そうだ、家庭を作ろう。(修正中) 作:ほたて竜
そもそもな話、何故男は人を助けたいなどという分不相応な願いを抱いたのか。
男は元々良い家柄の息子だった。父親は天才外科医で、母親は宝石商の社長。お金に困ることなど有り得なくて、だからこそ両親は男を多大な経済力の持てるような人間へと育てため尽力した。
しかし、その思惑は遠く離れることとなる。
男は勉学をこよなく愛した。娯楽品など小説以外は目もくれず、ただ男は知識をため込むことに力を注ぐ。規則正しい生活の中で、大抵の子供が遊びに使う時間を男は勉学に投じたのだ。そんな生活を続けた彼の成績は言うまでもないだろう。我が子の勤勉なる姿を見て、将来は安泰だと両親は確信した。
それが間違いであったと気付くのは、存外後の事だった。息子の両親は、息子に金を生む力を求めた。しかし息子が求めていたのはただの知識だったのだ。
知識を使ってどうこうしたいのではない。ただ知識を詰め込みたい。いわば、男は知識の亡者だったのである。
「僕、大学の先生になる」
そう宣言して、男は有名大学に入学した。その時両親が難色を示したのは想像に難くない。しかし男の決心はもう両親がどうにかできる範囲内の話ではなく、寧ろ男に言いくるめられて最終的に両親は快く男を見送ることとなった。
そうして彼は順当に知識を吸い込んでいく。また、男と同じく深い知識を求める人間もその大学には少なくなかった。そんな彼らと男が友人にならない訳がなく、その時、男は初めて学友と言う存在を得た。
大学と言う勉学のみを追及する場は、彼にとってどうしようもなく相性が良かったらしい。正直な話、家にいるよりもよっぽど有意義な時間を過ごせていると男は思った。
大学を卒業し、大学院もストレートで修了した彼は宣言通り大学教授になるべく、親の脛を齧りつつ助教として学院に残る。因みにその時、他の博士号を取得した同輩がポストを確保するのに四苦八苦するのを見て、男は自分が金持ちの家に生まれてよかったと切に感じたのだった。
心理学を専攻していた男は、助手の仕事の合間を見つつ自分なりの論文を世間に発表した。それがどうやらその界隈の大御所の目に留まったらしく、その最高権威に心底気に入られた男は超スピード出世コースに乗り、二十代後半に差し掛かった頃には大学教授として大成することとなった。才能やその後の立ち回りの上手さもそうだったのだろうが、何よりも彼は運が良かった。或いは、親の肩書が意図せずして役に立ったのかもしれない。
兎も角、瞬く間に大学教授となった彼は以前までの苦労が嘘のように暇を感じるようになった訳だ。
彼は戸惑った。
生まれて初めてといってもいい暇という時間に、彼はどうすればいいか分からなかったのである。幼少期から知識を詰め込むこと以外は有り得なかったのだから、その戸惑いも仕方がなかったのかもしれない。だから彼は暇を見つければ他の講師が教鞭を振るう講義に顔を出し、更なる知識を追求した。他者から見れば異様に見える行為でも、彼の時間を潰すのに専門外の講義と言うのはあまりに魅力的だったのだ。
充実した日々だった。成り上がりで経験も浅い講師である彼を慕ってくれる生徒は多く、また自身の研究も存分に取り組むことができる。加えて最早本能と言える男の知識の探求も捗る。大学内で面倒な派閥争いなどもあったが、持ち前の人柄の良さと能力でいつの間にか彼を主体とした第三勢力を作り上げては、学界で名を上げていった。
全てが順調。全てが安泰。彼は本来人が生涯をかけて至る一つの道を、半世紀を満たずして究めた。
羨望の眼差しを向ける者、純粋に尊敬する者、それが何処かおかしくなって狂信する者、嫉妬を通り越して殺意を向けてくる者など如何なる感情であれ男に強い思い抱く人間も増えた。しかし、何故か男はそこに何か物足りなさを感じていた。
脳は衰えを知らないと言わんばかりに知識を吸収している。彼の周囲には頼れる同僚や教え子。年齢不相応な多額の金も貯蓄している。学界でもそれなりに発言力を持つようになり、彼が身を置いている大学内であれば出来ないことなど殆どない。
だというのに、彼は虚無感を覚えた。
言うならば自身の存在意義。それを今更になって考えたのだ。否、どれだけ暇を潰そうにも空いた時間と言うのは絶対に出来てしまう。そうした合間に、彼はふと思ってしまったのだ。
――――――僕は、何がしたいのだろう。
最初はまだ見ぬ知識を求めていた筈だ。それを円滑に進めるために大学に赴き、更に都合の良い大学教授を目指していた。今はその目的を予想を上回る年月で達成し、男は大学内で好きなように生きている。
―――――――では何故、僕は知識を求めたのか。
自身の根本に関わる問いについて頭を悩ませていた、その時だった。何気なく目を向けた先にテレビがある。画面の向こうにあるのは貧困と戦争で苦しむ女子供。男はそれを天啓だと受け取った。
知識は正しく扱われるべきである。何のために知識があるのか? それは必要な者たちへ、必要な技術を教授するためである。幸い男の頭には多大な知識が詰め込まれている。
ならばと、男は立ち上がる。
地位も名誉も捨て、男は白衣を脱ぎ捨てて母国を出た。引き留める者は多く、しかし男に迷いはない。それを感じ取った彼の教え子の一人は大学を卒業後、すぐに男を追った。国を出る勇気を絞れなかったある教え子は金銭面で彼を援護し、さらに後になって男を頭にした慈善組織を作り上げる。
男は目的の通り、人に必要な知識を分け与えた。
食べる物に困った者には効率的な食物の育て方、罪の意識に溺れる者には相応の道徳を与え、教育を受けられない無辜の子供達には生きるための知識を。全てが全て上手くいった訳ではないが、それでも彼は彼の出来得ることを為した。事実、彼の行いは行く先々で伝説と化し後世に残った。
驕りはなかった。
男は知識を得る機会がなかった者に、知識を与えることは知識を持つ者の当然の義務であると考えていたからだ。感謝されることに喜びの感情を覚えることはあれど、決して驕ることだけはしなかったのだ。
確かに、驕りも油断もなかった。しかし摩耗した。擦り切れてしまった。
人を導いた。誰もが生き残るために手を尽くした。必要ならその手で障害を除き、理解の及ばない超常的な存在すらも退いた。全てを救うなどという絵空事は起こり得なかったが、それでも男は男の手が届く範囲の人々は救って見せたのだ。
故に、彼は摩耗した。或いは狂ったと言ってもいいのかもしれない。
自身が生き残ることすら過酷な環境下で人を救うと言うのだ。妥協もあれば、自身を犠牲にする場面もあった。その過程で人が死ぬ瞬間を何度も直視したし、真の意味で地獄も化け物も見た。それで人を救えるのなら安いものだ、そう自分に言い聞かせて男は各国を奔走した。
いつの日からか、目的が変わっていた。それに男は気が付かなかった。
彼は『救う』事が目的ではなかった筈だ。結果そうなるだけで、彼の行動の根底にあるのは知識を得る機会がなかった者たちへの『教育』だったである。彼は知識の探求者であるのと同時に、立派な教育者でもあった訳だ。
しかしそれが覆ってしまった。あまりの苦行の果てに、彼は本来の目的を忘れてしまった。モノを根気よく教えるよりも、モノを救ってしまった方が幾分も早い。そう決意した男の行動は速すぎた。
救い、導き、助け、扶ける。持ちうる知識を全力で運用し、その場にいる人間らが必要とする知識と技術を与える。一見すると、男のスタンスは変わらないように見えた。だから周囲には男の何が変わったかなど分かる筈もなかった。寧ろ『救う』事が主体となった彼は、従来よりも多くの人を文字通り『救った』。そこに否定を挟む余地もない。ただそうすることしか出来ないからくり人形の如く、彼は死ぬまで人を『救った』。
結果、目的と手段が入れ違った彼は、偉人の一人に数えられる。
死ぬ間際に「そうだ、家庭を作ろう」と思い至った彼は、果たして来世でも変わることが出来たのだろうか。
☆
「ほら、起きなさいよ。いつまで寝てるつもり?」
軽く肩を揺すられて目が覚める。最初に目に映ったのはこちらを見下ろす朝田詩乃の顔。少し頬を朱色に染めながら口を少しだけ尖らした彼女は、最初に出会った時と比べて随分と大人びていた。
後頭部から程よい弾力と温かさを感じる。それが気持ちよくて軽く頭を動かすと、詩乃が小さく「……ん」などと可愛らしい声を上げた。それでようやく音ノ宮は自分の置かれた状況が分かった。
音ノ宮はゆっくり体を起こし、詩乃の
「どれくらい寝てた?」
「……その前に言うことがあるんじゃないの?」
自分の反応は大して気にせず、何となしに話を始めた音ノ宮に不満そうに詩乃は抗議する。そして追い打ちをかける様に彼女は、大体勉強会の最中に寝るってどうなのよ、と付け加えてからぷいと顔を反らす。
「む、自分としたことが。それは確かに朝田の言う通りだ、申し訳ない」
言葉通り、本当に申し訳なさそうに顔を歪ませながら音ノ宮は頭を下げる。
言い訳をするのなら、SAO事件の解決に奔走した際の疲れが今さらになってぶり返した。しかし事件のことと勉強会で寝てしまった事とは何の関係もない。また、言い訳を口にすることほど情けない話もないので、彼は自分の非を素直に認めた。
そんな誠実に謝られては怒る気もおさまるというもの。小さく息をついて、詩乃はこのことは不問にすることにした。それに詩乃も詩乃で音ノ宮に無断で膝枕したのだ、お相子である。
「ん、仕方ないから許してあげる。……私も少しだけ得したから」
顔は反らしたまま、詩乃はほんのり恥ずかしそうに目を閉じる。最後の方は近くにいる音ノ宮ですら聞き取れない程小さな声で呟いていた。それでも音ノ宮にはそれが何となく幸せそうに見えた。だから深く追求することはなく、彼は満足そうに頷いた。
「そうか、それはよかった」
「でも珍しいわね。貴方って勉強してる途中は絶対に寝ない人だと思ってた」
「……面目もないよ」
「別に責めてるんじゃないの。ただ疲れてるのならしっかり休まないとだめよ」
最近、詩乃は音ノ宮に小言を言うことが多くなっていた。
緊急事態や事務的な事柄は完璧にこなす音ノ宮であるが、私生活のことになると途端に怪しくなる。というのもこの音ノ宮祐太という男、実は地味にだらしないのだ。
例えば彼の両親が家を空けるとき、彼の夕食はインスタント食品かコンビニ弁当の二択である。部屋は片付いているが、ゴミ捨ては不定期に行っているのでゴミ箱はいつも満杯。本当に地味なところでアバウトなのである。
対して詩乃はその年齢に似合わずしっかり者である。彼女の部屋は簡素ながらも綺麗に整っているし、家族が家にいなければ自炊もこなせる。ましてや詩乃は面倒見の良い姉御肌も併せ持つお人よしである。そんな彼女が
「……そう、だな」
歯切れの悪い音ノ宮の返事に、詩乃の表情は険しくなる。
「音ノ宮君、休みは必要よ。そんな事私よりも貴方の方がよく分かっているでしょう?」
「いや、まぁそうなのだが」
「もしかして、また何か変な事に首を突っ込んでるの?」
びくっと、音ノ宮の肩がさながら小動物の様に震える。どうやら図星であるらしい。
確信を得た詩乃は更に顔を歪ませて、ずいっと音ノ宮に迫る。具体的には顔と顔が拳一個分くらいの隙間が出来るくらいである。当然、それだけの距離から非難の視線を浴びせられては音ノ宮の額から汗がにじみ出る。
苦々しいというよりも、どこか落ち込んでいるような顔をしていた。何と言うか、こういうのに詩乃は弱い。しかも音ノ宮の場合、打算ではなく天然なのだからなおさら困り物である。気づけば彼女は表情を軟化させていた。
「あのね、貴方が何をしようがそれは貴方の勝手。でも日常生活に影響がでてたら私だって心配するの」
「ああ、すまない」
「すまない、じゃないの。本当に悪いと思っているのなら、少しくらい周りを頼りなさいよ」
本当は音ノ宮に無理をしてほしくない。しかし音ノ宮が無理をすることで大勢の人が助けれらるのであれば、詩乃だって強くは言えない。なんせ彼女も音ノ宮に『救われた』者の一人なのだから。
だから詩乃はあの日、敢えて音ノ宮に並び立つと宣言したのだ。せめて彼を手伝ってやりたい、支えてあげたい。そういう気持ちがあった。
「……君も、そう言ってくれるか」
ふと、音ノ宮は消え入るような声音で言った。
「え?」
「いや、何でもない。さて、そこまで言うのだから手伝う気があるのだな?」
先程の辛気臭い表情はもうなくなっていた。それを見てやっぱり切り替えの早い男だと、詩乃は呆れ半分嬉しさ半分でこう言った。
「もちろんよ」
主人公に攻略されるヒロインよりも、主人公を攻略するヒロインの方が何となく素敵だと思う。
勿論場合によるけど(逃げ道