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横須賀鎮守府の脇にある小さな湾の岸壁沿い。
漁船が15艘も並べばいっぱいになってしまうそこは、知る人ぞ知るちょっとした釣りの穴場スポットだ。
桟橋や小堤防がいくつも突き出し潮の流れを複雑にするからエサは豊富だし、流れ込む工場排水が水温を一定に保つので魚が集まりやすい。
そしてその魚を狙う釣り人たちもまた、集まってくる。
それは艦娘である谷風も例外ではない。
ローテーションの都合でぽっかり予定の空いた昼下がり。
陽炎型の14番艦である谷風は江戸っ子仲間の涼風を誘い、夏の風物詩を楽しむべくこの穴場へと繰り出したのである。
2人は岸壁に付くとアルミパイプ製でとても軽い折りたたみの椅子と机を展開し、まずは拠点を作成した。
ビニール製の魚籠にエアレーションをセットして、釣れた魚を長時間生かしておく準備も完璧だ。
狙うのはハゼという海底に棲む小魚。
この魚は吸盤のように進化した鰭でもって這うように海中を移動する種類で、江戸前の魚として昔から親しまれ、大きいものは高級魚として扱われることもある。
もっともこの時期は手のひらサイズ。
大きくても20cmを超えることはほとんど無い。
「あっちぃー!」
谷風はもう何度目になるか解らない呪詛を吐いた。
8月も終わろうというのに、夏はまだまだうだっている。
高気圧が南から大量の水蒸気を運んできて、晴れ模様でも空気はベトついた。
さらにそこへお天道様がギラリと照り付けるものだから、堪ったものではない。
たちまちの内に汗が噴き出してきて、セーラー服が肌に張り付くのだ。
「まーた言ってるよ。夏は暑いに決まってんだろぃ」
涼風が横目でこちらを見ながら呆れている。
だが彼女だって額に汗を浮かべているのだから、やせ我慢だ。
「決まりに逆らってみるのが駆逐艦ってもんだよ」
「もうちょいと大事にしまっておいちゃあどうだい、その矜持」
「そのまま抱え落ちしたら洒落になんないから、使えるときに使っておくのが陽炎型の教えでね……あっちぃなぁ、もー!」
胸元を抓んでパタパタと風を送り込む。少々はしたないが、暑さが上回った。
これが浜風なら周囲の目を惹く行いだっただろうが、残念なことに谷風では望むべくも無い。なにせブラの必要すらないのだ。
長女の陽炎に連れられティーン向けの店に赴いたものの、まだちょっと早いですね、と言われたのは記憶に新しかった。
メジャーの数値を読んだ店員が浮かべた苦笑いは、絶対に忘れることがないだろう。
「どうにも谷風は色気がないなぁ」
涼風が苦笑している。
しかし彼女だって谷風と似たような起伏の無さだ。女性らしい丸みは無い。
そう言い返してやると涼風は膨れた。
「あたいは胸はないけど色気はあるからね」
「食い気の間違いじゃない?」
「それは谷風に負ける……ほら、アタリきてるよ」
「おっと!」
4mほどある延べ竿(糸巻きの無い釣竿のこと)を立てると、ちょっとグロテスクな魚が一匹ぶらりと揺れた。
ハゼは見てくれが悪い。
ヲ級の帽子から触手を取り除き、後ろに魚の体をつけたような形をしている。
或いはカレイやヒラメを細くしたような形と言っても良い。
「なかなか良いねぇ。食べごろサイズだよ」
大きさは12センチほどで、谷風の小さな手の平よりなお小さい。
しかし白身魚の淡白さを持ちつつも味は良く、シロギス、メゴチ、ギンポと並んで江戸前の3大天ぷらダネに数えられるほどだ。
3大と言っておきつつ4種類あるのはご愛嬌である。
「こっちも釣れた……って、ダメだ。3下だぁ」
涼風が釣り上げたのは10cmに届かない小さなハゼ。
3下、つまり3寸前後の大きさで4寸に満たない雑魚なために、リリース対象となる。
手早く針を外してポチャンと海に投げ込めば、小さな魚体を懸命に動かし慌てて泥底の方まで潜っていった。
「涼風はダメだなぁ。駆逐艦らしく大物を獲っていかないと」
「10cmと12cmじゃ大した違いはないだろう」
勝ち誇ってドヤ顔をしてやると、涼風は拗ねたように口を尖らせる。
その上、日に当たってもなお白い肌を紅潮させて負け惜しみ。
けれど10cmと12cmには超えられない壁があるのだ。
なにしろ。
「高角砲と主砲くらい違う」
「それ、小さい方が役に立つ気がするよ?」
「砲は物の例えで、今はハゼの話でぃ!」
まったくもう。
涼風はああ言えばこう言うタイプで困ってしまう。
ぷりぷりと怒りながら、再び仕掛けを投入した。
食欲旺盛なハゼは60を数える間もなく喰らいついて、釣り上がる。
「ハゼってさ、谷風に似てる」
「どの辺がだよぉ?」
「ちっちゃいのによく食べる辺り?」
「それって、他の駆逐艦にも言えるんじゃないかなぁ」
「それもそうだった」
涼風がてへへ、と笑う。
駆逐艦娘はちょこまかと動き回り露払いまで務める海の雑用係だ。
彼女たちの消費カロリーは半端ではなく、喰わないと痩せるどころか骨と皮だけになる。
そのため皆、小さい体に似つかわしくないくらいに良く食べるのだ。
配給される食糧だってかなりの量になるのだが、それでも足りないために、様々な手段をもって空腹を埋めようと常に機会を窺っている。
……金もないのに。
「さて、このままのんびりと釣りを続けるのも良いけど、それだけじゃちょっとつまらないと思わないかね? 谷風さんよ?」
「おぉ? それなら勝負するかい? 涼風さんよぅ?」
挑発的な瞳を向けてきた涼風に、不適に笑って返す。
売り言葉をかけられたら買い言葉を返すのが、駆逐艦の流儀だ。
「大きさ勝負。時間は太陽が沈むまで。どう?」
「のった! 外道はどれだけ大きくても対象外で、負けたほうは今日の晩ご飯を1人で作るんだからね!」
「がってん! 勝負成立だね!」
「ふふふーん! この谷風さんに勝とうなんて、100年早いよ!」
2人は競い合って竿を振り込む。
大物が釣れるよう、谷風は餌をちょっと大きめにカットした。
○
「なんてこった……この谷風さんが負けるなんて……」
谷風は今、天ぷらを揚げている。
太陽も落ちてきて涼しくなった岸壁に登山用のガスストーブを2つ設置し、円筒型の飯盒の中蓋で油を加熱し、飯盒自体ではレトルトのご飯をボイルしているのだ。
陽炎型は一部を除いて野外調理の技術を叩き込まれているから、この程度であればさほど手間取ることも無かった。
「へへーん! 涼風の本気、思い知ったかい?」
後ろでは勝負に勝った涼風が椅子に腰掛けハゼの天ぷらをつまみに夕涼み。
狐色では揚げすぎなため、黄色っぽい衣を纏ったハゼを藻塩でちょいちょいと化粧して、丸ごと1口で食う。
そこへまるで水の如くサイダーを流し込んで、げっふと息を吐いた。
「あぁ、夏はやっぱりハゼ天だなぁ。特に人に料理させたハゼ天は最高だよ……料理人さん。早く追加を持って来て」
「はいはい、ただ今持っていきますよっ!」
揚げたてホクホクの天ぷらを紙皿に盛り付け、アウトドア用のアルミテーブルに置いてやる。
同時に恨みの篭る視線で涼風を睨むが、そんなのどこ吹く風。
負けたお前が悪いのだと、三日月形に歪んだ瞳がそう告げている。
ちくしょうめ!
「それにしても、これで屋形船でも出せていたら本当に最高だったんだけどね」
また1匹を胃袋に納めながら、涼風が言う。
隅田川の下流や河口に浮かぶ屋形船は、夏の風物詩だ。
ついでに花火大会なんかも見れるとあって、普段は漁船ばかりが行き交う川がこの時期だけは風流の船で埋まる。
「さすがにそんなお金も時間も無いよ」
背開きにしたハゼをごま油に泳がせながら、悲しい現実を突きつけてやった。
何せ敵さんの活動如何では休日など一撃で潰れる身だ。
屋形船の予約など出来るものではないし、駆逐艦の安月給では金銭的にも厳しい。
命の危険も大きいために結構もらっていると思われがちだが、ヒラ自衛官の給料を考えてもらえれば相場は解るだろう。
「だよねぇ。さて、谷風もそろそろ食べたら?」
「言われなくても……っかぁー! お腹空いたぁ!」
レトルトご飯をパッケージのままテーブルに並べる。
見てくれは悪いが、これもデイキャンプの風流だと思えば許せるものだ。
蓋を開け軽く混ぜて湯気をしっかり逃がしたら、準備は完了。
上にハゼ天をぎっしりと並べて、真っ黒に辛くとろみが付くほど甘い濃口の天つゆを……掛け回して、掛け回して、掛け回す!!
「さすが谷風! バッチリだね!」
「天丼ときたら、こうじゃないと」
個人の好みもあるが、蕎麦にしろ天丼にしろ寿司にしろ江戸前と言ったら辛め甘めの濃い目が普通である。
黄色かった衣に天つゆが染み込んで、じんわりと茶に変わった。
「「いただきます!」」
ここはお行儀悪いのが正解だ。
割り箸を口に咥えパキリと割るのもまた一興。
そのまま、まずは小ぶりなハゼ天へ狙いを定めてバクリとやる。
水分の多い身はホクホクと抵抗無く崩れて、濃厚な旨味だけが口の中へ広がった。
「あぁ、この潔いまでの純粋な旨味……! 粋だよねぇ……!」
ハゼは食べられる部分のほとんどが水分とアミノ酸だけで構成されている。
だから薄く衣を付け香り高いゴマ油で揚げただけの天ぷらならば、脂肪や他の雑味をほとんど感じずに旨味だけを味わうことが出来るのだ。
なにしろその濃さはタラやシロギスを2割近く上回り、サケ類に迫るのだから。
「この味は、濃ゆい天つゆじゃないと出ないからなぁ」
つゆの濃さもハゼの旨味が濃厚なために釣り合うようになっている。
薄いつゆだと旨味に負けてしまって味がぼやけるのだ。
「よぉし、それじゃあ本番! いきますか!」
気合を入れてメシをかっ喰らう。
つゆの甘辛とハゼの旨味を米がしっかりと受け止め、上品で純粋なだけだった天ぷらに一本の芯を通して、天丼という力強い料理へ変化させた。
ハゼだけならばあっさりと崩れるが、米飯と一緒になることでしっかりと咀嚼できるようになるために、より一層の旨味を抽出させ味わうことが出来るのだ。
「「ご馳走様でした!」」
丼は古のファストフード。
一度勢いが付いてしまえば、食べ終えるのに時間はかからない。
ましてやハゼ天丼などという旨い丼ならなおのこと。
谷風も涼風もあっというまにご飯を空にしてしまった。
「いやぁ、食べた食べた」
涼風が、腹をポンポンと叩いている。
セーラー服の裾からチラリと覗く腹は、天丼で膨れて滑稽なくらいに丸い。
「いくらなんでも食べすぎじゃない?」
「今年はもう、あと何回食べられるか解らないからね」
涼風は遠く海原へ目をやった。
いつの間にか辺りは完全に闇に染まっている。
昼はもう大分短くなって、いつしか秋の足音が聞こえてくるようだった。