――弦十郎の下へ訪れてきた人物は、意外な相手だった。それは、退院してきた天羽奏。面食らう相手に挨拶代わりに片手を挙げて笑みを浮かべてみせる。
「よ、ダンナ。どうしたんだい、そんな間の抜けた顔して」
「……いや、お前……退院は明日ではなかったのか?」
「アタシの退院は今日だよ。まったく、あの嘘つきめ。今どこにいるのか知ってる、ダンナ。あんだけ「迎えに行く」って言ってたのに、すっぽかしやがって!」
「ああ、クルヴィスなら今――」
「…………」
翼がフレームデバイスに襲撃されて三日が経った。その間、クルヴィスの睡眠時間は殆ど無かったし、翼と響の間で一悶着あったらしいが右から左に通り抜けるくらいには疲労している。まともに帰ることもせず、新たな敵への対抗策と解析に全神経をすり減らしていた。
「くぉーらぁ! この嘘つきィッ!」
「ほびゃー!?」
ソファーに横になってスーツの上着を掛けて寝ていたクルヴィスが突然、怒りのモーニングコールにソファーから転げ落ちた。慌てて身体を起こすと、そこには眉をつり上げた奏がふんぞり返っている。
「は、え!? 奏!? なんで!?」
「なんで、じゃないだろ。今日はアタシの退院日だ。ダンナにも予定間違って報せてたのは、どこの誰だい、まったく。それに迎えに行くって言ってたからちょっとは待ってやったのに来る気配無かったからこっちから来てやったんだ」
「……え、今日!? マジで!?」
奏はすっかり機嫌を損ねていた。それにクルヴィスは何か弁解しようとしたが、自分が約束を破ったことに変わりはない。だが、思わぬ助け舟がなのは達から出された。
「奏さん、退院おめでとう。だけどクルヴィスさんのことイジメてあげないでね。ここ数日まともに寝れてないみたいだから」
「そうなのか? アタシのスケジュール管理はしっかりしてんのに、なんで自分の事はどうにもならないのか不思議だけど」
「面目ねぇ……」
「顔色もあんまり良くないようだけど、なんかあったのか」
「何も無いっていう方が最近は珍しいかなーと」
「その辺りは私達から奏さんに話すから、クルヴィスさんは休んだ方が。寝てないんでしょ?」
「人間の身体は四十二時間ぶっ通しでスペック保てるように出来てないんですよ、高町一等空尉……」
目の下のクマを押さえながら深く息を吐き出す。だが、寝ていた頭が叩き起こされた以上は活動を再開しなければならない。スーツの上着を羽織りながら、ふとクルヴィスは自分の服の臭いを嗅いだ。そういえば風呂に入っていない。
「どっかの教官殿は、連続百二十時間ぶっ通しで活動して常にスペック保ってましたけどね。生憎と俺はそれに比べれば平々凡々、無理っすわ」
「それはちょっと普通じゃないっていうか……」
怪物とか化物とか、或いは人体に深刻な障害を抱えている可哀想な人だ。
「クルヴィス」
「なにか?」
ガッチリと顔を捕まえて、奏は睨みつけている。それに目をそらすことも出来ず、クルヴィスは眉を寄せた。怒ってるのは目に見えている。頭突きの一つでも飛んで来ることを覚悟していたが、現実は違った。
「寝ろ。説教はそっからしてあげるからさ」
「あ、怒られんのは確定なのね俺……」
「詫びの品一つないってのかい? あー、アタシ唐突に退院祝いで甘い物食べたくなってきたなー! どっかのプロデューサーが買ってきてくれたらアタシは許してやらんこともないんだけどねー?」
「遠回しに抉りこんでくるのやめてください奏、買ってくるから」
「悪いね。でもその前に、風呂入ってきな。汗臭いよ」
「そのつもり。奏、退院おめでとう」
「言うのが遅い」
デコピンしてから解放されたクルヴィスは、その後すぐに自室でシャワーを浴びるなり泥のように眠り始めた。
「ふふ、奏さんとクルヴィスさんって本当に仲が良いんですね」
「一蓮托生ってまではいかないけどね。なにかとアイツには感謝してるよ」
「そうですね。ああ見えて、クルヴィスさんが動いてないと本局から圧力の一つでも来てるはずなんですよ」
「アタシはよく、管理局の仕事がわからないんだけどさ。クルヴィスの言う情報査察部ってそんなにヤバイ部署なのか?」
「クルヴィスさんは飄々として話してくれないし、私も詳しくは知らないんだけど」
次元犯罪組織に大なり小なり恨まれている。そして、地上本部だけでなく本局からも憎まれている。味方と呼べる、信頼できる人などいなかった。同じ部署の人間であっても、それは敵だったかもしれない。
なのはが知るだけでも、情報査察部絡みの事件には死人がついてまわる。地上本部を狙ったテロであったり、ロストロギアを違法所持した魔導師の確保であったりと――或いは、情報査察部そのものを狙った犯行であったのかもしれない。そんな部署の隊長を進んで引き受ける人材など皆無に等しかった。だからこそ、本局から流されてきた柳クルヴィスが上げた功績は凄まじい成果だ。
管理局は情報査察部を表彰することはしない。それは、彼らがあくまでも裏方であり、同時に表舞台に立たせればその命が狙われる危険性が跳ね上がるからだ。
「クルヴィスさん、結構な修羅場くぐってきてるはずなんだけどなぁ」
「それなのに、あんな体たらくで大丈夫か?」
「それくらい地球での仕事が大変なんですよ」
「なら、アタシがいっちょ仕事を減らしてやるとするか!」
「ダメですよ。奏さんは病み上がりなんですから、いきなり実戦だなんて。だいぶ長い間寝たきりだったんですから」
「一理ある。なら、戦技教導官である高町一尉のお力添えを頼もうかね」
「よろこんで!」
――喫茶店よろづ。本日のディナータイムも盛況のままに終わり、店主は夜遅くにまで店に居座るリディアン音楽院の生徒達を早々に店から退去させる。軒先に出している看板を書き換えてルナリアと一緒に店の片付けを始めた。しかし、にも拘らず来店を知らせるカウベルに視線を向ける。
「いらっしゃいませー、ってアンタか。毎度毎度飽きないな、うちに来て」
「常連客に向かってなんて口を。いつものセットお願いします」
「悪いがうちは馴染みの顔に“いつもの”なんて用意しちゃいない。気まぐれ日替わりセットならあるけどな」
「んじゃあそれで」
「はいよ」
クルヴィスはいつものカウンター席に腰を下ろして、注文を待った。本日の店主は中華な気分だったのか、どんぶり丸ごと麻婆豆腐に青椒肉絲を添えて炒飯を持ってくる。ボディブローというレベルの重量級コンビネーション。
「お、おお……今日はまた随分とキッツイのを」
「お好み山椒も付けておくからお好きにどうぞ」
「ありがたくいただきます」
クルヴィスがレンゲと箸を使って口に放り込んで消化していく。その手が、半分ほどまで進んでから、急に止まった。
「……辛いんですけど」
「中華だし、今日はそういう気分だった」
ニヤリと意地の悪い笑みを見せて、心底楽しそうに水を差し出す。砂漠のオアシスと言わんばかりに飲み干すクルヴィスはヒィヒィ言いながらもしっかり完食した。
「ごちそうさまっした」
「はいどーも」
「今日はもう一つ頼みが」
「なにか?」
「普段世話になっている女性から退院祝いに甘いものが食いたいとゴネられまして」
「へぇ」
「頼んでもよろしいでしょうか」
「いつもうちの売上に貢献してくれているから、今回は特別、受け付ける」
すいませんと頭を下げるクルヴィスに、店主は訝しむ表情をする。
「ニホンジン、てのは変な人種だな」
「俺もそー思います。生まれも育ちも日本だけど……」
「ん? 俺の顔がなにか?」
(……そういや、この店主さん。何処の生まれだ?)
随分と日本語が流暢で、髪の色も珍しいと言えばそうかもしれない。クルヴィスは物珍しさから店主の人柄を観察し始める。海外からの旅行者にしても、日本に居を構えて店を出しているだけの腕。しかも連日繁盛している。昨今のSNSなら話題に一つにでも上りそうなものだが、それもない。フラッと現れて、まるで今までそこにいたのが当たり前のように馴染んでいる。
「……店主さん、アンタ何処の生まれ?」
「……さぁ? 生憎、流れ者でね。ガキの頃からあっちこっち行ってるもんだから、何処の生まれなのかは忘れちまったよ」
「へぇ」
嘘を言っているようには思えない。
「あまり詮索してほしくないんだが。そこまで親密な仲でもないだろう」
「親睦深めるのはダメですか」
「あくまでも、客と店員の関係に留めたい。お互いの為に。毎回うちに来てくれるのは助かるが、人に言えない仕事してるんだろ?」
「……あー」
クルヴィスは思った。“――この店主は、ヤバイ”と。下手に踏み込めば、帰れなくなる。情報査察部で経験したことのある危険信号に近い。
「ま、それは別にして。贈り物の件だが、相手はアンタにとって大事な人か?」
「あー、それ聞いちゃう。そういうこと聞いちゃいますか店主さん」
「大事な事だから聞いておきたいんだよ。それによって俺のやる気が違うので」
大事な人、改めて考えてみる。
――かけがえのない人。確かに、天羽奏は柳クルヴィスにとってしてみれば大切な人だ。居なければ困る。しかし、それが自分の中でどういった感情であるのかを冷静に考えると、とてもこっ恥ずかしいので深く考えるのは止めておいた。
「まぁ、大事な人ですな」
「恋人か?」
「いやそれ聞いちゃいますか。人に詮索するなと言っておきながら、そういうことを聞いてきますか!?」
「大事なことだから二回ぐらい聞いておく」
「店主さんのこと、今すげぇ性格悪い人だと思いました」
それだけ気さくに話をしていても、先程の悪寒が尾を引いてクルヴィスの背を冷やす。
果たして何者なのだろうか、と。