そうだ、家庭を作ろう。(修正中) 作:ほたて竜
「私、人を殺したことがあるの」
如何なる告白をされようが、音ノ宮は全てを受け入れる気でいた。
そう心に決めたのは良い。しかし、現在彼は朝田詩乃に一体どんな表情を向けてやればいいのか、それが分からなくなっている。それは決して彼女が過去に『人を殺害した』という所業に及んだからではない。
朝田詩乃と言う少女は、当たり前の事だが意味もなく人を殺すような人間ではない。どの様な背景があって彼女がそのような出来事を経験したのかは、皆目見当もつかない。だがしかし、それでも朝田は間違ったことなんてしてないのだと音ノ宮は確信できるし、そう信じている。
彼女は素敵な女の子だ。普段こそ無口で愛想のない子だが、感受性が豊かであり、人を思いやることの出来る優しさを兼ね揃えた子である。でなければ、こんなにも悲痛そうな顔をしながら、自らの罪を吐露するなどありえない。
だから論点は朝田が人を殺めた理由ではない。
「……そうか」
存外、それは薄い返事だった。
脳を直接金槌で殴られたような気分。いかに音ノ宮は自惚れていたか、そしてどれだけ愚かであったかを思い知る。
所詮いくら経験を重ねようが自分は未だ未熟のままであったかと、音ノ宮は内心呟く。
とはいえ、自らの不出来さを理由に彼女を巻き込んではいけない。それだけは犯してはならないのだ。
「反応、薄いのね。一人で緊張してたのがバカみたい」
自嘲気味に呟く朝田の唇は酷く震えている。それはさながら獣の前で怯える小鹿の様で、いつもの強気な朝田はどこにもいない。
否、或いは今音ノ宮の目の前で怯える少女こそ、本来の朝田詩乃の姿なのかもしれない。
「いや、これでも十分驚いている」
そう、彼は驚愕している。
何故ならば、自らに対してどうしようもない程の怒りを覚えているからだ。ここまで何か物事に対して憤るなど、果たして何年ぶりだろうか。いや、もしかすると二重の意味で、これほどまでに怒るのは生まれて初めての経験かもしれない。
自身の表情が徐々に死んでいくのが分かる。あまりの自分の不甲斐なさに、音ノ宮はいっそ怒りを通り越して冷めてしまったのだ。
「……音ノ宮君?」
不安げに言葉を漏らす朝田詩乃。彼の心情を知る由もない彼女からしたら、音ノ宮の静かな無表情は恐ろしく映るのかもしれない。
今は自分の叱責は後である、音ノ宮はまずそう結論付けてから朝田詩乃に向き直る。この期に及んで笑顔にはなれない。彼は口元を緩めることは出来ず、大して表情は変わらなかった。
それでも気持ちだけは伝わったのか、朝田はいつもの落ち着いた顔つきになる。
「……君がどうして殺人に及んだのかは聞かない。恐らく、
理解できない事がある。
それなりに親しくなったとはいえ、音ノ宮と朝田はまだ出会って数週間程度の関係である。それをどうして朝田は殺人という罪を告白できたのか。
彼女を見れば、慰めてほしいから、同情してほしいから音ノ宮に告白したわけではないという事は分かる。だが、それではあまりに腑に落ちない。
――――――基本、音ノ宮は相手の話を聞くことしかしない。
それは彼が自分に定めたたった一つの行動であり、事実として彼は本当にそれだけの事しかしえない。無理やり他人のトラウマを聞き出すなど以ての外。そのトラウマから迫る恐怖や嘆き、怒り、後悔を一つずつ、それこそ職人芸の様に丁寧に聞いて、頷いて、時には助言することぐらいの事しか彼にはできないのだ。
そこまで至るためになら、音ノ宮祐太は
それこそが音ノ宮の後天的に身に染みた行動原理。手の届く範囲の人間すべてを導こうとする、半ば強迫観念染みた衝動。例え見知らずの人間であろうと、困っていれば手を差し伸べるような人畜無害。
それがどう考えても異常だという事は、他でもない音ノ宮本人が理解している。
ある時、彼がまだ『音ノ宮祐太』ではなかった頃。四十路にも届く彼が目にしたのは地獄だった。この世の理ともいえる理不尽な暴力が無辜の民を襲う。それがどれだけ彼の精神を蝕んだかは言うまでもない。
故に、世の中をあらゆる側面から観察してきた彼にとって、彼女の突然の告解はあまりに意味不明だった。
そして何よりも、その意味が分からないことが、音ノ宮にとってどうしようもなく腹立たしかった。朝田に話を聞くと宣言しまった手前、せめて必要最低限の背景を把握しなければならない。だが事実、音ノ宮は彼女の告白の訳を理解できないでいる。
「……何でか、か。正直、私にも分からない」
ぽつりと呟かれた朝田の言葉は、更に音ノ宮を混乱させた。
こんなことは初めてだ、と。
理解し難い事、それは元々教職に務めていた人間として解消せねばらならない難題でもある。また、元より人間は困難に挑み、困難に敗北し、困難に打ち勝つことで成長する。それは人類史が証明している。
しかし、これは違う。この問題は、今まで自分が経験してきたモノとは気色が違う。
「でも何となく、音ノ宮君がどんな顔をするのか見たかったんだと思う」
音ノ宮からそっと視線を外して、朝田は窓から部活の朝練に勤しむ生徒たちを見る。音ノ宮もつられてグランドを見渡すが、頭の中は別の事で部活動の生徒の事など蚊帳の外だった。
やはり、分からない。
人が凄惨な過去を語るとき、それは確かな意思がある。理解してほしいから、慰めてほしいから、叱ってほしいから、拒絶してほしいから、殺してほしいから。理由は人によって疎らに疎らだが、それでも確固たる理由と意思がある。
朝田の様に不鮮明な物言いをするときは、大抵自身の本音を隠すために使われることが多い。しかし朝田の反応を見る限り、本当に戸惑っているのが分かる。疑問はさらに加速する。
「自分の反応を、見たかった?」
「……多分ね」
思考を整理するため確認ついでに復唱した音ノ宮。対して儚げに微笑んで、静かにに首を縦に振る朝田詩乃。
それはあまりにも痛々しい姿だった。
彼女の本質を垣間見た様な気がする。中学生ながら立派に自立し、人の助けなどいらないと言わんばかりに自己だけで完結した少女。しかし、時折見せる彼女の危なげな雰囲気は人を引き付けるファクターでもあり、また自己に害なす毒でもある。
結論、音ノ宮祐太は理解することを一時的に放棄した。
触れてしまうとすぐさま壊れてしまうであろうガラス細工の扱いに難儀したわけではない。音ノ宮も、彼女と同様にこの疑問を解き明かして良い物なのか、考えあぐねていたからだ。
「分かった。朝田がそう言うのなら、そうなんだろう。しかし、自分の顔を見て一体何の得になるんだい? 見ていてあまり面白い物でもないだろうに」
率直な疑問。
彼女が音ノ宮に罪を吐露した明確な動機は、この際仕方ないので保留する。しかし彼の表情の変化を知りたかったとは一体どういうことなのか。せめてそれだけは聞いておきたいところである。
「……それも、何だかよく分からないの。ねぇ、音ノ宮君。貴方にならこの気持ち分からない?」
彼女自身が分からないことを、他人である音ノ宮が理解できる筈もない。
それでもダメ元で、彼は朝田詩乃の顔を真剣に見つめてみる。予想通り成果は得られない。自身の出来る行為が意味を成さないと分かると、申し話けなさそうに音ノ宮は首を横に振った。
心理学とは都合のいい技能ではない。あくまで学問である。
そして人間である以上、思考に極小であろうと主観が混じってしまうため、解釈にズレが生じる。そして心理学とは大雑把に言ってしまえば、相手の振る舞いや言動を軸として相手の心を考察する学問である。
もしもの話だが、仮に対象が観察者が一度も経験したことも無い感情を抱いていた場合、観察者がどれだけ優れた心理学者であろうと対象の心情を看破できない。
心理学を極めたからと言って、人が人を完全に把握できるなど絵空事だ。ましてや少し齧った程度では、実践しようが気休め程度にもならない。
「ところで貴方は何も思わないの?」
「何も、とは?」
音ノ宮が聞き返すと、心底複雑そうな顔をして、かと思ったら決心したかのような顔つきになる。
「……その、私が人殺しって」
「何とも思わないよ」
言い切る前に、音ノ宮は言葉を被せた。そして目を閉じて、宣言する。
「過去に何をしようが、それは所詮過去の出来事に過ぎない」
言ってしまえばそれは残酷な宣告であった。
過去に大罪を犯し、それを過去だと割り切って何事もなく生きていける人間はそうはいない。いるとしたらそれは狂人か、或いはただ目を反らしただけの哀れな亡者かのどちらかである。
そして朝田は狂人でもなければ、逃亡者でもない。自らの罪に真剣に向き合い、今もなお苦しんでいる挑戦者だ。ましてや彼女が何かしらを犯したとして、それが果たして明確な『悪』だったかどうかなど、出会って数週間の音ノ宮には判別もつかない。
故に、音ノ宮は極めて客観的な言葉しか紡げない。
「人を殺すという行為自体は法にも記載された罪だ。しかし君の場合はどうだろうか。少なくともこうして問題なく学校に通っている。その上で聞こう、君は果たして罪を犯したのか?」
「……」
答えることが出来ないのか、彼女は目を伏せて無言になる。音ノ宮の方も特に返答を待っていなかったようで、構わず言葉を続けた。
「人間という奴はな、朝田。身近な人にはあれこれと物を言う癖して、全く何も知らない赤の他人に対してはめっぽう無関心なんだよ。面白いだろう?」
皮肉に笑う音ノ宮。先程の狼狽えは影も残さず、余裕そうに朝田を見つめていた。
一方、真っ直ぐな視線を送られている彼女は音ノ宮の言っている事と自分との関係を見いだせず、きょとんとした顔になる。それを面白がるように、音ノ宮は立ち上がって無防備な朝田の頭を撫でた。
「ちょ、ちょっと……」
「君は学校に通っている、ならば導き出せる結論は一つじゃないか。朝田は罪を犯していない。人を殺したといっても、君の殺人はきっと何か意味のあったことなのだろう」
驚きながらも特に抵抗してこない朝田の頭を優しく撫でながら、音ノ宮は微笑む。
「そうだな。無責任な事は言えないが、断言しようか。
今のは力強かった。
いつもの物腰が柔らかい彼の発言とは思えないほど重く、何よりも朝田の頭の中にこれ以上ないくらい響いた。表面だけ触ってそれだけの
それこそ彼らと同じような呼びかけのはずなのに、朝田は不思議とそう思えた。
「だから君が向き合うべきなのは、在りもしない罪に怯えることではない。その事実をどう克服するのかではないか?」
何も知らない筈の音ノ宮が発する言葉の羅列。それはどうしてか、彼女の傷だらけの核心を容赦なく突くものばかりだった。
――――――何と言っていいか、分からない。
彼女はそう思う。
あっさりと言ってのけた音ノ宮は、その実何よりも先に朝田の事を何よりも考えていた。その上で、彼は暗に言うのだ。罪を恐れるな、そんなものなど殺せ、と。
「……意外と厳しい人なのね」
「それは勘弁してほしい。何分、自分は自分が思ったことしか口に出来なくてね」
音ノ宮は申し訳なさそうに頬を掻く。それに対して「別にいいわ」と、朝田は素っ気なく返す。彼女がいつもの調子に戻ったのを安心してか、音ノ宮は屈託のなく朝田を微笑む。
無論、頭部は撫でたままである。
今更になって恥ずかしくなったのか、彼女は赤面し始める。
「……い、いつまで私を撫で続けるつもり!?」
「おっと失礼」
大声で苦言を申す彼女に、確信犯は苦笑いしてあっさり手を放した。それはそれで何と言うか、複雑な気分になる朝田詩乃である。
だからか朝田はジト目で音ノ宮を睨み、音ノ宮は「まいったな」と両手をあげて降参の姿勢に入る。それで許す朝田詩乃ではない。彼女は容赦なく音ノ宮を睨み続けては、非難の視線を浴びせる。
暫く見つめ合った後、音ノ宮は「あっ」と何か気づいたように朝田から視線を外しては、自らの席に座った。気づけば大分話し込んでいたようで、時計を見ればあと少しすれば他のクラスメイトが一斉に押し寄せるだろう時間になっていた。
何と言うか、素っ気なく視線を外されたようで朝田は気に入らなかった。
「……はぁ」
ふと、そんな風にぼんやりと息を吐いた朝田は今日の授業の予習でもしようと、少し寂し気に自身の席に戻ろうとする。すると背後から「ところで朝田」と誰かの呼び止める声がする。当然ながら音ノ宮祐太である。
「今日、よければ放課後一緒に帰ろう」
少しだけ、彼女の中が温かくなった。
一人称になったり三人称になったりといつもブレブレな私の文章。
こんな文でも丁寧に読んでくれる方々には本当に頭が上がりません。
特に誤字報告をしてくれる方々にはメールを送って感謝したいくらいです(実際メールして大丈夫なのかな?