セブンスターを喫う先生、あるいは黄金瞳の 作:ishigami
※【物語】の裏側。
Memories are bittersweet
The good times we can`t repeat
Those days are gone and we can never get them back
Now we must move ahead
Despite our fear and dread
We`re all just wishing we could stop,
but
―――The Offspring/Can't Repeat
――かつて在り、そして失われた幸福の時代を想う。
――今生にて、己が果たすべき責務を自覚してから。
――再び、この地で。
手を伸ばす。
◇
月の美しい晩であった。
――ドイツ郊外。
辺りを陰陰滅滅とした森に囲われた、ゴシック様式の流れを汲む荘厳なる西洋屋敷、ただ古めかしいのではなく、その古色蒼然の姿たるや見る者が見れば「ほぅ」と身を裡から感嘆に震わせんばかりの立派な建築物であったが、昼に見た佇まいとはまた気配の違う、星のあえかな、ほの暗い輝きが今はよりいっそう不気味な説得力を「館」を与え、おどろおどろしいまでの雰囲気を醸し出している。
その館に、この日。来訪者があった。
襟を大きく開いたドレスや宝石で華美に着飾った女、
一〇を超え、二〇を超す数の。来訪者たち。
会場に変化が生じたのは、ゲストにワインが行き届き終えた頃であった。
「みなさん」
一声。それは決して大きな声ではなかったが、よく通り、よく響いた。
悠然と広間に現れた人物。
その少女――令嬢が現れるや、談笑はおろか、囁き声すらもぱたりと止んで。
一挙手一投足に、滲み出す教養と品格は一斉に視線を浴びようと揺らぎなく、立ち止まると、泰然と微笑みながらゲストを見回した。
「パーティーは楽しんでいただけているかしら」
「勿論だよフロイライン。我々は君という太陽を知ったときからこの日を待ち望んでいたのだから」
「伯爵。御機嫌よう」
「御機嫌よう。いやはや実に美しいですぞ、そして今夜にこれ以上なくふさわしい」
年配の眼鏡を掛けた男が前に出て、令嬢の手を取り、軽く唇を落とした。何人かがそれを羨むような、あるいは男の気障ッたらしい振る舞いに目を細めたが、
「もう、伯爵ったら。相変わらずオーバーね。彼女が困っているじゃない」
人垣から、豊かなブロンドの、赤絨毯を歩く女優のように胸を大きく露出させた長身の女が、におい立つような色気を発しながら現われ、肩にそっと手を置いて言った。
「ねえ、キティ?」
「……私をそう呼ぶのは貴女くらいのものですよ、M。
「そうかしら? そうかもしれないわね。
ルージュを引いた、厚みのある唇を少女の耳元に寄せて、しっとりとした声で、ささやく。「――御機嫌よう。招待してくれてありがとう」
「御機嫌よう」
女の、ただの挨拶にしては艶めかしすぎる仕草にちょっと呆れた視線を送ると、令嬢は今一度ぐるりと見やり、
「みなさん。本日みなさんを招待させて頂いたのは他でもありません、私が、みなさんが、【待ち望んだ明日】を迎える準備が、ついに整ったことをお知らせするためです」
どよめきが起こった。
すかさず令嬢が指を鳴らした、その瞬間、
音/鉄の
光/汗と血の
映像/全身の骨が砕ける
記憶/眼球をつんざく
静かになったところへ、告げる。
「そう。【門】は、完成したのです」
「は、はは」流石に男も脂汗を浮かべて、「せめて
女も、
「そうね。此処に集っている以上、みなさん覚悟はとうにし終えたものだと思いますけれど、親しき仲にも……、と言うじゃない」
少し咎めるような響きを込めながらも、しかし彼らは本当に怒っているわけではなかった。それは、他のゲストたちにも言えることだ。
茶目っ気で済まされない現象を引き起こしておきながら、令嬢に向けられる瞳に宿るのは、強い「熱」である。餓えた犬の鼻先に御馳走をぶら下げた図とまでは言わずとも、隠しきれぬ期待と、興奮の熱が、ありありと
何故なら
ある者は
ある者は未体験の「刺激」に恋焦がれて。
ある者は劇的な「滅び」の光景に取り憑かれて。
ある者は令嬢の超常的な能力に心酔して。
「――我らが
発作的に、男が叫んだ。
「――栄えある未来に!」
熱に浮かれた声で、女が続いた。
「――最高の舞台に!」
「――世界の崩壊に」
「――英雄の誕生に!」
「――人類の終焉に」
「――未知の地平線に」
「――すべての絶望に…」
「――神々の軍勢に」
「――黄金の夜明けに」
女が、グラスを掲げた。
「――我らが女神に」
男も、それに続く。
令嬢が、執事からグラスを受け取った。
みなが、彼女の次の言葉を待っていた。
令嬢は、さながら王女のように。
「――素晴らしき明日に」
嫣然と微笑んで、言った。
「乾杯」
◇
闇。
月明かりが照らしている。虫の鳴き声も聞こえない。パーティーは既にお開きとなっており、館は静まり返っていた。
バルコニーに、令嬢の姿がある。ドレスのままで。
近づく影があった。
「お嬢様」
「飛行機の手配は?」
「済んでおります。
「ならいいわ」
執事が頷く。しかし立ち去る気配はない。
「……まだあるの?」
気だるげな声。先程まで絶やさなかった微笑みの仮面、優美な面影は、今は真っ白な手袋と同じように脱ぎ捨てられていた。
「お嬢様が私の
「はン。まるで人間のようなことを言うのね。本の分際のくせして」
「地下の所蔵庫で封じられていた
「よく言うわ」
「実を言えば、貴女は途中で折れてしまうものと思っておりました。善悪の
「酷い言い草ですこと。そもそも契約したときに正気を保ち続けることが条件であると言ったのはそっちでしょう。悪魔に褒められたって嬉しくもなんともないわ」
わらう声。
「私は厳密には
「要らないったら。せいぜい抜かりなく、お前は私の役に立っていればいいのよ」
「心得ております。ではお嬢様。遅くまで起きて、あまりお身体を冷やさぬようお気を付けください。失礼いたします」
恭しく一礼し、ひとならざるものは立ち去った。
令嬢はひとり、月を眺めている。
―――。
虫が、飛んでいた。
屋敷に敷かれている結界は、虫や獣の意識に作用して自ずと逸らす効果を持っているが、令嬢がそちらを向くと、虫はふわふわと遊行しながら近づいてくる。
止まり木のように差し出した爪先に、誘われるように留まった。
無表情に、矮小な虫けらを見つめる。
何の前触れもなく、翅が燃え上がった。身体よりも遥かに大きい炎が丁寧に翅だけを燃やし尽くし、外皮は熱により融け出していたが、虫はかろうじて原型を保っていた。
まだ死んではいない。かすかな反応がある。簡単には死なせないように、じっくりと炙った。よもや想像もしなかっただろう、飛んで逃げることはおろか、不可視の
不意に、肩から力が抜けた。すると指先に留めていた
令嬢は芝居じみた仕草で爪に息を吹きかけ、虫の脚に付いていた土を払い飛ばした。死骸には見向きもしない。既に、興味は失われている。
ぽつり、と口に出していた。
「正気、か」
口にした途端、その言葉の響きがひどく滑稽に感じられて。
何故だか、わらえた。
「私は」
――かつて在り、そして失われた幸福の時代を想った。
――もはやこの手にあの人のぬくもりは無い、しかし。
――それでも。私は追い求めよう。
手を伸ばす。
「私は、正気だ。ええ、そうよ。外道だ、悪魔だと言われようが、この願いが正義であると確信している。今も、昔も、これからも。未来永劫に。想いは変わらない」
此処に来るまでに、いったい何人の生涯を狂わせたのだったか。この手で叩き潰してやった連中はきっと数一〇〇人にも上るだろう。
ある者は土の下。ある者はドブの底。親も、友も、敵も、関係ない。すべて利用してやった。徹底的に。
ある者は私を助けたいと言った。深い虚無感に囚われている、その闇から私を救い出したいと。そいつも利用してやった。完璧に。絞り尽くし、死体すら私のために活用してやった。そいつの望んだとおりに。感謝しているよ、私の役に立ってくれたからな。
怨嗟の声が聞こえる。憎いか、私が。呪わしいか。自分から近づいてきた馬鹿はともかく、私なんかに目をつけられたせいですべてを狂わされたのだからな、殺したくもなるだろうよ。
だが無理だ。私はお前たちの屍で舗装された道をゆく。お前たちの呪詛などせいぜいが賑やかしだ。私は嗤いながら道をゆこう。
手札は揃った。手順も整った。
そしてようやく、機は熟した。
「あとは、そう。日本へ。旧世界の象徴に、最後の挨拶に行かないとね」
それに、もしかしたら。
本当に「彼」が「彼」であるのだとしたら。
「――きっと、愉しいことになるわ」
令嬢は。
――天を。
――地を。
――すべてを。
心の底から嘲笑った。
黄金の瞳を、爛々と輝かせて――
「ええ。私も、愛しているわ――ステイシス」
◇ ◆ ◇
「――はて、さて」
屋敷の【地下】。
知られざる場所。この屋敷のあるじたる令嬢さえも、気づいてはいない。
秘密の【部屋】にて。
「いよいよか」
執事の声が響く。
そこは、無記名の、同じ装丁の無数の本が、無数の本棚に整然と並べられた巨大な空間であった。
床も、天井も、壁も、すべてが白で。果ては見えない。有限という現実の法則から乖離した、何処までも続いて見える本棚の列の間を歩いている、執事の足取りに迷いはない。この屋敷の、地下に通ずる【扉】を特定の生物が特定の【鍵】を使って開いたときのみ接続される特殊な空間は、執事にとっては慣れ親しんだものであるからだ。
執事が目覚め、執事が眠りにつく場所だった。他のものは立ち入ることすらできない。
「小屋も建った、舞台もできた、役者も揃った」
さァ、幕を上げるときが来たぞ。
「ゲームの始まりだな。飽きもせず、懲りもしないで。愚かでなんといとおしいやつらだ」
足音が、止まる。
ある本棚の前。無数の本棚の一つであるそれには、他とは違う点が、一つだけあった。
一冊ぶん、抜けがあるのだ。
執事の手には、ちょうど同じ大きさの【本】が握られている。
これを納めれば、本日のお仕事は、お終い――
「……それにしても」
ふと、執事は見果てぬ本棚の
「人にあらざる姫騎士よ。お前の愛し子はいつ気づくんだ? 目覚めぬ限り夜は続くぞ。ほうら、早く目覚めてしまわないと――」
――間に合わないぞ?
―――。
――。
…。
【部屋】には、誰の姿もない。
次回、■■■■死亡。