セブンスターを喫う先生、あるいは黄金瞳の 作:ishigami
Question. 「 If I gave you the truth, would it keep you alive ? 」
――悪夢のなかにいる。
◆
息。
荒い息の音。
鼻を刺すような、汗の臭いも混じった。
「――はぁ――はぁっ――はぁ――はぁっ――」
男の、呼吸する音だった。覆い被さっている男の。
――覆い被さられていた。
急くような動き。周りからは
律動。貫かれるたびに生じていた吐き気は、もはや感じなくなっていた。冷たい石膏像のように。目の前の床は吐瀉物でまみれている。自分の吐いたものだ。味。悪臭。それにも、何も感じない。
「ほら……どうした――あとちょっとだぜ……」
貫かれながら、手を伸ばす。届かない。手を伸ばした先には、男たちが退屈しのぎに置いた「銃」がある。決して届かない場所に置かれた「銃」。オートマチック・ピストル。
船旅のあいだの退屈しのぎだった。戯れ――余興として男たちが子供たちに持ちかけた「ゲーム」。
「弾は入ってる。お前らだけ撃たれるのは不平等だろう?」
うつ伏せに組み伏せられた状態で、男が弾倉に詰め込んだのを見せつけてから、ゲームが始まった。一方的なルールの、圧倒的不利を強いる、参加不可避のゲーム。
貫かれている。
何人目かさえも、忘れた。
「ほら――ほら――もっと頑張ってみろよ……」
男の子だろう? 男たちの嗤う声。悲鳴。
連れてこられた男女はみな若かった。上は中学生、下は小学生くらい。ほとんどの子が泣いていた。か細く、弱い、すすり泣くような声。他の子たちが終わり、自分の番が回って来るのを待たされながら寒さと共に震えている。最初に逃げ出そうとした子は動けなくなるまで顔を殴打され、部屋の隅に放り出されていた。時おり痙攣のように動くのでかろうじて死んではいない様子だったが――
会議室ほどの広さの部屋。支配しているのは、男たちだった。男たちが主人であり、神であり、自分たちはさしずめみすぼらしい奴隷といったところだった。揺り籠から墓場まで、すべてを支配された、哀れな、惨めな。
「ったく……さっきより緩んでんじゃねえかよ……もっと締めろよ――」
衣服は二番目の男に剥ぎ取られていた。眼帯は
頭を掴まれた。無理やり。舌。口腔を蹂躙される。吸われた。舌を出せ、と男が命じる。出さなければ殴られる。何も考えず、そうした。楽だった。
離れる。唾液。口。酷い臭い。途端に、波が襲ってきた。空っぽの胃が縮み上がり、嘔吐。色と臭いがついただけの、ほとんど水のような吐瀉物が汚す。
殴られた。罵声。痣が増えていく。笑い声。視界が霞む。上下が反転する。それでも。
涙だけは、流れなかった。
「クソガキが……人形みてえな顔してやがるくせによ……」
再び、手を伸ばす。汚れた掌を。
これはゲーム。あんたが頑張れば、それだけ早く終わるのよ。痛いのは嫌でしょう?
――手を伸ばす。
一貫して悲鳴を上げなかったのは、慣れていたからだ。痛みには慣れていた。
私が殺してやったのよ。ある日、女が言った。高尚という言葉と対極にいるような、大きなダイヤを指に嵌めた豚のような女だった。あの忌まわしい秘密の拷問部屋のあるじ。茫然自失で、無感動で本物の人形のようにただ一切を遮断して耐えるだけだった自分の感情を引きずりだそうとしてか。
あいつら、鼻につくようなことばかり言うどころか、私の邪魔をしやがったの。だから消してやった、ブレーキに細工をしてね。誰も疑わない。だって事故だもの。悪いのはあいつら。
あんたは運が良いわ。こうして私のものになれたのだから。あんなクズどもと一緒よりも、私に飼ってもらえる今のほうが幸せでしょう? あんたは私を愉しませるためだけに生まれてきたの……綺麗な
感情。疑問。思考していることさえ、どこか懐かしく驚くような感覚があった。久しい手ごたえ。それもすぐに消えてしまう。
こいつに、地獄を与えてやれ! 女は自分でさんざん嬲ったあと、秘密の部屋の檻の中で飼われている
何回も、
々、〃、
々、
〃
々……、
意識が飛びかけるたびに電気を流した棒で叩かれ、あるいは水責め用の水槽に突っ込まれ、前後を「ペット」たちに同時に貫かれたり、巨大な
女の怒りはそれだけで収まらなかった。連絡を取った相手は、非合法組織。人身売買を主とする犯罪者集団。逆らった罰だ、一生後悔しろ! 顔を包帯で覆った女が言った。
鼻を噛み千切った翌日、そうして秘密の拷問部屋から
そして今は。場所が変わってなお、犯され続けている。薄汚れた船内で。奪われ続けている。手を伸ばすのは、男たちがそう命じたからだった。届くはずもないと知っていた。これは
黒い銃身。赤い銃把に刻まれた星は、いくら手を伸ばしても届かない。分かっていた。
なぜ(どうして)。自分は(知っているのに)。まるで祈るみたいに、
何も求めなければ何も感じないでいられた。この一ヶ月閒、そうやってあらゆる苦痛を遣り過ごしてきた。両親を失って、心身を陵辱され、それでも何も考えなければ生きていられた。人形になるのだ。感情などいらない。痛みを生むだけだ。思考すら、不要。
――手を伸ばす。
これから自分が向かうことになるであろう、誰も知らない、冷たい場所について考える。精神が磨りちぎれ、肉体が朽ち果てる自分の最期のときを想う。
吐き気。込み上げる。イメージと共に。捨てたはずの
――「悪夢」を見た。
急くような動き。脂ぎった男の、荒い息の音。揺れる。震える。現実が、内向きに散らばっていく感覚。声。男の声だ。男の声か? 遠のいていく。墜ちていくように。ノイズ。離れていく/近づいていく。
――noise――
まるで――
今にも落ちてきそうな黒雲。天井そのもの。「灰の天蓋」と「彼ら」は呼んでいた。枯れ木一つないくすんだ大地に立っている。「背後」から投射される「光の柱。貫くは黒雲の中央。雷鳴。瞬く間に黒雲が「凍りつき」、砕け散り、粒となって降り注ぐ。
「黒雲」が晴れた。灰色の、
翼を生やした、巨大な
名は、確か――
――「
敵は落下しながら竜巻のように一つとまとまり、くすんだ大地に地鳴りを響かせる。衝撃で地上の施設を破壊すると蝙蝠のように散らばりながら、今度は黒い影が空を埋め尽くした。圧倒的物量。絶望的な光景。
――「大丈夫よ」
――「私たちは
「
「――おおっ――出るッ――!」
奥まで貫かれる。吐き出される感覚。何も思わない。更に遠ざかる。もっと鮮明になる。
見上げんばかりに巨大なヒトガタ。眼前。大顎が開かれる。「解析」――高エネルギー反応。飛び退く。直後に、
焼き払われる。一瞬で足元が
そこには、非能力者すなわち通常戦闘員の装備する
岩石が防御障壁に接触して分解消滅されるのを待つ間もなく、黒剣が接近してきた。
合わせるように背後へ飛び、同時に溶岩の川を
虫食い穴のようなものだった。自動修復機能を一部分だけ
心臓。精確に射抜いた手応え。
咄嗟に、振り向いた。高速接近してくる存在を感知。ヒトガタだ、しかし焦りはない。「領域結合」を通じて、もうひとつの存在を感覚したから。
衝撃音が轟いた。ヒトガタが漆黒の両刃大剣――びっしりと文字のような紋様が刻まれている――を握った状態で、防御障壁ごと身動き取れずにいた。視線の遠くには、
短い拮抗状態のあと、黒剣ごとヒトガタは
「
――「だいじょうぶ、お兄ちゃん?」
頷こうとした。
直後、
「うるッせえまだ俺がヤッてんだよ! ――…へへっ――もう一回やってやんぞ……」
離れ離れになる前に「スプリング」を抱き寄せ、
ヒトガタが接近してきていた。重力反転下であっても怪物たちには無影響らしく、しかし「スプリング」は
それができたのは一部の能力者だけだった。ほかの味方たちは空中に固定して耐えていたが、その隙を突いたヒトガタに次々と急襲され、あるいは
再び、
浮遊物は落下方向を変え――今度は地上へと、雨のように降り注いだ。
止めることなど誰にもできなかった。
あらゆるものが壊れていく。音を立てて。崩れていく。
絶望――
声が聞こえた。「ステイシス」。中継者である
今の
――「迎撃を除いた全員が同時に干渉し、
――だめだ、
「やめ、ろ……」
「――はははは……なんだこいつ――喋れるじゃねえか……」
「だめだ、それ、は……」
「
「……ああ――なんだ……?」
「
「……うるせえな――お前……なにわけわかんねえこと言ってやがる」
逃れることは――
――
「なんだおい……壊れちまったか?――くそッ……どうなんだよ――ああっ――」
一つの認識。薄汚れた船内。脂ぎった男。裂けた口。太い腕。咽喉。締め付けられる。
一つの認識。空の高みより見下ろす。護衛を除いた全能力者たちが
八八秒。
「が、か……っ、……、」
鉄の
汗と血の
全身の骨が砕ける
眼球をつんざく
一〇四秒。抱きしめてた。腕の中。「スプリング」が
反転する視界。ヒトガタ。殺した。「スプリング」を抑え込む。吹き飛ばされた。
眼前に黒剣。回避。間に合わない。寸でに、防御障壁。直撃を逸らすも、胸から
一三三秒。
遠目に、「ラピスラズリ」が消し飛んだのが見えた。
「い、……が、だ……っ」
一四一秒。ばらばらの肉塊。
「ステイシス」の声。
――「フェブラリー! いま、スプリングを治してる! すぐに来て! この子の力で、あなたが
――「大丈夫、大丈夫だから! あなたたちのことは、私が守るから! 信じて! だからお願い、みんなのためにも、早くあいつを!」
声。どんな地獄のなかでも、いかなる混沌の嵐でも、ただ一つだけ無条件で信じられるもの。
上空。静止した「スプリング」と「ステイシス」を見つける。そのとき前髪を留めているヘアピンが反射した。前に五人で「家族の日」を祝った際にプレゼントしたものだ、他の三人に贈ったのと同じで手製だったが、なかでも一番手間を掛けて作った。とても喜んでくれて、以来ずっと付けてくれていた。そのとき一緒にいた二人は、もういなくなってしまったが、今は悲しむべき時ではないと、込み上げる感情を無理やり押さえつけた。彼女の声をよすがにして。
その命令に、従った。彼女の判断に、自分のすべてを委ねる。
視線を交わした。頷く。直ぐさま「領域結合」で気絶している「スプリング」の
――「いい? 何があっても私が守るから……何が起こっても、
背中を向けながら、彼女は言った。
ヒトガタ。「ステイシス」が近づかせない。汚染された
避けられなかった仲間たちが、次々とこの世から消滅していった。一方で生き残った仲間がこちらを援護し、同じように再度干渉を試みているチームもあった。
一四四秒。
彼女の声。
――「
押し下げられていた
作戦開始から一五九秒後。
無防備になった「ステイシス」を貫いた。
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
――手を伸ばす。
寸前に突き飛ばされた。僅差で重力子砲は外れていた。だが。落ちていく「彼女」。届かない。咄嗟に防御障壁を展開したのか下半身が消し飛んでいたが
――手を伸ばす。
「――おおっ――まただっ――またいくッ――」
一つの認識。
――手を伸ばす。
一つの認識。微笑んでいた。「彼女」。「ステイシス」。「大好きな人」。「最愛の人」。「家族」。
――「フェブラリー」
――「
――「
――手を伸ばす。
――手を伸ばす。
――手を伸ばす。
降下したヒトガタが。「彼女」を。ヘアピン。両断した。
「っ……あ……ぅ――」
思い知らされる。
――これは
これは、罰。
悪夢も。すべては忘れようとしていた自分を糾弾するためのものだったのだ。本当は知っているはずなのに知らないふりをし続けていた自分への。
罰。
「彼女」は微笑んでいる。何度手を伸ばしても、追いすがっても、距離を埋めることはできない。
――「
――「
一つの認識。男が嗤っている。
一つの認識。「彼女」が微笑んでいる。遠ざかっていく。決して手の届かない場所へ。白い世界へ。
――「
繰り返される。「彼女」の言葉。どんな地獄のなかでも、いかなる混沌の嵐でも、ただ一つだけ無条件で信じられる「彼女」の。最後の
――このまま、死ぬのか。自分は。
早まる律動。
――なんのために今日まで生きてきたのだ。
――むざむざ両親を殺され。罪を償うこともできず。「彼女」の「命令」すら果たせないまま。「彼女」に救われた自分をこんなことで
「――いくぞ――出すぞッ――また――たっぷり―出してやるからな――!」
――noise――
「―――ぁ、」
不意に。埋め尽くされていた思考の諸々が一気に蒸発するかのように取り払われ、真っ新になった。そして広大な砂漠に埋められていた「鍵」の在り処が真理というスポットライトによって浮かび上がったかのように、ぽつん、と一つだけ思い浮かんだ言葉があった。
――
――それだけは
「彼女」が両断される。男が嗤っている。笑い声。
――
――
湧き上がってくる。ふつふつと。岩石の罅割れから染み出してくるようだった思いが一気に
七星■■が。
――
たとえこれが
許して、なるものか。認めて、なるものか。
――「
削れていた部分に、最後の欠片が嵌る音がした。
◆
――手を伸ばす。
視線の先には「銃」。届かない。
だが。
――手を伸ばす。
視線の先には「銃」。届かない。
だが。
――手を伸ばす。
――手を伸ばした。
「――あ?――」
撃鉄が起こる。
男の、間の抜けた顔が見える。
引き鉄。
◆
ありえないことが起きたとき、往々にして人間の思考は止まる。
一発の
中学生くらいの少年に覆いかぶさっていた脂ぎった男の頭が、仰け反っていた。口は大きく開かれている。少年の手には男たちの気分を盛り上げるための「ゲーム」に使われていた拳銃――より強いスリルを求めていつからか実弾を装填したまま使うようになっていた――が握られており、銃口の周りにはまだ硝煙が漂っていた。
額に空いた赤黒い穴。背後の床には扇状に脳漿が飛散している。
誰かが声を上げる――
よりも先に。脂ぎった男の巨体が唐突に、暴風に飛ばされる傘のように浮かび上がって吹き飛んだ。壁に叩きつけられて
足を伸ばした状態で、重力に逆らうような動きで少年が立ち上がった。
男たちが叫んだ。「ゲーム」に使っていたものや携帯していたものを取ろうとして、銃口を向けるまでの間に三人の頭が吹き飛んだ。悲鳴。次々に倒れる。
残り五人のうち四人が一斉に撃ち放った。少年は銃弾の嵐の中をまるで弾道が予測できるかのように最小限の動きで躱し、間断ない銃撃で男たちの眉間を丁寧に一発ずつ穿ち、沈めた。
開始から僅か三秒のことであった。
「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそっ――!」
部屋が阿鼻叫喚の騒ぎに陥るなか、残る男の一人が、呻きながら懸命に身体を揺らしている。伸ばした手の先には、床に置かれている銃があった。少女でちょうど
見上げた。全身の毛が逆立つ。傍に、少年が立っていた。感情の抜け落ちたような面相。そして照明に反射して、爛々と輝く黄金の左目。痣や蚯蚓腫れの目立つ白い肌は、汗やそれ以外の体液で濡れている。
少年は弾切れになった拳銃を放り捨てると、ゆっくりと歩き出す。男が震える声で、待て、と繰り返すのにも反応を示さず、緩慢な足取りで、男の目と鼻の先に置かれた、必死に伸ばして届かないでいた銃を、簡単に手に取った。
闇を刳り貫いたかのような銃口が、男を捉える。
「ま―――!」
男の最期の行動は、まったくの無意味で無価値な代物だった。
轟音。立て続けに反響した。四つ目の銃声が止む頃には男の胸部には永遠に塞がれない穴が三つ生まれ、頭部からは、九ミリ弾がこじ開けた空洞を通じて脳漿が辺りに飛び散っていた。
意思を失った
少年は関心の無い視線で一瞥すると、出口のほうへと足を向ける。少しぎこちない歩き方だった。股から白濁した雫が垂れるのを感じるが、表情に変化は現れない。
その場の誰も、未だ拳銃を持っている少年を止めようとはしなかった。誰一人として何が起きたのかを飲み込めずにいたのだ。今まで自分たちを嬲っていた人間がいきなり死んで、思考はパンク寸前か凍りついてしまったためだった。
鍵は掛かっていなかった。押して開く。錆び付いたスチールの階段があった。上る。扉。丸い窓からは人工の光が見える。
外に、出た。
「―――」
空間が広がる。ふわり、と風。火照った身体に冷たい。深呼吸すると、潮のにおいがした。水平線。
ほとんどが闇だったが、ここが何処だかは知っていた。
――海の上。
穏やかな
声。男たちの。ちらと見やれば、甲板から男たちが走ってきていた。三人。銃声を聞きつけたことで、手には男たちと同じような拳銃が握られている。
――逃げないと。
自然と、そう思った。今まで思いつきもしなかったことを――否、初めから考えることを放棄していたのだ。しかし。もはや自分は、人形には戻れない。やるべきこと。それを果たすまでは。
落下防止用の、手すりに手をかける。そのとき、銃声。二メートルほど手前で火花が散った。威嚇射撃ではないだろう。撃ち返した。二人がしゃがみ、一人が仰け反って倒れた。
牽制に撃ち続ける。すぐに弾切れした。乗り越えようと足を掛けたところで、肩に爆ぜるような衝撃が走った。視界が一瞬ぶれ、手は何も掴んでおらず――
気づけば、空中に放り出されていた。
浮遊感。
――墜ちる。
続いて、全身を打ち叩くような衝撃の直後。
冷たいような、暖かいようなものに全身を包まれて。
――あわ。弾ける。消える。
くぐもったような音も。
海を照らす月の明かりも。
遠のいていく。
茫漠とした感覚。溶けて広がっていくような。あるいは、無心になっていくような。
肉体から意識が離れゆく最中――
闇夜に響く鈴の音のように。
「彼女」の声が、確かに。
聞こえた。
フェブラリー。あなたは、生きて。
愛しているわ。
―――。
――
…
Answer. 「 Yes. 」