セブンスターを喫う先生、あるいは黄金瞳の 作:ishigami
――波打ち際。父と母が。
――微笑んでいる。
◆
目が覚めた。
天井。
「―――」
ぼやけた焦点を結ぶ。花柄のシェードで吊られた
布団に、寝かされていた。着ているのは大きめのシャツだ。起きようとすると、激痛が奔った。呻き声が漏れ、喉と胸が焼けるような痛みに襲われる。肩の痛烈な疼き。痺れ。包帯が巻かれている。
ゆっくりと慣らすように、慎重に調子を確かめながら。記憶を呼び起こす。
――最後の光景は。
裂ける口。男。
声。
何回も。引き鉄。
鮮血。悲鳴。絶叫。夜。明かり。
海。
転落。
――撃たれて、落ちて。
それで――
「
視線を巡らせた。
衣装棚。本棚。勉強机。壁のポスターはヴィジュアル系バンドのものらしい。天井が木造であるということからも、此処が「病院」という可能性は捨てても良さそうであった。
では肩の包帯は、この家の住人が手当てしてくれたということなのか。
――波の音。
まだ、思考がはっきりとしていない。汗を拭う。
深呼吸。気配を探る。もう一度、見回した。
――明るい。それに……、静かだ。
自然光を見たのはいつ以来だ。
立ち上がろうとして、前にふらついた。あかぎれした手をついてなんとか支える。足が、小刻みに震えていた。息も。
痛みを堪えつつ、意識を集中させる。
取り戻した力は、今や初めからそうであったかのように隅々にまで理解が及んでいた。今にして思えば、生来からの異常なほどの計算能力は「
震えが止まる。立ち上がった。
出血は止まっていた。弾は抜けており化膿もしていない。それ以外だと、軽傷は多いものの臓器に重大な支障はなく、骨折も見られない。
顔を上げた。窓からは、海が一望できた。穏やかな、そして蒼い空。
部屋を出た。
―――。
顔を洗い終えると、リビングのテーブルに残されていた、一枚の紙切れが目に付いた。赤いインクの荒い筆使いで、「鍋 かゆ」と書かれてある。
キッチンのコンロには
食べてもいいということなのだろうか。流石に「罠」ではないと思うが。誰かの視線を気にする素振りで一度だけ見回すと、火を点けた。温まるまで椅子に座り、待つ。
静寂。一四時を刻む掛け時計の音と、ガスの燃える音だけがしている。
ふと、食器棚の上に飾られていた写真に目が行った。六〇くらいの白髪の男が、胸付けズボンと白長靴を履き、漁業市場と思しき場所で年の離れた若い女と肩を組みながら、クレーンで釣られた巨大魚を背後に、カメラへ向けて微笑んでいる。
似たような写真がいくつか飾られていた。
――親娘なのかな。
――留守にしているのは、仕事に行ってるってことか。
食器を出し、温め終わった粥を注いだ。手を合わせる。スプーンで掬った。
「っ、あつ……っ」
火傷しそうになり、息を吹きかけながら、何とか飲み込んだ。
――美味い。
塩で濃い目に味付けされている。変に凝らない、シンプルな味だった。温かい料理だ。懐かしさを感じた。これもいつ以来だ。最後に食べた記憶は、両親がまだ生きていて、熱に寝込んでしまって看病してもらったとき以来だった。「かつて」を取り戻す前のこと。
あのときの母と同じように。これは、
「っ……、」
夢中になって食べた。何度もお代わりし、足が生えて逃げ出すはずもないのに、最後は鍋ごと掻き込むようにして腹に入れた。
完食してしまうと、何故だか急に胸が震えた。腹が満たされ、気が緩んでしまったからか。
こらえろ、と言い聞かせた。知らず昂ぶっていた感情が決壊しそうになるも、違う、今はそうじゃない、と顔を覆い、手が、肩が震えるのも力ずくで押さえつけて、
深呼吸。意識しながら、ゆっくりと息を吐くよう心掛ける。落ち着け。落ち着くんだ。吸う。吐く。繰り返す。繰り返した。
「は、ぁ――」
戦慄くような、病的とさえ言える反応の震えが収まってくる。完全に鎮まると、胸を撫で下ろした直後に、今度はトイレに行きたくなった。
長い用を足し、血の色が混じったものを流す。手を洗っている最中に、不意に、今更のように思い至った。肩の傷。手当てしてくれたからには、銃創を見られたはずである。その場合は即、警察に通報することが義務付けられてはいなかったか。
――捕まるのは、まずい。
しかし通報されたなら、既に警察が来ているはずだろう。ということは、していなのか。何故だ。
まさか。通報できないような人間なのか。そこまで考えて、すぐに否定した。
それならわざわざ助けたりしないだろうから。どうやって助けられたのかは思い出せないが、それでも助けられたことは事実だ。粥まで、作ってくれて。
通報しない理由は、単純に警察が嫌いだからという場合も考えられる。銃で撃たれた人間を匿うことのほうが面倒な気もするが。
いずれにせよ。こうして目が覚めた以上、長くはいられない。
食器を洗い終えると、部屋に戻った。居間の写真を目にしたあとだと、ポスターの趣味や部屋のあるじが誰なのかは明白であった。
衣装棚を開く。何着か物色し、フード付きの黒のダウンジャケットと厚手のジーンズを手に取った。小柄なことが幸いし、着るのに問題はなさそうだった。確かめようと鏡を探すと。
「―――」
白髪の少年が、目の前に立っていた。
一瞬、誰なのか分からなかった。しかし鏡に映る、片目の黄金の輝きが如実に正体を物語っている。
色素の抜け落ちた髪。老人のような。
触れる。ぱさついた感触。酷く傷んでいる。初めこそ驚きはしたものの、既に受け入れている自分がいた。失って得たものだ。これもまた。
「ひどい顔だな……」
鏡のなかの少年が苦笑する。「フェブラリー」と同じ、黄金の虹彩の少年。痩せこけている。
「……ほんとうに……」
項垂れる。
ここは温かい。――信じられないくらい、暖かい場所だ。
溶かされてしまう前に。弾けてしまう前に。
ポールハンガーに掛けられていたヤンキーズの
お世話になりました。
掠れた、震える声で。呟いた。
◆
それから男が帰宅したのは普段よりも早い、一七時過ぎのことであった。辺りはとっくに暗くなっている。ここのところ連日のように漁が思うように運ばず、しかし足取りが重たげなのは不漁というためだけではなかった。
ひとえに、気がかりのせいだった。昨日の夜、沖に出ていたところを拾った少年。
娘の月命日に、たまたま少し足を伸ばしてみると、普段は行かない海上に浮かんでいたのだ。傷だらけで血を流しながら。偶然通り過ぎなければ、そして偶然暗がりのなかで目に入らなければ、十中八九あのまま死んでいたことだろう。
全身は痣だらけ。蚯蚓腫れは、何か鋭いもので繰り返し打たれたのか。加えて肩を、撃たれていた。
あんな子供に、何があったのか。娘のことが真っ先に頭に浮かんだ。銃創。だが、警察には知らせなかった。どう考えても訳有りである。それでも、失踪した娘のことをまともに取り合ってくれなかった警察に今さら頼る気はなかった。学生運動時代に友人たちが怪我を繰り返したことで、治療の経験を持つ男は素人よりも知識があった。それが幸いした。
――まずは、あいつが目を覚ましてからだ。
大きく息を吐く。男は意を決して鍵を差し込み、引き戸を開け、玄関に踏み入れた。
「―――」
何かが、気に掛かった。予感めいたもの。一拍子遅れて上がり込み、明かりをつける。
リビング。何も変わった様子はない。それでも、予感は消えていなかった。直ぐに少年を寝かせている部屋を覗く。照明。
「………、」
既に、もぬけの殻であった。布団は丁寧に畳まれている。
唖然としながら居間に戻ると、男はテーブルに残されていた置手紙を見つけた。綺麗な字で書かれてある。
「お世話になりました。おかゆ、とても美味しかったです。娘さんの衣服を無断でお借りしました。申し訳ありません。手前勝手を承知のうえで、どうか自分のことは忘れてください」
暫しの沈黙。手紙から顔を上げた。
深い、ため息の音が響く。
◆
揺られている。
流れていく風景。少年は、電車に乗っていた。男の家を出たあと、
この調子ならば、遅くとも今日の夜には「目的地」に着く。
――目的地。
それは、決めたことだった。自分が死ななかった以上、必ずやり遂げなければならないことだった。それだけは絶対に、生き残ってしまった以上、自分が成し遂げなければならないことだった。
風景が流れている。少年は口を一本に結び、見るでもなくぼんやりと眺めながら、電車に揺られ続けている。
◆
そして、少年はその地に降り立った。
夜の帳が下り切った時刻。豚の如き女王が住まう塔を、見上げる一つの
――半径一メートルの間合い。
全盛期と比較にならないほど弱体化した己の現在の
塔をよじ登り始めたのであった。