ナルトはタズナの家に残った。
木登りの修行はナルトには必要なく同行する意味はない。
それに一度再不斬を退けたとはいえ今はまだ護衛の最中であることに変わりはないのだから、これは妥当な命令といえるだろう。橋の建設に向かったタズナの護衛はカカシが受け持ち、ナルトはタズナの家族の護衛を任されていた。
川辺にせり出すように際しているこの家は、そのすぐ下と傍を緩やかに水が流れ、家を囲む板べりの通路は川の水からやや高いところに木の杭で支えられている。
おんぼろ家ではあるが海辺の家にしては珍しい二階建てで、その屋根に上がれば視界はずっと遠くまで見渡すことができた。
とりあえず危険な気配は感じない。修行によって以前よりずっと鋭くなった感覚のアンテナは、随分と使い勝手がいい。
忍者の用語として『感知タイプ』という言葉がある。この言葉の対象は多岐に渡るが、要するに、目標物(多くの場合は敵)を見つける能力に秀でた者を指している。ナルトはまださほど大した性能ではないが、その言葉の範囲にギリギリ入るぐらいの力はあるようだった。
その他にも一応何体か影分身を作って、周囲数百メートルを警邏させていた。チャクラ量的にはそれほど多くは置けないが、よほどのことがない限りはこの警戒網を突破されることはないだろう。
やや高い空から太陽の光が頭上を差している。
南の島らしい晴れやかな天気だが気温はさほど高くない。海風で少し肌寒いぐらいだ。
雲が凄まじい速さで流れていく。そこに何かしらの形を見出しても、数秒ごとに大きく姿が変化していき、その姿は留まらない。
ナルトは太陽のまぶしさに目を細めつつも目でそれを追いかけた。
ナルトを配置したカカシの意図が妥当なのはわかるのだが。
―――滅茶苦茶さびしいんですけど……。
ドアの開く音が聞こえた。
階下を見下ろせば、子供の姿が見えた。黒髪の、頭に帽子を被った六歳前後の子供。イナリだ。
ドアを閉め、一人だけで桟橋を歩いていく。どうしたものかと考えたが、とりあえず声を掛ける。
屋根を壊さないように軽く蹴って、イナリの前まで跳躍した。
「―――おい、どこに行くんだってばよ?」
「うわぁ!」
イナリは腰を抜かして尻餅をついた。
「い、今ど、どっからきたんだお前ぇ!?」
「屋根の上。一応、ツナミさんには言っておいたんだけど聞いてないか?」
「………きいてない」
「わるいわるい。オレ、うずまきナルト、木の葉の下忍だ。もしかしてこれも聞いてないか?」
「………ううん、それは聞いた。ボクはイナリ」
急なことに取り繕う暇もなかったか、イナリは素直な様子でそう言った。ナルトが腕を引いて起こしてやる。
「そっか、良かった。しばらくの間よろしくな」
「うん、………ってどうでもいいよ」
素直に頷いたあと、手を払うと、急にイナリはバツの悪そうな顔をした。
「ボクには関係ないよ、そんなこと」
「まあそう言うなって橋が完成するまでの短い間だ」
突き放すような言い方も、前回で経験済みなので忖度せずにそうナルトは流した。
「あ、あっそ」
「で、どこ行くんだ?」
「お前には関係ないだろっ」
「いや、説明しただろ、関係あるの」
「……ちょっと散歩だよ」
「そうか、じゃ、ついてくってばよ」
ナルトがそういうとイナリは露骨に嫌な顔をした。
「ついてこないでよ。ボク一人にしてよ」
「ダメ」
「母ちゃんについてなよ、どうせボクなんて狙われっこないし」
「それを決めるのは相手なんだよなぁ………、それにツナミさんにもちゃんと護衛は付けてるから大丈夫だってばよ」
「………」
下から睨み付けられる。
ナルトはとりあえずの笑顔。女の子になってわかったことが一つあった。笑ってれば意外と色々上手くいくことが多い。ただしサクラを相手するとき以外は、と注釈がつく。
イナリはやや慌てたように視線を下ろして息を吐いた。
「………わかったよ、でもボクに喋り掛けるなよ」
「おっけーおっけー」
「イナリ、それなんだ?」
「全然言うこと聞いてないじゃんか………」
脱力した様子のイナリ。人気のない海岸沿いでイナリが近くの繁みから釣り竿を取り出した。紺色の塗装がされたシンプルな形の釣り竿だ。
隣にはやや年季の入ったバケツとクーラーボックスが一つづつ。
「見ればわかるだろ、釣りの道具だよ」
「ふーん、それがそうなのか」
「なんだよ、初めて見たかのようなこと言って」
「いや、知ってはいたけど実際にはあんま見たことないんだよなー、木の葉の里って近くに海ないし、大きな川もないし」
「………あ、そっか」
イナリは納得したかのように頷く。
「ちょっと見せてくれよ」
ナルトは手を伸ばしたが、さっと躱された。
「ダメ」
「えー、けちー」
「ふんっ」
ふと、疑問に思ったことを口にする。
「そういや、なんでこんな場所に釣り竿を置いてたんだよ?」
「そんなことも知らないの?」
イナリは今度こそ心底驚いたと言った様子だった。まるで信じられないものでもみたかのような態度だ。ちょっと癪なので少し考えてみる。釣りの道具を家から持ってこないであえて繁みに置いておく理由。
うーんと首を捻る。
「めんどくさいから」
「ちがうよ、そんなわけないだろ」
即座に否定。会話をしながらも移動は止まらない。人気の無い岩礁を四苦八苦しながらゆっくりと登っていく。
「共用で使ってるから」
「はずれ」
「………盗んだ」
「なわけないだろっ」
降参、と手を上げる。まったくもって見当もつかない。
「ガトーの手下に目を付けられるんだよ、ここら辺はもうガトーの縄張りなんだ。だからバレないように隠してる」
「へー、って結構大問題じゃねーか」
「お前、そンなことも知らないで護衛の任務受けたのかよ」
ナルトたちが波の国事情に詳しくないのは主にイナリの祖父のタズナが原因なのだが、もちろんそれは言わない。
ただ、ややこしい事情として、他の班員とは異なって今回のナルトはある程度情報を知っていた。
どこまで知っている風で話すか少し考えた方がいいだろうか。もしカカシに事情を知っていたと気付かれた場合、少し厄介なことになる可能性がある。
腕を組んで、少しの間考える。
―――まいっか。
大丈夫だろう。ナルトはそう結論付けた。
「色々な権利を取られたってのは聞いた。けど、この程度の釣りもダメなのか?」
「因縁を付けるって言葉知ってる?」
またちょっと考える。
要するに、別に違反じゃないけど絡まれる理由になるってことか。
「………なるほど、って難しい言葉回しすんのな歳の割に」
「大きなお世話だよ。それに別にボクが考えて言ってるわけじゃないよ。そこら中でみんなが似たような会話してるからおぼえちゃうんだよ」
「でも、じゃあなんでわざわざ釣りなんてするんだ?」
「………別に関係ないだろ」
「またそれか。護衛に支障がありそうならやめてほしいんだけどなー」
「ボクは護衛なんて頼んでないだろっ」
イナリが怒りだしたので、また手を上げて降参の合図。
機嫌を損ねたようで、口をへの字に曲げてしまった。黙々と釣りの準備を始める。その動作は明らかに手慣れていた。よく釣りをしているのだろう。手早く餌を付けて、さっと釣り竿を岸に向かって振ると、しなった竿の先端がやや斜めに空を指し、その勢いに乗って赤い色の浮きが遠くまで飛んでいく。
その一連の動作にナルトは興味を覚えた。
任務が終わったら一回釣りをやってみたいな、とナルトは思った。そんなのんきな時間を想像するぐらいはいいだろう。実際にやる暇があるかどうかは置いといて。
いい景色だ。明るい太陽、透き通った海。
しかしイナリの顔は険しい。楽しくて釣りをしているのではないのだろう。
その理由を考えて、かつてタズナに聞いた話を思い出す。イナリの義理の父が、ガトーに殺されてしまったこと。そのせいで、イナリは戦うことを諦めてしまったこと。
以前よりも、その痛みはよくわかった。
どうしようもない現実に打ちのめされる気持ちは、ナルトも文字通り死ぬほど味わった。
イナリなりの理由がある行為なのかもしれない。ナルトはさほど何か言うつもりはなかったが、わずかにあったそれが完全に消えた。
―――ま、オレが見張ってれば問題ないしな。
納得したはずだったが、何故だろうか、やけに胸の幻痛が強い。
その痛みを意識している内にふと、思考が動いた。
イナリの事情はわかった。
しかし、まだ疑問は残る。ナルトの思考は感傷だけにとどまらなかった。
釣りをするだけでこんな問題になるとは一体どういうことだろう。
違う。もう少し前提があるはずだ。などとまるで三代目のような言葉が脳裏を浮かぶ。
釣りが云々というよりも、そもそもガトーはなぜこの島を狙ったのだろうか。確かに緩衝地帯で木の葉が手を出しにくい場所な上に、あまり問題が起きてほしくない土地ではあるのだが、それは木の葉の理由だ。
大富豪であるガトーにとってこの島の経済など、塵芥のようなものではないのだろうか。
労働力、というわけでもなさそうだし、島の経済が必要ないならば、こんな締め付けるような生活を強いる理由もないはず。第一、経済が理由だとしても、あまりにこの島に拘りすぎているような気がする。
「なあ、イナリ」
話しかけたがシカトされた。しかしそこになにか思う間もなく言葉を続ける。
「おい、イナリってば」
めんどくさそうな返事が返ってきた。
「なんだよ」
「あのさ、ガトーが漁業権を取り上げたって話しただろ? それって具体的にはどうなったんだ?」
「はあ? ………どうなったって、詳しくは知らないよ。島の一番大きな仕事がやりにくくなったってみんないってるぐらい」
「他には?」
「だから詳しくは知らないって。朝とか夜とか、やたら時間の制限ができたり、獲る魚の量を大きく減らされたり、通れる場所が減らされて沖への行き来がめんどうになったり、そういうのだよ」
「へえ」
まだ考えは纏まらない。
だが、少し考える必要があるように思えた。もしかしたら、これは再不斬や白と闘う上では役に立たない可能性もあるが、手札が多いに越したことはない。
やるべきことを考える。