セブンスターを喫う先生、あるいは黄金瞳の   作:ishigami

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 私以外私じゃないの
 当たり前だけどね
 だから報われない気持ちも整理して
 生きていたいの
 普通でしょう?

 ――ゲスの極み乙女。/私以外私じゃないの
















■■09 陰日向

 

 

 

 ――彼と過ごした日々を、思い出す。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 中学一年生のとき。まるで映画(フィクション)のような、しかし冗談ではない驚愕(アクション)を体験をした。

 

 八月――

 

 全国中学生剣道大会。

 

 剣を志す者としては、いずれ箒も出場するつもりの大会である。ただし自身の所属する小中一貫学校の剣道部には実力者があまりいないため、団体ではなく個人での出場ということになるであろうが(今年は連行序列で一年生ということもあって見送られた)。

 

 事実、二年後の三年生の個人大会では見事優勝を果たすのだが――とまれ。

 

 休日ということもあり、箒はその日に日本武道館で行われる大会を観戦すべく、久しぶりに上京を果たした。将来のライバル候補を見つける、いわゆる敵情視察である。外の気温は都会で迎える真夏としては今日はわりかし涼しいほうであったが、会場は屋内であったためあまり関係しなかった。

 

 大会は二日目に入り、目当ての男女個人戦が始まったのは一一時からであった。

 

 観客席は、全国大会ということもあって応援員で埋まっていた。でかでかと「必勝■■!」と書かれた横断幕を振り回す鉢巻をした母親の姿や、甲子園の応援団のように学ランを着た男たちが奇声の如く喉を張り上げる光景は流石に無かったものの、激しいぶつかり合いの瞬間には会場全体がどよめき、裂帛の声には肌がぞくぞく(・・・・)した。

 

 午前の部が終了する。

 

 有望株――という表現はあからさまに上から目線だが――は何人か見つかった(全国大会なのだから当たり前ではある)。そのなかに、小学生のときに別れた男子の名前があることを期待していなかったかと訊かれれば、期待していなかった、という答えは嘘になる。

 

 しかし彼の名前は見つからなかったものの、それでも「まあ剣道を続けていればいずれ会えるだろう」という気がして、それほど落ち込むこともなかった。心に余裕があるというべきか。

 

 お昼休憩が挟まれ、客席を立った箒の携帯が振動した。メールを確認する。

 

 ――変わったのかな、私は。

 ――変わったとしたら、やっぱりあの人たちのおかげだろうな。

 

 大沼六道(おおぬまりくどう)。あの町で、自分を受け入れてくれた大らかな人。そして――

 

 そのもう一人と、大会終了後に待ち合わせすることになった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 競技は一六時に終了した。個人戦の続きは明日、準々決勝からスタートされる。

 

 箒は武道館の入り口近くで彼の姿を探していた。

 

 ()――

 

「箒。待たせたかな」

「いや。待ってない。時間通りだ」

 

 白雪軍人(しらゆきむらと)。現れた男は、かつての白髪を黒く染め肩に触れるか触れないかくらいまで伸ばし、左目を隠す眼帯の代わりとしてか、ラウンドフレームの紺の色付き眼鏡を掛けていた。

 

 グレーのジャケットに白シャツ、紺のスウェットパンツ姿で現れた彼は、都会の住人と言われても違和感がない。ちなみに箒は大会という厳粛なこともあり、真面目にセーラー服の恰好であった。

 

「歩きながら話そう」

 

 白雪軍人は。一年ほど前から東京と屋敷を行ったり来たりする生活を送っていた。当時は六道の繋がりでパソコン関係の仕事をしていた――と箒は聞いていたが、パソコンと聞くと姉のことを思い出すため詳しくは訊かなかった――彼はあるとき上京した際に「誘拐事件」に遭遇したとかで、見事犯人たち逮捕に貢献したらしいが……、

 

 なんでも誘拐された娘は六道の関係者すなわち偶然にも白雪軍人の仕事相手の子だったらしく、以来彼は仕事先と親しい関係になり、仕事(・・)の関係で上京する頻度も増えていた。

 

 そのため剣道の稽古を付けてもらう回数は減ったものの、彼がいないあいだは、次の稽古の際に呆れられないようにと、より真剣に取り組むようになっている。

 

「どこへ行くんだ?」

 

「そうだな。とりあえず……近場というと、渋谷あたりかな」

 

「え?」

 

「箒もティーンになったんだ。家には、そんなに服もないだろう。いくつか新しいのをと思ったのさ」

 

「い、いや、そんな。しかしだな……」

 

「箒は綺麗なんだから、可愛い服も似合うだろう」

 

「き、きれい!?」

 

「ああ。そうだよ。箒は美人だ。沈魚落雁閉月羞花(ちんぎょらくがんへいげつしゅうか)――とは些か大げさだが。これからもっと綺麗になる。お前はそれを自覚しなくちゃダメだ。自分のことをきちんと把握して、それを十全に活用する技術。活用するしないは別としても、出来るという選択肢は有って損じゃない。教えたはずだな?」

 

「そ、それとこれとは――違うんじゃないか? それに、び、美人って」

 

「同じことだ。……あの町だけが世界の全てじゃない。いつまでも篭っているよりかは、たまには羽を伸ばして、外の刺激にも触れたほうがいい。まあ、何事もほどほどが大事なんだが。適量を過ぎれば毒にもなる。――それと箒」

 

「は、はい!?」

 

「照れすぎたよ、ド阿呆馬鹿たれ。赤くなって。かわいいやつだ」

 

「……っ、軍人! からかうな!」

 

 ―――。

 

 それから二人はショッピングモールを見て回った。流行とは無縁に近い場所で暮らす箒も、やはり流行にこだわる性格ではなかったものの、年相応の一般女子の感性に漏れず「カワイイ」ものには弱いらしく、当初の目的であった服を目当てに何件か回りながら――「ふわぁ」「これがいいのか?」「はあっ!? な、なな何を言って」「いいんじゃないか」「で、でも私にはこんな派手なの似合わない……」「そんなことはないさ。似合うだろう」「そ、そうかな」「ああ」――選びつつも、ときには人気のスウィーツ店で甘いものを食したり――「んぅーっ! あまいっ!」「シロップ凄いなこれ……美味いけど」「なにをぶつぶつ言ってる、あまくておいしいぞ、これっ!」「わかった、わかった」――一方では箒がクマのぬいぐるみを自腹で購入するなどして、十分に楽しい時間を過ごした。

 

 時刻は一八時過ぎ。

 

 本日の戦利品――服や化粧品やアクセサリー、六道へのお土産等――が入った紙袋を椅子に置きながら、箒たちはモダンな雰囲気のオープン・カフェでくつろいでいた。ここで少し休んだら、あとは帰宅するだけである。

 

「いっぱい遊んだな。楽しかったか?」

 

 箒は、いささか恥ずかしげではあったものの、小さく頷いて。「たのしかった」と呟く。今さら夢中になっていたときの態度を思い出して照れてしまっていた。

 

「よかった。デートを満足してもらえたようで何より」

 

「で、でーと!?」

 

「なんだ、気づいていなかったのか? 年齢の近い少年少女が二人で遊べば、それはデートと呼ぶんだぞ」

 

「だ、だが逢瀬(デート)というのは、こ、恋人同士がするものでは……」

 

「恋人未満でもそう呼ぶことはある。場合によっては親娘(おやこ)でもそう呼ぶだろう。箒は俺とのデートは厭だったか?」

 

「そっ――そんなことはない!」

 

 真っ赤な顔をして、叫ぶ。剣道で鍛えられているだけあって、大きく響いた。

 

「わかった。わかったからそう熱くなるな。周りが見ているぞ」

 

「――っ!」

 

「まったく。本当にかわいいやつだよ」

 

「………っ、………………ぅ、き、今日の軍人は……なんだかいじわるだ」

 

「箒が可愛いから、かもな」

 

「またそれを言う―っ。 そんなに私をからかって楽しいか!?」

 

「ははは」

 

「笑うなー!」

 

「……悪い、電話だ」

 

 着信中の携帯を振って見せた。

 

「……逃げるなよ」

 

「逃げないよ」

 

 白雪軍人は笑みを浮かべたまま席を立ち、箒から少し距離を取って背を向けた。ひとり残されて、興奮しすぎている自分を落ち着かせるためにココアの入ったコップに手を伸ばそうとしたとき――

 

 彼が振り向く。

 

 少女の背後で。

 

 ()

 

 

篠ノ之箒(・・・・)―――――――――――ィ!!」

 

 

 見たものは。

 

 機械の鎧(・・・・)

 怪物の魔手(・・・・・)

 

 ――私は。

 

 時間が引き延ばされる感覚。

 

 眼前に迫るIS(だいきらいなそんざい)の輪郭――八本の脚を持った、蜘蛛のような形状であること――や長い茶髪(・・・・)の操縦士のその歓喜に歪んだ笑みまでもが鮮明に判った。すべての動きが明瞭で、しかし何が起きているのか分からない、周囲の音が遠のくなかで。

 

 無意識に。

 真っ先に(・・・・)思い浮かんだのは、一人の名前。

 

 ――「むらと」

 

 

 

「誰に手ェ出そうとしている、クソアマ(・・・・)

 

 

 

 破砕音(・・・)

 

 ISに衝突(・・)した巨大な物体が、操縦者に触れる手前でシールドバリアに阻まれ、盛大に音を立てる。

 

 射出(・・)と呼ぶに相応しい速度であった。操縦者はカフェのテーブルが飛んできた方向を見遣り――

 

 気を取られた隙に迫っていた青年(・・)への対応が遅れた。

 

 ハイパーセンサーは感知していた。しかし操縦するのはあくまでも人間の意思であり、鎧を(よろ)っている以上そこには確実に微小ながらも遅延(ラグ)が存在する。

 

「ぐ――!?」

 

 殺意(・・)。浴びてしまえば、決して無視することはできない。それは見当識を狂わせる。

 

 心に刻まれた恐怖(・・)。そして、対応への遅延。ISという慢心。

 

 反撃するには遅すぎた。

 

 猛然と放たれる拳が、ISの装甲|一〇センチ手前で静止した瞬間。

 

「――――ああああああああ!?」

 

 絶叫(・・)

 

 しかし、ISを絶対優位兵器たらしめる機能の一つ「シールドバリア」は発動(・・)していなかった。

 

 ――ISシールドバリアの弱点。

 

 ISシールドバリアの防御機能は「IS」が外部(・・)から操縦者に損傷が与えられるとセンサーで判断(・・)した「攻撃」にのみ反応する。でなければISは「エネルギー兵器」と「太陽光」の区別すらつかずにバリアーでシャットアウトしようとし、そのたびにシールドエネルギーは削られてしまうだろう――「酸素」と「毒ガス」を誤認した挙句に操縦者を窒息させてしまったり、外部出力の「音波」を「衝撃波」と勘違いしてしまうことだってあるかもしれない、しかし現実には、そんな「馬鹿なこと」は起きていない。

 

 であればこそ。

 もし仮にISが「見逃す」ほどの、「攻撃だとは認識されずシールドバリアのセンサーをすり抜けられる程度」の「振動」を「人体へピンポイント」で注ぎ、かつ「身体に浸透し筋肉に接触した時点で衝撃へ変化して炸裂させる」ことが可能であるとしたら。

 

 ……ありえない話だ、まるで夢物語だ、それを実現するには雨のなかを濡れずに走れる(・・・・・・・・・・・・)ほどの常軌を逸した(・・・・・・)空間認識能力と、それを実行するための隘路(あいろ)を生み出す超越的(・・・)な計算能力、更には全身の隅々という筋肉を寸分違わず望むままに操作する完璧な掌握(フルコントロール)が必須でなくてはならない、それら一つの要素たりとも抜け落ちることは許されないのだ、まともな(・・・・)生物にできることではない。

 

 だから、これを「弱点」と呼ぶにはあまりにも無謀な話だった。ありえない考察だ、ばかばかしい、夢物語だ。

 

 それでも(・・・・)

 もしも(・・・)――

 

 万が一にも(・・・・・)それが再現できてしまったなら(・・・・・・・・・・・・・)――

 

 外側に(よろ)っているISに人体の内側から発生した「衝撃」による「攻撃」を防ぐ手立てなど、あるはずもない(・・・・・・・)のだから。

 

 それ(・・)は当然の如く貫くだろう、最強の空戦兵器と呼ばれたISの中身を、それらの人間(ずのう)を。IS本体を傷つけることなく、また気づかせることもなく、それらが守るべき対象(にんげん)のみをみごと破砕してみせることだろう。

 

 まさに理不尽。さながら常識外れ(ファンタジー)のように。

 

 けれど事実(・・)、この瞬間に。

 厳然たる現実としてーー

 

 

 操縦者の肋骨は、青年の拳が止まった瞬間に――触れてさえいないはずなのに――確かに破壊(・・)されていた。

 

 

「なんっ……だ――――てめえは!!?」

 

 触れなかった理由は単純である。装甲が纏うシールドバリアの高さ(・・)は最初のテーブル投擲の際に目視(・・)で確認済みであったため、あとはセンサーをぎりぎり(・・・・)回避した距離から、緻密な計算と精密な体術によってさながら「接触信管式手榴弾」の如き遠当て(・・・)を放ってみせたのだ。

 

 黄金の左目を輝かす彼は、それ(・・)をやってのけたのである。文字通りの鎧通しを(・・・・・・・・・)

 

 そして人間はISとは違い、時として殴られただけでも簡単に死に至る場合がある。

 

 

 今回は、違った(・・・)

 

 

 ――浅いか!

 

 露出した肌であったなら確実に内部に浸透し爆散したはずの一撃は、されど弾丸すら防ぐというISスーツによって妨げられていた。空気という「気体」を通したことで、力の伝達が薄れてしまっていたのだ。

 

 操縦者はまだ動ける、動けてしまう――この奇襲で完全に沈めなければ、途端に危うくなるのは青年であった。

 

 追撃という選択肢。即座に却下。相手が最強の空戦兵器という、こちらの圧倒的不利は変わらない。空を自在に駆け回る存在がどれだけ厄介なのかは、魂に染み付くほどによく知っていた。

 

 もはや舌打ちをする暇もない。

 

「箒!」

 

 稼いだこの時間を最大限に活用する。椅子やコップが散乱するなかで尻餅をついていた少女を抱きかかえると、白雪軍人は一目散に逃走を開始した。

 

 ――街中での襲撃! 奴ら本気か!?

 

 直前に掛かってきた電話は「更識」からだった。外部勢力が「篠ノ之箒」を狙っているという情報。その直後に通話は不自然(・・・)に途切れた。

 

 そして現れた強襲者は、あろうことか世界に四六七機しかないISであった。

 

 ――警護チームは何をしている!

 

 背後からは憤怒の咆哮。

 

 ――まだ追ってこない。

 

「む、軍人! これ、ってっ!」

「口を閉じてろ!」

 

 下側から肩と膝を抱きかかえられ、強く彼の胸板に押し付けられた格好の箒は一瞬羞恥に見舞われるもそんな事態はないと思い直し、慌てて振り落とされないようぎゅっ(・・・)と首に手を回して――赤くなりながら――しがみつくと、後ろでは銃声と悲鳴が轟いた。

 

 ――まだ追ってこない。

 ――どこまで逃げればいい、どうこの窮地を脱する?

 

 角を曲がり、歩道を猛速度で駆け抜ける白雪軍人は、赤信号で停車していた真紅の「ゼファー400」を目にすると、箒を降ろして番号を呼び出した携帯を渡し「コールし続けろ」と告げてから、

 

「悪いが借りるぞ」

 

「はあ!? ちょっ、てめえ――」

 

 鳩尾を一撃。気の毒な男がガードレールにもたれ掛かった隙に、動揺している箒を後ろに乗せて、

 

「い、いいのか? というか、運転できるのか!?」

 

「ちょっと齧ったぐらいだが、こんなのはハンドルを前にしてペダルを踏んでればあとは勝手に進むものだ」

 

「大丈夫なのかそれ!?」

 

 アクセルを開け、半クラッチに。

 ちょうど信号が、青になる。

 

「行くぞ、しっかり掴まれよ――!」

 

 回転数上昇。すぐにノークラッチで三速までシフトアップし、

 

 加速、加速。

 加速――

 

 凄まじい速度。箒は、彼のお腹に手を回して背中に抱きつき――胸が押し潰されるが風が凄くて気にする余裕がない――コールし続ける携帯に耳を当てていた。

 

「電話は!?」

 

「――だめだ、通じない!」

 

「掛かるまで続けろ!!」

 

 ――電波妨害か?

 

 たとえ一〇〇キロ以上で走行しようとも、ISという機動兵器ならばすぐに追いつかれてしまうだろう。

 

 ――まずいな。

 

 

 だが(・・)

 

 

 ――何分経った?

 ――まだ追ってこないのか?

 

 あれほど激昂した様子だったのだ、すぐに仕掛けてくると思っていた白雪軍人は次々と車を追い抜きながらも冷静に思考していた。

 

 ――肋骨を粉砕した。しかしそれだけで完全に沈黙させられとは考えづらい。

 ――ではなんだ、予定外のアクシデントか?

 

「む、軍人! 電話! 繋がった!」

 

 速度を落とし近くの地下駐車場へと入ると、携帯を受け取った。

 

 連絡担当者の「無事ですか!?」という第一声に顔を歪めたが、ISに襲撃されたことを伝えると、

 

「ええ、こっちでも確認しています。既に我々の工作員が何名か確保しました。白雪さんたちを襲ったISは、妨害電波が敷かれた直後に練馬駐屯地のISに出動要請をしましたから、こちらの状況を察知して撤退したと思われます。襲撃者たち(・・)の正体はこれから解析に入りますが……尋問(・・)には立会いますか?」

 

「いえ、結構です。結果だけ聞かせてくれれば」

 

「分かりました。回収班を派遣しますのでしばらく待機していてください」付け加えるように、小さな声で。「……ご無事でよかったです」

 

 通話を切ると、箒が心配そうな顔をして見上げてくる。

 

「大丈夫だ。敵ISは自衛隊のISを警戒して、既に逃走したらしい。迎えも、もう少ししたら来るだろうから……箒?」

 

「な、なんだ?」

 

「震えてるのか」

 

「な、なんてことはない」引き攣った笑み。しかし確かに、こごえるように。「ただ、わたし、は……」

 

 

「箒」

 

 

 ――ふわり、と抱きしめられる。

 

「大丈夫だよ。もう、敵はいない。安心しろ。俺がそばにいる」

 

 優しい口調。子供をあやすように。

 

「落ち着いて。ゆっくり深呼吸するんだ」

 

 頭を撫でられながら。恥ずかしいよりも先に。驚きと、心の奥底で強張っていたものがやんわりとほぐれていく感覚があった。

 

「う、うん……」

 

 優しい声。

 ――彼の、腕の中につつまれながら。

 

「そうだ。ゆっくりだぞ。いい調子だ。その調子だぞ。偉いな箒は。頑張ったな」

 

 ――安心する。誰にもさせたことはないのに。

 ――彼の匂い? 彼の温度も。初めてなのに。

 ――ああ、私は。この匂いは、好き、だな。

 

 ずっと、つつまれていたいと思ってしまう――

 

 

「落ち着いたか?」

 

 

「あ……」

 

 いつの間にか、震えは止まっていた。

 

 箒は、自分から彼の胸に顔を押し付けていたことに気づき、慌てて離れる。

 

「す、すまない……」

 

 その笑顔が、普段よりも優しくて。

 

「構わない。子供は泣いたっていいんだ」

 

「うっ。私は子供じゃあ……」

 

「そうかな? なら言うけど、服。乱れているぞ」

 

 慌てて見直すと、スカートもリボンも崩れており、はだけた(・・・・)状態になっていた。

 

 不埒(ふらち)淫ら(・・)。まっさきにそんな言葉が思い浮かぶ。

 

 ――この格好で抱きしめられたのか、私は!?

 

 すぐさま全身を整えると、目の前の男を睨みつけた。

 

「みっ、見たな……!?」

 

 顔が赤い。――顔が熱い!

 

「見たよ。でも、まだまだお前は子供さ。ガキの身体をそういう(・・・・)目では見ないよ」

 

「なっ! この……へんたい!」

 

「ははは。……真面目な話、その表情でその言葉はやめてくれないか」

 

「へんたい! 軍人のへんたい!」

 

「どう見てもガキだろう。まったく……そんなやつにはこうしてやる!」

 

「うわっ、髪っ、ちょっと!」

 

わしわし(・・・・)してかき混ぜてやる」

 

「軍人、もう、軍人、ちょっと待って、髪! せっかく整えたのに……」

 

 じゃれる(・・・・)ようなやり取り。

 

 それでも。――ああ(・・)

 

 ――「まだまだお前は子供さ。ガキの身体をそういう目では見ないよ」

 

 箒は。

 

 驚いていた。自分に。その言葉に、密かに傷ついていたことに。

 

 ――嫌だな。知られたくない、こんな気持ち。この人には。

 ――私は。その言葉に傷ついていた自分を奥底に隠して、気づかなかったふりをする。

 

 距離を取って俯きながら髪を直すと、顔を上げて。さも「怒ってますよ」というような表情を作った(・・・)あとで、

 

「ありがとう、軍人。助けてくれて」

 

 彼に内心を悟られないように、彼女は静かに微笑んで見せた。

 

 ―――。

 

 その日の夜。

 

「そういえばお土産とかどうしよう……あの場に置いてきちゃったぞ」

 

 せっかく買ってもらった服もまとめてカフェに残してきたのを思い出し、堪らず落ち込んだ声で呟いた箒であったが、一緒に帰宅した白雪軍人が、

 

「ああ、それなら大丈夫だと思うぞ」

 

 後日、屋敷を訪れた際に持ってきてくれたため、驚いて「どうしたのか」と訊いたところ、なんでもあの事件の情報操作を行った組織の人間が回収してくれていたらしい。

 

 どうして街中で発生したIS襲撃事件を隠蔽できるほどの組織と目の前の男が繋がりを持っているのかは不明であった(なんとなく察しはついている)が、それはともかく――

 

 その日以来、それまで簡素だった携帯に初めて付けられたクマのストラップを触ったり、年頃らしく部屋の鏡の前に立つ時間も増えた箒は、あるとき偶然にもその姿を見られ、理由を察してかにやにや(・・・・)する大沼六道に枕を投げつけるなどして、ちょっとした反抗期に突入したのであった。

 

 やがて。

 

 

 季節が一つ、また一つと流れ――

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 あるとき。深夜。

 ある施設で。地図には記されない場所で。

 

 秘密裏に行われている実験があった。誘拐された少女たちを利用した非合法実験(・・・・・)。IS産業という莫大な利益が生み出した、決して明るみになることはない、やがて葬り去られるであろう、闇。

 

 その実態を探るべく、これまで請け負ってきた電子工作(ハッキング)関係の仕事ではなく、()の運用法を見極めるための実働的(・・・)な任務、その最終テストとして、()が潜入した先で目の当たりにしたものは――

 

 無数のコードと、部屋全体を埋め尽くす培養槽(・・・)に浮かべられた「脳味噌」であった。

 

「―――」

 

 彼は(かつての記憶を思い出す(・・・・・・・・・・・))。

 

「―――」

 

 彼は(自分が誕生した時の記憶(・・・・・・・・・・・))。

 

「―――」

 

 彼は(目的を刻まれて造られた(・・・・・・・・・・・))。

 彼は(自分と同じ存在である人(・・・・・・・・・・・))。

 彼は(救えなかった人の記憶を(・・・・・・・・・・・))。

 

 彼は(最愛の人の最期の微笑を(・・・・・・・・・・・))――

 

 

 

 

 

 ――「フェブラリー(・・・・・・)。あなたは、生きて」

 

 ――「愛しているわ」

 

 

 

 

 

 ――「彼女」と過ごした日々が、呼び起こされる。

 

 

「―――――――――――――ァ、」

 

 

 

 その日。

 

 因果は、再び狂い始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 「僕ははっきりわかったよ。人生っておそろしいことばかりなんだ」 

 ――チャーリー・ブラウン
















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