幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ……いや割とマジで   作:とるびす

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そして貴女と巡り会う*

 

 

 彼女達の存在を初めて意識したのは、ヘカーティアと問答を繰り広げたあの瞬間。

 死と夢の狭間で記憶を取り戻し、自分が何者でもないことを知った時。

 

 いや……多分さらに遠い昔から、私と彼女達は夢や無意識で繋がり合ってたんだと思う。

 目を逸らしたかったの。

 悲劇を直視してしまえばもう引き返せない。楽な道でないのは明白だったから。

 

 途轍もない苦しみと後悔が待ち受けていると知りながら、わざわざその渦中へ飛び込もうなんて酔狂な真似、馬鹿げてる。

 でも私の心は否応無しに修羅の道を選んでしまった。

 

 我が身可愛さの極み。

 

 いつだって自分が嫌になる。

 私はどれだけ卑しい妖怪なのかと。

 

「ねえ」

 

 私の心にポツンと佇んでいる、向かい合う三つの席。その上で眠る彼女達に問い掛ける。

 この問いもきっと初めてではないのだろう。

 

「貴女達はどうしたいの?」

 

 彼女達の願いと無念が混ざり合って私が生まれた。

 この身体も心も、名前も運命も、私が望んだものはただ一つとしてなかった。

 

 だから委ねるしかない。

 私は『私達』の欲に従うだけ。それが私の心だから。

 

 

 

 

 

 

「もう嫌だ。なにもかも」

「……そう」

「死にたい。消えてしまいたい」

 

 マエリベリー・ハーンは虚ろに呟く。

 項垂れたまま此方を見ようともせず、塞ぎ込んでいた。最早何も見えていない。

 

 この子の絶望はあまりにも根深かった。全てが不本意で、酷い理不尽の連続。どんな詭弁を弄しても、救う事はできないように思う。

 彼女の中で物語は終わっている。後の蛇足は全てタチの悪い悪夢でしかないのだ。そんなメリーの心は痛いほどよく分かる。

 

 自分が許せないんでしょうね。

 

 私の性質は、どちらかと言えばメリー寄りだ。それ故か、彼女に対してとても同情的な気分になるし、同時に強い悪感情を抱いている。

 これこそ同族嫌悪と言うのだろうか。

 

 貴女のことは正直大嫌いだけど、同じ『私』で、運命に翻弄され続けたよしみだ。

 その悲しい願いを叶えてあげたい。

 

 

 

 

 

「……」

「貴女はやっぱり、何も言ってくれないのね」

「……」

「でも言わんとする事は分かるわ」

 

 宇佐見蓮子は無言の願いを私に訴えかけてくる。

 椅子に深く腰掛けて、眼球のない暗い空洞で私を強く見据えていた。

 

 彼女がメリーに与えた紅の目は、結局戻ってくる事はなかった。別のメリーに渡ってしまったからだ。

 あの欠けた眼窩こそ八雲紫が壊れてしまった事の何よりの証左であり、出来損ないの私がこの世に生を受けてしまった間違いを形として残している。

 

 ある意味裏切りのような八雲紫の行為に彼女は何を思っただろうか。全てに絶望した相方に何か伝えたい事があるのだろうか。私には分からない。

 もしかすると蓮子に確固たる意思なんてものは無くて、抜け殻が恨み辛みだけで私を睨んでいるのかも。

 恨まれて当然だものね。憎しみを甘んじて受け入れるしかない。

 

 けどそんな彼女にも願いはある。沈黙の少女は何も語らないけれど、『私』の心だもの。全てを誤魔化すことなんてできやしない。

 永遠に終わらない冒険、或いは夢の先を求めているのでしょう? メリーとの日々がよっぽど楽しかったのかしら。

 

 彼女からどう思われていようと構わない。色々なものを繋ぎ止めてくれた憧憬への対価。

 その小さな願いを叶えてあげたい。

 

 

 

 

 

 

「貴女の好きなようにすればいいわ」

「は、はぁ……」

「自分で道を切り開けるだけの用意はしてあげたでしょう。私から言う事は何もない。自分の心に正直に、最善だと思う道を選びなさい」

 

 八雲紫は椅子にふんぞり返りながら、そう言い放つ。

 不敵な笑みを湛えた私のそっくりさん。でもその佇まいは私と全くの別物で、混乱に拍車をかける。

 

 願いを聞いたのに、それを私に委ねてくるとは思っていなかった。或いは突き放されているのかも。

 蓮子とメリーがあんな状態で、唯一話せるのが腹の底が読めない化け物なんてあんまりな話だ。

 

「もしかして良い迷惑だった?」

「まあ、正直に申しますと。貴女のおかげで幻想郷は成立前から滅茶苦茶ですもの。どこもかしこも争いばかりで、誰も言うことを聞いてくれない」

「あらそう? 私には退屈のない楽しそうな場所に見えるけどね。羨ましい限りです」

「……」

「私が創っていたなら良くも悪くもこうはならなかった。貴女が納得していようがしていまいが、これも一つの幻想郷であり、八雲紫が守るべき場所」

「本当にそれでいいの?」

「そして貴女が還るべき場所」

 

 きっと話半分にしか聞いていないのだろう。私が微妙な顔をする事の何が楽しいのか、頬杖をついてニタニタと笑みを浮かべている。

 こういう雰囲気はオッキーナと似ているのよね。

 

「貴女はそうすべきだと思うのね」

「虚像の言う事に耳を傾ける必要はない。これはただのあり得たかもしれない感想ですわ。まあ、私ならわざと霊夢に負けてあげて、みんなに一通り詫びた後、布団に潜って寝るわね」

 

 それもいい。

 

 家に帰ったら藍と橙が迎えてくれて、ルーミアと天子さんを加えてみんなで食卓を囲んで、少しゆっくりしたら床に入って、ぐっすり眠って、また朝が来る。そして幻想郷の諸問題に胃を痛めながら奔走する一日が始まる。

 夢か現実かもあやふやな毎日に目を瞑りながら、何も考えずに生きていくのだ。

 

 これを幸せと呼ぶのかは判断に困るけど、少なくとも不幸ではないと今なら自信を持って言える。

 いつだってそうだ。

 失ってから大切なものに気付いてしまう。

 

「そんなの……何の解決にもならないわ」

「解決する必要ある? 貴女は弱いんだから、身の丈に合った願いだけ抱えていればいいのに。既に終わった物語に何を加えても駄作以上にはならない」

「承知の上よ」

「無謀だと分かってる癖に、難儀な性根をしてるわ。我ながら自分勝手ねぇ」

 

 死んでしまった者達の十字架。

 蓮子とメリーの想い。

 そして目の前の八雲紫の願い。

 

 全部私には手に余る代物なのは当たり前。

 でもそれが自らの安寧を諦める事に繋がりはしない。

 

「まあ、貴女が道に迷っているうちなら夢と現の境界は確定しない。なるようになればいいわね」

「そこまで頑固に全てを委ねたいと言うなら、相応の後悔の準備はしておいて頂戴ね。どちらに転ぼうが『私達』は終わりよ」

「それで貴女の気持ちが晴れるなら」

 

 見透かしたような目が苦手だ。

 きっと彼女には私の考えはおろか、当人でさえ認知し得ない奥底の気持ちまで手に取るように分かるのだろう。さっきから問答が誘導染みてるし。

 

 この八雲紫なら幻想郷の統治もさほど問題なかっただろう。私みたいなお飾りじゃなくて、本物の管理者になれていたはずだ。

 いや、これこそが本当の八雲紫なのか。

 

 羨ましいわ。

 

「そう。貴女は自分を確かめたいだけなのよ」

「……」

 

 何も言えなかった。言う必要がないから。

 

「功績、傷痕、矛盾。そんな事はこの際どちらでも良くて、自分の存在意義をただ証明したい。だから『私達』の尻拭いを──」

 

「やめて」

「尻拭いを完遂する事で八雲紫の業を背負ったつもりになって、自分が『私達』と同じだと思い込みたかった」

「あの、やめてって言ってるのに……」

「やめませーん」

 

 なんなのコイツ。

 

「最初から言っているように、私は貴女の気持ちを尊重します。メリーの心に従って消滅の道を選ぶも良し、蓮子の心に連れられて更なる苦難の旅を選ぶも良し。でも最後の決断を自分以外に委ねるのはお勧めしないわね」

「他ならぬ貴女が言うのか」

「このザマだから説得力も増すってものよ」

 

 さも嘆くように深い溜息を吐く。

 確かにこうして身体を私なんかに明け渡して、幻想のなり損ないと化してしまった彼女の現状は、AIBOの提案に従った結果ともいえる。

 

 もっと好き勝手できたであろう最強の八雲紫の最期としては、やはり違和感が残る。

 自分やぬえ、こいし。そして蓮メリを犠牲にしてまで何故この世界を望んだのか。

 私に全てを託す意味とは。

 

 頭がぐちゃぐちゃになってしまった私には、もう何も分からない。

 

「なら教えて頂戴。私が選ばれた理由(わけ)を!」

「それを貴女に知ってもらうのが私の願い」

 

 

「やりたいことを自由になさい。私の創りたかった幻想郷が、いつだって貴女の支えになるから」

「……」

「ほら、最後に言ってみて? 貴女の本当の想いを。全ての柵から解かれたら何がしたいの?」

 

 

 

「私は──」

 

 

 

 

 *◆*

 

 

 

 

 夢の中の夢。悪夢の中の悪夢。

 意識が覚醒して一番に感じたのは困惑だった。

 

 はて、この記憶はいつの時のものだろうかと考えを巡らせるが、答えは出なかった。若しくはまだ存在しない産物のかもしれない。

 境界の世界は全てがあやふやだ。

 

 過去、未来。夢と現。

 混ざり合う自分に確たる物はない。

 

 

 と、ここでようやく意識が異物へと向いた。

 片膝をつき、お祓い棒に寄り掛かる事でなんとか体勢を保った霊夢。呼吸は荒く、霊力の残量はゼロに近い。

 そしてその背後では菫子が呻き声をあげて、うつ伏せで倒れている。

 

 他の2人──妹紅と隠岐奈の姿は無い。

 自身の消滅と引き換えに霊夢と菫子にバトンを残したか。最後の最後まで手を焼かせてくれる。

 

 

「霊夢、もう終わりにしましょう。悪夢はいずれ覚めてしまうけれど、境界は決して消え去らない。永遠なのよ。貴女と私が交わる事は未来永劫ないのです」

「……そうね。夢はいつか覚める。境界もまた永遠だと認めてもいい。だけど紫」

 

 最後の力を振り絞り立ち上がる。瞳に宿る強烈な決意。

 

「アンタも永遠ってわけじゃない」

 

「貴女達のその煌めきもまた、ね」

 

 啖呵を切ったものの、霊夢の余力は皆無に等しかった。

 度重なる連戦と奥義の酷使により、限界を迎えつつある。恐らく、次の攻防が霊夢に残された最後のチャンス。

 

 しかしそんな僅かな希望すら打ち砕くように、紫の妖力が加速度的に増しているのが分かった。

 菫子の力の弱まりに反比例するその意味を、霊夢は的確に理解している。

 

 何にせよ次の一撃だ。それに全てを賭ける。

 

 そして当然、霊夢にそれしかない事を紫は把握している。窮鼠猫を噛むとも言う。ならば究極のスペルカードを以って応えるしかあるまい。

 

 この弾幕が成就する時、八雲紫は完成するのだ。

 

 

「紫奥義『深弾幕結界-夢幻泡影-』」

 

 

 自身の存在が完成されていくにつれ、様々な知識が頭の中に流れ込む。

 数多の八雲紫が創り出したスペルカードの中でも、これは別格だ。所詮は弾幕ごっこ、遊びの範疇。しかしこれだけは明らかに他と趣旨が異なる。

 

 八雲紫を超えることを企図して作成されたスペル。いずれも博麗の巫女を試すために用意した八雲紫本気の遊戯。

 

 これを攻略できたのは、長い歴史の中でも前周の霊夢のみ。結果、その戦いで致命傷を負った八雲紫は、蓮子の絶命時まで半死半生の寝たきり状態となった。

 因縁は十分である。

 

 このラストスペルで博麗霊夢を仕留めること、或いは八雲紫の試練を乗り越えるということ。それはどちらに転ぼうが完全決着を意味する。

 

「貴女が破壊しようとしている境界の厚みを知りなさい。如何に無謀な挑戦であるか、とくと味わえ」

「一つや二つの境界なんて……!」

「そんなに少ないと思って?」

 

 術者と殲滅対象を中心として妖しい光を放つ弾幕が連なる線のように円形展開され、囲いを形成していく。

 全方位を隙間なく埋め尽くし、超高速で包囲を縮小。霊夢の領域を塗り潰す。

 

(一つでも被弾すれば残る全ての弾幕が絡みつくように一斉に殺到するってわけね。霊力が無い以上正面突破は不可能。なら、囲いの動きに沿うようにして……!)

 

 紐で結うような挙動。全ての弾幕が等速で動いているわけでは無い。

 弧を描くように旋回すれば、僅かに生じた隙間を縫っての回避が能う。博麗霊夢の天性のセンスが導き出した最適解の道。

 

 だが霊夢の悪寒は止まらない。

 境界を超えた先には、また別の境界。それも更に濃密な死の気配を漂わせている。

 

 ──『八雲紫という名前が指す意味、それは神を囲う、つまり巫女である君を決して逃さない、といった風にも解釈できるね』

 

 いつの頃だったか。霖之助から日課の如く垂れ流された蘊蓄をふと思い起こす。

 なるほど言い得て妙。

 スペルの性質が自分との対決を想定したものである事を理解した。菫子がスペルの対象に含まれていない事からも紫の狙いが窺い知れる。

 

 そう、それでいいのだ。

 お前(八雲紫)が目を向けるべきは訳の分からない残酷な不幸事なんかじゃない。もっと(霊夢)を見ろ。

 

「そんな下手くそな弾幕、私には当たらないわ! もっと狙いをつけなさい!」

「……霊夢。余裕なんてない癖に」

 

 一波、二波と隙間を掻い潜る。

 空っぽの霊力では成し得ない筈の精細な動き。霊夢はまさに極まっていた。

 

 だが、だからこそ底が分かってしまった。断言できる。今の霊夢に全てを躱しきるなど不可能だ。

 次々と蓄積していく因果が、完全な八雲紫と化していく思考が、来るべき結末を囁く。

 

(次は左右から挟み込む弾幕を厚くして、真正面から突っ切る以外の道を潰す。その次は、敢えて弾幕の交錯地に留まらないと被弾するように──)

 

 思考のスペースが拡張された影響か、煩わしく感じていた数々の『想い』が鳴り止んだ。否、相対的な静けさを取り戻したと表現するべきかもしれない。

 余計なモノに振り回されるのはリソースの無駄だ。今はただ、目の前の敵を屠るのに全力を。

 

 

 これまで振り撒かれた不幸の全てを失くすために、やれる事を悉くやって、がむしゃらに頑張って、それでもどうにもならないなら潔く死ねばいい。

 そんなことを漠然と考えて行動してきた。元から期待なんてされてない存在なのだから、精一杯やれば少しは赦される余地があるかもしれない。

 

 そんなどっち付かずの心構えなど元から不要だった。

 決定的な矛盾を抱えたまま、沢山の想いに押し潰されておかしくなってしまった頭。

 そんな状態で、純然たる心のままに戦う霊夢達を相手取るなど、ひっくり返されて当然。

 

 ならばその異物を排除すべきだ。

 とにかく勝つ事だけを一心不乱に。

 

 

 三、四波を凌いだ時点で紫の半分が馴染んだ。

 それに伴い境界の厚みとともにスペルの難易度が桁違いに膨れ上がる。

 

「う、ぁぅ……霊夢、さん……」

 

 自分を喰らい尽くしていく正体不明の違和感に抵抗しながら、菫子は頭上で展開される弾幕の群れを眺めるべく目を食いしばる。

 恐ろしいまでに難解で、震えるほど美しいスペル。その中で乱れ舞う二色の蝶。

 

 永遠とも思えたゲームに綻びが生じつつあるのが、素人の菫子の目でもよく確認できた。

 

 霊夢と紫の考えがここに来て一致を見る。

 次は、避けられない。

 空っぽの霊力では、震える腕では、覚束ない足では、照準定まらない視界では。

 

「はぁ……! はぁ……! くっ、そぉ……ッ!」

「これにて終いですわ」

 

 機械的な口調が耳にへばり付く。眩しく思えるほど妖艶に煌めく桔梗色の瞳には、まだ博麗霊夢は映っていない。

 

 終われない。終わってたまるもんか。

 紫擬きに始まり、幻想郷の命知らずどもが矜持をかけて切り拓いた現在(いま)だ。

 これを無碍にするなどあり得ない。

 

 連れて帰ると誓ったんだから。

 ぶれない想いを胸に、ラストスペルを唱える。

 

 

「『むそおぉ!!! てんせええぇぇぇえッ!!!』」

 

 

 禁断の二度打ち。

 いくら霊夢といえど、夢想天生の完全制御はどう考えても日に一度が限界。しかも、前回の使用からまだ数分も経っていない。即ち術者の消滅を伴う奥義となってしまう。

 消えてしまうのであれば紫としても願ってもない話。この世界での消滅はイコール八雲紫との同化である。

 

 だが紫は目を見開いた。それは霊夢の無謀な行動に対するものではない。

 

「馬鹿な、有り得ない。霊夢……貴女はどこまで」

 

 弾幕に絡め取られる事はなく、その峻烈な存在が陰る事もない。博麗霊夢は境界を突破してみせたのだ。

 少し前までの紫なら「まあ霊夢だし仕方ないか!」と勝手に開き直っていただろう。しかし数多の因果を束ねた今の紫には到底受け入れられない事象。

 

 何がここまで彼女を突き動かす? 

 心身を留めるモノとは? 

 

「分からない。どうして、何故──」

 

「バカ。前にも、言ったでしょ」

 

 溢れる雫。宙に溶けていく涙。

 身体が粉々になりそうなほどの苦痛と疲労を噛み殺した表情(かお)で、霊夢は儚げに笑みを浮かべていた。

 

 初めて見るその姿に動揺が生じる。

 境界が揺らぐ。

 

「……私には最初、紫しか居なかった。アンタしか居なかったのよ」

 

 

 

 *◆*

 

 

 

『まさか一発で成功するとは……。一応最難関の奥義らしいけど、秘伝書もアテにならないわね』

『ん。楽勝』

『でも失敗したら消えちゃうところだった(らしい)のよ? 勝手な行動は慎むように』

『……私が消えたら、紫は悲しいの?』

『勿論。私の可愛い霊夢が消えちゃった日にはもう二度と立ち直れない気がするわ』

 

 桜舞う昼下がり。博麗神社の境内。

 吸血鬼異変が終わったばかりくらいの頃か。

 

 藍と橙が所用で不在だったから私が霊夢の修行を見ることになってたのだが、当然実技なんかは教えることができないので、座学に励んでもらう事にした。

 

 そんな訳で夢想天生を含む博麗の奥義が記された書物を霊夢に読んでもらおうと思ったのだが、目を離した隙に習得してしまっていたという一幕である。

 

 立ち直れないなどと宣ったが、それはきっと嘘になってしまうだろう。心に酷いショックを受ければ記憶は消し飛び、夢の奥底へと封印されるからだ。

 心の中に潜む無意識(こいし)がそうさせるから。

 

 歴代の巫女が死んだ時も同様だったのかもしれない。彼女達の顔が浮かんでこないという事は、つまりそういう事なんだろう。

 

 ただ少なくとも霊夢に対してそれだけの思い入れがあったことは間違いない。

 

『でもホント、素晴らしい事だと思うわ。厳しい藍もきっと褒めてくれるわよ』

『期待してないけどね』

『そ、そう。ところで何かコツとかはあったの? ほら、一応後世の巫女の為に秘伝書をアップグレードしておいた方が親切でしょうし』

『……知らん。藍に聞け』

 

 素っ気なく言い放つと、夢想天生を解除して神社の奥に引っ込んでしまった。

 何が何やらよく分からず、ただ茫然とするしかなかったあの時の記憶。

 何故、あそこで藍の名前が出てきたのかも結局分からず終いだ。

 

 でも夢想天生の仕組みを完全に把握した今になって、霊夢の言葉の意味に気付いた。

 霊夢は自身の拠り所を現世に作っておいたのだろう。己の制約とする為に。

 その正体が幻想郷であって、また八雲紫でもあった、というだけの話か。

 全ての事象から解放されるという最強の性質、その一部を冒してまでも、その道を選んだのね。

 

 

 そこまでして、貴女は私の事を──……。

 

 

 

 *◆*

 

 

 

「……そういう事。なるほど、全て理解できた」

 

 しばしの瞑目、そして目覚め。

 新たな記憶の復活とともに、自分と霊夢の関係性における一定の答えを得た。

 

 故に確信する。

 進むにしろ、死ぬにしろ、霊夢との決着という前提無くしてはやはり有り得ない。

 

 最も難解な七波と八波ですら夢想天生の前には無力。程なくして攻略されるだろう。

 決め手となるのはスペルブレイク直前だ。

 全盛期と比較しても7割近い力が蘇った。この純粋な妖力の塊を霊夢へとぶつける。

 当然、藍が解き明かした夢想天生の術式を付与する事も忘れない。

 

 境界により確立されていた空間の崩壊。振動とともに無から滲み出る弾幕が霊夢を飲み込んでいく。

 八雲紫最強のスペルカード、その最後の足掻き。

 

 

 紫、霊夢、両者共に現時点で発揮できる全てを出し惜しみなく披露していた。次など無いという決意の現れ。

 

 故に失念していた。

 足掻きを残している者はまだ居た。最後の力を死守しつつ、最高の一矢を報いるその瞬間を、虎視眈々と狙っていた者が。

 

「いい加減っ目を覚ましてよ! ゆかりん!」

 

 不可避の弾幕から霊夢を守っていたのは身体全体を覆うバリア。圧倒的な力の前に薄氷が如く剥がれ落ちてしまっているが、僅か数秒の延命を成しただけでも万金の価値がある。

 振り回されっぱなしの菫子にだって意地がある。紫を救ってあげたいという気持ちは霊夢と同じだ。

 

 高まる圧力に慄きながらも、泣き叫びながらも、サイコキネシスを止める事はなく、埋め尽くす弾幕を押しのけ紫へと続く道を作る。

 数歩分の空間を確保するだけでも力を使い果たしてしまったが、これで漸く射程圏内。

 

 霊夢の踏み込みが境界を越えた合図。

 スペルブレイクまであと三秒。八雲紫の完成まであと一割。

 

 

 何かを願うような、縋るような瞳が射抜く。

 

 

 逆袈裟斬りで放たれたお祓い棒に対し、対照的な軌跡を描く指。幻想郷の全員が作り上げた最後の希望を、忌々しい巫女諸共断つための一撃。

 

 これまで何万、何億と繰り返してきたスキマを開く動作だ。いつもと何も変わらない。

 たったそれだけで、遂に本物の八雲紫と成るのだ。

 

 

 ──『私はいつだって一緒ですから。この心が消え去るその時まで、ずっとお仕えいたしますから』

 

 

 この指を振り下ろせば勝てる。

 

 

 ──『この世界は残酷よ。貴女がどれだけの想いを受け入れようが、満たされず消えていく物は存在する。それでも、前に進んで行くしかないわ』

 

 

 あの霊夢を斃せる。

 

 

 ──『ほら、最後に言ってみて? 貴女の本当の想いを。全ての柵から解かれたら何がしたいの?』

 

 

 霊夢が、死ぬ。

 

 

 

 ──『私には最初、紫しか居なかった。アンタしか居なかったのよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんね、霊夢」

 

「……っ!」

 

 指は結局動かなかった。

 

 お祓い棒の切っ先が紫の胸を抉り、空洞から夥しい量の妖力が崩れ落ちていく。

 

 紫の命を確かに奪った感触。

 忘れる筈がない。

 

「なんで、最後まで手を抜くのよ……!」

「私は最後まで本気だったわ。いつだって一生懸命」

 

 八雲紫は嘘を吐かない。

 

「でも、やっぱりダメみたい。肝心なところでいつも上手くいかないの。だから結局、貴女に辛い役目を押し付けてしまう」

「そうよ! 迷惑してるんだから!」

「ふふ、こんな私に親は務まらないわ」

 

 線を保つことができず、境界が崩壊を始める。

 自爆の時とも違う、世界そのものが虚無へと還ろうとする動き。紫を起点として歪みが広がっている。

 一人の大妖怪が終わりを迎えようとしているのか。

 

 霊夢は鉛のように重い足を前へと突き動かし、紫へと手を伸ばす。しかし届かない。隔てる空間が際限なく拡充している。

 

 まるで夢の中を走っているような感覚だった。前に進みたいのに足が上手く動かないもどかしさ。あの何とも言えない嫌悪感が支配している。

 大丈夫だ、此処はまだ現実。

 霊夢の目は本質を見失わない。

 

「迷惑だけど、死ねなんて思ってないわ! つべこべ言わずに帰ってくればいいの!」

「でも私、眠たくて……」

「帰って寝なさい! 家が無いなら私んちの布団貸してあげるから!」

「眠りたかったの。ずっと」

「違う! それは紫の心じゃない!」

 

 霊夢の叫びも虚しく、胸から流れ出るスキマの成り損ない、かつての自分だった物に沈む。

 夢のまた夢、深淵へと向かうのだ。どこまでも、どこまでも堕ちていく。

 

「こうなったら……!」

【やめな霊夢。迂闊に足を踏み入れれば、きっとただじゃ済まない】

「その声、魅魔ね!? そんなの百の承知よ。でも諦めてたまるもんか」

【……眠りと死の境界とは非常に薄いものであり、同様に夢が深ければ深いほど、現実との境目もまた薄くなる。全てを受け入れると言えば聞こえは良いが、実情はこの世で最も呪われた体質。それに飛び込めばどうなると思う? 塵も残らないね】

 

 陰陽玉の中から響いてくる自身を案じる声。魅魔だけではない。矜羯羅や菊理、エリス。陰陽玉に封じられた者達が一斉に止めていた。

 当然、霊夢も紫の沈んでいった境界の危険性については承知している。

 

 本来有ってはならない辻──境界が幾重にも折り重なった歪な世界。

 長く留まれば霊夢はありとあらゆる境界を奪われ、存在しなかった事になる。

 

 それでも諦めきれないのだ。

 

「さあ行くわよ! 全員気張りなさい!」

【こんだけ止めても聞きやしない。こういう悪い所だけは魔理沙と似てるんだから……】

 

 こうなっては術者と一蓮托生である。

 夢想封印の要領で霊夢の身体へ自らの存在を纏わせる。夢想天生と合わせれば如何なる干渉に対しても相当な耐性となりそうだ。

 しかしそれでも完全な対策とはならない。あくまで目的は時間稼ぎだ。

 

 と、紫が不完全なまま崩壊した事で全快した菫子が復帰。超能力をスキマへと流し込む。

 すると不定形に蠢いていた動きが徐々に鎮まっていく。この様子なら不意に入り口が閉じたりする事はないだろう。帰り道が確保できている意味は大きい。

 やはり彼女の力には八雲紫を中和する効能があるのか。

 

「お願いゆかりんを助けてあげて! あの人とっても寂しがり屋だから!」

「知ってる!」

 

 力強く頷くと、霊夢は漆黒の洞穴へと躊躇なく飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 境界とは即ち結界である。

 まるで紫との絶対的な距離を暗示するかのように、多大な障壁が積み重なっていた。

 

 力を振り絞り、何度も拳を振り下ろす。

 遮る物を悉く破壊し沈んでいく紫を追う。徐々に近付けてはいるものの、博麗の勘が頭の中で騒がしく警鐘を鳴らしている。このままでは間に合わない。

 

 紐が解きほぐされるように、構成される性質を剥がすために境界が入り込もうとしている。

 夢想天生と魅魔達のサポートがなければ今頃半身を失っていただろう。しかしそれも一時凌ぎであり、均衡が崩れるのは時間の問題だ。

 

「紫! 手を伸ばして!」

 

「……」

 

 霊夢の言葉に薄らと瞳が開く。

 混濁とした意識の中、身体は思い通りにならず指先が僅かに震えるだけ。

 

 そして霊夢もまた行き詰まった。最後の障壁を叩き壊す事ができずに力無く突っ伏してしまう。これが紫と霊夢を阻む最も強固な境界。

 気力は満ち満ちているのに身体が付いてこない。

 

【霊夢。これ以上は危険だ、戻りなさい】

「いやだ、絶対に諦めるもんか」

 

 駄々をこねる子供のように喚いた。眼前で微睡む紫を腹立たしげに睨み付けながら。

 

「どうして、いつも、いつも、私を突き放そうとするのよ。置いてかれるのは嫌なのに。私のこと勝手に期待させて、弄んで」

 

 今までの鬱憤が弾けたかのように、大粒の涙が流れ落ちては消えていく。

 子供の頃でもこんなに泣いた事はなかった。きっとこれから先も無いだろう。喉が裂けるほどに声を張り上げ泣き叫んでも、届かないのか? 

 

「お願い帰ってきて。紫」

 

 願いは虚しく溶けていく。

 

 

 

「え?」

 

 涙で滲んだ目を慌てて擦る。目の前の光景が俄かに信じられなかった。

 紫との距離がどんどん狭まっていく。

 

 霊夢は全く動けていないので、紫の方から近付いてきているようだった。だが彼女自身もまたアクションを取っていない。なんならまだ眠りこけている。

 その背後だ。背中を押している者が居た。

 

「……誰?」

 

 空間の歪みが重なっていて顔がよく見えない。黒の帽子を被っていて、茶色の髪。少なくとも霊夢の会ったことのない人物。

 境界の向こう側から紫を押し出そうとしている。

 

 困惑するのは後だと、雑念を振り払う。この際彼女の正体はどうでもいい。今はこの幸運を逃さない為に、できる事を全てやるべきだ。

 

「ごめん魅魔。力を貸して」

 

 陰陽玉が残していた最後の霊力を拳に乗せ、障壁を突き破る。全体を破壊する事は叶わなかったが、腕を伸ばせただけでも十分。

 逆巻く衝撃に堪えながら霊夢は合図を送る。

 

 背中の彼女が紫を突き飛ばすと同時に、遂にその手は握られた。

 

 

 境界を越えて触れ合う心。

 漸く、紫に届いた。

 

 

 

 




あと2、3話で最終回です

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