セブンスターを喫う先生、あるいは黄金瞳の   作:ishigami

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 Question. 「 英雄を構成する三つの要素は? 」


















WHO LASTMAN STANDING
■■38 I Come with the Rain


 

 

 

 ◇

 

 

 

「―――」

 

 更識簪が格闘技を習得しようと思ったきっかけは、間違いなく小学生時代に遭遇した誘拐事件にあったが、それは犯人たちへの恐怖や怒りを克服するためではなく、事件で遭遇したひとりの人物――まだ青年とさえ呼べぬ年齢の白雪軍人(しらゆきむらと)――が次々と犯人を打ち倒してゆく光景に魅せられたことが始まりだった。

 

 事件以来、簪少女は白雪軍人から格闘術の手ほどきを受ける一方で、両親の協力を取り付けると、様々な武術の講師を呼んで訓練に没頭し、才能を伸ばしていった。その吸収の速さには講師らのほうが驚かされたほどである。

 

 現在では「合気柔術」「功夫(カンフー)(中国拳法)」「システマ(軍隊格闘術)」を習得し、自らの姉である更識家当主にさえ負けることはなくなった。

 

 いつだったか、講師に言われた事がある。確か訓練を始めてすぐのことだ。

 

 ――「お前の攻撃には、疑念がない。迷いがない」

 

 簪の姿勢には、初心者にありがちな他者へ向ける「力」に対する忌避感がなかった。初めから振り抜けていたのだ。本来兼ね備えているべき「倫理」という枷が人よりも緩かった。だから必要があれば何の引っ掛かりも躊躇いもなく「暴力」を振るうことができる。これは強みでもあったが、同時に社会においては弱みにもなり得た。

 

 そうした問題提起を経て、簪が講師から学んだのは、「暴力」を如何にして自分の裡に抑え込むかという技術だった。しかしこれに関してはまだ〃々未熟な部分がある。

 

 ところで「暴力」とは何か。暴力とは即ち、「ルール」という「合意」から「逸脱」した「力」のことである。

 

 ――()

 

 それは例えば()のように、試合で熱が入り過ぎて思わず禁止されている技を繰り出してしまった場合であり――

 

 紙一重で交わされ、その報復(・・)として返された猛然な蹴りが、そうであるとも言えた。

 

 空を裂く音。

 

「―――ふ、」

 

 IS学園。部活棟。

 

 空手道場にて。

 

「……足技」

 

「先に破ったのは簪です」

 

 互いに距離を取り直し、向かい合う、二つの影。二人の少女の。

 

 片方は浅い褐色肌。小柄で、道着を締めた表情は少し呆れ気味であり。

 

「……まあ、そうだね。――ふ、うふ」

 

 もう一方の、同じく道着姿で、普段かけている眼鏡は今は外してある少女の表情は、いつもの冷静沈着、ないし少し斜に構えたようなものとは大違いで、舌なめずりするような喜悦に歪んだ笑みであった。

 

「うん。そうだよねぇ――」

 

 審判が慌てて止めに入ったものの、簪の鋭い視線に硬直してしまい、

 

「ねえ。ちょっと本気でやってみよっか」

 

「本気ですか?」

 

「うん。みんなも、見てみたいでしょ……?」

 

 いつの間にか増えていた、見学者たちは簪の言葉に煽られて、審判に試合の続行を求める野次を飛ばした。哀れかな審判の少女は涙目になりながら声に押されて、「ほっ、本当に危険になったら即中止ですから!」と、結局許してしまった。

 

 許された簪は「凶悪」にわらいながら、

 

「もっと、楽しくなる――よ!」

 

 あっ、また悪い癖が出てます、と白雪雫が内心で焦った直後に、三メートルあった距離を一歩(・・)で潰し、掌底打を放った。

 

 雫は飛び退いて躱すも、掌底はしかし形を変化させて蛇のように噛みつかんと伸びる。強烈な「崩し」は即「投げ」筋に繋がるためなんとしても捕まるわけにはいかないし、今の簪に手加減はむしろ危険と判断。前腕を使って打撃を叩き除け、雫は膝下を狙う蹴りと顔面を狙う上段技を織り交ぜて反撃する。

 

 連打。

 連撃。

 

 打撃音。熱。

 強蹴。苦悶。

 裂帛。猛攻。

 

 拳。

 

 蹴。

 

 応酬。回避。肉薄。

 打撃音。

 

 既に頭から「容赦」の二文字は薄れかかっている。

 

 ヒートアップする試合(・・)の行方を、見学者たちの歓声に紛れて、セシリアと箒が唖然と眺めていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「驚いた……簪ってあんがい、そういうタイプだったんだな」

 

「まあ、ね……」

 

 本日学園は休日であり、授業は行われていない。

 

 特に予定も入っていなかったところを、久々に手合わせしたいと簪に誘われた雫は二つ返事で承諾し、使用許可を得てから――簪は柔道部の顧問とも知り合いらしい――道場へ向かった途中で箒たちと遭遇、見学を申し出されると断る理由もなかったので同伴を許し、道着を借り受け、いざ「顔面攻撃」「蹴り技」を禁止した試合を始めて暫くすると、審判が止めなかったのが災いして、気がつけば禁止項目をガンガン(・・・・)破る実戦形式の格闘戦に発展していた。

 

 出血もなく、試合後に目立った外傷が残らなかったのが不思議なくらいの熱戦であったが、これは両者が互いの攻撃を高度に無効化し続けたがための、ある種の必然の結果でもあった。

 

 しかし傷が残らないとは言えその攻撃の威力は本物であり、そのときの簪の笑みの「凶悪」ッぷりは対面しただけでへっぴり腰になること請け合いであろう、箒は彼女が前に白雪軍人から格闘技を教わったと話していたのを覚えていたが、それにしたって容赦のない苛烈な戦いようで――しかも雫も興が乗ったのか、まったく負けていなかったから――セシリアなどは箒よりも遥かに衝撃を受けたらしく、そのくせ怖がるだとかの悪感情は覚えなかったようで、むしろ二の腕をぺたぺたと触りながら「どうしてこんな細いのにあんなパンチが出せるんですの」と首を傾げていた。

 

 ちなみに決着は様子を見に来た顧問による強制終了であり、シャワーを浴びる間も無くげんこつと説教、今後監督者なしの試合禁止というペナルティをありがたく頂戴するはめ(・・)となった。ほかの人間にはおいそれと真似できない攻防であったにせよ、ルール違反は褒められたものではないのだ、自業自得である。

 

 ともあれ。

 時計の針は、一二時を回っている。

 

 汗を流してようやくさっぱりすると、一同は今日はお弁当は無いからと、屋上ではなく食堂へ向かった。それぞれが注文し、四人掛けテーブルにつくと、「それにしても……」と箒が言う。「くやしいな。まるで見抜けなかった」

 

「なんのこと?」

 

「武術の嗜みはあると思っていた。それでも、な。あれほどとは……少し自信を失った。相手の実力を推し量る目は、これでも養ってきたつもりだったのだが」

 

「爪を隠すのも実力のうち。です」

 

「しかり、だな」

 

「……な、なんか、カッコいい会話ですわね」

 

「一夏も、見ればいい刺激になっただろうに」

 

 まあ、今回は仕方ないか。と、この場にはいない二人について呟く。

 

「そっか。そういえば、デートだっけ、今日?」

 

「そう言っていたな。アドバイスを求められたが、あいにく私はそういう知識にうといから……」

 

「でも本当なんですの、告白したっていうのは?」

 

 顔を寄せ、好奇心を隠さない声で訊くセシリア。

 

 色恋話が好きなお年頃である。

 

「噂ですと、鈴さんのほうからしたって聞いたのですが……」

 

「それは、本当らしい」

 

「返事はっ!?」

 

 少し退きつつ、「そこなのだが……どうも、思ったのと違うらしくてな」

 

「どういうことですの?」

 

OK(オーケー)されたとは言っていなかった。期待していなかったともな。本人いわく、これからが勝負だそうだ」

 

「これから……それが、今回のデートですの?」

 

「だろうな」

 

 ふーん、ほーん、そーう、そうなのですね、なるほどですわ……、としきりに頷いていたセシリアは、それから三人の顔を見回し、ところで、と切り出した。「いい機会ですし、皆さんに聞いておきたいことがあるんですの。まず箒さん」

 

「なんだ?」

 

「貴女、白雪先生のこと、どう思っているんですの?」

 

「――と、突然なんだ、急に!?」

 

「好きなんですの?」

 

「なッ、――にゃッ、にゃにを言い出すお前っ!?」

 

 あーこの反応は明らかですわ、と思いながらも「どうなんですの」と追求の手を緩めない少女。

 

「だって最近の箒さん、前と違って、なんだかずっと女の子らしくなったといいますか……」

 

「そんなことは」

 

「たぶん、あの襲撃事件以降ですわよね?」

 

「それはッ……」

 

 何があったんですの? ぐいぐい(・・・・)迫る。ほら、ほら。はやく、正直に吐いておしまいなさい。このセシリア・オルコットに隠しだては通じませんことよ。全部なんもかんもゲロっておしまいなさい。

 

「わわッ、私は……」

 

 ――思い出す、抱きしめられた感触。

 ――彼の微笑み。

 ――好きだ、と自覚した瞬間。

 

「わたし、は……」

 

「――ふう」

 

 大声で注目を集めてしまい、あわ、あわ、と尻窄みになって俯いた姿が、耳まで真っ赤であんまりあからさま過ぎて、でも涙目が可哀想で――あざといくらいなのに、それが凶悪に可愛くッて、女ながらもちょっとぞくぞくしてしまったので――しょ、しょうがないですわね、と収穫に満足し、矛先を変えた。もしかすると自分も赤くなってるかもと思いつつ、

 

「雫さんは?」

 

「愚問ですね。私は兄様を敬愛しています」

 

「それは、女として?」

 

「人間として。私という存在すべてを懸けて。女という一括りで測れるものではありません」

 

「う、ううん……」

 

 ある程度は予想されていた、箒に比べれば面白みも可愛げもない答え。確かに愚問だった――というよりも、この人物を相手にするときは琴線を刺激し過ぎぬよう気をつけなくてはならないので――ひとまずは置いておいて、

 

「簪さんは?」

 

 おいなんか追求の姿勢が私と比べて不公平じゃないか!? と抗議したいが注目も集めたくない箒は、悔しげに歯軋りし、

 

「……簪さん?」

 

「ん」

 

 問われた少女の視線は、手元のスマートフォンに向けられていた。

 

 スクロール。

 

「あの……聞いていまして?」

 

「うん。お兄ちゃんのことでしょ? ――好きだよ」

 

「―――」

 

 あまりに自然な受け答えなので、むしろセシリアのほうが戸惑ってしまった。

 

「といっても、男女の意味での好きかどうかっていうのは、はっきり自分のなかでしてるわけじゃないけど」

 

「そ、そういうことですのね……」

 

「さっきから何しているんですか?」

 

 動揺を隠せない箒に比べ、平然としている雫が問うと、

 

「ニュース。さっきテレビ見てて思い出したんだけど、昨日ネットで騒ぎがあって。探してるんだけど……あった。これ」

 

 差し出される。画面に映っていたのは日本語ではない、アルファベットの文字列。海外のニュースサイトなんだけど、と前置きしてから言った。

 

「昨日、ドイツ上空で未確認飛行物体(UFO)が目撃されたんだって」

 

UFO(ゆーふぉー)…ですの?」

 

 急に胡散臭い話、と曖昧な笑みを浮かべる一同。馬鹿にされたと思い、むっと眉をひそめながらも、

 

「そう。ドイツで。しかも夜じゃない、昼間の三時に、同時に、ヨーロッパ各地で――フランス、ベルギー、ポーランド、イギリスとかで――ドイツに巨大なUFOが現れたって、大勢が、一斉に見たって言ってる。さらに不思議なのが、話題の中心になってるドイツ住民からは何の反応もないって。何の発信も」

 

「それが……ニュースになるのか?」

 

「ドイツ中が沈黙(・・)してる。ネットでさえ何の反応もないなんておかしい。電波が遮断されてるとか、どこかの陰謀じゃないかって言う人もいるけど」

 

「流石にないだろう、それは」

 

「まあ、陰謀は確かにないと思うけど。でも気になる。どこのテレビも扱ってないなんて。報道規制とか……」

 

「そんなことより!」

 

 と、危うく逸らされかけた話題の修正を図るべく、セシリアが一声。

 

「簪さん。はっきりしていないということは、男女の意味での好きという可能性も、否定しきれないということですわね?」

 

「まだ続けるの?」呆れたような口調。「それ、答えなきゃダメ?」

 

「トーゼンですわ!」

 

「うーん……」

 

「そもそも、お二人ってどういう関係ですの?」

 

「うーん。私はべつに、話してもいいけど」

 

 ちら、と雫を一瞥。頷かれる。

 

 何故だか、箒が神妙な顔つきをしていた。

 

 ため息。そういえば誰かに話すのはこれが初めてだっけ、と思いながらグラスを取り、

 

「……ぜんぶ話せるわけじゃないけど」と、舌を湿らせてから、「あれは、私が小学生のとき。夏休みの、新刊を買いに行った帰りで、誘拐事件に遭って――」

 

「誘拐ですの!?」

「そう――」

 

 夏のある日。

 

 さらわれた自分を颯爽と救い出した、一人の少年との鮮烈な出会いを、簪は語り始める。

 

 

 ――午後一二時半過ぎのこと。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――午後一一時過ぎ。

 

 織斑一夏は学園正面のゲート前に一人、佇んでいた。本日ハ快晴ナリ。差す日差しも穏やかで、日向ぼっこも悪くはない。しかし守衛の人と目が合うのはこれで何度目か。そのたびに会釈して少し気まずい思いをしながらも、待ち続けている。

 

「いちかっ」

 

 呼ぶ声。ようやくか、とそちらに目をやった。

 

「――鈴」

 

「待った?」

 

 そこには、精一杯オシャレをした、満面の笑みの彼女がいて。

 

 

 ――「一夏」

 

 

「一夏?」

 

「っあ、ああっ、なんだ?」

 

 ――びっくりした。あんまり、今まで意識してこなかったけど。

 

 そういえば初めて見る、私服姿で。そこからのぞける白い肌とか、すらりと伸びた素足とか。

 

 可愛らしい笑顔も。

 

 ――目の前の幼馴染が、本当に。女の子なんだなって、考えたら。

 

 思いがけず、急に緊張して、声が出なかった。

 

「なんだじゃなくて。待ったか、って訊いてんのよ」

 

「ああ……まあな。けっこう待ったぞ。ずいぶん掛かったな」

 

「ばっかね。遅かった、じゃないわよ。そこは待ってない、オレも今来たとこなんだ、って返すとこでしょ?」

 

「いや実際に待ったし……返すとこでしょって、なんだよ、そういう決まりでもあるのか?」

 

「もっちろん!」自信たっぷりに、頷かれる。「男女がデートで待ち合わせしたときの定番の会話よ」

 

 デート(・・・)

 

 その響きを耳にした途端、何だかふつふつとむずがゆい想いが湧き上がってきて、ここがゲート前で、かつ守衛の目があることも気分を手伝っているのだろう、身体に力が入ってしまった。

 

「ほら、あたしの格好を見て、何か言うことはないの?」

 

「え、ああ……」定番。定番って、こういうとき、なんて言えばいいんだ。「えっと、似合ってる、ぜ?」

 

「そう。ありがと。ほかには?」

 

「ほか?」

 

 ――ほか。何がある。テレビとかドラマとか。あ、そ、そうだ!

 

「そうだな。か、かわいいよ。すごく」

 

「―――」

 

 ぎこちなく頷く――ああ何だかとっても顔が熱くてむずむずする――と、急に身悶えし始めた少女。

 

「り、鈴?」

 

 うにゅー、おにゃー、と盛大に赤らんで、ぴょこぴょこツインテールを前後に揺らし、ぶつぶつ呟いている鈴音の姿は、皮肉なことにお洒落すぎて逆に違和感があった、目の前の少女が自分のよく知る凰鈴音(ファン・リンイン)であるという実感を少年にもたらし、徐々に落ち着きを取り戻させた。

 

「大丈夫か?」

「ええ……」

 

 互いに、未だ赤らみは抜け切らずにいたが、

 

「じゃあ、そろそろ」

「――ええ!」

 

 少年の左手を自然に(装って)取った、少女は、はにかむように弾んだ声で言った。

 

「さあ、行きましょ?」

 

 ―――。

 

 織斑一夏と凰鈴音の姿は、駅前の大型ショッピングモール「レゾナンス」にあった。立ち並ぶ飲食店は和洋中華と幅広く、ブティックやレジャー施設まで完備した市内随一の商店道は様々な客層で賑わっている。

 

「それで、なに買うんだ?」

 

「まずは見て回らなくっちゃ。ウインドウショッピング! すべてはそこからよ」

 

「なんだ。決めてなかったのかよ」

 

「無粋ねー。見て感じるのよ、心に吹く風のおもむくままに」

 

「大げさだな……」

 

 二人がこうしていられるのは、当然のことながら外出許可がきちんと降りたからにほかならない。謹慎処分が解かれたのは数日前のことであり、右腕の義手も、日常生活に支障がない程度には操作に慣れていた。

 

 定期メンテナンスを担当する倉持技研の技術者いわく、それほど意識せずに動かせるようになった織斑一夏の適応力は驚異的であり、またそれを可能とした「義手」の性能も「アリエナイ」のだという。少年からすれば、いまいちピンと来ない話であったが。とまれ。

 

 軽口を交わしていると、自然と口端が緩んでいる自分に気がつく。

 

「あっ! あれなんかいいじゃない!」

「どれだよ――?」

 

 さっそく繋いでいる手を引っ張られた。

 

 雨はまだ、降っていない。

 

 

 ―――。

 

 

「本当はこういう場合、男がエスコートするべきなんだろうけどな……」

 

 事前に「あたしに全部任せておきなさい」と言われていた、とはいえ、やはり男の甲斐性というものもある、それなりの準備をするべきだったかと今さらながら後悔していると、

 

「そこまであんたに期待してないわ」と、ばっさり切り捨てられた。「でも、もしそこまで気になるのなら、今回の経験を活かして、次はあんたが計画なさい?」

 

 ――次、か。

 

「ああ。そうだな……そうするよ」

 

「よろしい」

 

 えへへ、と突然にやついたので首をかしげたが、なんでもなーい、とご機嫌に笑うから、なんだよ、まあ別にいいけど、と追及する気も起らなかった。

 

 見渡せば大勢の男女、友人同士、恋人たちが目に入る。賑やかなこの環境を、一緒に歩いていると、ふと――、自分はもしかしたらここ数日間で最もリラックスできているのかもしれない、と織斑一夏は思った。

 

 何気なく見やった、恋人たちの多くは互いに手を繋いでいて、はたからすると自分たちもそう見えているのかもしれない。

 

 手をつなぐという行為。人ごみの中ではぐれないようにするため、という最初に鈴音が言い出した方便は、しかし「デート」という言葉の裏付けによって誤解(・・)なく少年に熱を伝えていた。

 

 

 ――「あんたのことだから、すぐに答えは期待してないわ。でも今のままじゃ、やっぱりいやだから。攻めることにしたの。あんたには、あたしを好きになってもらうわ。そう決めたの。だから、大人しくあたしに攻略されなさい?」

 

 

 不意に、あのとき鈴音から言われた科白が蘇った。

 

 そのときの彼女の表情も。強い意思をたたえた瞳も。

 

 そんな彼女が、隣で嬉しそうにしている。

 

 他者の体温、それも家族以外の親しい女の子の熱を感じている事実に意識が向くと、再びほとんど体験したことのない未知の、なんだか形容しがたい感覚が無性に胸をよぎり、少女から目を逸らしたくなった。だけれども、決していやな感覚ではない。自分以外のぬくもり。男の自分とは造りの大きく違う、やわらかな手のひら。

 

 それは、確かに心地よくて。

 

 こうしてずっと、委ねていたいとさえ、思う――

 

「楽しめてる?」

 

 気づくと、見上げられていた。返事が適当になっていたのだろうか。

 

「そりゃあ、まあな」

 

「なに考えてたの?」

 

 お前のこと。

 

 そのまま口走りそうになって、わけもなく焦っている自分に、戸惑う。

 

「なんでもねえよ」

 

 ぶっきらぼうな答え。不機嫌というわけでもないのに、言い方がやさしくできない。

 

「うそ。嘘ついてる。分かるんだから……」

 

「べつに。これがデートなのかなって。デートって、これでいいのか?」

 

「そ、そりゃそうよ。これがデートよ。もちろん。完璧にデートよ」

 

「そういうもんか」

 

「そーゆーもんよ」

 

「鈴は」

 

「え?」

 

「そっちは、楽しめてるのか」

 

 驚いたような顔。何かが、引っかかった。揺れる瞳。

 

 ――なに言ってるんだ、俺。

 

「……ほら。次、行こうぜ」

 

 誤魔化すように笑い、引っ張った。結んだまま。振り解きはしない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 一階の踊り場で、ヒーロー・ショーが行われていた。屋内にしてはそれなりの規模で、観客の入りもなかなかだった。子供連れがほとんどを占めている。手すりに寄りかかり、二階から見物している姿も目立つ。

 

 ――そういえば子供のころにこういうのって、あんまり見たことなかったっけな。

 

 二人して油紙で包んだアップルパイを食みながら、一階で、遠巻きに進行を眺めることにした。

 

 内容は、設置された看板を見るにどうやら有名どころの戦隊ものらしい。最初に進行役と思しきテカテカのスカートを穿いた「お姉さん」が現れ、子供たちへ約束ごと――ロープより内側には危険だから入らないように、などの諸注意――をお願いすると、突然BGMが始まった。

 

 戦隊の事前設定(ストーリー)らしきナレーションが流れ始めると、その途中で舞台の両端から仮面とスーツをまとった二人のキャラクターが飛び出してきて、「チュイン――!!」という効果音と共に格闘戦を繰り広げる。二人が同時にバク転を決めると、客席から拍手が沸いた。

 

「おお……」

 

 展開としては、如何にも敵役っぽい造形のキャラクターが壇上で「ごくあく」な計画を部下と一緒に企み、最終的にそれを正義の味方である戦隊メンバーがとっちめるというお話である。いわば王道。途中で「お姉さん」が「ごくあくひどう」に捕らえられ、戦隊たちが手を出せなくなったところを悪役がこれでもかといわんばかりに「ビシバシ」反撃するのだが、捕まっているはずの「お姉さん」が客席の子供たちに「みんな! みんなの応援で、ウルティガマンを助けてあげてっ!」と叫び、子供たちの声援で「ぱわー」をもらった戦隊がすかさず復活、怒涛のラッシュで悪党を壊滅、ついに追い返し、街の平和は守られた……、

 

 で。

 

 最後に戦隊メンバーと「お姉さん」が壇上に勢揃いすると、子供たちと一緒にキレのあるダンスをして――閉幕となった。それから係員があらわれて、握手会、撮影会に関する誘導を始める。

 

 数時間後にまた上映するらしい。

 

「なんか、普通に面白かったな……」

 

 終わってみると、三〇分くらいの舞台だったが、それほど長いとは感じなかった。

 

「アクションもけっこう、凄かったし」

 

 鈴はどうだったと訊くと、腰に手をやって鼻を鳴らして少女、

 

「悪役っぷりが足りないわね……」

 

「え、そっち?」

 

「極悪非道とか言うくらいなんだから、人質にしたお姉さんを、いっそのこと襲いかかってくるウルティガマンに投げつけて真っ二つにするとか……」

 

「非道すぎるだろ!? 子供たちトラウマもんだよ!」

 

 ドン引きである。

 

「まあ冗談だけど」

 

「ほんとか? 本気で言ってたよな、今の」

 

「うっさいわね。確かに、お姉さんなに簡単に捕まってんだよ早く逃げろよとか思わなくもなかったけど……」

 

 ――気にしてんじゃねえか。

 

「それはともかく。思ったより楽しめたわね。ところで一夏。いま、何時?」

 

「今は……」舞台にも、時計がついていた。「一時ちょっと過ぎだ」

 

「そろそろおなかも空いてきたわね……」

 

「どっか店、入るか?」

 

「それもそうだけど……」

 

 スマートフォンを取り出し、何かを確認する鈴音。首を傾げている。

 

「どうかしたか?」

 

「うーん、実は……あんたには黙ってたんだけど」

 

 なんだというのか。

 

「特別ゲストを――」

 

「織斑くん!」

 

 聞き覚えのある声。振り向いた、そこには。

 

「山田先生?」

 

 と――

 

「千冬姉!?」

 

 知った顔の二人が近づいてきていた。

 

「やっと来たわね」

 

「ごめんなさい、少し遅れちゃいました?」

 

「は?」

 

 少女は、特に驚きもせずに受け答えしているが。

 

「おい鈴。これって……」

 

「なんだその顔は」

 

 予期せず遭遇した、二人は私服姿であったが――山田真耶の格好はまだ分かる、イメージ通りの、明るくてかわいい感じのコーディネートだったが――織斑一夏が固まったのは、姉のほうが原因であった。

 

 白ニットに、グレーのカーディガンを羽織り、スリットの入った黒のロングスカート。普段の「教官」然とした印象を知る者であれば驚きと納得と感嘆を呼び、むしろ彼女の自宅でのずぼら(・・・)な振る舞いを知る少年だからこそ意表を突かれる、オフの、凛とした大人の女性らしい装いであった。

 

「何か言いたいことがありそうだな。私だってこういう、スカートくらいは……穿くぞ」

 

 どこか言い訳がましい口調の姉に、織斑一夏は半ば恍惚とした表情で、

 

「いや――いや、似合ってるよ、千冬姉。すげえ、合ってる。ただ、いつもとあんまり違うから、びっくりしただけだ。ほんと……」

 

 何の抵抗もなく、すらりと感想を述べた。自分が赤面していることにさえ気づいていない様子で。

 

「……そういう科白は別の奴に言ってやれ、馬鹿者」

 

 どうしてだか、頭を抱えている姉。

 

「一夏」

「ぇ、あっ? な、なんだよ?」

 

 一瞬で視線をさらわれた事実に、鈴音が非難するような視線を送ってきていた。

 

 隣では、山田真耶が苦笑いしている。

 

「てっ、ていうか、なんで二人がここに?」

 

「それはですね……」

 

「あたしが説明します」遮って。「一夏。あたしが、山田先生に頼んだの」

 

「は――?」

 

 頼んだ、とはなんだ。いったいなぜ、そんな申し訳なさそうな顔をしているのだ。

 

「あんたが塞ぎ込んでるんじゃないかと思って。外に連れ出して、気分転換にもなればって……それで、結局なんだかんだ言っても一夏のこと、一番理解してるのは千冬さんじゃない? だから、こうして呼び出したってわけ」

 

 ――実際、それは間違ってなかったみたいだしね。

 

 鈴音は、自分の思慕する相手が、姉の登場に今日一番の嬉しげな表情をした瞬間を見逃していなかった。

 

 露骨すぎんだろ、このシスコンめ。くやしい――悔しいが、しかしこれは、最初から分かってもいたことだった。何より自分でこの場をセッティングしたのだ、キレるのは理不尽だろう。分かっている。だからせめて、声には出さずに罵った。姉になんか鼻の下伸ばしてんじゃないわよ、だらしないったら。今はまだあたしとのデート中なんだから、少しくらい遠慮しなさいよね、バカ、と。今にも脚が出そうになる自分を、怒りを、抑える。

 

 しかし筋金入りの朴念仁に、その辺りの機微を理解せよというのはどだい無理な話であり。

 

「あの……いまいちよく分からないんだが」

 

 俺が落ち込んでると思ったのか、と少年が企画自体を台無しにしかねない発言をする前に、こらえかねたように少女が言い切った。

 

「本日のデートはここまでってことよ! あとは素敵なお義姉さんに任せて、お邪魔虫なあたしたちはクールに去るわ!」

 

「お前にお義姉さん(・・・・・)呼ばわりを許した覚えはないぞ。というか山田くん、つまり君は、そうか、この私をハメたということだな……?」

 

「ごっ、ごめんなさい先輩!」

 

「逃げるわよ先生!」

 

「ごめんなさ――いっ!」

 

「ちょッ――!」

 

再见(ツァイツェン)!」

 

 止める間もなく、二人は走り去った。このとき少女がどんな顔をしていたのかを、少年に最後まで悟らせることなく。

 

 あとに残ったのは、姉弟が一組である。

 

「とりあえず……」

 

 顔を見合わせて。周りからの注目を感じつつ。

 

「移動しようぜ?」

 

「ああ。まったく、あの二人は……」

 

 ため息。

 

 こぼれた苦笑が、雑踏に消えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 沈黙。

 

 静寂ではない、雑踏は賑やかである。

 

 しかし姉弟のあいだに会話はなかった。

 

 暫くして、それを破ったのは姉からだった。

 

「昼の、もういい時間だな。どこかで腹ごしらえにするか」

 

「お、そうだな。賛成だ」

 

 それと――、と。

 

「……まあ、業腹ではあるが。一夏、あとで凰に礼を言っておけよ。あいつはお前を心配してこんな茶番を仕組んだんだろうからな」

 

「ああ。そうだな……」

 

「しかし私を騙したのだから、山田くんにも何か制裁を加えなくてはいけないな。さあどうしてやろうか」

 

「おいおい千冬姉!」

 

「冗談だ」

 

 いやたぶん本気だったよな、本気の目だったぜ。とは、恐れ多くて言えるはずもない。

 

 見なかったことにした(合掌)。

 

 次第に、ぽつぽつと、ぎこちなさがほどけ、言葉が増え始める。

 

「お前は……」

 

「うん?」

 

「……いや――」姉は珍しく苦笑して、かぶりを振った。愚問だな、と小さく呟いたのは、少年には聞こえない。「どうだったんだ、あいつとのデートは。私の知る限り、デートに誘われるなんて初めてだろう」

 

「まあ、色々びっくりだったよ。ていうか、知ってるのか、俺が……鈴に、その」

 

「告白されたことか? 凰から聞いた。面と向かって、直裁な。答えをもらえなかったとも言っていた」

 

 咎められているような気がして、思わずうめいた。

 

「優柔不断め」

 

「ごめん……」

 

「私に言うことじゃないだろう。だいいち、謝るくらいならその場で答えてやればよかったんだ」

 

 ――おっしゃる通りで。

 

「まあ、時間はあるんだ。子供同士、時間をかけて答えを出せばいい。悔いのないように」

 

「千冬姉……」

 

「むろん、不純異性交遊なんぞしたら叩き潰すが」

 

「こええよ!」

 

「当然の処置だ」

 

「ていうか、俺だっていろいろ、気を付けてんだから。そういうのさ。ほぼ女子高のなかに男子ひとりとか、白雪先生がいなかったらほんと、もっと参ってたと思う」

 

「知っている。お前には気苦労をかけているよ。大人の……汚い事情に巻き込んでしまっている。すまないと思う」

 

「よしてくれ。千冬姉が謝ることじゃない。べつに、今の生活も、そんなに悪くないんだ。楽しいし」

 

「そうか……」

 

「ああ。だって、空を飛ぶなんて普通じゃないことができるんだ。楽しまなきゃ損だよ」

 

「そう、か」

 

 微笑まれる。

 

 さりげなく、そっと黒髪を払ったその仕草に、織斑一夏はどきりとする。

 

 

 ―――。

 

 

「雨」

 

「なんだ?」

 

「いや、雨。けっきょく降ってないなって。すげえ晴れてるし」

 

 窓の外を見る。

 

 車道を走る車。

 行き交う人たち。

 街路樹。

 騒音。

 

 点滅を開始した信号機。

 

 雲一つない蒼穹。

 

「今日は確か、一日晴れだろう」

 

「鈴にも言われた。どこの天気予報見たんだよって。おッかしいなあ、そんな気がしてたんだけど。傘持ってきちゃったよ。わりと嵩張るんだよな……ん?」

 

 どこからか、聞き覚えのある洋楽が聞こえてきた。騒音に埋もれないほど大きな音でありながら、不快な音割れは起こっていない。

 

 ミュージックショップらしく、大型スピーカーが店の外へ向けて並べられていた。流れている曲はマーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「エイント・ノーマウンテン・ハイ・イナフ」。扱っている商品には映画関連も交じっており、台座には今月の特集らしいマーベルコミック映画にちなんだグッズが置かれている……

 

「………、」

 

 何か(・・)が。

 

 ふっと遠のき、頭を、よぎった。

 

「―――」

 

 流れている歌詞が。

 

 織斑一夏に「聞き覚えがある程度」の洋楽を翻訳する英語能力はない、だが(・・)どこか(・・・)で。

 

 

 

 どんなに高い山も

 どんなに深い谷も

 どれだけ広い川も

 ぼくらが会うのを邪魔することはできない

 

 

 

 何か(・・)

 胸が、もやもやする、というか。

 

 胸騒ぎがする、というか――

 

「……こうやって二人で歩くのは、いつぶりだろうな」

 

 姉が、何かを言っていた。

 

「どうした、一夏?」

 

 足が、いつの間にか止まっていた。

 

「千冬姉……」

「なんだ?」

 

 なんだ、この感じ(・・)は。

 

 いやな感じは(・・・・・・)

 

 ――分からない。うまく言えない、けど。

 

 ――あ?

 

 

 雨音が聞こえた。

 

 

 雨など降っていないというのに(・・・・・・・・・・・・・・)雨音が(・・・)――

 

 

「千冬、姉」

 

「だから、どうした」

 

 鳴り続けている。雫の跳ねる音。地面を叩く音。

 

 雨は降っていない。

 雨音だけがしている。

 

 すぐそこで。

 すぐ隣で。

 足元で。

 

 しとしと

 しとしと

 

 違う。もっと。

 雷雲を。

 

 

 「嵐」を、呼び寄せるかのように――

 

 

 ますます、強く――

 

「あ、雨が……」

 

「雨?」

 

「雨が、降って……」

 

「は?」

 

 不審がる顔。

 

 ――気づいていないのか。

 

 聞こえていないのか、あの音(・・・)が?

 

()……」

 

 まるで、自分の口ではないかのように。

 

 はやく、はやくと、誰か(・・)に急かされるように。

 

「ち、千冬姉」

 

 脈絡なく、言っていた。

 

「俺、強くなるよ」

 

「一夏――?」

 

 

今度こそ(・・・・)千冬姉を(・・・・)守れるくらいに(・・・・・・・)、」

 強く(・・)なる(・・)

 

 

 そう告げようとした、はずだった。

 

「一夏―――――!!」

 

 

 姉が、叫んでいた。見開かれた表情の意味は焦燥(・・)であり、叫ばれた言葉は、警告(・・)だった。

 

 

 ねじ曲がり、

 へし折れる、

 

 

 

 姉の首が(・・・・)

 

 

 

「――――――――――――――――――――――――――――」

 

 ()の字に、肩に、ぴったり(・・・・)くっ付いている。

 ()は、一周してねじ切れ、皮膚は裂けるように破けている。

 痙攣するように震え、髪の張り付いた唇のあいだからは真っ赤(・・・)な歯が覗き、こふ(・・)っ、と飛沫くと、あぶく(・・・)と、唾液混じりの鮮血が、鼻穴からも、あごを伝い、点、点、としたたった。

 

  ぁぁ(・・)

 

 見開かれたまま固まっている表情。充血した瞳。

 

 目が合った(・・・・・)

 

  ぁぁぁ(・・・)

 

 これ(・・)は。なんだ。

 

 まっしろ。思考。

 

 あたまが、りかいを拒否している。

 だが、わかる(・・・)

 

 知っている(・・・・・)

 

 知っていた(・・・・・)

 ()が、染み付いている。

 

 へし折れた()が。止まった世界のなかで。

 

  ぁぁぁぁぁぁぁぁ(・・・・・・・・)

 

 ()だ。

 最愛のひとの顔に、()が、まみれている――

 

 

 わらう声。

 

 

 それは、よく通る声で。背後から聞こえた。

 

 背後、には――

 

「これは宣戦布告」

 

 少女(・・)

 

 野球帽をかぶった、一〇代後半と思しき、長く美しい金髪の、若者らしい軽装をした、美しい少女が。

 

 微笑んでいる。

 

「時代の流出点であるIS。その立役者の死を以て、世界は新たな局面を迎える。――新世界を」

 

 黄金の双眸(・・・・・)で、少年の心臓を、呼吸すらも、射抜いている。

 

「貴方、運がなかったわね」

 

 織斑一夏は動けない。ISを展開することも。

 

 点滅するISからの呼びかけ(・・・・)に応えることも、出来なかった。

 

 気づきすらしなかった。

 

「―――ァ、」

 

 まず(・・)衝撃があり、同時(・・)に視界がぶれ、気がつくと少女ではなく、姉を見ていた。

 

 へし折れた姉の首を。

 生気の失せた瞳を。

 

 どうして姉を見ているのか。なんで姉があんな(・・・)姿でいるのか。

 

 息ができない。

 何もできない。

 

 目頭が熱い。

 

 そして。

 

 

「まあどうせ、遅いも早いもすぐに関係なくなるわ。だってみぃいいいいいいいんなあの人のための供物になるんだもの」

 

 

 前に突き飛ばされ、視界が、黒い何かで埋まった。

 押し付けられている。口に、何かが飛び込んできた。細く、糸のような食感。味。

 

 髪だった。黒髪(・・)

 尊敬する家族の。守りたいと思った人。

 彼女(・・)の。

 

 ――千冬姉。

 

 涙が濡らした。

 

「でも、離れ離れになるのはさみしいものね。安心なさい、いつまでも一緒にしてあげるから」

 

 押し潰される。

 骨の砕ける音がした。

 

 痛みは感じていなかった。意識も既に無くなっていた。

 

 結局、織斑一夏は。

 

 その日。

 

 

 誰のことも守れずに死んだ。

 

 

 

 

 

 わらい声が響いている。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 地面を衝き上げるような衝撃が、ショッピングモール「レゾナンス」を襲った。

 

「地震っ!?」

 

 激しい揺れ。建物が縦に、凄まじく振動している。立つことすらままならない。

 

「危ない――!」

 

 悲鳴が上がった。天井の一部が崩落し、照明が砕け散り、窓ガラスが飛散し、陳列された商品はばらまかれ、陳列棚が次々と客たちに襲いかかり、壁は亀裂を大きくさせ、床には巨大なひび割れが走った。

 

 山田真耶の視界の先で、男が落下物に潰されて見えなくなった。そのすぐ傍でまだ幼い少女が転倒した。頭上では吊り下げ照明が激しく揺れている。

 

 叫ぶと同時に、走り出していた。

 

「先生!?」

 

 鈴音が気づいたのと山田真耶が少女に覆いかぶさったのは、一瞬の差であった。

 

 衝撃に備え、目を瞑る。

 

 地震は続いている。肌を打ち叩く、地響きのような音も。

 

 悲鳴。次々と人たちが「崩壊」に呑まれてゆく。

 

 山田真耶の腕のなかで少女が震えていた。しっかり抱きしめる。

 

「大丈夫だから……!」

 

 この子だけは護らないと。

 

 そう決し、身構えていたが――

 

「先生、大丈夫ですか!?」

 

「あ……凰さん……」

 

 ISを展開した鈴音が、山田真耶ごと落下物から守っていた。

 

「すいません……」

「いいですから!」

 

 悪夢のような時間と揺れに耐えていると、

 

 唐突に振動が止んだ。

 

「――止まった?」

 

 山田真耶は抱きしめていた力を緩めると、涙ぐんでいる少女に努めて微笑んだ。それから、周囲を見回す。

 

 

「―――ひどい…」

 

 

 粉塵が立ち込めているが、惨状は明らかだった。ほとんどが瓦礫に埋まっている。

 

 あれほど賑やかであったショッピングモールが、もはや、見る影もない。

 

 鈴音も、呆然と眺めている。

 

「――そう、だ。一夏……一夏は!?」

 

 我に返ったように、慌ててコア・ネットワークの座標情報にアクセスし、彼女は飛び出した。

 

 呼び止める暇も無く、取り残された山田真耶は再び惨状を見渡してから、唇を噛むと、少女を連れて他の生存者に呼びかけつつ移動することにした。被害状況を確認したいという思いもあったが、この場が、いつまでも安全であるという保証はない。

 

「……雨……?」

 

 気づけば、晴天であったはずの空は、暗雲に覆われていた。

 

 

 雨が、降り始めている。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 悲鳴が、聞こえていた。

 

 

 泣き叫ぶ声。

 助けを求める声。

 

 

「うそ」

 

 

 だが少女は見向きもしない。

 視線は一点に固定されている。

 

 

「うそよ」

 

 

 立ち尽くした、足元には。

 

 

 

 肉塊(・・)

 

 

 

 一〇センチも無いであろう、黒に近い赤に塗れた立方体(キューブ)から、ISの反応があった。

 

「うそ……よ」

 

 

 彼のIS。

 「白式」の反応が、ある。

 

 

「…う、う――」

 

 床の、赤い厚みのある池に転がっており、赤く染まってはいたが、肉塊(キューブ)の柄は、別れ際に見た、今日ずっと彼が着ていた服と、同じ柄であり。

 

 

「う――ぁ、あ――ぁぁ―――」

 

 

 雨音。

 

 頬を、叩く。

 

 

「ぁぁぁあ――――――ぁぁぁぁぁぁああ―――――――――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 慟哭。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨は、それさえもかき消してゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 織斑姉弟死亡。














 Answer. 「 愛、希望、絶望 」









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