少し険しい雰囲気になった部室に突如として鳴ったノック。
その音に雪乃は肩を震わせ八幡は少し驚いていた。
何せこの部屋に来るのは主に3人。雪乃と八幡、それに顧問の平塚だ。雪乃は早いから一番最初に部室に来ているし、八幡は八幡でゆっくりと扉を開けて入る。平塚は前もあったがノックなど一切しない。つまりノックをする人物というのは、この部屋に初めて訪れる者だけなのだ。
その事が意味することは一つ。
初めての依頼人。
この部活に入ってそんな時間が経ったわけではないのに依頼人が来た。
これからするのはどのような依頼なのだろうかと気になるところである。
まずは本当に依頼人なのか確かめるべく、この部活の部長たる雪乃が扉に声をかけることに。さっきまであった雰囲気から逃げ出したいという気持ちも確かにあった。
「どうぞ」
先程まであった動揺を悟られぬように慎重になった声。
その声を聞いて扉が開くなり、そこから少しおどおどした様子を見せる少女が入ってきた。
「し、失礼します」
その少女は所謂いまどきの女子高生といった風貌だった。
短めのスカートから覗くおみ足にシャツの胸元のボタンがいくつか外されており胸の谷間が見え隠れする。まさに若さを強調するようなファッションである。
そんな彼女は不安らしく少しおっかなびっくりと言った感じに雪乃に向かって周りを良く見ないで話しかける。
「平塚先生に言われて来たんですけど………」
その言葉から確実にこの少女が依頼人であることが確定した。
それが分かったからこそ、多少だが姿勢を正す八幡。そんな八幡の視線を感じ取ったのか少女は八幡の方を向き、そして目が合った瞬間に顔を真っ赤にして慌て始めた。
「なッ、何でヒッキーがここにいんの!」
八幡のことをヒッキーと呼ぶ少女に雪乃は興味深く注目し、八幡は八幡で少し分からないといった様子で彼女に言葉を返した。
「俺は一応ここの部員だ、由比ヶ浜。それよりヒッキーというのは俺のことなのか?」
八幡の問いかけに更に顔を真っ赤にあうあうといった様子になる少女。その様子は子犬じみていて少し可愛らしい。
雪乃はそんな二人のやり取りを見て、『知った上』で八幡に知り合いなのかを問いかける。
「その様子だと知っているようね」
「一応な。俺と同じ2年F組の由比ヶ浜 結衣」
その言葉に何故か会話に入っていない少女……由比ヶ浜 結衣の顔は更に赤くなった。
「あら、私の時と違ってそれぐらいしかないの?」
「一応は調べたが、生憎こいつはお前の所とは違って所謂『普通』の家だ。カードになるようなもんじゃない」
雪乃は自分の時のように色々と言わないのかと問うが、それに対し八幡はしれっと答える。雪乃の場合は色々と調べるべきな存在であったが、由比ヶ浜こと結衣に関しては調べて出た結果がこれだけなので言う必要なしと判断したのだ。
言葉だけ聞けば何やら不穏な雰囲気を感じ取れるものだが、何故か結衣はそうは思わなかったようだ。
少し不安気な様子で雪乃と八幡を見て、二人に話しかける。
「なんか……二人とも仲良さげだね」
その言葉に雪乃は即座に答えた。
「そんなことはまったくないわ!誰がこんな酷い人と!」
先程まであれほど自分のあり方を否定されたのだ。そんな男と仲が良いなどと、冗談ではない。怒りを顕わにする雪乃に対し、八幡はのんびりとした様子で返す。
「見ての通りで俺は嫌われてる。これで仲が良いように見えるんだったら知り合いの眼科医をお勧めするぞ」
雪乃の怒り具合に呆れ返ったのか、八幡は感情を特に表すことなくそのままに結衣の方を向く。
そして目が合うなり、彼女は顔を更に真っ赤にして慌てるのだが、その際に少しだけ彼女の口から言葉が漏れた。
「そ、そうなんだ………よかったぁ………」
これが難聴系主人公のような人間だったら聞き逃すだろうが、八幡のような『特殊』な人間が聞き逃すわけがない。
(何がよかったんだ?)
流石に意味までは分からない。
それにさっきから結衣の様子がおかしいことが気にかかる。もじもじとしていて何故か八幡の方ばかり目を向ける。それでいて目が合ったら急いで目を逸らし慌てるのだが、何処か嬉しそうな様子なのだ。
一体それが何なのか八幡には分からない。強いて思いつく節があるのだとすれば、それは明らかに精神不安定に他ならないのだが。
流石にそんな精神状態で学業など出来るはずがないのだから、その線は低いのだろう。
だから余計に分からなくなる。彼女は何故、こうも真っ赤になって慌てているのだろうと。
とりあえずは、彼女の話を聞くべきだろうと思い、八幡は雪乃に依頼を聞きだすように促そうとするのだが、それは雪乃によって止められた。
「雪ノ下、とりあえず由比ヶ浜に依頼の話を……」
「その事なんだけど、比企谷君、貴方が聞いてみなさい。どうも彼女、さっきからしきりに貴方のことを気にしているようなのよ。貴方達に何があったのかは知らないけど、この様子では私では聞けそうにないみたい。だから貴方に頼むわ」
そう言うなり少し席をはずすと言って部室を出て行ってしまった雪乃。
八幡は待ったの声もかけられずに困り、結衣は八幡と二人っきりにされてしまったことに顔を赤やら朱やら紅やらに変えていく。ちなみに全部赤だ。
基本人とあまり離さない八幡としては、一言も話したことない結衣に対し、どう切り出せばよいのか困ってしまう。故に無言となり、その空気は結衣にも伝わり緊張が走る。
(さて、どうしたものか……………)
そんな風に困っている八幡。
そんな彼を見てなのか、それまで真っ赤になっていた結衣は顔の赤みが引かないままでも真剣な顔をし、何か決意を決め込んだ顔で八幡と向き合った。
「あ、あの、あのね、ヒッキー!」
急に大きな声大きな声で呼ばれて驚く八幡。
そんな八幡に気付かずに結衣は必死に自分の『伝えたい』ことを告げようとするのだが、緊張もあって口が上手く回らない。
そんな結衣を見かねてか、八幡はぶっきらぼうながらに話しかける。
「何が言いたいのか分からないが落ち着け、由比ヶ浜。深呼吸しろ、深呼吸。はい、スーハー、スーハー……」
その言葉に彼女も何とか従い深呼吸を始める。
その際に動く胸の膨らみは男なら見入るものであった。
そして深呼吸を終えた結衣は改めて八幡を見つめる。
彼に濁り切った瞳をまっすぐに泣きそうに潤んだ瞳が捉えた。
「そのね…………あ、あの時はその……ありがとう!!」
急にお礼を言われたって分かるわけがなく、?を浮かべる八幡。そんな八幡を気にせずに結衣は胸の内に積もった八幡への感情の一部を吐きだしていく。
「あの時、ヒッキーがサブレを助けてくれたから、それで……でもお礼が言いたくてもヒッキーのこと、全然見つけられなくて。ずっとお礼が言いたかったのに、お礼が言えなくて、薄情じゃないのかと思われちゃうのが嫌で、それで………」
内容が滅茶苦茶でありますます分からない八幡。
だから彼は結衣をあまり刺激しないように聞いてみた。
「そのだな、由比ヶ浜。まったく覚えがないんだが、お前の話しぶりだと俺がお前にとって大切な何かを助けたようにきこえるんだが、それって何なんだ?」
「さ、サブレはウチで飼ってる犬、ミニチュアダックスフントなの。それとヒッキーがサブレを助けたのは一年前の入学式の早朝だよ。あの時、サブレが飛び出しちゃって車に轢かれかけたの。それをヒッキーが飛び込んでサブレを助けてくれたんだよ。ごめんね、一年もお礼が言えなくて………」
そのキーワードに八幡は何とか思い出そうと記憶を掘り返す。
犬と車の交通事故…………………。
「あ………」
自分の記憶の中の実にどうでもよい部分で、確かにそんな事柄があったこと八幡は思い出した。
あの時、彼はものすごくピリピリしていた。
別にその日が高校の入学式で緊張していたとか、クラス分けで親しい友人が出来るか不安だったとか、そんなものではない。
何せ彼はその前日、詳しく言えばこの日の午前4時まで『仕事』をしていたのだ。
上司からの無茶振りは毎度の話なので問題ないが、流石に2つを一日で行うというのは無理難題も良いところ。それを彼なりに必死になって終わらせたのがその時間。出来あがった死体の数は、それこそ一日の時間よりも多いだろう。
そんな『刺激的で疲労満杯』な状態の彼だったが流石にこの日は休むわけにもいかず、疲れた体を押して家の近くまで歩いていた。車を直に家に近付けると小町に気付かれる可能性があるため、家から少し離れた所で下してもらうようにしているのだ。だから家までは徒歩。
少し歩いたところで、何故か動く物の気配を感じ取り咄嗟に振り向いてしまう彼。仕事の所為で鋭敏になった神経は彼にその情報を即座に伝えたのだ。
そして気が付けば迎撃のために接近。もう仕事が終わったのに収まらない精神の高揚は若さ故の未熟さの証だと言えよう。
接近して初めてそれが犬であることに気付いた八幡は咄嗟に受け止めてしまう。
それで終わりなら問題なかったのだが、それとともに隣から結構なスピードで突っ込んでくる車を八幡は察知した。
普通ならとっくに間に合わずに轢かれている距離と速度。
しかし、八幡は自分の状態が『仕事モード』になっていることを気付いていたからこそ、別の行動に出た。
(この時間なら多少目立っても問題ない)
そう判断するとともに逆に車に突っ込む。そして激突すると思われるところで車のボンネットに飛び乗り更に駆けあがって宙に飛び上がり前転。車が後ろを通り過ぎる辺りで地面に着地するなり身体をその慣性に任せて転がさせる。その際に胸に抱きかかえた犬が潰されないように注意しながら八幡は転がり続けた。
そして自分の身体の損傷具合を感覚で確かめつつ起き上がると、遠くから声が聞こえてきた。
どうやらこの犬の飼い主らしく、八幡が助けたことを知っているようで泣きそうになりながらお礼を言おうとしていた。
だが、八幡はそれどころではなかった。
何せ彼がやったのは普通の人間ではそうできることではない。それを人に見られていたのだから目立つのも当然のこと。それは自分が一番してはいけないことだと八幡は考える。故にどうするか? これが仕事だったのなら目撃者を消すことも考えられる。
しかし、仕事でないのなら……………。
八幡は胸に抱いていた犬を飼い主に渡すと、早口で話しかけた。
「犬、無事みたいでよかったな。それはいいが、このことは誰にも言わないでくれると助かる。んじゃ」
そして全力でその場から離脱した。
鍛えられた肉体が叩きだす速度は、それこそ同じ年頃の人間を軽く凌駕する。まさにあっという間に走り去った八幡に犬の飼い主……由比ヶ浜 結衣はお礼を言えなかったというわけだ。
と、当時のことを思い出しやっと納得できた八幡。
「あぁ、あの時のことか。確かに犬を助けたが、そんな大層なことじゃ」
そう言う八幡だが、もう半分泣きかけている結衣にはそれどころではないらしい。
「でも、ずっとお礼が言いたかったの。サブレを助けてくれてありがとうって。でも、探しても見つからなくてあっという間に一年が経っちゃって。それに別の高校にいっちゃったのかもしれないから探してたけど見つからなくて。そう思ってたら二年になって新しいクラスでヒッキーを見つけて。その時からずっと今日まで謝ってお礼をいいたかったんだけど、その、勇気が出なくて……」
大体の話はこれで分かった。
結衣は一年の前にあったことを今までずっと気にしていたのだと。
そんな彼女に八幡は小町にしてやるのと同じようにゆっくりとその頭を撫で始めた。
「あ………」
そんな可愛らしい声が結衣の口から洩れる。初めて異性に頭を撫でられたのだ。
八幡はそのまま頭を撫でつつも、結衣に出来る限り優しい声で話しかけた。
「あの時のことをずっと気にさせてたみたいで悪かったな。あの犬は元気か?」
「う、うん、元気…………」
耳まで真っ赤になって撫でられるままになっている結衣。
そんな結衣に八幡は少しだけ笑う。
「そいつはよかった。もうあの時みたいにリードを離すなよ。でだ、お前の感謝の言葉はわかったし、俺もそれを受け取った。だからもう気にするな。お前の感謝の気持ちは確かに伝わったからさ」
その言葉に更に泣き出してしまう結衣。
傍から見たら危険なまでに濁った目をした男が女子高生を脅しでもしてセクハラを働いているようにしか見えない。ある意味通報物だった。
そのまま撫で続け落ち着くのをまつ八幡。これらはずっと小町から学んだことだ。他の女子にも通用するかは分からなかったが、しないよりマシだと思ったようだ。
そんなどうしようもない考えの八幡と違い、撫でられることが気持良いのか目を細めた結衣は八幡に小さくながらも告げた。
「あの時のヒッキー、なんか凄くて………格好良かったよ」
「忘れてくれよ、あの時のことは。まぁ、もう無理っぽいようだけどな」
「うん、絶対に無理だと思う。だってあれで私はヒッキーのこと…………」
そこから先は言葉に出ない。だから八幡は何も聞いていない。
でも、確かに結衣はその気持ちを胸に秘めていた。
それから少しして、やっと落ち着いた結衣は八幡から慌てて離れる。
それまで自分がどんな姿を八幡に見せていたのかを思い出し、その顔は羞恥で真っ赤に染まり切っていた。
「ご、ごめん、ヒッキー……こんなみっともない姿を見せて」
「いや、別に…」
八幡はなんとなしにそう答えると、それまでずっと聞けなかったことを聞く。
「あぁ~、それで由比ヶ浜……この奉仕部に来たからには依頼があるんだろ。それを聞かせてくれないか?」
八幡の言葉を聞いて、結衣は耳まで真っ赤になりあうあうとしつつも今回の部室に来た理由を明かした。
「あの、その………ヒッキーにあの時のお礼がしたくて、でも言葉だけじゃ伝えきれないと思って、それでね……クッキーを送ろうと思ったんだけど、作り方が分からないから教えて貰おうとおもったんだ。なのに来てみたらヒッキーがいるんだもん、予定が狂っちゃったよ」
それを聞いて八幡はやっと今回の依頼を理解した。
今回の依頼は『クッキーも作り方を教える』ことであると。
いやぁ~、久しぶりに青春してみました。
どうにも雪乃相手だとブラック八幡にしかなっていないので苦労です。
尚、今回使わなかった没ネタ。
「それで、あなたがここに来た理由を教えてくれるかしら?」
「クッキーの作り方を教えて貰いたくて……」
はにかむ結衣。そんな結衣に八幡は念の為聞く。
「自分で少しでも調べたのか?」
「ううん、全然」
そんな結衣に八幡は判決を下す。
「すぐにスマホでググれ」
以上です。