セブンスターを喫う先生、あるいは黄金瞳の 作:ishigami
目が覚めた。
天井。
「―――」
箒は。
普段のように洗面所で顔を洗い、杖袋と道具袋を持って剣道場で朝の鍛錬を済ませると、備え付けのシャワー室で汗を流してから、制服に着替えたのち、隣の離れたベッドで横になっている、学園唯一の男子生徒にして彼女の幼馴染でもある織斑一夏を揺り動かした。
「いつまで寝ているんだ。今日は代表決定戦だろう」
一大イベントの当日だというのに――鈍感というべきか、はたまた器が大きいのか――ぐっすり寝付いていた彼を、不出来な弟に接するような目で見下ろしながら起こすと、自分は先に食堂へと向かった。
――この一週間を経て、あいつは以前よりかは動けるようになったが。
ISの登場によって環境が変わったのは、織斑一夏も同じであった。幼い頃から続けてきた剣道を家計を助けるために中学生で辞めてしまった、彼を責めることはできない。織斑千冬から事情を聞いたときには、あの頃の実力を知る身としては、やはり残念に思ったものの。
――「今のあいつでは、
――「かつての同門として、あいつを鍛えてやってくれないか」
操縦技術に慣れたほうが良い気もしたが、試合の決定が唐突であったため、IS打鉄の使用申請が間に合わないらしい。ならば、と断る理由もなかったので、それを引き受けた。
受けたからには手を抜いたつもりはない。出来うる限りの、教えられることは教えてやった。もともと基礎は身体に染み付いていたようで、彼の剣筋は――流石は
しかしいくら全国中学生剣道大会優勝者の指導の下であったとしても、たったの一週間では付け焼刃もいいところだった。
「ふむ……」
袖をめくり、腕に巻かれた文字盤を見る。時間にはまだ余裕があった。ソーラー充電機能を搭載した、キャメル色の、細身のレザーベルトの腕時計。ブランド物とは縁遠い生活を送っている箒だったが、これは入学祝として贈られたものだった。
――それに。
不意に、これを贈ってくれた人のことが――きっと、あんな夢を見たからだ――残り香のように思い起こされた。
「私も、そこまで余裕があるわけじゃないしな……」
自嘲する笑み。周囲からは凛々しいとか大和撫子とか言われている少女の、らしからぬ呟きを聞いた者は、誰もいない。
そして――
◇
第三アリーナ。
「え!?」
ピット内にこだましたのは、織斑一夏の戸惑いの声だ。
冷や汗を浮かべて何度も山田真耶が頭を下げているその隣では、織斑千冬が腕を組んで憮然とした表情を隠していない。箒は硬直した少年の後ろで、引きつった表情をしている。
「いや、でも、もう試合始まっちゃいますよっ?」
「それは分かっている。だが肝心の専用機がまだ届かないんだ、どうしようもないだろう。近くまで来ているという話だが当てにならん。最悪は打鉄で試合することになるが……白雪!」
「イェス」
後方で、兄である
「本来であれば、オルコットと織斑の試合のあとにお前が出る予定だったが――」
「不測の事態ですか。流石は日本の倉持技研、常識知らずなだけあって見事にやらかしましたね」無表情で毒を吐くと、炯々と見返した。「それで?」
「お前のほうの準備は」
「万全です。兄様に整備して頂いた私のISは常に最高の状態にあります。つまり、いつでも行けるということです」
「分かった。では行われる試合内容を繰り上げて発表し直す。山田君はすぐさま訂正を。白雪は用意にかかってくれ」
「イェス」
―――。
「兄様」
滑走路に立った、雫が振り返る。
「問題はないな?」
「オールグリーン。完璧です」そして穏やかに微笑むと、「兄様が私をここまでサポートしてくれました。であればこそ、私に敗北という二文字はありえません」
その言葉が。彼女の双眸が。
彼女の
――記憶。
――「あなたが私たちの
記憶のなかの景色と重なり、まばゆいものを見るように、白雪軍人は目を細めた。
「……ああ。行ってこい」
頷き、少女が胸のペンダントに触れる。
――発光現象――
次の瞬間、現れたのは。
紺色の、流線型の
軽く目を見開いた織斑千冬や、実際には初めて見る全身装甲ISに驚いた箒を尻目に、雫は前方へ加速し――
そして、静かに語りかけるように言った。
「始めましょう、フロウ・マイ・ティアーズ――私の戦友、私の相棒。私たちの兄様を侮辱したあのメス豚を地に引きずり下ろして、汚い悲鳴を上げさせてやる」
◇
空中では、既に出撃していた
「そう……それが貴女のISですのね」
雫は無言。その表情も、窺い知ることはできない。
沈黙を守る彼女と対峙する少女は、目の前の敵の不気味な佇まいに湧き起こりそうになる「不安」を押し殺して、睨みつけた。
「っ――そう! でしたら構いませんわ、そのまま
「予告を一つ。しておきましょう」遮ったのは、冷え切った声だった。「これから始めるのは決闘ではない」
カウント3――
「な、何を……?」
2、1――
「
「――くっ!!」
白雪雫の実力は未知数。ゆえに最初から全力で行くつもりだった。ISと同じ名を持つ自立機動兵器「ブルー・ティアーズ」すなわちレーザービットを多角的に展開し動きを拘束したところで弾道型ミサイルとレーザーライフル「スターライトmkⅢ」で止めを差す――
しかしセシリア・オルコットが取ったのは回避行動。強いて言うのなら、
スラスターを全開――
するよりも先に、眼前には、
――
――間に合わない!
シールドバリアが発動し、火花が交差する。すぐさま「
脚。強烈。蹴り穿たれる。強制的に吹き飛ばされ、上下が反転するも「蒼い雫」は即座に水平に持ち直そうとし、直後に追撃――
反転。六七口径ライフル連続射撃。反動を押さえつけて。しかし回避される。もしくはプラズマブレードで斬り払われた。見上げる。
見下ろされている。プラズマブレードとは反対の手には、三銃身の散弾銃が握られている。
「『ケルべロス』も好みですけど、やっぱり『
喜色の滲んだ声。わらっているのか。
「くっ――」
「
プラズマブレードと散弾銃が消失する。高く上昇し、続いて全身装甲の背部に量子の発光。一瞬で形作る。直後にISより
――まずい!
ライフルで潰しに掛かるも、遅かった。
垂れ流すように発射されたのは大型
回避行動に移る前に、突如としてそれらは
「キサラギ製、最新高機動分裂誘導弾。銘を『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』」
「……お
迫りくるミサイル。しかしブルー・ティアーズの本領は遠距離戦闘にあるのだ、なればこそその対処法も熟知している。
ミサイルは一様に急激な上下運動に弱い。ゆえに高速機動にて撹乱し、引き付けて回避するのみ。
スラスター全開にし、対応を――
――この数で予想以上に追尾性が高い!?
捌き切れないと判断し、躊躇なくレーザービットおよびミサイルビットを展開。ハイパーセンサーにて標的を認識し、高速機動にて回避行動しつつ撃墜し誘爆を狙う。ライフルによる精密射撃は行えずとも、ミサイルそのものに回避機能がついているわけでもなし、牽制に成ればそれでいい。このすべてを被弾して目も当てられない結末よりかはよほど
その様子をピットから観ていた織斑千冬は、感心したように息を漏らした。
ビット制御と高速移動の両立。それは、セシリア・オルコットが一週間前までは至れなかった領域だ。彼女を今の高みにまで押し上げたのは、ひとえに白雪雫への対抗心に他ならない。
騒動を聞いた時には流石に呆れたが、蓋を開けてみれば良い影響が出ている。教師としてそれを好く思う織斑千冬であったが、しかし空中で四方八方に駆動するセシリア・オルコットからすれば「良い影響」の一言で今回のことを済まされたようでは堪らない。
――
突如として、レーザービットの一機が
「よそ見とはずいぶん
「――っ!?」
更にもう一機撃墜。
HEIAP弾――徹甲弾、榴弾、焼夷弾の機能を併せ持った強力な弾頭――に穿たれたせいで爆発炎上したミサイルビットが機能停止し、落下していく。
――ありえない!
対物ライフルを構えていた白雪雫は、驚くべきことに常に動き続けているビットを撃ち抜いたのだ。明らかな高等技術。セシリア少女にも、出来るかどうかの。
「っ、しまっ――」
気を取られた隙にミサイルが殺到した。
更に。
爆炎の向こう側から
さしずめ「洪水」が押し寄せるがごとく三〇ミリ弾の猛威が全身を呑み込み、凄まじい砲声と勢いのあまり地面へと押し遣られる。
爆煙が晴れたとき。空からは傷一つない全身装甲のISが、口径三〇ミリという対攻撃機用の砲身を九つに束ねた、全長は七メートル近くあろう常軌を逸した「武器」を両腕に持ちながら悠然とこちらを見下ろしていた。
「キサラギ製、
ほぼ一方的な蹂躙。
開始してまだ五分と経っていない、だというのに。「ブルー・ティアーズ」のエネルギー残量は五分の一にまで削られていた。
「はっ――はっ――」
見上げている。
見下ろされている。
「――はっ――はっ――はっ――」
自分は。震えている。震えは呼吸だけではなく、両腕にまで広がっていた。
――知っている、この感じは。
――怖い。
――怖がっているというの、私が?
――ええ怖い。恐れているのだわ、いま、私は。
いつかの時のように。ずっと続くと信じていた生活が、突然崩れ去るのを思い知った日と同じように。
想いを占めるのは、恐怖、だった。
「弱いですね」
声。嘲笑っているのか。
「弱い……本当に。よくそれで代表候補生を名乗っていられる。よくもそんな
――恐怖。そして痛み。
――だめ、考えてはだめ!
余裕が削れていく。心を守っていた防壁に亀裂が走る。弱さが。
――嫌いだった。逃げ出したかった。
泣いていた自分を思い出す。屋敷で隠れて、泣いていたあの頃の自分。幼くて無力だった少女。笑顔の仮面で近づいてくる大人たちの心の声を想像し、恐ろしくておぞましくて、穢らわしくて嫌で、大好きな母親のいない部屋で毎夜のように涙を流していた、あのときの――
「覚悟もないままリングへ上がった。打たれるのは当たり前です。背負っている
――重み。
「私にとって兄様は、今の私を作ってくれた人。恩人です。私が自分を裏切らないでいられるのは、すべて兄様のおかげ。だからこそ私は、
――そう。そうですのね。知らなかったわ。
――白雪雫。貴女には譲れないものがあるのね。それは、きっと貴女にとって大切な宝物。貴女が何があっても守ると決めている絶対のもの。それを嗤われたと思ったから、貴女は怒ったのね。
――ああ、
「私にはその覚悟があります。お前とは違う。だから言ってさしあげます――さっさと墜ちて、故郷へ帰れ。
――その言葉だけは、無視できない。
「なん、ですって」
冷たい身体の奥底に、薄れかけていた、しかし消えることのない篝火の存在を感じる。暗闇であればそれは無視するにはあまりにも明るい、闇が深いほどに強く輝くそれは、雫の言葉をきっかけに――再度「熱」を帯び始める。油を注がれた灯火のように。死に掛けであった肉体を再び血潮が巡り始めたように。
「いま、なんとおっしゃったの……」
――自分には覚悟がある。お前には、無い。そう、言ったの、今?
――私には覚悟がないと、
だとするならば。言ってやらなくてはいけない。何も知らないあの娘に。
「ふざけないで」
――痛くても、嫌いでも。怖くても、逃げ出したくても。それでも逃げ出さなかったから
――お母様と暮らしたあの屋敷を奪われたくなかったから。私の家が、暖かい思い出の詰まったあの場所が、私以外の誰かの手に渡ることだけは絶対に許せなかったから。
無力で泣くだけの、ただ奪われるだけの、か弱い、誰かに媚びることしかできない女にはなりたくなかったから。
「ふざけないで……くださいましね……」
――セシリアは。お母様と同じ、オルコット家の人間だから。
――私はそれを、選んだ。戦う未来を、選んだ。
「覚悟……なら、あのときに……っ」
――ただ一人のオルコットとして!
――オルコット家の誇りを胸に、私は戦い続けると誓った!
――それを私は、
震えている。恐怖は、ある。だがそれ以上に。込み上げてくるのは敵への怒り以上に、自身への
――ねえセシリア。セシリア・オルコット。覚悟を笑われて、こんな無様まで晒して。苦労してイギリス代表候補生になってまで、ここまで努力してやってきたのは、こんな娘一人に怯えるためなの?
――違うでしょう。違うはずよ、私は覚えている。忘れてはいない忘れるものか!
――努力するごとに流してきた汗の数を。悔しくて情けなくて流してきた涙の数を。どんなに痛くても苦しくても、
「終わりにしましょう。トドメは、『カットスロート』で」
初めて少女と言葉を交わしたとき。少女の激情に触れ、教室で組み敷かれたあのとき。
黒曜石の双眸。彼女の殺意を
――高みから見下ろされて。腹は立たなかったの? 子犬のように
――戦うことを諦めて、誓いを破って、ここで全てを投げ出して。
――ただ一人のオルコットは。そんなつまらない結末を、大人しく受け入れても構わないの?
本当に、それでいいというの?
「私は……っ」
――私の名は、何だ。
――かつて誓った、胸に刻んだ、私の名は、何だ。
――答えなさい、
「墜ちろ」
プラズマブレード。
眼前にて、煌々と輝く
よりも早く。
少女は。
戦友を。相棒を。
「ブルー・ティアーズ――!」
愛機の名を、呼んだ。
◇
織斑千冬は。もしかしたらセシリア・オルコットは折れてしまうかもしれない、と半ば考えていた。
「ブルー・ティアーズ」と「フロウ・マイ・ティアーズ」には機体性能で大きな隔たりがある。いくら第三世代機とはいえ一方はBT兵器の実働データを得るための言うなれば「試作機」であるのに対し、もう一方は全身装甲という完全に実戦仕様のISである。
更には「ブルー・ティアーズ」は遠距離戦闘に主軸を置いたISということもあり、白雪雫の近接戦闘に対応しきれない。常に自分の「射程距離」を維持できるほどの巧みな技量も、現在のセシリア・オルコットは持っていない。
踏み込まれれば終わる。それは致命的とさえ言える弱点であり、また操作技術にも両者には差があった。当初の
しかし、だからといってセシリア・オルコットは下手というわけではないのだ。どちらかといえば、白雪雫のほうが異常なのだ。
ISの熟練は搭乗時間に比例するとされる。だが取り寄せた資料によれば、白雪雫がISに触れたのは僅か数ヶ月前。適性評価値が「A」というだけでは、あれだけの動きは再現できない。
ちらと、後ろで同じように観戦している少女の兄を見やる(今は弟に話しかけられており、箒も混ざって、どうやら武装について解説してもらっているらしい)。彼女の普段の様子を耳にしたところ、白雪雫は白雪軍人に
――執念か。
視界を戻したとき、紺のISが流星のごとく蒼のISへ突撃した。
終わり。そう思った直後、織斑千冬の予想を裏切る動きが起こった。
「ブルー・ティアーズ」が
被弾。おそらくこの試合初めての。逃れようとしたところへ、レーザーライフルが追撃する。
牙を剥いた蒼のISは、一瞬で高みへと移動していた。
――オルコット、お前は!
土壇場で
「
これまでとは逆転した構図に立ち、見下ろしながらそう言った。
流れが変わった。
織斑千冬は、本人も気づかぬうちに、小さく笑みを浮かべるのだった。