セブンスターを喫う先生、あるいは黄金瞳の   作:ishigami

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 いつも笑顔のヒーローが 家で泣いてたらどうしよう
 いつか忘れさられたら 安心して泣けるだろう

     ―――チーナ/蛾と蝶とたこ焼きとたこ
















■■23 彼との邂逅5

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夜。

 

 とある高層住宅(タワーマンション)の四二階に、一〇人の男たちが集結していた。

 

 昼間に大々的な会見をした女が雇っている護衛である。彼らの扱う装備は、警備会社のような自衛目的の「警棒」――では、ない。

 

 それは、武器(・・)だ。安定した殺傷能力を有する、生命を効率的に奪うために生み出された人類の利器である。同時に民間警備会社を騙る彼らの大切な商売道具でもあった。

 

 本来なら男たちは来日目的であった依頼を達成した時点であとは観光でもして帰国する予定だったのだが、高額報酬の飛び込みの依頼を引き受けたことで、こうして彼らは新たな、「異色」な任務に就くことになったという経緯があった。

 

 そして現在雇い主の女の過ごす部屋は五人の男たちによって護衛されており、また近階の廊下を巡回しているメンバー二人以外だと、同じ階層の、高級ホテルのような内装のそれぞれの部屋で、三人の男たちが各々、仮眠を取ったり雑誌を読んだり、もしくは分解した拳銃や突撃銃をベッドに広げて手入れしたりしながら待機していた。

 

 みなリラックスした様子である。メンバーのなかには、今回の任務――つまり話題沸騰中の連続猟奇殺人犯に自分から会見で身を晒したくせに護衛で固めようとする雇い主の姿勢――に対して、疑問を抱いたり――これは殺人犯の動機に心当たりがあるからじゃないかと推測――する者もいたが、しかしだからと言って、そのことが任務に影響するようなことはなかった。

 

 彼らは戦士なのだ。雇用主がどんなにクズ(・・)であったとしても関係ない、一度雇われた以上、報酬に見合った働きを示す。これまでもそうだった。これからもそうだ。すべきことを果たす。それが、自分たち戦士の誇りだ。これまで培ってきた、自分たちの矜持であるという自覚を彼らは持っていた。

 

 とはいえ。こちらは銃火器で武装しており、雇用主によれば現地警察に遠巻きに周囲を監視するよう手配してあるということだから、もし仮に襲撃者がいるとすれば正面から侵入するほかに道はなく、であればこそ――その人物を自分たちが見逃すはずもない。

 

 万全の警備体制が敷かれていた。

 

 そのはずであった。

 

「■■■■!」

 

 突然、窓の割れる音とけたたましい銃声が轟き、そこに混じって悲鳴が廊下にまで響き渡った。思わず疑ったのは一瞬であり、待機中であった各員は即座に意識を切り替えて愛銃を引き寄せ、ただちに合流、部屋に押し入ろうとしたが。

 

 鍵が、下りたままであった。耳に嵌めている小型ヘッドセットに巡回していた二人から「今の銃声は何だ」と連絡が入った。こちらに向かっているという。迷っている暇はない、仕方なく鍵そのものを銃撃して破壊すると、扉を蹴り破った。すでに一〇秒近くが経過していた。

 

「―――」

 

 銃声は止んでいる。照明器具が破壊されており、真っ暗な部屋は暗視スコープが無ければ見通せない。

 

 閉め切ったはずのカーテンが揺れていた。窓が開いているのだ。飛散したガラス片。硝煙の臭い。微かに差す明かり。月光でつくられたカーテンの影が、不気味にたなびく……

 

 無事か、と呼びかけた。男たちは様々な人種で構成されていたが、彼らが使うのは専ら英語である。IS(インフィニットストラトス)という兵器の出現によって世界共通語は開発者の母国語に書き換えられたものの、英語そのものの価値はそれほど変わっていないというのが実情であった。

 

 応答は、ない。部屋には五人――女を含めれば六人――いたはずだ。緊張が走る。異常な事態。そのとき、微かに。

 

 呻き声(・・・)

 

「――っ!」

 

 「敵」はまだ潜んでいる可能性が高い。先頭の男がハンドサインで後ろに控えるメンバーにカヴァーを指示し、闇のなかへと慎重に踏み込む。

 

 銃声。

 

 直後に男の頭が飛散し、カヴァーに入った男がまともに返り血を浴びた。そして引き鉄を絞るよりも先に眉間を穿たれ、慌てて身を隠そうとした最後の男は、胸を二発撃たれて仰向けに引っ繰り返った。

 

 ――くそったれ!

 

 ――恐ろしいほどの早撃ち。精密射撃。何て奴だよ、話が違う。違いすぎるぜ。

 

 引っ繰り返った男は、幸か不幸か即死ではなかった。しかし深い傷を負っており、血で汚しながら渾身の力で廊下まで這いずり出ようとしながらも、急速に力が抜け落ちていく感覚を覚えていた。あるいは防弾ベストを着用していれば展開もまた違ったかもしれないが、今回の任務では不要であると判断したのが災いした。

 

 ――旨い話のはずが、ふたを開けてみゃ虎狩りの始末か。

 

 二人死んだ。修羅場と呼ばれる現場だって潜り抜けてきた仲間が、目の前で。あまりにも呆気なく。

 

 ――これも因果か。

 

 足音。もう、銃口を向ける余裕もなかった。視界が、薄らいでいく。指先から、冷え切っていく。

 

 闇のなかから、拳銃がカタチを現したのがおぼろげながら分かった。果たして幻覚であろうか、男には拳銃が宙に浮かんでいるように見える。

 

 その光景は、まるで見えない死神が、これまで自分が手にかけてきた人間たちの怨嗟を聞き入れて罰を下しに来たかのようにも思えた。

 

 ――仕事だとはいえ、多くを殺してきた。いつか、自分の番が回ってくると、覚悟はしていた。

 

 ――ああ、でも。やっぱり。

 

 

 死にたくねえな……

 

 

 声に出ていたのかもわからない。ただ、最期の一瞬。闇の奥深くで、人ならざる何者かの黄金の瞳が見返していることに気づいた。

 

 視線が、交わされる。何故だか。泣いている少年の顔が、思い浮かんだ。

 

 

 銃声。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 閃光(マズルフラッシュ)

 

 再び、暗闇が押し寄せる。

 

「………………ぅぅぅぅ………………」

 

 獣のような、低い唸り声が響いていた。

 

「…………ぅぅぅ………ぅぅぅぅぅぅ………………」

 

 六人(・・)を殺し、二人を殺した部屋で。

 

 

 ――「死にたくねえな」

 

 

「…………ぅぅぅ………ぅぅぅぅ…………ぅぅぅぅぅぅ…………」

 

 加えてたった今、死にかけであった一人を、殺した部屋で。

 

 黄金の瞳を持つ少年は歯を割れんばかりに噛み締めて、腹からせり上がってくる押し殺した声を漏らしながら、脂汗を浮かべ、荒い呼吸をして、何かを耐えるように震えていた。

 

 少年は、自分が唸っていることにさえ気づいていなかった。彼の特別な能力によって空中で固定されていた――そして硝煙を立ち上らせている――拳銃が、彼の精神の不安定さを表すように小刻みに震えている。

 

 ――なんだ。何なんだこれは。

 ――震えが止まらない。寒くてたまらない。

 

「――はっ――はっ――」

 

 暗闇から、唸り声。

 

「っ!?」

 

 反射的に拳銃を動かし、黄金の瞳が凝視した。

 

 女の死体の傍。

 現れたのは――

 

「い、()……?」

 

 見覚えのある犬種で。特徴的な耳の形をしていた。

 

 歯茎を剥き出しにして。威嚇するように唸りながら。

 

 小さな身体で。必死に。犬が、吠え始める。主人の亡骸の傍らで。主人の敵(・・・・)へと。

 

「なんで、ここに……」

 

 呆然と呟いた。

 

 ――「かつて」。「家族」と。「父と母」と。家で飼っていた、パピヨン。

 

 ――子犬だったときからずっと育ててきた。よく懐いていた。甘えん坊なやつだった。

 

 見れば見るほど、その犬は似通っている。そっくり重なって見える。まるで瓜二つ。まるで――本当に飼っていたあのパピヨンであるかのように。

 

 まるで(・・・)。本物? まさか(・・・)本当に(・・・)? なら、なんで――

 

「なんで……」

 

 ――なんで俺を、そんなふう(・・・・・)に見る?

 

 牙を剥くその犬は、どうしようもなく少年に、「家族」の思い出を呼び起こさせた。暖かい記憶を。失われた世界を。容赦なく、残酷に。そして記憶の中の家族と引き換え、今の自分がどれだけ冷たい(・・・)場所に立っているのかを浮き彫りにさせた。ずっと別のことを考えることで目を逸らして気づかないふり(・・)をし続けていた、誤魔化して認めないでいた、冷たい事実を。

 

 ――暖かな人たち。絶対的に正しい(・・・)人たちの言葉。

 

 

 ――人を傷つけてはいけません(・・・・・・・・・・・・)

 ――それは悪いことだから(・・・・・・・・・・)

 

 

「うる、さい……」

 

 犬は吼え続けている。少年の行いを弾劾するように。

 

 悲鳴、血みどろの場所に渦巻いている憎悪、欲望、落涙、死体――少年の仇が強いたことを他ならぬ少年自身が実行した事実を糾弾するように。

 

 まるで暖かな人たちが、今の血まみれの自分を見て「許さない」と叫んでいるようで。

 

「うるさい……っ」

 

 ――「許さない」

 ――「許さない」

 

 動悸が激しくなる。息は速まり、胸はきりきりと絞り上げられるような痛みを訴え、歯はがちがちと病的なまでに噛み鳴らす。

 

「うるさいぃ――」

 

 ――「死にたくねえな」

 ――「いやっ、待って、お願い、助けて、やめて、誰か、助けて、助けて!」

 ――「おまえを許さない」

 

「うるせえッ!」

 

 銃声。

 

「―――」

 

 気づけば。

 引き鉄が引かれていた。

 

 吠え声は止んでいる。

 

 静寂。

 

「――ぁ、」犬が。血を流して。

 

 死んでいる。「……ぁぁ………」

 

 ――殺した。俺が。

 

 瞬間、少年の脳裏に鮮明に蘇った。殺してきた男たち、女たちの表情が。

 

 ――「死にたくねえな」

 

 最期の表情。

 最期の言葉。

 

 ――うるせえ。

 ――うるせえんだよ。死にたくない(・・・・・・)

 

「な、らッ――」

 

 突如。こみ上げてきた感情が爆発しそうになった。心臓の激しい音。突き動かされるように。

 

 胃が収縮し、口に酸っぱいものが広がった。腹が引っ込み、吐瀉物が口端から溢れ、一気に足元のウール・カーペットを汚す。

 

 黄色い濁ったものの勢いが一通り収まると、胃酸の匂いと味に塗れたままの口で、唾を飛ばしながら少年は絶叫した。「ならッ……!」

 

 

 初めから銃なんて持ってんじゃねえよ!

 おまえらが悪いんだろうがよッ!

 おまえらが始めたことだろうが!!

 おまえらが先に殺したんだろうが!

 

 おまえらが俺の家族を――

 

 

 叫ぶ。殺した男に。

 

 だが。

 

 死体だ。答えることはない。虚しく響くだけだ。

 

 ――「いやっ、いやッ助けて、やめて、お願い、助けて、やめて、やめて、やめて!」

 

「おまえらが……わるいのに……」

 

 正しい筈だ。これは正しい行いのはずだ。なのに、――どうしてこんなにも苦しいんだ?

 

 寒い(誰も答えない)。ここはなんて寒いのだろう(応えてくれる人は、誰もいない)。こごえてしまう、寒くてたまらない(少年の大切な人たちは、みな、■んでしまったから)――

 

 どうして誰も答えてくれないの(・・・・・・・・・・)

 どうしてみんなは黙っているの(・・・・・・・・・・)

 

 どうして――

 

 唐突に。

 

()……」

 

 あらゆる熱がさっと引いた。まるで登っていた階段を踏み外してしまった(・・・・・・・・・)瞬間のように。

 

 頭が、真っ白になった。そして真っ白になった思考に、頭の裏側から滲み出してくるものがあり、やがてそれが一つの(こたえ)を描き出した。

 

 誰も答えてくれないのは。

 誰も「正しい」と言ってくれないのは。

 

 お前は「間違っていない」と言ってくれないのは。

 

 簡単なはなしだ。

 それに、少年は気付いて(・・・・)しまった。

 

 今さらのことだ。今さら過ぎることだ。

 どうしようもなく、手の施しようがない。

 

 

 ――おれは、ひとりなんだ。

 

 

「……ぁぁ……」

 

 どれだけ惨めに叫ぼうとも。

 どれだけ無様に泣き喚こうとも。

 

「………ぁぁぁ……………」

 

 ――もう帰る場所はどこにもない(・・・・・・・・・・・・・)

 ――もうどこにも居場所はないんだ(・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 おれはこの世界で永遠に一人ぼっちなのだ。

 

 

 

 軋れる。

 

()――――――――」

 

 正しさだけで支えてきた。けれどその「正しさ」すら、証明してくれる人は誰もいないことに気づいてしまった。これまでは「怒り」で誤魔化してこれた。しかし。実感がついに追いついてしまった。肩に、手を触れられてしまった。

 

 今までは山を登っているようなものだった。復讐という高く険しい山を。登っている最中は、余計なことを考えるだけの余裕がない。辺りは冷たく、視界は悪く、空気も薄い。ただ前だけを向いている必要があった。前へ進むことだけが自分に与えられた状況の打開策だった。

 

 そして山を登り終え、頂上に臨み――そこから先へは、どこにも行けないことに気がついた。

 

 何も、そこにはないのだ(・・・・・・・・)

 何一つとして(・・・・・・)。そこにはない(・・)のだ。

 

 振り向いたところで。

 帰る道さえも(・・・・・・)

 

 何も――

 何一つ(・・・)として――

 

「――――――――――――ァァ――――――」

 

 常識から逸した凄惨な体験、衰弱した心身に蓄積した疲労。それでも、ただ「目的」のためにと無理やり動き続けてきた少年は「目的」を達した今まさに、正しさの実行という「熱意」さえ失い、支えとしてきた「柱」が崩れるのと同時に、急速に肥大して心身を侵していく「感覚」によって押し潰されようとしていた。

 

 その恐るべき「感覚」に、冷え切ってぼろぼろの少年は抗う術を持ち得ない。

 

 ――この世界で本当に一人ぼっちなのだとしたら。

 ――「おれ」は。ここにいる「おれ」は、本当に「おれ」なのだろうか。

 

 ――本当に「おれ」が「おれ」であったとしても、いったい誰が「それ」を証明してくれる?

 

 もう誰もいないのに。

 もう何の意味もないのに。

 

「おれ、は………」

 

 視界が薄れ、指先から冷たくなっていく。

 

 口も、上手く動かせない。立っているのか、座っているのかさえ不明。息をしているのかすらも。感覚が分からないのだ。瞳は、虚空を眺めている。ぼんやりとした思考は、滑り落ちるように生まれてはすぐに散っていった。

 

 空虚。

 

 ――「おれ」は。何をしていたんだ? 何を(・・)? 何のため(・・)に?

 ――「おれ」は。本当に生きているのか?

 

 ――「おれ」は。本当は死んでいて、まだ死んだと気づいていないだけなんじゃないのか?

 

 少年は。自分という存在が崩壊してゆく「感覚」に何をするでもなくただ身を任せ、狂気の淵で棒立ちし、やがて底へと墜落し、このまま精神の死を迎える。それはもはや必定であった。

 

 どれだけ彼の身体が生きようとしていても。

 

 虚無感で占められた精神はまったく揺れなかった。

 

 空中に、拳銃が固定されている。

 

 その銃口が、いつの間にか(・・・・・・)少年に向けられていた。

 

 銃口の奥の、深い闇色と相対する。それは月光が指す部屋の闇色よりも、確固とした「現実」で敷き詰められた色のようにも見えた。まるでその奥に「確かなこと」が沈んでいるかのように。少年は、耳鳴りの音を夢心地に聞きながら、吸い寄せられるようにして銃口の、その奥を見つめる――

 

「――――――――――――――――――」

 

 だから。

 

 あと少し遅ければ、少年は無意識に引き鉄を引いていたはずだ。

 

 引き鉄を引くことが自らの死を意味するものであったとしても。構わず引いていたはずだ。疑いは持たなかったはずだ。

 

 その音が聞こえなければ。少年は自らを撃ち抜いていたはずであった。

 

「ぁ……?」

 

 耳鳴りに紛れて、膜越しのように何かの音が聞こえる。

 

 何か。これは何の音だ。意識の隅に引っかかった。引っかかり、そちらに意識が向いた。耳が澄まされる。複数の。慌ただしい。

 

 ――足音(・・)

 

「あしおと……」

 

 ――「あしおと」

 ――「足音」

 

「そう……だ」

 

 何もない、虚無で占められた思考の泉から、一つだけ。「足音」――浮かび上がってくる言葉があった。

 

 ――逃げないと(・・・・・)

 

 ――ここにはいられない。

 ――ここから早く逃げないと。

 

「逃げ、る……?」

 

 分からない。なぜそう思ったのか。

 

 

 ――「あなたは生きて」

 

 

 誰かの声。誰の声だ。思い出せない。すべてが曖昧で。

 

 ――でも。従わなきゃ。命令だから。

 

「逃げ、なきゃ………」

 

 声に出し、繰り返した。逃げる/生きる。逃げる/生きる。逃げる/生きる――

 

 すると次第に、少年の虚ろだった瞳に理性の光が戻り始めてくる。

 

 先程までよりも明確に、足音が聞こえる。足音。

 

 ――足音?

 

「足音……」

 

 ――()

 

「■■■■!!」

 

 部屋の入り口。二人の男が突如として現れ、手には、短機関銃を――

 

「――!?」

 

 ――逃げる。逃げる?

 

 ――逃げる(・・・)。そうだ、逃げろ。逃げなきゃ(・・・・・)

 ――逃げろ(はやく)!! 逃げるんだ(はやくしろ)

 

「う――ぁ………あああ!?」

 

 ――敵だ、目の前にいるのは敵だ(・・)

 

 ――逃げろ! 逃げろ!

 

 静寂を破壊する銃撃。男らは部屋で死んでいる仲間たちを目にすると、けたたましい声を上げながら一斉に撃ちまくった。

 

 床、壁、テーブル、ソファー、ランプ、ことごとくに滅茶苦茶な弾痕が刻まれ、わずか数秒で粉々に飛び散っていく――

 

 銃弾の嵐が吹き荒れる寸前。霧掛かっていた思考が明確に「逃走」にシフトした少年は、落下した拳銃を拾い上げることも思いつかずに、一目散に侵入したときと同じようにベランダへと飛び出し、男たちの射線から身を隠しつつ、地上四二階より見下ろした。

 

 既に周辺で待機していた警察車両が、騒ぎを聞きつけてマンションの入口近くに集合しつつある。

 

 だが。それ以前に。

 

「っ……!」

 

 少年は。見下ろしたのと同時に、久しく「恐怖」を覚えていた。登っていたときには微塵も気にしなかった感情に襲われて、今さらのように足がすくんでしまっていた。

 

 一五〇メートル以上ある高さ。失敗すれば、確実に死ぬだろう。激突の瞬間まで恐怖にさらされながら。

 

 冷たい風が容赦なく叩きつけてくる。背後からは銃声の合間に、足音も近づいてきていて――

 

「―――っ」

 

 やるしかなかった。逃げるためには(・・・・・・・)それ以外に取るべき手段がない。それ以上考えることを、放棄した。意を決する。

 

「■■■■■!!」

 

 ベランダの柵を。

 

 

 飛び越える。

 

 

「―――ッ!」

 

 浮遊感。闇。

 

 足元には、奈落のような光景が広がっている。

 

 一瞬の浮遊感が、

 ふわりと消え――

 

 奈落へと――

 今度は引き寄せられるようにして墜ちてゆく。

 

 暴力的なまでの風を浴びていた。酷薄なまでに冷たい刃で全身を切り裂かれるよう。叩きつけられる轟音で何も聞こえず、目もまともに開けていられない。恐怖。感情を占めるのは恐怖ばかり。

 

 それでも――

 

 少年は手のひらに異能(サイキック)の力を展開した。

 

 マンションの壁と手のひらの間に力場が構築され、引き寄せ合う――

 

「っ――!?」

 

 落下は止まらない(・・・・・)

 

 ――止まれよ!

 ――止まれ!

 

 落ちる。

 落ちる。

 

 ――止まれ! 止まれ!

 

 速度が落ちる。

 落下方向は横に流れている。だが。

 

 ――まずい、まずい!

 ――止まれ、止まって!

 

 落ちる。

 落ちる。

 

 落ちる。

 

 ――止まらない、止まらない、

 

 落ちる。落ちる。

 

 ――止まれよ、止まって、止まれって、

 

 落ちる。落ちる。

 落ちる――

 

「とまれ―――――――――!」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 男たちは。

 

 ベランダから襲撃者が一瞬で飛び降りたのを見た瞬間、仲間たちの死体を目撃し激昂していた思考も冷却され、慌てて窓の外へと駆け寄った。

 

 愕然とする。

 

「Shit!」

 

 見下ろしても、地上に死体は見当たらない。何度も確認するが、マンションのどこかに引っかかっている様子もない。

 

 男は。堪らずベランダの柵を何度も殴りつけると、更に怒り収まらず下へ向けて乱射したが、もう一人が「警察部隊が突入してくる、それにここから落ちたんだ、あいつは生きちゃいないだろう」と促したことで、殺意に染まった瞳を返しつつも、荷物を回収し、その場から姿を消した。捜査の手が伸びる前に、一刻も早く出国しなければならない。

 

 去る男の脳裏には、飛び越える寸前に月光に照らされて一瞬垣間見た、敵の、特徴的な「瞳」の情報が鮮烈に焼き付いている。

 

黄金瞳(Golden eye)……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 真夜中。

 

 四五階建ての高層住宅(タワーマンション)で銃撃戦が発生した時刻から間もなく、繁華街のような人通りの多い道を避け、電飾や賑やかな明かりとは真逆の、薄汚れて悪臭のするゴミで散らかった路を、引きずるようにして歩く一人の少年の姿があった。

 

 少し前から雨が降り始めており、ダウンジャケットの黒いフードを深く被りながら、少年は白い吐息を漏らしつつ、唇を凍えそうに震わせて、力ない足取りで進んでいる。

 

 立ち止まる。身体が丸まり、直後に口から吐き出した。吐瀉物は、ほとんどが胃液と血だけであり、それも雨に流されて排水溝に吸い込まれる。

 

 再び、歩き出した。

 

 ――いたい

 

 着地した時。背中から全身を強かに打った。直前までの行いで勢いは殺されていたものの、骨が何か所か折れているかもしれない。深く息を吸おうとすると肺が痛んだ。銃で撃たれた肩の傷口が開いたらしく、薄く混じった血が流れ出ている。雨水が滲みる切り傷は、冷たさのあまり麻痺してしまっていて、感覚がなかった。

 

 それでも。彼は、ゆっくりとではあったが、進む足を止めなかった。

 

 ――さむい

 

 どこへ向かっているのか。どこへ向かえばいいのか。

 

 何もわからない。教えてくれる人は、誰もいない。

 

 ただ。逃げていた。

 

 怖い場所から。

 恐ろしい場所から。

 

 ――さむい

 

 ひとり。

 ひとりきり。

 

 孤独。

 

 ――あいたい。

 

 暖かい記憶。陽だまりのような人たちが微笑んでいる。

 

 ――かぞくに、あいたい。

 

 大切だった人たち。もういない彼ら。

 

 

 ――もういちどだけ、かぞくに、あいたい。

 

 

「…………………………………、」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ――雨に、打たれている。

 

 

「…………………、」

 

 周りには、墓石が立ち並んでいた。辺りを囲んでいる林が、雨に打たれてしなりながら落とした影を揺らし、その動きはあたかも人ならざる言葉で会話しているようにも見受けられる。

 

 墓場であった。自分が墓場にいることが、青白い肌で、まだ己が死んだと気づかずに彷徨っている死人のような虚ろな瞳でいる少年にも、おぼろげながらも判じられた。

 

 自分がどうしてここにいるのか。曖昧な意識で辿った記憶は、あのマンションがある土地から、電車を乗り継いでこの町までやってきたことくらいしか覚えていない。途中どこで身体を休めたのかも、分からなかった。それでも。

 

 ここが、自分の来たかった場所だということだけは理解していた。前に、誰かが言っていたような気がする。誰か。そうだあれは確か、母親だ。前に一度だけ、ずっと昔、母方の両親の墓参りとして、父と共にこの田舎を訪ねたのだ。寒い日だった。そのとき自分は体調を途中で悪化させて、結局車の中でずっと寝込んでいたのだ。

 

 事故のあと。死んだ両親がどこに埋葬されたのか。詳細は、知らなかった。葬儀にも出ていない。出る前に、あの女に引き取られたのだ。だから。

 

 ここに来るしかなかった。もしもあの人たちが埋葬されるとしたら、その場所はここ以外には思いつかなかった。

 

 墓場。終点。死者が眠る場所。

 

 暗かった。今は何時なのか。時計はない。だが。何も困らなかった。今更だ。時間に何の意味がある。何の価値が……、

 

 取り留めもない思考。

 

「……………、」

 

 どれが誰の墓なのか。墓石に刻まれた名前を読むことすら、もはや難しかった。身体が重い。全身が冷たい。寒い。なんて寒いのだろう。だるい。痛い。苦しい。つらい。何もかもが。悲しい。カナシイ。もう、動くことはできない。無理だ。疲れた。動きたくない。考えることすら。無理だ。

 

 ――もう、いいよな。

 

 膝から力が抜けた。前のめりになり、立て直そうとしたところ後ろへと引っ繰り返った。受身を取ることもできず、重力に沿って、墓石に背中から叩きつけられる。鈍い音が、した。

 

 痛みはなかった。ただ、息ができない。ひゅう、ひゅう、という音が漏れるだけ。かじかんだ手をなんとか動かそうとしたが、砂混じりの水溜りを引っ掻いただけで、何もできなかった。雨に打たれて。息ができるようになるまで、しばらく耐えた。

 

 ―――。

 

 どれくらいの時間をそうしていたのか。やっと、楽な姿勢を取った。墓石にもたれかけている。

 

 ………はは……

 

 不意に、声が漏れた。笑い声? なぜ笑ったのか。分からない。自然と零れたのだ。

 

 ………………ははは……………

 

 力ない声。かすれた声。視界が歪んでいた。雨が、全身を打っている。永遠に、雨は降るのだろう。

 

 もう、いいや。何の抵抗もなく、そう、思った。目を閉じよう。それで、終わりにしよう。ぜんぶ。

 

 そうだ。そうだよ。たどり着いた。それでいいじゃないか。あれだけ耐えていたことが嘘のように、次々と言葉が浮かんでくる。雨の冷たさのように、染み込んでくる。

 

 ――もう、これ以上は無理だよ。

 ――これ以上はつらすぎる。これ以上は耐えられない。

 

 無理だ。終わりだ。そうしよう。

 

 そうしよう。だいじょうさ。頑張ったよ。ちゃんと、仇だって討った。そうだろ? 果たすべきことは、すべて果たしたさ。

 

 もういいよ。これでいいよ。

 ここまでだよ。

 

 暖かい場所に行こう?

 

 冷たい場所は、もう嫌だから。

 

「――――」

 

 記憶のなかの彼女が。

 微笑んでいる。

 

 終わりにしよう。

 

 ――ああ。

 ――終わりだ

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 復讐者は、瞳を―――

 

 

 

 

 

 

 

「二月。雨に打たれるには、ちぃとばかし冷たすぎる季節だぜ、坊主」

 

 

 足音(・・)

 声が、聞こえた。

 

 

「心までこごえちまうよ」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

「兄様?」

 

 誰かが呼んでいる。

 

「だいじょうぶですか?」

 

 浅い褐色肌の、艶のある黒髪を首元あたりまで伸ばした少女が。黒曜石の瞳で心配そうにこちらを覗き込んでいる。

 

 白雪雫。

 白雪軍人(しらゆきむらと)の、義妹。

 

「……ああ………うん」彼は。小さく息を漏らしてから、微笑みかける。「大丈夫だ」

 

 IS学園の屋上。

 

 屋根付きテーブルを囲んで、弁当を広げた雫と、篠ノ之箒と、セシリア・オルコットと、更識簪と、織斑一夏が座っていた。視線を向けられている。

 

「悪い、ぼーっとしていた。ちょっと最近、寝不足でね」

 

「顔色も悪いが……」

 

「大丈夫だって。俺は、そこいらの奴らよりも、よほど頑丈(・・)な人間だからな」

 

 彼にしか分からない皮肉を言いつつも。それよりも、何の話をしていたんだっけ? 妹の髪を梳くように撫でながら、白雪軍人は織斑一夏を見た。

 

「えっと……白雪さんの弁当が、いつもスゴイって話です」

 

「ふむ。まあ確かに、雫の腕はかつてと比べても格段に向上しているだろう……」

 

「当然です。これは私だけの問題ではなく、兄様のお弁当が関わっているのですから」

 

「でも昼に二段構えの弁当って、ほんと白雪さんって……」

 

何か(・・)?」

 

「い、いえなんでもございません……」

 

 即座に口をつぐんだ少年を、幼馴染である箒は呆れた様子で眺めている。とはいえ、一度でも刻みつけられた苦手意識はそう簡単に改善されるものではない。簪やセシリアからすれば、見慣れた風景になりつつあった。

 

「というか、お前ら教師と一緒に食事するって、どうなんだ学生として」

 

「何かいけなかったか?」と、分かっていないような顔の箒。「迷惑だったとか……」

 

「そうじゃない。そうじゃないが、……うーん、まあ本人たちが気にしないようなら別に構わないんだが」

 

 最初は顔なじみの三人(「学園唯一の男性教師」と「専用機持ち」と「日本代表候補生」)でしていた昼食も、今や「男性唯一のIS操縦者」に「専用機持ち」そして「IS開発者の妹」というビックネーム揃いである。そのせいもあって、屋上にいる他の生徒たちがどうやら聞き耳を立てているらしく、極秘とは程遠い内容ではあるものの、いささか複雑な心理があった。

 

「まあいいか……ところで、あー、オルコット。さっきから君は何をやっているんだ?」

 

「ふふ、ふふふふふ! よくぞ聞いてくれましたわ!」

 

「いや結構前から訊ねてほしそうな顔していただろう」

 

「うぐっ! だ、だって誰に視線をやっても、誰も気づいてくれないんですもの……」

 

 セシリアは。いそいそと持ち込んでいた紙袋から、丁寧に布で包まれた箱を取り出した。そしてテーブルの真ん中に載せる。

 

「それは……?」

 

「ふふふふふふ! さあ皆さん刮目なさい、これこそメイド・バイ・セシリアの究極お弁当(ランチボックス)! その名も――『イノセント・ガーデン』ですわ!」

 

 ぺか―――!!

 

 と、漫画であれば効果音でも付きそうな手振りで蓋が開けられると、

 

 そこには――

 

「さあさあ皆さん、どうぞお食べになって!」

 

「ほお……」

「へえ……」

 

「いいの、食べても? 見た目も綺麗だし、すごく期待できそうだな……」

 

 織斑一夏は。さっそく箸を伸ばそうとしているが、

 

「むむむ……なにか嫌な予感がします」

 

 雫は。戦地を生き抜くための才能――言わば「第六感」――の働きによって現れた中身に目つきを険しくし、ほとんど睨むようにセシリアを見やる。

 

 そんな少女の横顔を、白雪軍人は再び遠くを見るようにして眺めていた。まるで夢の続きを思い出すかのように。

 

 

 ――かつて過ごした日々を、思い出す。

 

 

 この世でただ一人だけが知る、「罪」。

 

 ――俺だけが知っている。俺だけがおぼえている。かつて忘れていた、しかし取り戻した、「罪」。

 

 そして生きるために重ねた、「罪」。

 悪逆の数々。一度死んで。

 

 それから。

 

 大沼六道(おおぬまりくどう)に拾われて。篠ノ之箒と共に暮らし。更識姉妹と交流を持ち。更識家の下で仕事をして過ごし。村雨有理(むらさめゆうり)たちとチームを組み。

 

 「いつか」のことを繰り返すように、チームの「仲間」を見殺しにした。自分の生み出した「因果」のせいで。

 

 逃げるようにして海外を彷徨った。

 やがて銃声の飛び交う砂漠の土地で――

 

「兄様、気をつけてください。これ、危険なにおいがプンプンしますよ」

 

 反政府組織のアジトが存在するとして、ISによる掃討作戦――蹂躙――を受けていた小さな街で。

 

 大人も、子供も。無差別に殺害されていく地獄の中で、青年は「彼女」と――真っ黒な髪、真っ黒な双眸、肌の色は違う、しかしそれ以外はすべて(・・・・・・・・)同じである(・・・・・)「少女」と。

 

 

 「あの人」と瓜二つである少女と、出会ってしまったのだ。

 

 

 青年は。

 

 彼女の生き生きとした、変化する表情を見るたびに。

 

 痛みと共に、思い出す。

 

 

 

 

 

 ――ステイシス。わが魂。

 ――俺は貴女に変わらぬ愛を(とらわれている)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




















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