに伝えていくつもりだ。あんたがどうするかは聞かない。霧が晴れたとき、もしその気があるなら、橋にいるタズナのじいちゃんの所に向かってくれってばよ」
「……………………………」
ギイチは応えなかった。霧の中をただ立ち尽くしている。
ナルトは視線を切ると、イナリに続く。
情けない、とは思わない。
できれば、町の人たちに伝える役目も頼むつもりだったのだが。駄目元で頼んでみるべきだっただろうか。そう考えたが、動く気があるならナルトが言わなくても自分からそうするだろうし、ないなら言ったところで動くはずもない。
「あれで、良かったのか?」
「―――わかんないよ」
イナリは困ったように笑いながら自信なさげに言った。
「でもむりやりにはできない、でしょ?」
「そりゃな」
「父ちゃんなら、こうすると思うから」
もっと、魔法みたいななにかがあると少し思っていた。いや、それはナルトの勝手な想像だ。
とにもかくにも、イナリは腹を括っている。それだけはわかった。
どのみち時間はかけられない。止まることなく次へ進もう。
―――、一体、何をしている?
白は、白色の正方形の部屋の中心で困惑した。
ナルトへの監視は未だ途切れていない。声こそ聞こえないものの、その眼は確かにナルトを捉え続けている。
『この距離』では分身を使って接触するのは不可能だ。正確にはできなくもないが、精度は随分と落ちる。
声は聞こえずとも、戦術上においてどう行動するかは、動きを見れば大体の予測が付く。そのはずだった。
強引に包囲を突破する。
迂回して、包囲の隙間を突く。
結界の起点を探し、それを破壊しようとする。
ナルトが取る行動は、大まかに分ければ、この三つに分類できるはずだ。そう白は断定していた。
しかし、ここにきて、ナルトの意図が読めない。
戦いにおいて不確定要素は常に付きまとう。それは、白にとってもそうだ。意外な一手というのは、そう珍しいことでもない。しかし、とはいえ、忍びの戦いはある程度、定型化した戦術上の駆け引きというものが存在する。それは予想外であるだけで、指されれば、その意図は理解できる。
しかし、これは違う。
―――、一体、何をしているのか?
それが判らない。判断が付かない。
町の人間の家を一軒一軒尋ねていくナルトとイナリの行動がこの先どのような意味を持つのかが、理解できない。
声を聞けばなにか判断できるかもしれないが、そうするにはもう少し近くにいる必要がある。
そうすれば、ナルトの分身を留めきれなくなるだろう。
ただのブラフか?
白という存在を縛り付けておくための行動なのか?
そう決めつけてしまうことは、それを外したときに、致命的な間違いとなってしまいうる。
そして、ナルトはこれまでの行動、そのすべてに確かに意図があったという事実。
今は白が望んでいるはずの膠着状態にある。しかし、熟練した忍びである白にとって、まったく『読めない』ということは酷く不気味に思えた。
要するにこれは死角からの一撃だ。
この霧の戦場をまるで盤上のように俯瞰できるはずの自分がまったく想像できない手。まるで盤面を挟んでもう一人の打ち手が実体を持って目の前にいるかのような気さえする。
あの月夜で会ったときのように、真っすぐにこちらを見据えて。
……………手は止めることなく打ち続けなければいけない。だが生半な一手では駄目だ。
相手の一手が読めないなら、より強力な手を打ち、盤面を盤石にしていかなくてはいけない。
その手は当然、用意してあった。
相手の死角を突くのは、敵の専売特許ではない。元追い忍である白が、もっともよく慣れ親しんできた作業だ。
白は、ナルトの監視から一時的に、視界を『切り替える』。
橋付近、そろそろ到着しているだろう。
―――居た。
ターゲットと、その護衛達だ。
白の視線はその中の一人に留まった。緊張した様子の桃色の髪の少女。あの
―――キミの死角だ。
橋に着いたのか、それとも誘導されたのか。
どっちの思惑も重なった、と見るべきか。
カカシは、橋の入り口に立つと、土を払って、隠していた結界を起動する。黒い文字が、地面をのたうつ蛇のように広がっていき、赤い光を放った。
『霧払いの結界』
周囲の霧を吸い込み、また、掻き消す結界だ。
『霧』と書かれた文字を中心に、ゆっくりと霧が薄まっていく。
しかし消滅は、しない。薄まったものの、依然として霧は無くなることはなく辺りを漂っている。
―――ま、普通の霧ではないからな。
効果は半々と言ったところか。だが、肌寒さは大分、和らいだ。視界も先ほどのように数メートル先も見えないほどではない。これなら、十分に戦える。
同時に発煙弾を上げ、ナルトに居場所を知らせておく。
白が襲い掛かってこないことを見るに、まだ足止めを喰らっている可能性が高い。合流は難しそうだと判断する。
悪い等価交換ではない。再不斬がもしこちらを無視してナルトを狙った場合、依頼人はこのまま一旦海外に逃げることになるだろう。つまり敵の任務達成は著しく困難になる。もちろん、カカシがそれを実行するかどうかはまた別の話だ。
相手は可能性がある以上は、カカシたちを追いかけざるをえない。
班員と護衛対象の様子をそれぞれ確認する。タズナとツナミは、息を荒げてはいるものの、比較的落ち着いて見えた。イナリの心配はしているが、ナルトが付いていることを知ってはいるので、取り乱すほどではないようだ。―――いや、そういうふうに協力してくれている、そう考えるべきだろう。
結界の中心に来てもらい、それらの周囲をサスケに任せることにする。
ある程度の負担を任せられる、カカシはサスケの実力をそう評価していた。
ここまでの道中の活躍を鑑みれば、その判断は十分に信頼するに値する。サスケが護衛において大きく貢献してくれたおかげで、カカシはチャクラの温存に努めることができた。
再不斬にとってもやや予想外だろう。戦局は敵の圧倒的優位から、また五分の位置にまで押し戻しつつある。
それはサスケの急激な成長を、相手が想定できなかったという点がもっとも大きい。
―――ま、それはこっちもそうだけどね…。
正直、サスケの成長がここまで重要な要素になるとは予想できなかった。
ナルトはこうなることを知っていたのか?
否、そもそももっと根本的な疑問がある。なぜうちは一族秘伝であるはずの写輪眼の開眼要素を知っていたのか。
カカシはあの夜問い詰めなかった自分の判断が間違っていたとは思わない。忍びは他者に言えないこともある。
とはいえやはり、ナルトには謎が多い。
今は、とりあえず感謝しよう。疑問の解消はこの任務の後でいい。
正面から感じる、禍々しい殺気を前に、カカシは集中することにした。
「……ここに来るまでに何人かは削れると踏んでいたんだがな」
気配から遠ざけるために、護衛対象を背後に庇う。ゆっくりと歩み寄ってくる影が、薄白い霧の壁を通して、段々と色濃くなっていく。
鋭い切っ先が空間を絶ち、霧が二つに別たれる。それは、留まることなく広がり、空間となり、道となる。
薄霧を纏って、再不斬が姿を現した。見た目にはもう負傷した様子は見られない、万全の状態だ。
ブラフではない。内に充溢したチャクラが、この距離からでもハッキリと感じ取れる。
一歩。肩に大刀を背負った再不斬が歩みを進めた。
忍びの戦において、距離とは大きな意味を持つ。この位置はもう、クナイが最大威力で届く、中距離戦の間合い。瞬き一つで、致命傷になりかねない。
再不斬は意に介した様子もなく、その死線を越えていく。
一歩。…………また、一歩。
ジジッ。カカシの足元の小石が、微かに震えた。あのとき、―――船での一戦のときのように、いや、さらに増した圧力が周囲に撒き散らされる。
ビリビリと肌がヒリつく。
カカシは目を細めた。再不斬は、頬を歪めて、嗤った。
―――。
近距離。歩幅。僅か、数歩分の距離。生と死の、彼岸の間合い。
「数日前までは狩るまでもなかったはずの雑魚が、あっという間に鋭い牙を持つ。………本来、白の読みが外れるなんてことは、そう何度も起こるもんじゃない。いや、読みを外したのか、それともあるいは―――読み負けたのか」
「何が言いたい? ……降伏でもしているつもりか?」
「素直に称賛しているだけだ。今この時代に写輪眼の使い手に出くわすことなんてもうないだろう。それも二人も、だ」
「…………首尾よくいかなかったにしては、随分と機嫌が良さそうだな」
「ハッハ。実際、この構図を描いた奴が存在しようがしまいが、どっちだろうと構いはしねぇ。てめぇには右腕に風穴開けられた借りがあるんでな、サックリ死なれたら興醒めもいいところだった」
「…………怨みを晴らしたいということか」
「怨みはしない、が、借りはキッカリ返すモンだ。……ただ生憎、オレの刀は大刀。
「似たようなことを言う敵は五万といたが、それを達成出来た奴はいなかったよ、ま! 俺相手の場合はな」…………もっとも『味方で』なら知っているが。カカシはそれは告げずに胸に秘めた。
「………ふ」
再不斬が手を横に振った。同時に、サスケたちの方へ敵の気配が移動する。カカシの写輪眼は、霧の中では微かにしか見えない影を、ハッキリと捉えていた。
再不斬の部下だろう。今のサスケなら、十分に対処できる敵だ。
口上は終わった。
再不斬は肩に背負った刀を両腕で握りなおすと、腰を落とす。体の後ろで刀が地面と水平となる。
下手な受け方では、大刀の破壊力を受け止めることはできない。得物ごとなます切りにされてしまう。躱すことを試みても簡単には成功しないだろう。振り回されるのはただの鉄塊などではない。一撃一撃に確かな意思を秘めた、達人の剣だ。
身の丈を超える大刀をまるで普通の刀のように扱う膂力、そしてそれを操るのは、ただの怪力バカではなく卓越した技術を持った達人。派手な能力はなにもなく、―――ただ純粋に強い。
とはいえ、写輪眼相手に真っ向勝負とは。
なにか、仕込みがあるのか。目で見ただけでは判別できない。カカシはクナイを両手に一本ずつ逆手に構えたまま、相手の動きを待つ。
瞬間、再不斬の姿が、ブレた。
「!」
左の写輪眼と右の裸眼、その左右で著しく視界に隔たりが生まれる。ブレる右目とピントを合わせようとする左目の写輪眼。あまりに格差が有り過ぎる両眼の性能差から生み出される、カカシのみが知る一瞬の世界。
脳に引きつるような痛みを覚えつつ、左側から迫る大刀を屈んで躱す。振り切った反動で刀を返しつつ、掬い上げるような右の切り上げが来る。これを一歩前に進んで懐に入ろうとして、写輪眼が警告を発する。再不斬がすでに対応をしている。右目が描く未来予想図が変化。大刀の柄によるカウンター。続けて腕を畳んだコンパクトな斬撃。凄まじい速度。足をその半歩前で止め、致命傷に至る威力を秘めた刀をクナイでいなす。火花が散って赤い花を咲かせる。
即座の振り上げから、振り下ろし。流石の神速。
カカシは右前方に、体を投げ出すようにして回避。側面に移動する。再不斬の足は既にこちらの向きに対応している。近づけば、即座に横薙ぎが来るだろう。
大刀の間合いのわずかに外から、連続して手裏剣を投げて弾幕を張る。全て捌かれるだろうが得物の重さの差ゆえに、再不斬の先手を取っていく。一瞬、さらに加速して、視線を引きはがす。背後を取る。
時間が、まとわりつくように緩やかになっていく。再不斬はまだ、振り返っていない。あと二歩の距離。
そこで、また止まる。目の前には大刀の切っ先。顏の真横を大刀が横切る。
加速が止まる。再不斬は振り向きざまに、片腕で大刀を薙いだ。
一歩進んで躱す。あと一歩。
再不斬の足が鋭く踏み込んだ。崩れた体勢から完璧な振り下ろしの一撃。
カカシも先ほどよりも深く踏み込む、剣先の速度が更に上がるのが視えた。しかし、これはもう一度『視』た。また大刀の届かない右前方へ、移動する。
大刀が振り終わると同時にクナイが胴を切り裂く。その一瞬前。
カカシは、目の前の再不斬ではなく、自身の真横に視線を飛ばしていた。
再不斬の刀が不自然な軌道を描いている。地面へ垂直から、水平の横薙ぎへ。
そのあまりの急激な変化に、カカシの『右目』は即座の反応を示せなかった。それは、あまりにも周到な、写輪眼の死角からの強襲だった。
クナイを横手に構えたが、大刀の威力を消すには至らない。
「オオオッ!」
「―――ッぐ!!」
再不斬は吠え、カカシは呻いた。
強引極まる横薙ぎは、カカシの身体を、地面から引きはがす。大刀に押し込まれた自らのクナイが左腕に食い込んで肉を抉る。大刀の衝撃が、全身を強く打ち付けた。
勢いのまま、弾かれるようにして吹き飛ばされる。
手足を地面に付いて衝撃を殺し、僅かに地を抉って、止まる。
左腕を血が伝い、滴り落ちる。
「はぁ、はぁ。―――クク」
「……………」
「ああ、悪いな、間違えちまった。…………右腕をもらうつもりだったんだが」
「…………」
「どうした? 意外そうな面だな」
わずかに息を荒げながら、再不斬は再び哂った。
「正面からの戦闘なら、写輪眼があるこのオレが負ける筈がない。―――お前の疑問はそんなところか?」
カカシは驚愕を覚えていた。
『視え』なかった。再不斬の動きが、ほんの直前まで。振り下ろしたときには、確かに足にチャクラはなかった。だが、あの動きは、体重移動の面から見てもどう考えてもチャクラによる吸着を行っていなければ、『有り得ない』。
写輪眼でも見切れない程の、超高速のチャクラ移動。つまりこれは、
―――対写輪眼用の剣術。
奇襲、などとという言葉だけでは片付けられない。ただ純粋な真っ向勝負で、押し負けた。
「―――思い入れなんぞありはしねえがよ。忍刀七人衆の名は、そんなに安いもんじゃねえ」
肩に刀を担ぎ直すと、荒くなった息を整える。
膝を突くカカシを見下ろしながら、傲岸に告げる。
「写輪眼如きでオレを舐めてんじゃねえよ、カカシ」
「………如き、ねえ」
その言葉は単なる挑発であるのはわかっていたが、カカシの内心には過るものがあった。
しかしそれは表情にも気配にも見せることはない。ただ今の状況を把握することに努める。出血はあるが、傷は深くはない。とっさに跳んだおかげで骨にも影響はない。
しかし、大刀のぶつかった衝撃のそのすべてを殺せはしなかった。特に左腕の力が上手く入らない。印を結ぶような術の精度はやや落ちるだろう。だが、幸い利き腕ではない。
「ま、驚いたよ」
ただ、あの接近戦での戦闘は、やはり大刀を持った再不斬の方がより多くのスタミナを消費するようだ。追撃をかけて来なかったのがその証拠。
しかし、それは微かな光明に過ぎない。
少し荒かった再不斬の呼吸は、このわずかの間にほぼ通常に戻っていく。スタミナを削り切るのは、簡単な作業ではなさそうだ。
…………一歩。また再不斬が踏み出した。
カカシも再びクナイを構え直す。
もう一歩、再不斬が歩みを進めようとして、止まる。
ほぼ同時にカカシの写輪眼もまた、異変を感じとった。
それは微かな気配。この方角は、町の方か。
―――、霧が……。
それは、まったくの偶然だった。
ただの偶然。想定外の出来事。それが喜ぶべきことなのかどうかも、ナルトには判断できなかった。
ナルトとイナリの行動は、順調とは言えないものの、最悪な結果でもなかった。
イナリの気迫が通じたのか、何人かの協力を取り付けることができたのだ。その人たちにも手伝ってもらい手分けして行動することで、大分時間を短縮している。
積極的には動かないが、霧の正体が忍術であること、霧が出ている間は出歩かないことなど、そういう情報の伝達だけでも手伝ってくれる人たちもいた。
正直、誰も手を貸してくれないかもしれないと思っていた分、安堵の気持ちが大きかった。
霧が消えていないので、あくまでご近所ぐらいの範囲までしか頼めなかったが、それで十分だ。
にわかに騒がしくなってきた周囲を尻目に、イナリとナルトは動き続けた。
その周辺で動き回る人達もまた、ただ最善を尽くしていただけだった。
だから、これから起こることはまさしく偶然、という他なかった。恐らく、誰にとっても。
「―――――うわぁ、誰だお前ぇ!」
突然、悲鳴のような声が上がった。
「なんか変な奴がいるぞ!」
「こっちだ! あ、動いたぞ!? おい、人を呼べぇ!」
近い。ナルトとイナリは顔を見合わせると急いでその場に向かった。
辺りより一層霧の深い大通りから外れた小道。寂れた雰囲気に見えたが、そこにはすでに数人の町民が集まっていた。
その視線は、上。丁度、トタン屋根の上に足を掛けている、黒い服の忍びが、こちらを振り返っていた。
「!」
「あ!」
―――再不斬の部下の奴!
ナルトを見ると、慌てたように霧に紛れる。逃げられる―――、ナルトはほとんど本能だけで地面を蹴ると同じように屋根の上に躍り出た。
いない。
一瞬ならいけるか、その計算もまともにせずに、ナルトは周囲を覆い尽くすチャクラを放出した。
―――――――――――――――いた。
ダンッ、と屋根が凹むほど強く飛び出す。数軒先の家々の屋根伝いに移動していた忍びの男が驚愕に目を見開いた。その顔面目掛けて膝を叩き込む。
交錯は、一瞬で終わった。男は吹き飛ぶと、隣の家の屋根にぶつかった。その勢いに耐え切れず、男ごと、屋根が倒壊していく。白目を向いた敵の忍びが落ちていくのを見届けた瞬間、ナルトは意識が一瞬、遠のいた。
【阿呆】
九尾が呆れたように呟いた。視界が明滅し、足元が揺れた。いや、揺れているのは自分の足だ。おぼつかない足で、何とか堪えようと、そう試みるよりも早く、力尽きる。
―――あ。
下に誰も居なかったのは、ただ幸運だった。家が低く、そして剥き出しの地面だったことも。
どんっ、と鈍い衝撃が胸を、次に間断の差もなく全身を走った。再び、視界が明滅した。
「―――ぐうううっ……」
いや、それよりも、息が苦しい。胸に酸素が入っていかない。体を、命を、それらを構成する大事なナニかが欠けている。
それは、一分ほどの時間だったが、ナルトにとっては永遠のように感じられた。
わずかに、肺に空気を送り込めた。その瞬間、激しくせき込みながらも、構う事なく空気を貪欲に貪っていく。
意識が、ゆっくりと戻っていく。
全身を冷や汗が覆っている。一瞬、間違いなく死にかけた。
―――そうか、これが。
初めての感覚に戸惑いながら、ナルトは理解した。
―――これが、チャクラの枯渇か。
身体を起こす。そこで、ナルトを探すイナリの声が聞こえた。そこでようやく、自分の耳が聞こえていなかったことに気が付く。
失態である。なにもかも。
起き上がって、イナリの声に応えようとして、ふと気が付く。
―――霧が、消えている?