第3話 「老提督」
(ほんとうに、彼女に任せてよかったのかしら……)
輸送船団護衛、最近ではスパルヴィエロの専任ともなった感があるこの任務を、彼女に通達する度にトレントは毎回こんな不安に駆られていた。
自分を納得させるように、トレントは両腕で抱き抱えていたファイルを開く。
「いまさら何をいっても手遅れ、か……それに彼女は結果を出してきた」
何かを確認するようにファイルを読み進めていたトレントの指が、ピタリと止まる。
「でも、この指令書だけは納得がいかない」
トレントは手にしたファイルを閉じ、顔を上げる。
眼前に広がるティレニア海、さっきまでかろうじて確認できたスパルヴィエロたちの姿も、今は水平線の向こうに消えていた。
トレントはわずかに首を動かし、左側を見た。
船舶の入出港に使用する航路から少し外れた海上に、船とおぼしき船体の一部分が、
海面から見えていた。
折り重なるように身を寄せた数隻の艦影は、その身を海水に洗われ潮風に晒され、
錆に覆われた赤銅の身体を、無惨に晒していた。
だが、よく目を凝らせば、船体に穿った大穴や、天を指すように伸びた砲身から、
それが軍艦の残骸だと気づくだろう。
それは過去に行われた深海棲艦との戦いで戦没した、イタリア海軍に所属していた
戦闘艦艇のなれの果てだった。
そして、それはトレントたち艦娘の、かつての姿であった。
「提督は、何をお考えなのだろう」
かすかに疼く胸に手をやり、感傷を振り払うように首を振ると、トレントは意を決し
埠頭を後にした。
※
トレントが向かったのは、埠頭からわずか数分という距離にある、三階立ての大きな宿だった。入り口に飾られた看板は薄汚れ、かろうじて『エスペランザ』という文字が読みとれた。
ナポリをはじめとする、港町によく見られる典型的なタイプの船宿だが、今はやむなき理由からイタリア海軍に徴収され、臨時のナポリ基地兼、艦娘たちの宿舎として使われていた。
真上から見下ろすと、建物はL字型をしており、一階は食堂と酒保を、二階は艦娘たち
の宿泊施設、そして三階は作戦室や無線室などの基地機能を担っていた。
トレントは、眼前の古びた建物をしばらく無言で見上げていた。
数十ある窓のうち、いくつかはヒビが入りテープで補修がしてあった。だが、まだそれはいい方で、数部屋は窓枠そのものが、きれいさっぱり消失している。
いまさらだが、よく見ると、宿自体も微妙に傾いているように思えた。関係者以外に説明しても、ここがイタリア海軍の司令部のひとつとは、容易に信じてはくれないだろう。
入り口近くには、警備のために銃を構えた兵が数人立っており、道行く人々が横目で
見ながら通り過ぎていく。
トレントに気づき、直立不動の姿勢をとりながら敬礼する兵たちに返礼しながら、
彼女は宿の中へと入っていった。
ギシギシと音を立てる階段。いまにも踏み抜きそうな場所を避け、なるべく端の方を選んでトレントは三階を目指した。
ようやく目的の階というところで、靴のかかとが出っ張っていた釘に引っかかり、トレントはバランスを崩してしまう。
思わず手を伸ばすが、残念なことに掴んだとたん、本来の使命を全うする間もなく、
手すりは鈍い音を立て折れてしまった。
「痛ぅ……もうっ!」
ふだんはあまり、喜怒哀楽といった感情を表に出さないトレントだったが、しこたま壁に頭をぶつけてしまっては、そうもいかないだろう。
忌々しげに、握っていた元手すりを廊下の端に投げ捨てた。
気を取り直し、散らばったファイルを拾い集め、服についた埃を払うと、トレントは
細長い廊下を歩き始める。
左右に続く部屋には目もくれず、廊下の突き当たりまでくると足を止めた。
目の前に、なんの変哲もないドアがある。
『執務室』
ドアには、そう書かれた小さなプレートが、少し斜めに釘で打ちつけられていた。
トレントは衣服に乱れがないか素早く確認すると、軽くドアをノックする。
「おう、鍵なら開いてるぞ~」
何とも気の抜けた声に、トレントはため息をつきながらノブを回す。
「失礼しま……」
ドアを開けたとたん、室内から漂ってきた芳醇な香りがトレントの鼻孔をくすぐる。
殺風景な部屋だった。
部屋の左側には書類を管理する大きな本棚が、反対には簡素な作りのキャビネットが
置いてある。
調度品の類といえば、ありふれた山河が描かれた風景画が、壁にかかっているぐらいだ。
唯一、トレントが用意した(私物の)花瓶と、それに活けられた色とりどりの花が、
この殺伐とした部屋にわずかな彩りを与えていた。
部屋の正面、一番奥まった場所に置かれた古びた事務机の前まで進むと、トレントは机に置かれた安物のワインボトルに気づいた。
封はすでに切られており、そこからさきほどの香りが漂ってきている。
「また、ですか?」
机の後ろに置かれた椅子はこちらに背を向けていたが、トレントはかまわず話しかける。
露骨に顔をしかめるトレントだったが、別段ワインにそのものに不満があるわけではなかった。
むしろ、生粋のイタリア人であるトレントの日常にとっても、ワインは欠かせないも
のであり、ほんのわずかな人(艦娘込み)しか知らないことだが、彼女はかなりの酒豪
だった。
トレントは振り返り、入り口の上に取り付けられた時計に目をやる。
「現在の時刻は、午前10時46分。しかも、提督は現在当ナポリ基地司令官として勤務中のはずですが?」
「そう、堅いこと言いなさんな」
いきなり椅子が回転し、声の主がニヤリと笑う。
齢は60後半から70といったところだろうか、年相応に小柄で痩せ気味の体格、頭髪と
きれいに切りそろえられた見事な口髭は、白一色だった。
海の男らしく、赤銅色に焼けた肌を持ち、その顔はまるで彫り込まれたような深い皺に埋め尽くされている。
その風貌や、笑みを絶やさぬ好々爺といった顔つきだけみれば、ひとつの基地を総括する司令官というより、漁に精を出す老船乗りの方がお似合いだろうが、海軍の高級士官用の軍服を一部の隙もなく着こなし、時折見せる鋭い眼光が、それを否定していた。
トレントとて、艦娘としてこの数年、深海棲艦を相手に死闘を繰り広げてきた。
幾つもの修羅場も体験し、その度にそれ乗り越え、並のことには動じないという自負
もあって。
だが、目の前の老人が本気でトレントを見つめたとき、彼女は一切の反論の言葉を失ってしまう。
マリオ・バルドヴィーノ小将。
この老人こそ、ナポリ基地所属の艦娘たちの提督であり、イタリア海軍を統括する
総司令官であった。