『異なる者』
―――ああ、オレは負けたのか。
うずまきナルトは痛みと共に、敗北を理解した。
生涯で、もっとも負けてはならないと思った、とても大切な戦い。
その戦いでの敗北。何度も殴り合い、最後に胸を貫かれ意識を失うまでのこともはっきりと覚えている。
うずまきナルトはうちはサスケに、負けた。
残酷な事実の実感は、鋭い牙となってナルトを突き刺した。
胸が痛い。胸の中心がまるで熱した棒で抉られているかのようだ。
最後に貫かれた胸が、意識が曖昧な状態なのに責め立てているようにすら感じられる。
でも、本当に苦しいのはそれだけじゃない。
思い出すのは、最後のサスケの顔だ。苦しそうだった。辛そうだった。何もかも飲み込んで、自分ひとりで生きていく、そういう顔だった。
まるで小隊を組んだ時にまで、時間を巻き戻したように。
それが苦しい。悲しい。
結局、サスケにとってはナルトたちと過ごした時間はまるで無価値なものだったのだ。意味もなく必要ないものだった。サスケはそう判断した。
それはとても、悔しい。
ナルトにとってはまるで輝くような日々だった。サスケが居て、サクラが居て、カカシが居て、ムカつくことがあったにせよ、嫉妬したことがあったにせよ、それは紛れもなく、代わりの利かない分かちえぬ日々だった。
涙が溢れる。
辛そうな顔だった。苦しそうな顔だった。
自分から捨てたなら、望んでそうしたのなら。
――あんな顔をすんじゃねーよ。馬鹿野郎が。
「ナルト! おい、ナルト!?」
自分を呼ぶ声がして目を開ける。
涙でぼやけた視界で、こちらを見下ろしている、イルカが居た。
「よかった、ナルト!」
涙を滲ませながら、イルカはそう言った。
「イルカ先生。……オレは……」
――サスケは、どうなったってばよ。そう続けようとしたが言葉に詰まってしまった。
「……覚えてないか? あの後、急に気を失ったんだ。理由もわからないし、目を覚まさないかと思ったぞ。本当によかった……!」
――――?
「先生、なんの話だ……?」
「混乱してるのか。……無理もない。あんな術を使ったんだ。チャクラだって凄まじく消耗しただろうしな。とにかくよかった」
そう言ってイルカはぎこちなく椅子に座った。
よく見れば、イルカはボロボロだった。頭には包帯を巻いているし、病衣の隙間から見える肌にも覆いつくさんばかりに包帯が見えた。
その恰好には覚えがあった。アカデミー卒業の一件の時、あの時も同じような姿を見た。
イルカの隈が濃い顔には安堵の表情が浮かんでいる。
「イルカ先生、怪我してるのか?」
「ん? ああ平気さ。俺がまだまだ未熟だったってだけだ。ちょっと待ってろ、医者を呼んでくる」
立ち上がったイルカがよろけながら病室の扉に歩いていくのを眺めながらナルトは首を傾げる他なかった。
「??」
何かがおかしい。自分の中で、そう警告する声が聞こえる。
「――あのさ、イルカ先生ちょっとまって」
「どうした?」
「わりい、ちょっと頭の中、ごちゃごちゃで……質問してもいいか?」
「ああ、なんだ?」
「ほかの皆が、無事かどうか知りたいってばよ」
「え? 他って、えーとミズキのことか? アイツは、まあ無事だけど。ボコボコになってたけどな」
「………ミズキ?」
「ああ、まあ自業自得だ。気にすることはないぞ」
分からない。嫌な予感が膨れ上がっていく気がした。
「……サスケは、サスケはどうなったんだ」
そう聞いた時のイルカの顔はまるでハトが豆鉄砲を食らったかのようであった。
「サスケ、ってうちはサスケのことか? ……どうもなにも、サスケがどうかしたのか?」
「どうもなにもって……、サスケが大蛇丸のところに行っちまったことだってばよ!!」
「はっ? それは本当なのか? なぜサスケが!?」
驚愕に目を見開いたイルカが驚いた声を上げた。
どういうことだ。
知らないはずがない。サスケが里抜けしたことが一切秘密になっているとか? そんなことあり得ないし、第一イルカの反応はそれとは別に大きな違和感があった。
まるでなにか大きく掛け違っているような。
すべて夢だったとか? それこそ有り得ない。
あの時、終末の谷でサスケと向かい合いそして、――殺し合った。
――そうだってばよ。
胸の傷だ。
サスケに最後に貫かれたその傷だ。まだ痛む胸がそれを証明している。
「あ、おいやめろ!」
制止するイルカの声を無視してナルトは病衣の上着を脱ぎ棄てる。未だ鈍い痛みを発する胸を指さす。
「ほら、ここにしっかりサスケにやられた傷がある!」
「……どこにだ?」
何故か少し頬を赤くしたイルカがそう指摘する。言われ、ナルトは視線を下げる。
まっさらな肌。傷跡は一切ない。
「あれ? もう治った……?」
それどころかあってはならないものがあるような。微かだが間違いなく、いや間違いあってあるような。
「な、なんだコレ」
視線を上斜めにもっていっているイルカが大きくため息をついた。ベッド脇にあった雑誌を手に取るとクルリと丸めて、そのままナルトの頭に振り落とした。
衝撃は軽かったがいい音が響いた。
「いてえ!」
「寝ぼけるなバカ!」
どういうことだってばよ!
ナルトの声なき悲鳴が上がった。
あるはずの傷がない代わりに、あるはずのないものが己の胸にあった。わずかに盛り上がった、二つの部分。
混乱するナルトはぐるぐると目を回した。
どうなってるんだってばよ。
「女の子がそんな真似をするんじゃない!」
イルカの説教の声を聴きながらナルトは叫んだ。
――どうなってるんだってばよっ!!
夢であってくれと祈った。
どうか悪夢であってくれと。そう願った。そして出来うる限り早く目を覚まして欲しいと懇願した。
しかし夢でも何でもなかった。これは悪夢のような現実で、それだけは確かなことであるようだった。
うずまきナルト。12歳。つい先日より忍者学校を卒業。
得意な忍術は影分身の術。身長145センチ、体重40キロ。好きな食べ物は一楽のラーメンで、生野菜は苦手。
そして趣味は花の水やり。
そんな自分の性別、女の子。
――嘘だろう。
ナルトはもう何度目かになる絶望を覚えた。目が覚めたら女の子になっていた。何を言っているのかわからねーってばよ。
そして少なくともこの世界ではそれが真実であることも、実感はなくとも理解した。
まず体が女の物で、たぶん幻術がかかっているわけでもないこと。
イルカを始め、ありとあらゆる知り合いが、ナルトの性別を女と思っていたこと。
体が女で、周囲の認識も女。
――じゃあ、女じゃねーか……。
「どうなってんだ!!!」
ナルトは天を仰いで嘆いた。小奇麗な病院の天井が見えただけだった。先ほどまでは看護婦や医者が代わる代わる見に来たが、今はもうその気配すらない。どうも精神的にちょっとあれな奴だと思われたようだった。そうなれば、奇声の一つや二つは慣れっこなのだろう。
最初に強硬に自分の性別を男だと主張していたのもずいぶんその判断に一役買ったようだった。一時的な気の動転ということで処理してもらったが、あまり奇行を続けるのもよろしくはない。よろしくはないのは分かっているが、我慢ができない。
女。女。女。
「オレってば女の子は好きだけど、女の子にはなりたくねえ……」
ぼやくように呟く。
そして、落ち着いてみて気が付いたことがもう一つ。それは時間だ。
ナルトの記憶からしてみれば、ずいぶん昔に戻っているようだった。卒業試験に落ちた後ミズキの口車に乗って禁術の書を盗み出し、多重影分身を習得し、そしてミズキに襲われ撃退した、あの辺りまで時間が逆行しているのだ。
九尾の力を初めて使い、多重影分身を使ってミズキを倒した後、急に倒れ、そのまま数日間目を覚まさなかったらしい。これはイルカに聞いたことだ。
「わけわかんねえってばよ……」
なにもかも意味がわからない。時間が巻き戻って卒業試験後に戻ったのはまだ納得はしないが理解できた。
しかし、性別が変化している。これが意味が分からない。
誰かに相談したい。しかし、それを信じてくれるような人間はいるだろうか。まず浮かんだのは自来也の顔だった。
――エロ仙人なら、もしかしたら力になってくれっかもしれねえ。
と思い当たったが、そもそも自来也がこの時期、どこにいるのかを知らない。木の葉には多分いないのではないだろうか。
綱手も同じ理由でダメだ。
他に誰かいないだろうか。途方に暮れた気持ちでナルトは己の手を見た。螺旋丸の修行で、己の手に木の葉のマークを書いたことをぼんやりと思い出した。
そして、ふと、雷鳴の如く脳裏に閃いた。
――火影のじいちゃんがいるじゃねえか。
三代目火影は大蛇丸襲撃によってその命を落とした。
しかし、これが本当に時間が巻き戻っているなら今はまだ生きているはず。
――じいちゃんなら、何かわかるかもしれねえ。
思い立ったら、止まっていられない。
飛び上がるようにベッドに立ち上がると、病衣を脱ぎ捨てる。こんなところに居られねえ。俺は出ていくってばよ、と叫びだすのは、なんとか堪えた。
幸い、服は以前とさほど変わらないオレンジのパーカーとパンツが、近くのかごに収まっていた。それに着替える。
病衣のズボンに手をかけた所で一瞬躊躇する。
汗が滲む。一気に下すとろくに見ないまま着替える。違うオレの体じゃねーってばよ、と念じながら。
廊下をそうっと覗き込む。時間はすでに夜。人は少ないながら人の気配は少なくない。普通に出て行っても忍者だから見つかる恐れは低い。
が、今はあまり人に会いたくはない。慎重を期して窓から出ていくことにした。
ブーツは見当たらないのでしょうがなく裸足。
火影邸はさほど遠くない。窓に足をかけながら、その場所に行くルートを確認する。
――オレがここにいるのはサスケに殺されたからなのかな。
なんの根拠もない想像。しかし、全く有り得ないとも思えなかった。
もっとも親しい友になったからこそ、殺す価値がある、サスケはそう言っていた。
そして本気の目をしていた。拳を突き合わした時、その気持ちに偽りがないこともはっきり感じた。
なら、最後に胸を突いた腕がそのまま心臓を抉って、そのまま死んだのだとしてもおかしくはない。
――サスケ。
ぎゅっと、傷がないはずの胸が痛んだ気がした。