クルヴィスが死に物狂いで提出した資料に目を通していた弦十郎は、チラリと盗み見る。見間違いでなければ、多分、立ったまま寝ていた。現在朝の七時半。この男はやりきったのだ。しかしこの後にはツヴァイウィングとしての天羽奏復帰プロデュースが待ち受けている。出社まで三十分。果たして起きることが出来るだろうか。
「クルヴィス。おい、クルヴィス。起きろ」
「……ふぇぃ」
「ご苦労だった。後は俺の方から二課に伝達する。お前は休め」
「……ひゃい」
「奏にはこちらから言っておく。それでいいな」
「――いや、そりゃダメな相談です。やります」
「そ、そうか……くれぐれも無理はするな?」
背筋を伸ばしたクルヴィスは奏と一緒に打ち合わせの時間通り、指定されたテレビ局に足を運んでいた。
「今日も何事も無ければいいのだがな……」
頻発しているノイズ事件に、二課も辟易としていた。連日連夜、とまではいかないが不定期に勃発されてるこちらとしてはいい迷惑だ。対策もなければ、新たな脅威にも気を巡らせなければならないのだから。
相変わらず、翼は管理局を毛嫌いし、響との仲も進展する様子はなかった。復帰を果たした奏もまた、クルヴィスの手によって再び表舞台へと立とうとしている。しかし、ツヴァイウィングの復活になるかは、まだ難しい話だった。二課と管理局の軋轢を生み出しているのは、心を開くことのない風鳴翼が原因であることは明白だったが、誰もそのことに触れないだけの優しさは持ち合わせている。
学校の帰り、いつもの足取りで町を歩いていた翼が時間を気にして時計を見れば、奏がもうじき取材を終えて戻ってくる頃合いだった。それに少しだけ頬を緩めて歩き出して顔を上げれば見覚えのある騎兵が、街の風景に馴染んでいる。誰もそれが未知の異形であることに気づいていないのか、談笑しながら横を通り過ぎる学生や行き交う車両。
「――――」
ここで、やるつもりか。しかし……、そう気を揉んでいた翼だったが、相手はこちらに気づいている様子がなかった。ただジッとバイクに跨っている。さり気なく近づいてみるが、やはり気づかない。勘違いだっただろうか? 翼がどうするか考え込んでいるうちに、騎兵の首が動く。
目があった。だが、互いに言葉を交わすわけではない。ただ、睨み合う。
「…………」
《…………》
『何をしている』
埒が明かず、口を開けば電子音声とかぶった。それはこちらの台詞だと言わんばかりに。
「往来の片隅で、なぜ待機している」
《理由はない。人の営みを観察していた》
「なに?」
《走り抜けるだけの風景だが、一時足を止めれば喧騒に塗れたライブ会場だ。たまにはこの雑音も悪くない。……フン、悪くない》
以前にも増して人間臭さが感じられる言動と行動に、翼は何処か警戒心をほぐした。街のど真ん中で戦闘する気はないらしい。
「意外な事を口にするものだな。機械なのに」
《機械なりに、人間を評価している。機械にできない不確定性原理が多すぎる。統合性も均一性もない、にも関わらずお前達人類は不思議だ》
「……私と、戦わないのか。お前達の任務は戦闘データの収集、そのはずだ」
《該当する》
「ならば」
《時間の無駄だ》
「――――は?」
《時間の無駄だ、と言ったのだ。乗れ、天羽々斬》
バイクのタンクから予備のヘルメットを取り出すと、翼に差し出した。言葉の意味を飲み込むのに時間を要し、理解してから困惑する。
「な、何を言っている? 私とお前は敵同士、それを」
《だからなんだ。どうする、乗るのか》
「いや、それは……」
《コイツは速いぞ。お前の乗っていたバイクよりもな。敵を知るのも戦いだと思うが》
「……挑戦とみた。受けて立とう」
ヘルメットを受け取った翼はバイクに乗り込むと、ライダーの身体に掴まった。無機質な身体、鋼鉄の肉体、機械の内臓。造り物の生命。冷たい感触に、やはり人の温もりはなかった。違法魔導士などではない。脳裏に浮かぶリインンフォースⅡ――あれも、デバイスと聞き及んだ。
融合騎。ユニゾンデバイス。そして、同じく人型のフレームデバイス。
愛嬌のあるリインフォースⅡとはあまりにかけ離れた、戦いのために造られた存在。或いは、自らが望んだ形とはこういうものなのかもしれない。
緩やかにバイクを走らせるライダーに、翼はしっかりと掴まる。思いの外、しっかりとした運転に眉を寄せた。以前はもっと法定速度を置き去りにするような無法者の走りをしていたが、今は自然な走りをしてる。周りに速度を合わせてバイクを運転していた。
(私は、なにをしているんだ……)
《天羽々斬》
「風鳴翼だ」
《風鳴翼。飛ばすぞ――》
「望むところ!」
同意を得た次の瞬間、ライダーの駆るバイクは突風と共に道路を駆け抜ける。
「……つかぬことを聞くが、信号機の意味は知っているか?」
《青は走れ。黄色は注意。赤は止まれ》
「理解しているようで何よりだが――」
信号が変わる直前に駆け抜けていては意味がない。
「意味が無いな」
《やはり走っている時が一番良い。俺はこの時間が好きだ。コイツと走っている時が、一番“楽しい”と思っている》
「貴様は機械だろう」
《……それがどうかしたか?》
「機械の貴様が、なぜ感情を口にする」
《人間に感情の是非を問われるとはな。貴様は機械にでもなりたいのか?》
問い返されて、翼は口を閉ざした。
法定速度を置き去りにした疾風は警察車両すら軽々と撒いていた。
『翼、聞こえるか。高速で移動しているようだが――お前、何をしている?』
「騎兵の挑戦を受けています」
『なにが目的だ?』
「わかりません。ただ、バイクを走らせているだけで……」
『戦闘が目的では、ないのか……?』
「……相手の動きを見るに、単にツーリングではないかと」
『…………変なやつだな。まぁいい、妙な動きを見せれば即刻戦闘を開始しろ』
「わかりました」
二課との通信を聞いていたのか、ライダーは即座に否定する。戦闘の意思はない、と。
《今のお前と戦う理由がない》
「ならば何故」
《お前の乗っていたあのマシン。良い走りをしていた》
「……それだけか? その賛辞を述べる為に?」
《それだけだ。そこまでの走りだった。だがコイツは違う。既存のパーツと整備に手を加えて、走らせるだけとは違う。俺の為だけに造られた、俺と同じく。俺の半身だ。コイツは走る為に造られた。だから、俺もそうする》
「騎兵……」
まだ加速を続けるバイクのスペックの底知れなさに翼はどこか胸が湧いた。何もかも置き去りにした走り――“走る為の走行”
《アームドデバイス、ソニックウインド。それがコイツだ》
「デ、デバイスだと? 私の乗っているコレが!?」
大型二輪型アームドデバイス――クルヴィスの危惧していた通りになった。簡単に自らの手の内を明かしているが、良いのだろうか。それとも、自負しているのか。その程度で勝利は揺るがないとでも。
「ど、どこまで走るつもりだ!?」
《どこまでもだ。理由などない》
「いや、しかしだな」
《いつまで
「この命、果てるまで――」
問い返されて、応えて。気づく。ライダーは首だけ振り向いて、翼と目を合わせていた。ハンドルに手を触れることもなく腕を組んでいる。しかし、操舵に一切の問題はなかった。
「
《気は済んだか?》
「えっ?」
《マシンに乗っていた時は、もう少し気概があったのだがな。感情の起伏、人間とは面倒なものだ》
緩やかに速度を落とし、ソニックウインドを停車させる。気づけば東京を一周していた。人気のない少ない通りを選んで停めたのは、ライダーなりの気遣いなのだろうか。いやしかしそんなはずはない、相手は機械。翼はヘルメットを外して、ライダーに返そうとする。
《いや、いい。お前が持っていろ。俺には不要だ》
「しかし」
《……次に
パトカーのサイレンに、ライダーは敢えて立ち向かった。
前輪を持ち上げて軽々と飛び越えていく。それに急ブレーキをかけて次々とUターンして追跡を開始する警察車両の群れ。ヘルメットを持ったまま立ち尽くす翼は、視線を落とす。
黒に紫のラインが走っているフルフェイスヘルメット。風防に映る自分の顔と睨み合い、なんとも言えない惨めな気分になった。
「……戦闘機械にすら慰められるか」
確かに、走っている時は余計なことを考えずに済んだ。些事など気づけば振り落とされ、大事なことだけが残されている。
胸にあるのは、変わらぬ防人の矜持。常在戦場。管理局との軋轢も、所詮はつまらない子供の意地っ張りだ。――そんなことは分かっている。分かっているのだ。だが、胸に影を落とすのはいつだって、あの日の惨劇。
二年前、自分が守れたのは何だったというのか。大事な大事な片翼すら、狐に掻っ攫われた。