さよなら、しれえ   作:坂下郁

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 深海棲艦の襲撃を受けた町に住民の救出に赴いた提督と摩耶を待っていた出会いが、二人の人生を変えてゆく。




第九話 家族の肖像

 この頃、史上最大規模の反攻作戦が成功を収め、深海棲艦との戦争は終盤に向かっていた。作戦を境に深海棲艦の活動は急速に沈静化に向かい、今では海域哨戒や遠征途上での遭遇戦が多少起きている程度だが、それでも沿岸の町が襲われる時がある。反攻作戦の成功の裏側で多大な犠牲を払った海軍は、戦力を戦略拠点に集中配置する方針に切り替えていたたため、いざ今回のようなケースで救出に赴きたくても思うに任せない弊害も生んでしまった。

 

 移動に丸一日を費やし救援部隊が到着した島。上陸を果たした部隊が町に近づくに連れ、戦艦三体に砲撃を受けた町の惨状が明らかになってきた。誰もが立ち竦み戸惑う光景の中、一人指揮官と思しき男だけはどんどん市街地へと入ってゆく。

 

 「おい摩耶、お前らそんな所で固まってんじゃねーよ……って聞いてねーな。チッ、仕方ねーな、オラ、派遣部隊の新兵ども、さっさとついて来い」

 

 艦娘達と救援部隊の新兵の目の前に広がるのは、砲弾が地面で炸裂したときに何が起きるのか、人間が具体的にどう死ぬのかという事実。海戦と異なる、民間人を巻き込んだ対地攻撃の悲惨さに誰もが言葉を失った。人間といえば筋骨逞しく大柄な提督しか知らなかった艦娘にとって、年齢性別も様々な人間を目にすることも初めてであり、中でも子供の犠牲者を見つける度に嗚咽が零れるのを止められなかった。

 

 「誰かーっ! 生きてる方はいませんかーっ!!」

 「救助に来ましたよっ! 返事をしてくださーい!! お願いですからぁ……」

 

 必死の叫び声はやがて悲痛な涙声へと変わり、あっという間に声も嗄れてしまう。それでも艦娘達は必死に声を上げ続け、生存者を探し続ける。

 

 やがて遠くに見える摩耶と鳥海から連絡が入った。見れば鳥海が大きな瓦礫を持ち上げ、摩耶が地面にしゃがみこんで地下を覗き込んでいる。その光景が提督に訴える――地下の避難所か? 堪らず摩耶達のいる場所まで駆け出して追いついた。

 

 「おう提督……地下になんかありそうだぜ」

 「これは……地下壕か。避難民がいるかもしれん。摩耶、中を確認してこい。鳥海はバックアップしろ」

 

 やがて鳥海が先に地下壕から姿を現した。悄然としたその表情を見れば容易に地下壕内の様子を推測できた。提督は、唇だけで咥えていた煙草をペッと吐き出し、地面で乱暴に踏み消す。聞くことは聞かねばならない。

 

 「それで? 地下壕には何があった? 摩耶はどうした?」

 「そ、そうでした。それは――」

 「あ、あのよぉ、提督……。こいつ……あたしから離れようとしねーんだけど……どうすりゃいい?」

 

 鳥海が説明を始めようとした矢先に、困り果てた表情で摩耶が地上に上がってきた。両腕に一人子供を抱えている。

 

 「それで? 生存者はそいつだけか? 他には?」

 

 今度は摩耶と鳥海が泣きそうな表情に変わる番だった。願わくば、摩耶が抱えきれずに残してきた生存者がいてほしい、だが二人の表情が全てを物語っている。

 

 「あ、ああ……後三個、けど……生命反応は……その……」

 「……摩耶、人間はな、一人二人、って数えんだ、覚えとけ」

 

 やり場のない思いを抱え苦い表情の提督の耳に、鳥海の鋭い悲鳴が入ってきた。目にしたのは、恐らく六、七歳と思われる男の子が小さなナイフを構え、摩耶も鳥海も顔を見合わせどうすればいいか分からずにいる姿。地面には鳥海が渡そうとした口の空いたペットボトルが転がり、無為に水を地面に吸わせていた。

 

 提督は男の子に様子に目をすうっと細める。目に映る全てが敵に見える極限の精神状態から抜けきっていないように見える。あのままだと危ねぇな…提督は注意を自分に引くように無造作に男の子に近づき、ぽん、と大きな手を頭に載せる。男の子は反射的に虚ろな目で提督を見上げ、唐突に提督にナイフごと体当たりした。

 

 「つっ……痛ぇな、オイ。だが、お前の心はもっと痛ぇ思いをしたんだよな」

 

 その言葉に、男の子はぴくりと反応し、乾いてひび割れた唇を動かし、しゃべり始めた。

 

 「…………みんな、死んじゃった」

 「お前は……頑張ったよ」

 「お父さんもお母さんも、お隣さんもお向かいさんも、みんな……みんな……」

 「だがな、それでもお前は生きてんだ。もう、頑張んなくていいぞ、あとは俺達に任せろ」

 

 提督はナイフの柄から男の子の指をゆっくりと外してゆく。それを見ていた摩耶が、表情をきっと引き締めると男の子に近づき、目線を合わせるため地面に膝をつくと、薄汚れた破けた着衣や煤で黒く塗られた顔を気にすることなく、そのまま男の子をきつく抱きしめる。

 

 「あたし達は敵じゃない。心配すんな……もう、悪い夢は終わったんだ」

 

 男の子はそのまま摩耶の胸に顔を埋め、大声で泣き始めた。ほうっと安堵の溜息を零した摩耶は、眩しそうな目で提督を見上げ、普段の調子とは違い静かに呟いた。

 

 「お前……優しいとこ……あるんだな」

 

 よせよ、と唇を歪めた提督だが、がくりと膝を地面について動けなくなった。痩せ我慢も限界だった。鳥海が慌てて駆け寄り止血を始め応援を呼ぶ。この頃には僅かながら生存者が発見され始め、町の中心部には医療用テントがいくつか立てられていた。部隊は発見した生存者二六名に提督を加えた二七名が搬送に耐えられる状態に回復するまで約二週間、この町への駐留を余儀なくされた。

 

 その間に起きた変化は三つ。

 

 一つは、摩耶達が助けた男の子が、軽度の火傷と栄養失調、精神的なショック状態から順調に回復し、徐々にではあるが笑顔を取り戻し始めたこと。だが気持ちは依然不安定で、摩耶か提督がいないと取り乱すこともあった。

 

 もう一つは、提督の容態が思いのほか重症だったこと。刃の刺さった場所と角度が悪く出血が止まらず、なのに住民の手当てを優先させたことが状態の悪化に拍車をかけた。命は取り留めたものの、以前のようには動けないだろう、が軍医の見立てだった。

 

 

 そして最後に。

 

 

 部隊がこの町に駐留している間に、大本営は深海棲艦との戦争の終結を宣言した。

 

 

 

 戦争は終わった。そうなると事務方が殺人的に忙しくなる。国内外の輸送網再整備の一環として始まった輸送船の大量チャーターを皮切りに、戦後処理は慌ただしく進んでいる。外地に展開する残存の通常戦力の再配備、民間人の帰国、各地に集積した資材資源の輸送、そして艦娘たちの武装解除。

 

 「この基地にもずいぶん長くいたけど、終わる時ってのはあっという間だなぁ」

 

 甲板に立つ摩耶のショートヘアを潮風が撫でてゆく。髪型の乱れを気にするように右手で髪を抑えながら、少しおどけたように去りゆく基地を見送り、左手は男の子がきゅっと握りしめるのに任せている。

 

 提督と摩耶のいた基地は南方方面における前衛基地の一つで、後方の中核基地を守るための役割を担っていた。だが深海棲艦との戦争の終結を受け廃止が決定、所属していた艦娘達は武装解除を済ませ、基地の資材資源とともに内地への送還が進められていた。

 

 最後の輸送船に乗り込んだのは、提督と摩耶、そして例の町で保護した男の子。この子に限らず戦災孤児は各地に設けられた施設や養子縁組により養親に迎えられるなどしていたが、男の子は頑としてこれを拒み、提督と摩耶の元を離れようとしなかった。

 

 「それよりも摩耶、お前はいいのか? 戦争は終わった、お前は何にだってなれるし好きな所へ行けるんだぞ? ケッコンって言ってもカッコカリだ。お前が縛られる必要はどこにもない」

 

 同じように甲板で基地を見送っていた提督がくるりと振り返り、冷静に言葉を繋ぐ。ちょっと待ってろよ、と言うと男の子の手を放した摩耶は、ずんずんと提督に近づいてゆく。提督より頭一つ身長の低い摩耶だが、形の良い大きな胸を突き出すようにして提督に突っかかり始める。不機嫌を通り越して明らかに怒りの表情である。

 

 「カッコカリとかそんなのはどうでもいい。今更出て行けだぁ? ぶっ殺されてぇかぁ?」

 

 顔を真っ赤にしながら、満面に不平を浮かべた摩耶は提督に食って掛かり、遠くでは男の子が不安そうな瞳でこちらを見つめている。提督も流石に切り口上すぎたか、と狼狽え始めたが後の祭りで、摩耶に押し切られる。

 

 「いや、俺はだな…この先々お前を縛り付けるのが――」

 「お前ちょっと、ウザい! 縛り付けるぅ? バカにしてんのか? あたしはお前の所有物じゃない、自分でお前といるって決めたんだ!! 大体男の子(アイツ)だってどーすんだよ? それに……今のお前ときたら、()()以来すっかり弱っちくなったじゃねーか。危なっかしくて放っておけるかよ。いいか、お前ら全員まとめてこの摩耶様が守ってやるからなっ」

 

 ふんす、と鼻息も荒く、ドヤ顔で高らかに宣言した摩耶。あまりの勢いに言葉を挟めずに唖然としていた提督だが、唇を歪め、それでも楽しそうに笑い始めた。

 

 「ったく、どっちが男かわかんねーな。分かったよ、俺もぐだぐだ言い過ぎたな。いいだろう、俺のそばに一生いる事を許可してやる。励めよ、昼も夜も」

 「ばっ! ば、馬鹿野郎っ! な、なに恥ずかしいコト言ってやがる!? お前こそ、あたしのそばに一生いさせてやるからな! ……昼も夜も」

 

 握った左拳同士を、少しずらして軽くぶつけ合う二人。かちり、と微かに指輪同士が触れ合う音がし、提督と摩耶は同時にニヤリと笑う。そして二人を不安そうに見つめ続けていた男の子の元へ歩いてゆき、再びニヤリと笑いかける。不安に彩られていた彼の表情は、すぐに満面の笑みへと変わり、二人へと抱き着いてきた。

 

 提督と摩耶の間に男の子、三人は手を繋いで甲板を進み船室へ戻ろうとする。道すがら、ふと提督が摩耶を照れさせようといたずらっぽく話しかける。

 

 「お前、いい母親になるぜ、きっと」

 

 きょとん、とした表情の摩耶だが、すぐに提督の言ってる意味に気づいたようだが、誇らしげに胸を張ると、へへん、という表情に変わる。提督の目論見は失敗に終わったようだ。

 

 「当ったり前だろ? あたしは摩耶様だぜ!」

 

 

 

 日本に帰り着いた一人の男と一人の艦娘と、戦災孤児の男の子は、ぎこちなく、少しずつ分かり合い、家族の肖像は描かれ続ける。

 

 XX月YY日――。

 

 「やったなぁ!」

 

 えへへ、と満面に笑みを浮かべた摩耶が、一枚の写真を飽きることなく眺めている。手前に男の子、後ろからその肩に手を掛ける摩耶と寄り添うように立つ提督……正確には元提督の姿。

 

 帰国して三年が経った今日、提督が手に入れたマイホームに引っ越しを済ませた。住んでいる街の中心街から離れた場所にある、山裾に立つ大きな一軒家の玄関前の広いアプローチに三人勢揃いして記念撮影。

 

 「どーだ! 参ったか!?」

 

 男の子は摩耶の腕にしがみ付く様にして写真を覗き込み、摩耶と写真を見比べながら写真の方が奇麗かな、とからかい始める。言ったなーと、摩耶は怒ったふりをしながら男の子のわき腹をくすぐり始め、彼も嬉しそうにくすぐり返し、二人はじゃれ始める。

 

 自分で仕掛けておいて摩耶は忘れていた。くすぐられるのには滅法弱い。提督相手なら、ベッドの中でいつまでも途切れることなく嬌声を上げさせられ続ける。要するに感じやすい摩耶はすぐに涙目になり、男の子に降参してしまった。年月を経ても、ある意味で摩耶のあどけなさに変化はなく、提督は苦笑いを浮かべながら二人を眺めていた。

 

 温かく見守る提督の視線に気づき、男の子はつい目を逸らしてしまう。提督の右足は自由に動かない。三年前のあの日……深海棲艦の襲撃で住んでいた町が壊滅し、地下壕に閉じ込められた。自分を助けてくれた相手なのに、恐慌状態のまま手にしていたナイフで提督の脚を刺してしまい、その傷と後遺症は今も提督に残る。戦争さえなければ……そう思わない日はない。けれど戦争があって全てを失ったから、提督と摩耶に会った。

 

 その負い目が、どうしても彼を素直にさせられず、心の中でどれだけ思っていても、提督を父と呼ぶことができない。摩耶も同様で母と呼べていない。ただこちらは摩耶の見た目があまりにも若々しく、そう呼ぶのに妙な抵抗を覚えるためである。

 

 

 XY月YZ日――。

 

 大きな家の広いリビングの壁に貼られた一枚のコルクボードには、何枚もの写真が飾られている。

 

 「思い出が増えるたび、ここに写真を貼っていこうな!」

 

 という摩耶の発案で作られた一角に、新たな写真が加わった。以前と同じように、玄関前で撮られた写真には、黒い学生服を着て背が伸びた男の子がぎこちない笑顔で笑っている。提督は痩せたようで、髪の毛は白いものが目立つようになってきた。そして摩耶は数年前と何も変わらない、弾ける様な笑顔でVサインをしている。

 

 「おう提督、今日は仕事しないのか? だったら……アイツは学校に行っちゃったし……その……何だ……ああもうっ! お前はあたしにもう興味ないのかよっ!?」

 

 帰国後しばらくの間、提督は軍関係の仕事をしていた。だが引っ越しを契機に、文筆業、つまり物書きとして軍時代の話などを書き始めた。流行作家とまでは言えないが、一定のニーズがあり、提督は書斎でいつも何かを書いている。もっとも、元提督と元艦娘の夫婦であり、二人の退職金を合わせれば、食うに困らないどころか豪遊しても一生生きていける額を手にしている。それよりも摩耶が喜んでいるのは、提督が常に家にいる事の方である。

 

 -ー昼も夜も一生そばにいるんだろ?

 

 他愛もない軽口だったが、摩耶は本気だったようだ。せっかく子供が学校に行ったのに、回数が以前より減ってきた、とぷりぷり怒る摩耶に、提督は苦笑いを浮かべながら先に寝室に行ってろ、と促す。その言葉に表情を一転させた摩耶は、早く来いよな、と言い残し軽い足取りで階段を上がってゆく。

 

 「とは言っても……流石に堪えるようになってきたな。俺は老けてきて、あいつは何も変わらない。やっぱ別な生き物だよな……」

 

 椅子の背もたれを利用してぐいっと背中を伸ばす提督は、偽らざる思いを口にする。人間は加齢とともに老化し、感覚器や生理機能が衰えてゆく。だが相手は無尽蔵の体力を持ち老化プロセスが人間より緩慢な艦娘である。気持ちはともかく体力面での差は開く一方である。

 

 「さて、と……。腰が悲鳴を上げない程度に頑張ってくるか……」

 

 ぎいっと椅子を鳴らして立ち上がった提督は、ゆっくりとした足取りで書斎を出ると階段を上がってゆく。

 

 

 ZX月ZZ日――。

 

 「あったまきた! そいつらの家に案内しな、ぶっとばしてやるっ!!」

 

 怒り心頭、艤装があったら直ちに一斉砲撃を加えそうな勢いで摩耶が男の子を問い詰めている。すでに高校に進学した彼の、ブレザーに変わった制服が泥だらけである。顔には殴られた跡がはっきりと残っている。彼はしぶしぶ何が起きたのかを語り始めたが、その内容に摩耶の怒りがさらに増してゆく。

 

 彼は、仲が良いと思っていた相手に家族構成をぽろっと話してしまった。両親はすでに亡く、元提督と元艦娘の夫婦に引き取られた、それは事実だ。生死の境近くまで追い詰められた自分を救い出してくれ、その後も養親として混じり気のない愛情を注いでくれる二人……誇る事はあっても恥じる事など何もない。

 

 だが、世の中にはそう思わない相手もいる、と想像できるほどに彼は成熟していなかった。すぐにその話は周囲に広まり、クラスで何となく孤立し始めた。あるいは彼の整った容姿への嫉妬もあったのだろう。提督も摩耶も、男の子の様子が違う事に気が付いていたが、本人が何も言わないのでどうすべきか焦れていた。そしてある日、口汚く艦娘を罵る相手に我慢の限界を超え、殴り合いの喧嘩になってしまったという。

 

 いよいよ怒りが収まらず家を飛び出して突撃態勢に入ろうとした時、提督が摩耶の肩を強く掴んで引き留める。現役の艦娘時代と変わらない鋭い眼光で振り返った摩耶に対し、静かに首を横に振る提督。摩耶を落ち着かせソファに座らせると、摩耶はジト目で提督に不満をぶつける。隣には男の子が俯いて座っている。

 

 「なあ……どうして人間ってのは、同じ仲間にひどい事ができるんだ? あたしには……理解できない。それに、仲間どころか家族がやられたってのに、どうして反撃しちゃいけないんだ? あたしらはこいつを守ってやらなきゃ」

 

 何一つ間違いではない。同族相手に徹底して残酷になれるのは人間の特徴である。それでも力が正義だった時代は過ぎ去った、まして元艦娘と人間の間で暴力沙汰など起きれば、窮地に立たされるのは摩耶である。隔絶した力だからこそ振るうことができない現実を、摩耶は理解してない。提督もまた、久しぶりに見せる鋭い眼光で、摩耶に思いの丈を打ち明け始める。

 

 「元艦娘と人間の夫婦を快く思わない連中なんて山ほどいる。残念だが、それが俺達を取り巻く現実だ。俺もお前も男の子(こいつ)も、どんなに理不尽でもその中で生きてくしかない。俺達自身がそれを選んだんだからな。ただ、これだけは言っておく。子供が何でも抱え込むな。自分の手に負えない、と思った時はすぐに言うんだ。そん時ゃ海軍動かしてでも戦ってやる」

 

 あたしよりひでーよ、と摩耶が泣き笑いの表情に変わるが、男の子は依然として俯いたままだった。涙がこぼれるのを見られたくない、その一心で下を向き続けていた。

 

 

 YZ月XW日――。

 

 春――家の玄関には白い制服を着た男の子が立ち、上がり框には提督が立っている。老境に入ってきた提督は、最近では体調を崩す事も増えてきた。高校を卒業した男の子……と呼ぶのは流石にもう失礼だろう、彼はがっしりとした体躯で若き日の提督と変わらない背丈まで成長した。整った容姿と合わせ、顔立ちは摩耶(母親)似、体型は提督(父親)似、と事情を知らない人は口を揃える。表情には出さないが、そう言われる度彼はいつも嬉しかった。

 

 この春、彼がかねてよりの夢だった海軍兵学校への進学を果たしたことで喜びに沸き返った。最初は「やったなぁ!」と素直に喜びを爆発させていた摩耶だが、入学後の生活に話が及ぶと、彼が家を離れて入寮生活を四年間送ることが分かり、大きなショックを受けてしまった。

 

 「な、なんでだよ! どうしてこの家を出ていくんだ? あたし達家族じゃないか、どんな時も一緒にいなくちゃだろ? なあ提督も何とか言ってくれよ?」

 

 いやいやと頭を激しく振って泣きじゃくる摩耶は、それ以来彼と口を利かなくなった。そして彼が出発する今日、摩耶は朝から姿を見せず、仕方なく提督だけで見送ることにした。男親と息子の会話は、得てして盛り上がらない。提督と彼も例外ではなく、意味のない世間話もすぐに話題が尽き、彼は言うなら今しかない、と長年心に秘めていた本心を口にし始める。

 

 「俺は……ずっと憧れていたんだ。貴方のように何かを守れる強さが欲しかった。貴方が戦い続けて取り返してくれた平和な海……俺はその海を守るために、海軍に入るって決めたんだ。今まで育ててくれて、本当にありがとう……貴方のお陰で、俺は前を向けたんだ」

 

 提督は満足そうに微笑み、静かに言葉を掛ける。

 

 「戦争ってのは理不尽なもんだ。突然後ろからぶん殴られたみたいに全て奪われる。お前もそうだったよな。俺達の生き様にどうしたって影を落としてる。でもな、物事が上手くいかない時、あの戦争がなければ、って考えずに、今の自分と向き合って前に進めた時、そいつの戦争が本当に終わる時だと、俺は思ってる。お前は自分の道を自分の努力で勝ち取った。もう、お前を縛るものは何もない。……俺の脚の事なんざ気にすんな。年喰えば勝手に動かなくなるもんだ。まぁ…あん時()()()()()やられてたらキレてたかもな」

 

 若き日と同じように唇を歪めて笑うと、提督は右の拳を差し出した。同じように右拳を差し出した彼は、こつんと拳を合わせ、制帽を目深に被ると照れくさそうに一言残してドアを開け旅立った。

 

 「それじゃ父さん、行ってくる」

 

 ドアが閉まるまで見守っていた提督は、ふぅっと深い溜息をつくと体を支えられないように壁に寄りかかると、ずるずると座り込んだ。そしてただ静かに微笑む。

 

 「父さん、か……。お前こそ俺の自慢の息子だよ。……これで俺の戦争も、やっと終わったのかねぇ。なんか、気が抜けちまったなぁ……」

 

 

 

 「……よ、よお」

 

 玄関を出ると左右に庭の広がるアプローチを過ぎ、家の門がある。いつか分かってもらうようにしよう……今は摩耶に会えずとも仕方ないと思い歩みを進めた先、門扉に身を隠すように摩耶が立っていた。ぎくしゃくと門を塞ぐように進み出て、しゅたっと右手を上げる。

 

 そんな振る舞いの摩耶を見ながら、彼は摩耶と初めて会った一〇年以上前のことを思い出していた。

 

 薄暗く異臭で満たされた地下壕から光の射す場所へと連れ出してくれた人。どんな時も喜怒哀楽を素直に現し、見ているだけで明るい気持ちにさせてくれた人。荒っぽい言動と裏腹に家事全般は完璧超人と言っても言い過ぎではない人。どれだけ年月が経っても、まっすぐにていと……父さんを見つめて愛し続けている人。だから……初恋と失恋を同時に教えてくれた人でもある。でも、これは一生秘密にしよう。

 

 出会った時と全く何も変わらない、茶色のショートボブに勝気な青い瞳の摩耶。見上げていたその顔は、いつしか隣り合い、今では自分が見下ろしている。人間と艦娘の間で、何がどれだけ違うのか、彼は技術的な事は知る由もない。ただ、変わらない事の良し悪しはきっとあるんだろう、両親(提督と摩耶)を見て感じていた。

 

 「提督に怒られたよ……。あたしらはさ、母港なんだって。行く船の邪魔をする港があるか、だって。確かにその通りだよな。だから心配せず抜錨して、いつでも安心して帰投しろよ。あたし達はずっと待ってるからな。気を付けて……胸張って行ってこいっ! お前はあたしらの自慢の息子だからなっ!」

 

 にかっと音が出そうなくらいの眩しい笑顔で、摩耶(母さん)は見事な海軍式の敬礼を見せる。目頭が熱くなるのを感じたけど、堪えなきゃ。見よう見まねで敬礼を返すと……笑われた。

 

 「なんだよその敬礼はぁ、なっちゃねーな。まぁいいさ、兵学校でしっかり鍛えてもらえよな」

 「はい、そのつもりです。母さんが僕に命をくれ、父さんは俺の目標になった。俺は二人の息子として、胸を張って生きてゆきます。では、行ってきますっ」

 

 

 「……ずるいぞ、お前……。今になって突然……そんな風に呼ぶなんて……」

 「今まで呼べなくて……ごめん、母さん」

 

 摩耶はしゃがみこむと両手で顔を覆うと激しく泣き出してしまったために、彼は摩耶が泣き止むまで出発できず、危うくバスに乗り遅れそうになった。

 

 緩やかな坂を下りてゆく息子の姿が見えなくなるまで見送っていた摩耶は、大きく深呼吸をして頬をぺしぺして気持ちを切り替える。

 

 「……あいつ、行っちまったなぁ。でも……あたしの事、母さんだってよ……へっ、悪い気はしないっつーか……へへっ。で、でも、これで提督と二人っきりかぁ……。水入らずってのも悪くない、か」


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