幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ……いや割とマジで   作:とるびす

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結局最後は殴るのが一番強いって、それ古事記にも書いてあるから。


優曇愚鈍(後)*

 この世は所詮、利用するかされるかだ。

 

 昔から数え切れないほどの人数を騙し続けてきた。時には騙されることだってあった。

 

 今だってそう。私は利があるから永琳と手を組んでいるし、それは向こうだって同じこと。大まかな目的こそ共通している部分もあるけど、それに至る感情的な意義は全くもって別物だ。

 

 

 

 ただ運が良いだけの兎が私。就いている地位も、これまで歩んできた歴史も、全てが不相応で、虚偽と虚勢に塗れている。

 

 何が悲しくて笑わねばならない?

 何が楽しくて生きねばならない?

 

 自分の本心も姿も見失い、幸運な境遇に恵まれ続けた私は、世界一の不幸者だ。

 

 私にはもう、なにも解らない。

 

 

 ああ、永琳。

 お前は本当に頭の良い奴だ。

 

 繋がりが人を束縛することを身を以て知っているから、私を捉えて離さない。

 私の本質を把握しておきながらそれを利用する。……お前と知り合ったことは間違いなく幸運だ。私はそれが今でも恨めしい。

 

 

 ああ、鈴仙。

 貴女は本当に愚かな奴だ。

 

 そして私は、もっと愚かなんだろうね。

 

 

 

 *◆*

 

 

 

「ふふん、粋がってた割には大したことないのね。実体も捉えきれないまま嬲り殺しにされる気分はどうかしら?」

「はぁっ、はぁっ……くそぅ……」

 

 流れ出る血汗を拭いながら妖夢は唸る。なんとか楼観剣を握る利き腕を死守しているものの、ほか三肢には銃痕が痛々しく空いている。妖夢の高い機動力を削ぐ為の戦略だろう。

 

 妖夢を取り囲むは紅く発光し、実体を感じさせない鈴仙の群れ。音と光が視覚と聴覚を塗り潰し、妖夢の強みそのものを封殺していた。

 横一文字に刀を凪いで前方の鈴仙を一掃するも、またもや幻覚。全ての包囲から放たれる弾丸が妖夢を追い詰める。

 

 鈴仙の姿がぼやけるのは、血を失い過ぎたこと以外にも要因があるのだと自覚はしていたが、その攻略法は未だ掴めない。剣が届いたのは紫の言葉に従ったあの数瞬のみである。

 つまり鈴仙は無敵などでは決してない。しっかりと実体をその場に残しているし、剣が届く範囲に存在しているのだ。

 

「紫様は奴の姿をはっきりと捉えていた。……完全無欠の能力ではないんだ……! 私にだってきっと───! はぁっ!」

「まーたまたハズレ! そろそろ終わっちゃえ!」

 

 剣が空を斬ると同時に、眼前が真っ赤に染まる。妖夢が気付く間も無く、超至近距離まで鈴仙は接近していたのだ。

 脳天を強い衝撃が打ち付ける。平衡感覚を失った妖夢は勢いよく床に叩きつけられ、血溜まりを作った。激しい頭痛と幻聴幻覚が脳内で堂々巡りを繰り返す。もはや五感はその殆どの機能を失いかけていた。

 

「あ……ぅあ……」

「頭に直接波長をぶつけられて生きてるなんてね。月にもそんな奴居なかったのにまさか初めて耐えたのが地上人だなんて、信じられないわ」

 

 所詮自分の敵ではなかったが、諦めずに何度も挑み続けた妖夢のファイティングスピリッツに些か感心するものがあったのは、否定できない。

 しかし精神論ではどうにもならないのが、実力という名の大きな隔たりである。結局この半分幽霊では自分の相手にすらなりはしないのだ。寧ろ、鈴仙にとっては次が本番だろう。

 

「さあ部下は倒した! あと残るはお前だけだ!」

「……そうかもしれないわねぇ。妖夢にはまだ荷が重過ぎる相手だったかしら」

 

 平坦な口調でそう告げると、優美な蝶を周囲に散らせながら幽々子が立ち上がる。

 幽々子の波長はこれまで鈴仙が感じ取ってきた中では永琳達を除くと最長に近い長さ。これは幽々子が温和な性格であり、植物のような気の長さを持つ性質であることを示しているのだが、視覚と聴覚でのギャップの差に鈴仙は戸惑いを隠せない。

 

 この性質にして、何故ここまでの凶悪な能力を有しているのかと、冷や汗が止まらない。

 もしも任務中での邂逅でなかったのなら、是非とも接触は避けたい部類の相手だ。

 

「なんて禍々しい力……! さしずめ生きる者にとっての天敵、といったところかしら」

 

 だが内心、鈴仙はせせら笑っていた。

 確かに強力無慈悲な力ではあるが、まさかその天敵の天敵が自分の知る限りでは三人もいることなど彼方は知る由も無いだろう。もはや幽々子は自分が手を下さずして攻略したも同然である。

 もっとも、どっちにしろ鈴仙はこれから幽々子を倒す気であるわけだが。

 

 相性が良いのは自分だって同じ。

 あんな蝶など波長をぶつけて散らしてやればいい。此方に干渉する能力など鈴仙の波長操作の前には無力も同然だ。

 

 

 

「──幽々子様っ! 私に、お任せしたのではなかったのですか! こ、この程度ではまだ、負けてませんよ……!」

 

 明らかな強がりに鈴仙は舌打ちする。

 

「し、しつこい! 何度やったって結果は───」

「主人を前にして地に伏し勝負から逃げるなど、悪徳不敬の極みッ! 例えこの身体が朽ち果てようと、霊体すら露に消えようとも……! 幽々子様の前で諦めてたまるもんか! 思念だけになってでも、この勝利はもぎ取ってみせるッ!」

 

 鈴仙は理解に苦しんだ。剣士の生命線である機動力も五感も失い、尚且つ実力も遠く及ばない自分に対して何故こうも強気に出れるのか。

 倒れていればいいじゃないか。少なくとも、今の状態の妖夢が戦うよりも幽々子が相手した方が勝率は遥かに高いはずだ。

 

 忠誠心を抱いて主人に尽くすのが悪いとは言わない。だけど、死ねば所詮ただの犬死。

 死ねば何も残らないのに。

 

 その主人も主人だ。何故死に向かおうとする従者を止めようとしない?

 ……解らない。

 

「余計な茶々を入れてごめんなさいね妖夢。それじゃ今度こそ貴女が勝つまで待ってるから、あまり待ち惚けにはさせないでね?」

「すぐに終わらせます!」

 

 血走った目で鈴仙を睥睨する。狂気に染まりながらも己の意思を失わずに、寧ろ無意識のうちに精神面での補助に利用しているようだった。

 一度楼観剣を鞘へと収め、代わりに引き抜くは小太刀の白楼剣。鈍色の光が僅かに狂気を緩和させる。

 

「迷いが有るから揺れるんだ! なら、この戦いの間だけ迷わなければいいっ!!」

 

 白楼剣を翻し自らの肩へと突き立てる。

 

 呆れるしかなかった。

 どれだけ未開ならばこのような常軌を逸した行動が取れるのだろうかと。

 正気を失って自傷行為に走るならまだしも、今の妖夢は比較的正気に近い。幾ら狂気対策だからといっても、それでは本末転倒ではないか。

 

 それに、あくまで打ち切られたのは妖夢に対する能力の干渉。鈴仙自身に継続して発動する能力は、依然その効力を発揮している。

 位相をズラせば鈴仙は世界を誤魔化すことができるのだ。如何なる手段を用いたとしてもその姿を捉えるどころか、感じることすらできまい。

 

 あと右腕さえ撃ち抜けば何もできないだろう、と鈴仙は指先の照準を定める。

 そして放たれた弾丸は妖夢の肉を穿ち───。

 

 鈴仙の骨を斬り裂いた。

 

「なッ───そん、な……!」

 

 噴き上がる鮮血とともに、鈴仙の絶対領域の牙城は崩れ去った。

 腰から肩までを易々と切り裂く下段袈裟懸け。致命傷には至らぬものの、戦闘不能に追い込めるほどの大ダメージには違いない。

 

 肉体に触れる感覚と同時に意識的に放たれる光速の斬撃。時間差を丸々消し飛ばすほどの須臾の駆け引きは、妖夢の得意とするところである。

 弾丸が身体に入り込む角度、回転数、勢い、そして狙うであろう部位の予測──それらを完全に把握することができれば、鈴仙の居場所を割り込むことなど容易い。

 

 だが、代わりに妖夢の隙も大きい。

 体勢を崩している今なら急所に弾丸を打ち込むことが可能。混乱する思考の中、鈴仙は自身もまた難しい体勢で妖夢の喉へと照準を定める。

 

 が、弾幕を発射する間も無く鈴仙の腕は肘から逆方向へとへし折られた。刹那の駆け引きの中、妖夢の半霊は着実に鈴仙の方へと近づいていたのだ。そして自分の隙を帳消しにすべく待機していた。

 

 

 一秒にも満たぬ攻防。それだけで勝負の趨勢はほぼ決したも同然だった。

 

「そ、んな……どんな小細工を……!」

 

 なにより鈴仙が予測できなかったのは、妖夢が放った斬撃のスピードである。

 四肢を撃ち抜かれ機動力を大幅に削ぎ落とされているにも関わらず、鈴仙を斬り裂いたそのスピードは今日一番と言っても差し支えないほどだった。

 故に反応が大きく遅れた。

 

「小細工も何も、刀は腕のみで振るものではありません。居合の速さにおいて大きな比重を占めるのは、間違いなく腕よりも腰の捻りですから」

 

 人体の構造において、もっとも瞬発力に富むと考えられている部位は、脊髄付近に集中している。刹那の駆け引きに生きる妖夢なれば、それはさらに顕著となるだろう。

 

 

 妖夢とて無事ではない。だがこの二撃の意味は非常に大きかった。自分にとっても、そして鈴仙にとっても。

 

「ヒッ、ひぃ……!」

 

 鈴仙は傷口を押さえながら子鹿のように震えて蹲る。滴る血を押し込むように強く、さらに強く押さえる。

 

「……ハ、ハハ。そうか、これが戦闘なのね。これが、生死の駆け引き……!」

 

 血に濡れた掌で頭を掻き毟る。

 

「イヤだ……イヤだ死にたくない! 死にたくないっ! 助けてししょおぉ! 姫、さまぁぁ! てゐっ……誰か…ぁ!」

 

 息も絶え絶えに鈴仙は叫んだ。その豹変ぶりに妖夢も、幽々子もまた困惑する。

 痛い痛いと喚きながら、のたうち回るその姿は狂気そのものだった。

 

「ダメだ誰も来ない……。そうだ、あの時だって誰も一緒に来てくれなかった! いつだって、終わる時は一瞬なんだ」

 

 ヒロイックでドラマティックな最期を遂げて死んだ者など、この世に何人存在できただろうか。人とは内心では死に方に憧れを持つものだ。そして無意識のうちに、その通りに死んでいくものだと錯覚してしまう。

 

 誤りだ。

 大抵は何の予兆もなく、ただ突然に全てを奪われてしまう。未来を計画することなんて誰にも出来はしないのだ。生きるという事は、理不尽を受け入れ続けるという事なのだから。

 

 死ぬのは抗う術と意志を持たない奴だけだ。

 

「死ねない……! 私はこんなところで終わるような兎じゃないんだっ! 折角逃げてきたのに、終わるなんて、そんな……!」

 

 嫌な空気が鈴仙を包み込み、特殊な波長が鈴仙を中心に迸った。

 

「何が起こって──!?」

「これは……凄いわね」

 

 やがて鈴仙の喚き声は消えていき、代わりに目の鋭さが増していく。その身から放たれる妖力も桁違いに増加していた。

 

「はっ……はぁ、はぁ、ふぅ……──なるほど。()()()()の言う通りだわ。とても清々しい気分……今なら月まで飛んでいけそうなほど、心が全能感に満ちている」

 

 自分の存在を確かめるように手を開いたり握ったり、そして軽く柔軟体操を行う。

 折れ曲がった左腕をおもむろに無理やり元の形状へと()()()()()。動かすことはまだできないだろうが、盾ぐらいになら使えるはず。

 

 身体が傷つくことに一切の躊躇が感じられない。さっきまで痛みにのたうち回っていた兎の姿はどこにもなく、もはや別人の域。

 

 今の鈴仙は正しく軍人であった。

 

 先ほどまでの焦燥はない。

 闘争心を剥き出しに、射殺さんばかりの眼光。どこか抜けた部分も、もはや完全に霧散した。

 

「舐めていたことを謝罪するわ。これよりはお前を本当の敵と認めよう。玉兎でも逃亡者でもなくて、自分の命を繋ぐ為だけに闘う」

「これが貴女の本当の力、というわけですか……。それは、誇りたくもなるでしょうね。こんなにも凄まじい力を持っていたのなら!」

 

 波長の操作はなにも精神を壊す為だけに使うものではない。むしろ精神を思うままに創り出すためにあるものだ。脳波を意図的に操り、闘争心とアドレナリンを無理やり分泌させる。

 兎は臆病な動物である。そんなことは当の兎が一番良く分かっていることだ。だから怖気付くことのないよう脳波を操り自らを御することは、鉄砲玉の玉兎たちにはよくある事だった。

 

 ただ、エリートの鈴仙がこの方法を実践したのは今回が初めてだ。使う決意もままならないまま逃走してしまったから。

 逃げ場のないこの状況で、さらにかつての行いを気に病んでいた今だからこそ、抱くことのできた真の決意とも言える。

 

「本気で来てくださるのでしょう? それはまさに願っても無い限り……! 私は元より、そのつもりですから!」

「そう。これでイーブンッ!!」

 

 赤黒い血に濡れ、引き裂かれたブレザーを脱ぎ捨てる。じんわりと滲むこの紅こそが生物としての本領。ここが地上であることを実感させる。

 

 紅い瞳の輝きとともに振動が伝播する。そして空間は崩壊を始め、黒く塗りつぶされていく。範囲も速度も先ほどの数倍まで膨れ上がっている。

 超微振動の坩堝に浸かれば、肉体どころか霊体も、原型留めることすらできまい。そのことを理解している妖夢は最優先でそれらを潰しにかかった。

 

 斬って、斬って、斬り結ぶ。

 少しでも気を緩めれば向かう先は、死のみ。間近に迫る濃厚な疲労感と限界が妖夢をさらに奮起させた。眼前をひたすらなます切りにする。

 

「──現世斬ッ!」

 

 スペル詠唱とともに剣圧が空間を薙ぎ払う。拓けた視界の先にあったのは空を駆け、此方へと接近する鈴仙の姿。

 

「接近戦ですか? 望むところ──!?」

 

 妖夢は声を詰まらせた。なぜなら、鈴仙が「斬ってください」と言わんばかりに正面から突っ込んで来たからだ。

 咄嗟に楼観剣を抜き放つが、その剣筋は鈴仙のアッパーカットと交錯する。

 

 破砕音。

 

 砕ける拳と刃。白銀の刀身が床にこびり付き広がる真紅を乱反射させ、くるりくるりと舞いながら床に突き刺さる。

 

 鈴仙は苦痛に顔を歪めながらも、シャツの袖を引き裂き、割れた掌へと巻き付ける。

 

 その傍らで妖夢は茫然と砕けた刃先に釘付けになっていた。妖夢の「体」の強さとも言うべき楼観剣がへし折られたのだから。

 

 一方的に鈴仙が傷付いた展開ではあったものの、妖夢の心中は決して穏やかなものでなかった。動揺を隠すことができない。

 

「斬れな……かった……!」

 

 刃は鈴仙の拳の中程で止まっていた。そして切り開く間も無く、凄まじい衝撃で手の感覚ごと楼観剣の刃を奪っていった。実体あるものを斬れなかったのはこれが初めての事だった。

 

 いや、それよりも楼観剣だ。

 

「そんな……嘘だ」

 

 師である妖忌から譲り受け、終ぞ完全に使いこなす事は出来なかった。つまりそれは、妖忌との約束を違えたことにもなる。

 こんな状況でもなければ泣き喚いていただろう。だが、残った「心」の強さである白楼剣が必死に訴えるのだ。「それはまだ早い」と。

 

「来なさい魂魄妖夢! 武器の有無で泣き言をほざくのは新兵だけだ! さあ、武器なんか捨ててかかってこいッ!」

「──ッッゥ! ああぁぁァァッッ!!」

 

 強い言葉に発破されてか、妖夢もまた声を張り上げながら脚を強く踏み出す。大切なモノを失った悲しみと、行き場のない怒りの矛先を鈴仙へと向ける。

 歯を噛み締め、剣士としての名誉もかなぐり捨てて殴りかかり、拳が鈴仙の頬を捉え──空を切るような虚しい感触が突き抜ける。

 

 躱されたと判断した妖夢は折れた楼観剣を床へと突き立てる。そのまま柄を足場にリーチの長い蹴りを中段へと繰り出した。

 これなら逃げ場は上か下にしかない。その後の対処は妖夢の思うがままだ。

 

 そして蹴りが鈴仙の腹を捉え──またもや空を切る不可解な感触。

 

「……え?」

「──つァッ!!」

 

 そして拳が顎を撃ち抜いた。

 あまりの衝撃に妖夢の世界が二転三転とし、何重もの壁を突き破りながら墜落した。

 その威力たるや、かつて受けた伊吹萃香の拳の威力、それ以上。

 

「……!? ぁが……!……?」

 

 重度の脳震盪。立ち上がるどころか、今の状態を認識することすら困難な状態に陥り、床に手をついて何度も頭を叩きつける羽目になった。

 

 鈴仙の腕力が弱いと、決して侮ってはいない。しかし、鬼に匹敵するほどの威力を内包しているようには、とても見えなかった。

 なのに、この威力。

 

 タネはある。

 瞬発力を要求される際、必ず指摘される弛緩(リラックス)。強調されるのはインパクト、そしてその瞬間までのリラックス。

 

 弛緩と緊張の振り幅が──打力の要。つまりそれらを極限まで操ることができれば、規格外の威力となる。波長操作ならそれが可能。

 

 軍隊格闘術を極めた鈴仙の拳から繰り出されるそれは、筆舌に尽くしがたい破壊力となるだろう。

 

 文字通り、一撃必殺の狂気衝撃(ルナティックインパクト)

 

 それは防御面においても同義である。

 極限まで弛緩を続けることができれば、それは究極の柔の構えとなる。中国拳法最強の防御とも謳われし『消力』の真髄となるのだ。

 

 今の鈴仙は空気にも等しい。

 

「……妖夢」

 

 ゆらり、と。

 幽々子が立ち上がる。

 

 が、それでも前には出なかった。

 従者はまだ足掻いている。

 

「ハッ──まだ……終わて、いな……」

「終われぇぇッ!!」

 

 中腰になった妖夢を蹴り上げる。肩に刺さっていた白楼剣が抜け落ちて、切っ先を鈴仙の頬が掠めた。そして造作もなく床を転がる。

 

 妖夢を支えるモノは、もはや自前の精神の他に何も無い。虫のようにか細い鼓動が脳内をつんざくようにのたうちまわる。

 

「……ま、だ…」

「威勢の良い戯言は立ってから言ったらどうだッ! 負けを負けと認めない奴は、ただの三流にも劣る……! 命あっての物種だと、何でみんな気付かないのよ……? 死んだら、終わり……」

 

 闘志と瞳が揺れる。

 正気に戻った鈴仙は先ほどまでの自分の狂気に戸惑いながら呆然となった。そしてまたも震え出して自分とも妖夢とも知らない被った血を拭う。

 

「なんで……せっかく決意したのに! こんな怪我しちゃ、私、死んじゃう……! 痛い! 痛い、痛い、痛いっ! 」

 

 誤魔化していた弱い心と痛みが体中を駆け巡る。あまりの痛みに能力を制御できず、鈴仙は泣きながらのたうち回る。

 

「白楼剣が掠ったから……決意そのものが、迷いだったのか? そんなことが……」

 

 何が起きているのかはあまり理解できないが、先ほどまでの言動と変貌ぶりでだいたいのことは理解できた。

 鈴仙は強い。勿論、慢心や驕りがなければ妖夢などあっという間に叩き伏せていたほどに。その結果が先ほどまでの一連の攻防だろう。

 だがその強大な能力を持つには似合わないほど精神が脆弱であることも分かった。

 

 結局、鈴仙の本性とは今の姿なのだろう。

 

 今なら──!

 

「くっ、あああぁぁァァ!!」

 

 喉が張り裂けんばかりの絶叫。悲鳴をあげる身体からの危機信号を無視して無理やり立ち上がる。半霊の助けを借りつつ歩みを進める。

 途中で鈴仙も気付いたようで、情けない声をあげながら壁際まで後ずさった。

 

 牽制のために放ったのであろう情けない弾丸が妖夢の頬を掠める。

 

「い、いやぁ! やめて、来ないでっ!」

「武器を捨ててかかってこいと言ったのは、貴女でしょうが……! なぜ貴女ほどの強者が……こんなに弱いのですか……!」

 

 床に刺していた楼観剣の残骸を拾う。刃は中ほどまで折れてしまったが、まだ使えないわけじゃ無い。戦意を失った兎を斬る程度なら、容易い。

 ……この兎を斬ることができるのかは、また別の話になってしまうが。

 

 妖夢は震える腕で刀を構える。

 

「戦意を、見せてください! でないと私は、貴女を斬ることができない!」

「ひ、ひぃぃ!」

「……早く決断なさい妖夢。でないとまた足元をすくわれるわよ?」

 

 どうしたものかと困ってしまう。確かに鈴仙が戦意を取り戻したならもう勝てる保証はない。……そもそもこの状況こそ奇跡に等しいのだ。冷静さを取り戻した鈴仙は、次こそ自分を確実に殺しにかかるだろう。

 結局どちらの選択肢を選んだとしても己の信条の片方を折ってしまうのは間違いない。せめて手元に白楼剣があればこの迷いも断ち切れただろうに。

 

「助けて……誰かぁ……」

「なんで、戦おうとしないんですか! あの時の貴女はあんなにカッコよかったのに……! 楼観剣を折るほどの強者だというのに!」

「来るなっ! 来るなぁァァ!!」

 

 へろへろの弾幕を切り捨てる。

 

 何故だか分からないが、妖夢も涙がこみ上げてきた。それは自分のやるせなさからか、それとも鈴仙のあまりの情けなさからか。

 どちらにしろ悔し涙である。

 

 そしてまた、妖夢も折れようとしていた。

 

 血混じりの吐瀉物を床にぶちまける。

 

「……ぅう……げほっ! この、一振りが最期……! 私に残された最期の勝機っ!」

 

 虚しい決着を迎えることを覚悟した。

 目尻に涙を湛えながら刀を振り上げる。

 

「──ッ御免!」

 

 決意の一振り。

 もはや型も有ったものではない、弱々しい斬撃。それは鈴仙に届き得た。

 

 

 だが、届かなかった。

 その間を遮る者が居たからだ。

 

「あ、貴女は……!」

「残念だけど、この兎の命はやれないなぁ」

 

「──てゐ?」

 

 とても矮小で、人を護るには心許ない小さな背中。

 

 だがそれでも因幡てゐは妖夢の凶刃から、しっかりと鈴仙を守り抜いた。

 そして役目を果たしたことに安堵しながら、前のめりに血の池へと崩れ落ちた。

 

 鈴仙はこの時だけ痛みを忘れた。

 

「──ッッ!! 近眼花火(マインドスターマイン)ッ!!」

「う、わぁ!?」

 

 咄嗟の能力発動によって超振動の坩堝が一気に生成される。動けない妖夢はそれに飲まれかけ──すんでのところで幽々子が波長を殺して相殺。間一髪で救われた。

 てゐの乱入による戦況の変化のために「介入やむなし」と判断したのだろう。

 

 

 鈴仙の心を困惑が占める。

 

「な、なんで? アンタがこんなことするなんて、信じられない」

「そうだね。もうこんな痛い目には遭いたくなかったんだけどなぁ、()()()にはこれしかなかった。だからさ、反対したんだよ」

 

 鈴仙が負った傷よりもてゐの傷は深かった。

 だが()()()()楼観剣が(なまくら)になっていたので即死は避けられたようだ。これもまたてゐの能力の賜物だろう。

 

 しかし、このままでは間違いなくてゐは死んでしまう。出血も多いし、何より傷が特殊だ。すぐに適切な処置を行わなければならない。

 

「血……止めなきゃ……!」

「無理だよ鈴仙。普通の傷ならともかく、これはあの剣士の執念の一振りだった。……あなたの眼なら分かるでしょ?」

 

 そう、判っているのだ。

 霊体に深々と残る荒々しい傷。これがてゐの治癒能力を強く阻害している。

 

 医学を齧る程度に学んでいる鈴仙ではあるが、この環境でこの程度の傷を処置するのは、彼女の手では不可能であった。それこそ永琳ほどの腕の持ち主でない限り、救うことはできないだろう。

 

 なら、今取らなければならない行動は……。

 

「──……てゐ。今から私がやることは、師匠には黙っててちょうだいね」

「善処、しようかな」

 

 こんな状態でもいつもと変わらない軽口を叩くてゐに自然と笑みがこぼれた。

 心に生まれた余裕を決意に。

 鈴仙は再び立ち上がり、冥楼の住人たちを睨みつける。そして威勢良く言い放った。

 

「ここで二人もろとも私に狂わされるか、それとも戦う場所を変えるか、好きな方を選びなさい! ……私としては後者をお勧めするわ」

 

 口ではそう言うものの、鈴仙には後者しか選択肢はない。まだ前者はあるとしても、それではてゐを見殺しにしてしまう。

 だから今回は、師匠(永琳)を囮に使った。

 

「手強くなったり雑魚になったり、忙しい兎ねぇ。だけど、私たちにとっても後者の方が好都合かしらね? 互いに()()()茶々入れがあったことだし、一度互いに間を設けることとしましょう。妖夢もそれでいいかしら?」

「は、はい……。構いません」

 

 黒幕の元へと導いてくれるなら願ってもない限りである。幽々子としても、そろそろ紫たちの方がどうなったのか気になった頃だ。

 

 それに妖夢はもう限界だった。今の状態では剣を握ることすら困難だろう。移動中に少しでも体力を回復させなければならない。

 今の妖夢で鈴仙と"勝負をする"ことは不可能だ。

 

 

 てゐを折れてない片方の腕で背にからい、歩き出した鈴仙の後を追う。途中、折れた楼観剣を回収した妖夢は大きく肩を落とした。

 体も心もボロボロだ。

 

「……」

「腑に落ちない様子ね。茶々を入れられたのがそんなに気に入らなかった?」

 

 いえ…と、言葉をこぼす。だがそれとは裏腹に、妖夢は考え込んでいた。

 やがて戸惑いを抑えることはできず、幽々子へとその内容を打ち明ける。もっとも、その内容は概ね幽々子の予想通りだった。

 

「あの因幡てゐという兎……わざと私の剣筋に割り込んできたような気がするんです。いくら困憊していたからとはいえ、無雑作に相手を斬るようなことはまずありません。あの時だって勿論、私は斬らぬよう刃を捻ったのです。しかし……結果は」

「貴女の予想は多分正しいわよ。あの兎は恐らく、自分も含めて全員が利する形での決着を試みたんでしょうね」

「全員が、利する?」

 

 てゐの能力については紫経由でそれなりに詳細を把握している。実に厄介な能力であることには違いないのだが、外聞だけではまだまだ謎が多かった能力だ。ただ一つ間違いないのは、『てゐの幸福』のみに作用するということ。

 なら今回の出来事は───。

 

 

「──一つ忠告しておくわ」

 

 不意に響いた鈴仙の声に思考を中断する。

 

「お前たちが私の誘いに乗った理由は分かってる。どーせ1vs2が2vs7になるから──なんて単純な考えなんでしょう?」

「まあ、否定はしないわね〜」

 

 レミリア、幽々子、藍、そして紫。この四人が揃っていて太刀打ちのできない相手が存在するのかと聞かれれば、少なくとも幻想郷に住まう殆どの者なら「存在しない」と即答するだろう。

 それほどまでにこの四人の力は絶対だった。しかもそれだけでなく、この場には咲夜に妖夢、橙もいる。なんなら竹林には霊夢や萃香を始めとした幻想郷の並み居る猛者もひしめいている。

 

 勝てない道理がない。

 

 だが、あくまで鈴仙の見解は違う。

 

「やっぱり地上人は愚かね、勝手に内輪で物事を決めたがる。まさに身の程知らずって言葉がそのまま当て嵌まるわ」

 

 人は遥か上の存在を比較対象にすることができないという。それは例えば地上から見た月であり、月から見た鈴仙であり、鈴仙から見た永琳なのだ。

 

「師匠の見る世界を共有できる存在なんてこの世にいないわ。……存在できるはずがない。まっ、御心は広い方だから、今のうちに(幽霊だけど)存命嘆願の口上を考えることね。なんなら今からでも私に一言添えてもらうよう頼んだ方がいいと思うわよ?」

「結構よ」

 

 得意げな様子から一転、あっそうと淡白に吐き捨てる。こんなのが主人じゃ従者も報われない、なんてことを思いながら。鈴仙からすれば、幽々子は亡霊というよりかは死神だった。

 

 だが、結局のところ幽々子と鈴仙の考えはどちらが正しいわけでも、誤っているわけでもない。

 地上と月、妖怪と神などと言ったまどろっこしい関係はともかく、究極的に突き詰めれば八意永琳を至上とするか、八雲紫を至上とするか……この二択なのだ。

 幽々子は永琳の実力をまだ掻い摘んでしか把握できていないし、鈴仙もまた地上の強さについて見聞が浅かったことは妖夢が証明している。

 

 どちらも自分の考えが正しいと疑っていないのだ。それが永琳と紫に対する信頼だから。

 

 

 

 だが彼女らを待ち受けていたのは、どちらともが予想だにしない結果だった。

 

 

 

 *◆*

 

 

 

 目下の戦況は互角……とは言えないだろう。

 

 藍は式分身を作り出して左右からの挟撃。さらにそれに乗じて橙がトップスピードで背後へと回り込み、爪の一閃。目が利くようになっている今だからこそ、二人の連携が如何に強力で凶悪なものなのかが私にはよく分かった。

 所謂、初見殺し。気付けば敵がバラバラになっているのがいつもの光景だった。

 

 今回は、『いつも』じゃない。

 まるで空気を掻くかのように、三人の攻撃は虚しくすり抜けた。いや、おそらくはすり抜けたのではなく、八意永琳が不動と見えるほどの最小限の回避のみを行っているのだ。

 技術もそうだが、もっとも恐ろしいのは未来予知に至るまでの予測能力。瞬時に複雑な情報を処理してしまう最高の頭脳。

 

 しかもあいつの目……この状況以上の何かを捉えているような気がしてならない。

 

 攻撃が失敗に終わり即座に距離を取るも、その大きな隙を永琳が見逃すはずがなく、音を置き去りに藍の胸に風穴が開く。……予備動作すら、視認することができなかった。

 

 血反吐を吐きながら倒れるが、その藍は妖力の靄となって霧散した。式分身の方だったかと胸を撫で下ろすが、対して藍の表情は固かった。

 

「あら器用なこと。それに便利な術ね。致命傷に至ったと判断した途端に式分身の方へ魂を移すなんて。次からは両方とも撃ち抜きましょうか」

「一瞬で本体を見破ったというのか…!? くっ、手の内を見せるべきではなかった」

 

 それにもし橙の方を狙われていれば……そう考えると背筋が凍る思いだった。攻撃手段は恐らく弓矢であり、当然それは普通じゃない。

 藍の肉体を一撃で死に追いやるほどの攻撃である、何かの小細工が施してあるのは容易に予想できる。そして一つの仮説が私の中で浮上するものの、それは到底有り得ない話だ。

 

 毒を塗りつけているんだろう。だが無臭無色の毒が、こんなに早く身体に回るなんて、前提の知識では考えられない。

 

「橙ッ! お前は下がってバックアップに徹するんだ! 絶対に奴の攻撃に当たるんじゃないぞ……掠るのもダメだ」

「は、はい!」

 

 

 

「十六夜咲夜! 一体何があったの? レミリアの身体はどうして再生しない?」

「……お嬢、様……」

 

 藍と橙が突っ込んだ隙に、レミリアと咲夜を永琳から引き離す私のファインプレー! だがそれに浮かれている間も無く、紅魔館主従コンビの有り様にひどい疑問を覚えた。

 元来、吸血鬼という種族は生命力が桁外れに高い種族である。身体が微塵切りにされても復活するような連中だ。ことレミリアに至っては消滅させても復活したと、霊夢から聞き及んでいる。

 

 なのに身体を二つに切り離されただけであっさり戦闘不能に追いやられるのはどう考えてもおかしい。毒とやらが関係しているのだろうか?

 

 というかそもそも生きているのかすら分からない。生命活動の一切が停止しているようだが、レミリアなら、という思いも少なからずあった。

 

「何故貴女たちともあろう者が遅れを取ったの? 貴女の能力があればレミリアに庇ってもらう必要なんて無いはずなのに……」

「……全て私の失態。お嬢様の言いつけを守らなかったどころか、そのせいで、お嬢様を……! もう、私に生きる価値は……」

「早まっちゃダメよ」

 

 メイドの傷心具合からして死んででも詫びそうな勢いだったので慌てて止めた。後追い心中なんてレミリアが一番嫌うタイプの死に方なんじゃない?

 

 それにしてもメイドの能力が通用しなかったってことは、つまり八意永琳はそれに対抗する術を持ち合わせていたってことよね。

 時止めに対する詳しい対処の仕方はジョジョで予習済みだけど、はてさて超スピードか同じタイプの能力か……。ぐぬぬ、こういう時こそ霊夢の勘が必要だというのに……!

 

 取り敢えず私たちは少しでも八意永琳の手の内を明かしていかなければならないわ。実力の片鱗も出させていないこの状況は非常にまずい。

 藍は弓矢を考慮してか積極的に接近戦を仕掛けている。さらにその周りでは橙が素早く動き回って要所要所で妨害。二人とも死力を尽くしてる。

 

 だがそれでも永琳は顔色一つ変えないまま藍の連撃を軽くいなし、何度も押し返す。まだ勝負にすらなり得ていない……!

 

「……焼け跡を観るに妹紅にやられたんでしょう? 片腕なのによくやるものね。それに、とても綺麗な戦い方だこと。まるで組手の模範解答みたい」

「くそっ、なんて嫌な奴だ!」

 

 噴き上がる妖力が藍に纏わり付き、四肢を振るうごとに拡散され広範囲を薙ぎ払う。地の身体能力の高さを存分に活かした攻撃だ。

 もはや私には藍と永琳が何をやっているのかすら分からない。どうやら様子を見る限り、橙も付いていけていないようだ。ただ金と銀が乱れ舞い、凄まじい高速戦の様相を伝えている。

 

 と、二人が距離をとった。

 互いに息は乱れていない。しかし表情を見るに藍には芳しくない結果だったみたい。苦虫を噛み潰したような表情をしてる。

 

 わ、私も何かしなきゃ……!

 

「境符『四重結界』!」

 

 静止してる今が好機! つい最近完成したスペルカードを発動し、強固な結界で永琳を囲う。ふふふ、防御にも攻撃にも使える優れもの───。

 

「邪魔よ」

 

 ───なんだけど、永琳は蜘蛛の巣を払うように結界を容易く砕いてしまった。

 薄々分かってはいたけどショックである。実力差が開き過ぎてサポートもできゃしない!

 

「……?」

「そんな!? 紫様の結界が砕かれるなんて!」

 

 いやいや橙。別に驚くようなことじゃないでしょう? そんな大袈裟に反応されるとなんだか情けなさが倍増しちゃうわ。

 永琳は首傾げてるし、藍はなんか固まってるし……場違い乙! って感じな雰囲気だ。

 

「さあ次はどうやって私を殺しにかかる? 策があったからこうやって逃げずに戦っているんでしょう? まさかこの程度で……ねえ」

 

「……紫様、幽々子様たちの元までの撤退を提言させてください! このままでは紫様の安全を保障できません。殿(しんがり)は私が務めますので、どうか」

「けど、それは……」

 

 藍の言葉は裏を返せば、自分一人では永琳に勝てないということだった。

 あの藍がこんなことを言うなんて……! だけど、理に適っていることも確かだ。

 

 ……レミリアたちのこともあるし、このまま足手纏いにしかなれないなら、逃げるのもまた一計───。

 

 

「危ないっ!!」

「え──」

 

 一瞬のことだった。

 

 私の前方に割り込んだ橙が、叫びながら倒れた。肩には何の変哲のない矢じりが深々と突き刺さっており、少しして橙が呻き声を上げながら痙攣する。

 ま、まさか、私の思考が逃走に偏った瞬間に、追撃戦に切り替えた……!?

 

 永琳はこの一瞬で二本の矢を同時に放っていた。一本は藍に、そしてもう一本は逃げようとしていた私へ。藍の方は矢を逸らすことで回避したようだが、こっちは……私のせいで!

 

「致死性の神経毒を塗った矢を撃ち込んだわ。心臓だったなら楽に逝けたでしょうに……悪いことをしたわね」

「おのれ……おのれぇッ!!」

 

 藍が咆哮を上げながら永琳へと飛びかかる。まるでこれから起こることが分かっているから、怒っているようだった。

 

 

「ゆ、紫さま……。腕が、動きません」

「動いちゃダメよ橙! 毒が身体に回るわ!」

 

 ど、どうすればいいの? 藍の方に視線を向けても、悲痛な表情をすることしかできないようだ。永琳を前に背を向けるわけにはいかないからだろう。

 私でどうにかするしか……! と、取り敢えず傷口の血を吸い出して体内に入ったであろう毒を少しでも減らさないと!

 

 だが傷に口をつける前にメイドに制止された。

 

「口の中に入れたら貴女が死にますよ。……血抜きをすればまだマシにはなるでしょう。毒が入ってしまってるので延命程度が限界ですが」

 

 ……まさか貴女に助けられる日が来るなんてね。

 手慣れた様子でナイフを巧みに操りながら橙の血を抜き出していく。たとえ気休めだったとしてもありがたいわ。それにメイドが動ける程度に意識が戻ってくれたのは正直嬉しい。悪いこと続きだった中、唯一と言っていい事態の好転だ。

 

 と、今は喜んでる暇なんかないわ! 橙を死なせたりでもしたら……私と藍は二度と日常に戻ってくることができなくなってしまう。

 しかも私のせいだなんて……!

 

「橙、痛くない? 目が回ったりしない?」

「痛くないです。だけどだんだんよく分からなくなってきて……怖い……」

 

 橙の握り返す力が徐々に弱くなっている。昔、橙とハイタッチをして手を粉砕骨折したことがあったけど、その時の力はもう微塵にもなかった。

 

 これが、命の喪われる瞬間なの?

 嫌なイメージと既視感が脳内に纏わり付いて、とても気持ち悪い。

 

「いい事を教えてあげましょうか?」

 

 耳障りな声が響く。

 藍の激情混じりの攻撃を躱しながら、平坦な口調で語りかけてくる。

 

「毒を作る時はその抗生剤も一緒に作っておくのは薬師における基本中の基本。勿論、その毒の抗生剤も作っているわ」

「はぁっ、はぁっ……そんなこと、貴様が言わずとも判っている! 待っていろ橙! 私がすぐに助けてあげるから!」

「私を殺した後に? 何処に置いてあるかも分からない、どの容器に入っているかも分からないたった一瓶の抗生剤を探し出すのかしら? 現実的ではないのは、貴女達が一番よく判っているのでしょう」

「何が言いたいの?」

 

 私も藍もイライラしているのは分かっているくせにゆっくり喋るのは、まさしく確信犯だろう。つくづく嫌な奴だわ。

 

 永琳が告げたのは、至極簡単な要求だった。

 

 

貴女(八雲紫)の命と交換よ。私に殺されるのがどうしても嫌なら、式に介錯をお願いしてちょうだい。そうすれば抗生剤は速やかに渡してあげるし、なんなら異変を今すぐにでも───」

 

「ふざっ……けるなぁぁぁァァッッ!!」

 

 藍の咆哮が妖力の波動となって、怒りを叩きつける。あのいつも冷静沈着な藍が、本気でキレていた。私もこんな姿は初めて見た。

 だが永琳はどこ吹く風で、分かっていたかのように肩を竦めた。

 

「到底受け入れられないでしょうね。それが分かっているからこうして無理難題を出したのよ。だって、私には貴女達がその無理難題を()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んですもの」

 

 結局行き着く先は、私の死か。

 ……っ。

 

「藍。私は……──」

「何も言わないでください紫様ッ! 貴女様の死に目は絶対に見ないと決めているのです。それは橙だって同じ……同じなんです……!」

 

 それは藍がいつも言っていることだ。確か橙も似たようなこと言ってたっけ。こんな状況だからこそ、いつも聞き流していたそれも深く心に沁み渡る。

 

 こんな時だからこそ、二人からの愛がとても嬉しくて、とても辛くて……。

 

 何より自分に腹が立つ。

 ぐったりとなっている橙の手を強く握る。

 

「十六夜咲夜。貴女が私のことを嫌っているのは重々承知している。それを踏まえて頼みたいの。……橙の時間を止めてくれないかしら」

「……」

 

 咲夜は何も言わず橙に触れると能力を発動した。これでこれ以上の毒の進行は防げるはずだ。……息が止まったのは毒のせいじゃないと信じたい。

 

 今も藍は永琳相手に必死に攻撃を続けている。だがまだ擦り傷一つ付けていないのが現状。しかも永琳の動きは明らかにこちらを舐めている立ち回り。

 ……チャンスに決まってる。

 

 何故か本気を出そうとしない永琳を……叩くのは今しかない! スペルカードも藍もダメなら、もう"奥の手"しかないわ!

 

 私だけの力じゃない。強いて言うなら"幻想郷"とそれに深く連なる者たちの力。

 数百年に及び研ぎ続けてきた牙をようやく披露することになりそうね。

 

 橙も藍も……死なせやしない!

 勿論、私だって死んでたまるもんですか! 八意永琳……貴女を倒して私たちは未来に進んでみせるわ!






おや? ゆかりんの様子が……


覚悟をキメたうどんちゃん、実は幻想郷最強候補。しかし一度壊れた器は云々……! 精神攻撃を主とする妖怪って心の誤魔化し方が上手いから精神攻撃に強いと思うんです。
11点さんもそう言ってた。

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