さよなら、しれえ   作:坂下郁

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第十二話 金剛パンチ

 「……今までどこにいたんだ?」

 「ずっといたのデース。テートク、隣、イイデスカ?」

 

 月明かりは重く居座った雲に遮られ、石灯籠や庭木に色濃い陰影が映る和風の庭。縁側に座る和服姿の男性は柱に寄りかかり、声の主を振り返らず空を見上げている。返事を待たずに足音を立てず隣へと進み、少し距離を空けて座る白い影。巫女服を模したような上着に黒いミニスカート、編み込みを丸めたお団子(フレンチクルーラー)が目立つ長い茶髪……金剛型戦艦一番艦の金剛も、同じように夜空を見上げる。

 

 二人の間のぎこちない緊張に、先に耐えられなくなったのは金剛で、まっすぐ前を向いたまま口を開く。

 

 「……こうやって改まるとキンチョーするのデース。何か言ってくだサイ……」

 「昔……明治時代の話らしいが、その頃はI Love Youの代わりに『月が奇麗ですね』って言えば伝わったらしいんだ。お前も艦歴を考えれば……いや、失言だ、頼むから気配で人を威嚇するな」

 「ロクな事を言いやがりまセーン。いい女は永遠にいい女なのデース」

 「……お前だって、自分でよく言うよ……」

 

 「それとも……もう、いい女じゃなくなっちゃった?」

 「……月が奇麗だな」

 「死んでもイイのデース!」

 「おいおい……」

 

 金剛の表情が満面の笑みに変わり、男の表情からもようやく緊張が解けたようだ。依然としてお互いを見ることなく、空を見上げる二人。再び沈黙が場を支配し、そよぐ夜風が金剛の髪を静かに靡かせた頃、再び男が口を開く。

 

 「そういえば、お前が着任したのは四姉妹の中で一番最後だったよな」

 「そうですネ、建造でしたネー。ドックの扉を開けたら、眩しい光で一瞬ホワイトアウト……そして目の前に立っていたのが、テートク、貴方デシタ……浦風と腕を組んだままの」

 

 金剛がジト目に変わり、男は気まずそうに頭をガリガリと掻き始めた。

 

 「お前もいきなりケンカ吹っ掛けてたよな。『提督のハートを掴むのは、私デース!』とか大見得切って艤装まで展開して」

 「自己アピールは大切デース。……やっぱり浦風とそういう関係だったノ?」

 「……今だから言うけど、お前の着任がもう少し遅かったら……やっぱり何もなってなかっただろうな。いくら手足が伸びきって発育がいいったって、駆逐艦だしなぁ……」

 「テートクがヘタレ〇ラ(臆病者)でよかったのデース」

 「真顔でなんてこと言うんだよお前は」

 

 

 「それで、どうなんですカ? 私は……テートクのハート、掴めましたカ?」

 「これ以上掴む気か? あとは握り潰すくらいしかやる事ないぞ」

 

 んふふー、と満足そうに微笑む金剛と、照れくさそうに頬をぽりぽりと掻く男。風に揺れる庭の木々の葉がさわさわと音を立てる。自分で言っておきながら恥ずかしいことを言わせやがって、と仕返しとばかりに男は昔の話を蒸し返す。

 

 「潰すと言えば、お前の初陣を思い出したよ」

 「うー……どうでもいいことを……」

 「見事な射撃だった。止める間もなく『撃ちます! Fire~』って、三五.六cm砲を全門斉射。見事命中したのはいいけど、泊地に戻るのに皆が目印にしてた岩礁を吹き飛ばして、お陰で海図を書き直す羽目になったよな」

 「イ級が口を開けた姿にそっくりな岩が悪いのデス」

 「岩が気の毒だよ……」

 

 ぷうっと頬を膨らませてぷいっと横を向いて拗ねてるアピールの金剛。ちらりと肩越し男を盗み見ていた金剛は、僅かに男の方に体をずらす。

 

 「けどなぁ、気の毒っていえば……」

 「いえば……?」

 「飛行場姫だろうなぁ……。俺は中継の映像を見ただけだが、あの真っ白な髪や体が炎の中で揺らめいてる様は恐ろしくもあり美しくもあった。夜間艦砲射撃で火の海になった鉄底海峡(アイアンボトムサウンド)、榛名も凛々しかったが、あの時のお前には惚れ惚れしたよ」

 「……イイコトを教えてあげるネ。女の子を褒めるのに他の女の子の名前を出すのは、No! なんだからネ!」

 「他の女って……深海棲艦とお前の妹だろうが……それでもかよ?」

 「それでもデース!」

 

 ふんすと鼻息も荒い金剛と、思わぬ機雷に接触してしまい、皺が深く刻まれた顔に苦い表情を載せる男。さぁっと、一際強い風が一瞬吹き抜け、木々のざわめきが大きくなる。空では雲が徐々に流れ、月が僅かに姿を見せ始める。その間に金剛が、月明かりを避けるように少しだけ距離を詰める。男は気付いているが、何も言わず金剛のしたいようにさせている。

 

 「前から聞きたかったんデス。テートクが、私のコト好きになったキッカケは何だったんですか?」

 「今更聞くかね、そんなこと。忘れちまったな、もう……」

 「…………テートク?」

 

 

 何も言わず縁側で形のよい脚をぶらぶらさせながら、金剛は沈黙を楽しむようにニコニコしている。雄弁は銀、沈黙は……この場合役に立たないと悟った男は、軽くため息を吐きながら、思い出すように訥々と言葉を重ね始める。

 

 「…………お茶会、きっとあの時からだろうな。お前の、紅茶を入れるときの手の動きとか指先とか、すごく奇麗でさ。それに……紅茶を淹れて他愛もない話をしている時のお前の表情が、バーニングして俺に迫ってくる時とも、演習とか戦場とかも違って、柔らかくて自然で……気が付けばお前ばかり目で追っていた。……分かっていたんだろう、お前だって?」

 

 そっか、と一言だけ金剛は言い、赤く染まった頬をぱたぱたと手で扇ぎ始める。

 

 「自分から聞いておいて変ですネー」

 

 おそらくは男の目と心を奪った時と同じ微笑みを浮かべ、へへへ、と小首を傾げる仕草。そしてまた反撃を受ける。

 

 「お前はどうなんだよ?」

 

 びくっと身体を震わせて金剛が固まる。あー……と言いながら、困ったように頬をぽりぽりと掻き、それでもはっきりとした口調で自分の思いを口にする。

 

 「金剛型が自分の直属の上官に惹かれやすいのは確かだと思いマス。でも、それだけじゃありまセーン。お茶会……きっとあの時からデス。私の淹れた紅茶を、すごく奇麗な所作で飲んでくれマシタ。それに……お茶会で他愛もない話をしている時のテートクの表情が、バーニングした私に迫られた時とも、演習とか指揮中とも違って、柔らかくて自然で……気が付けばテートクばかり目で追ってマシタ。……分かっていたんでしょう、テートクだって?」

 

 

 「俺の言った事真似すんじゃねえよ」

 「テートクこそ、私の真似しないでクダサーイ」

 

 

 「ま、なんだ……つまり」

 「テートクが私にFallin’ Loooveしたんですねー」

 「この流れでそう言い切るかね」

 「求められるからいい女なんデース」

 

 

 二人にとって心地よい沈黙が流れ、金剛がさらに少しだけ距離を詰める。男は気付いているが、何も言わず金剛のしたいようにさせている。

 

 

 「戦って、入渠して、お茶会して……そんな日々の繰り返しだったな。お前は、いつも最前線に立って戦い続けてくれたけど……途中から危なっかしくて見てられなかった」

 「敵もどんどん強力になって、どうしても最後の一撃が撃ち抜けない、あと一歩が届かない事が増えたヨ……。でも、食らいついたら離さないって、言ったデース!」

 

 んーっと金剛は背筋を伸ばし、形の良いお尻から細い腰、滑らかな背中が描くカーブが強調される。その表情から笑みは消え、寂しそうに目を伏せる金剛だが、男はその言葉に何も答えず、誤魔化すように首に掛けたネックレスに触れるだけ。軽い金属音だけが二人の間に微かに響く。

 

 空母機動部隊に随伴可能な高速性能の反面、改修に改修を重ね何とか一線級の性能を維持した金剛型戦艦は拡張性に限界があり、搭載可能砲に制約があった。一定以上の大口径砲による射撃では命中精度が大きく低下し、さらにその重量から肝心の速度性能にも悪影響を及ぼした。だから金剛が選んだのは別な方法だった。

 

 「あんな無茶な戦い方があるかよ。いっつもボロボロになって帰ってきやがって……」

 「? ああ、金剛パンチのことですカー? 目一杯接近して、思いっきりhit! 私のBurning Looove! があれば、怖い物なんてないヨ」

 「そんな物理的なバーニングラブでやられた相手もたまらんかっただろうな」

 

 金剛は肩をすくめてぺろっと舌を出し、男は肩を竦めて首を横に振る。中破や大破で帰って来ることが明らかに増えた。入渠すればすぐに元通りになるのは分っている、それでもそんな姿を見たくなかった。何度言っても金剛は戦い方を変えようとしない。何をそんなに焦っている……そう思い何度も話をした。その場では分カリマシターと、いつにも増して棒読み気味の返事が返ってくるが、結果は同じ。

 

 風が庭を渡り雲が流れ、顔を出し始めた月が二人を淡く照らす。男は少し疲れたように、柱に深く寄りかかる。

 

 

 「……だから……あんなことになっちまったんだろうが……バカが……」

 「…………Sorryネ。でも、どうしても、届きたかったネ……」

 

 

 ざぁっ。

 

 風が強く吹き渡り、雲を月の周りから追い払う。銀の糸を集めたような、冴えた光が柔らかく庭を照らす。きらきらと輝く金剛の姿は水晶に半透明の色を載せたようで、月の光が透けている。半透明に近い、触れれば消えてしまいそうな儚い姿。男が初めて金剛を正面から見据え、その拍子に男が首に掛けたネックレスが揺れる。ペンダントヘッド-ー銀のペアリングが月の光を鈍く反射し、ちらりと指輪を見た金剛は、顔を伏せたまま肩を震わせている。

 

 

 「お前は……なんであんなバカなこ――「バカなコトじゃないネッ!!」」

 

 男の言葉を遮り、金剛が鋭く叫ぶ。

 

 「絆をカタチにしたいのが、そんなにバカな事デスかっ!? 私は……どうしても指輪が欲しかった……」

 

 男は悔しそうに唇を噛み、首を横に振る。基隆沖台湾海峡――奇しくもかつての戦争と同じ場所で、金剛は沈んだ。敵を深追いし過ぎて受けた損傷は、潜水棲姫率いる深海棲艦の潜水艦隊の襲撃を躱すことを金剛に許さなかった。だが、帰ってくることまでを妨げられたわけではなかった。気づけば金剛は、いつもと何も変わらず執務室にいた。カタチのない白い影のような姿。

 

 「あの日は……本当に大騒ぎだったネー。艦隊から連絡を受けた時のテートクの顔は、今でも忘れられナイ……。絶望が形になったら、こういうフェイスなのかな、って表情。隣で私がどれだけ一生懸命呼んでも全然聞こえてませんデシタネ。分かったのは、私は誰の目にも映らなくて、誰も私の声を聞くことができない……」

 

 艦娘が沈んだらどうなるか、ある種のタブーだがそれでも気になる。たまに艦娘同士の話題に上ったこともあるが、分かるはずがない。一度沈めば誰も帰ってこないのだから。何より――――。

 

 「テートクの戦歴で唯一の喪失艦、それが私ですカラ……」

 

 男は項垂れる。ただ項垂れ身じろぎ一つしない。

 

 「あれからテートクの姿をずっと見ていたヨ。あれからテートクの声をずっと聞いていたヨ。みんなの前では凛々しく振舞って、夜寝室で声を殺して泣き続ける姿を。どれだけ私はここデース、って叫んだと思いマスカ? 何度もテートクを抱きしめようとしたんデスヨ。戦争が終わって何年……何年こうしていると思ってるのデスカッ! ずっと、ずーっとそばにいます。でも、何一つ届きませんデシタ……」

 

 「俺の命令を無視してまでやることだったのか? あんな無茶なことしなくたって、遅かれ早かれ練度上限に届いただろう?」

 「私、知ってたヨ? あの時、戦争は終わりに向かっていたっテ」

 

 あの時、深海棲艦の活動は急速に低下の一途を辿っていたのは事実だった。戦後大綱なる施策令が各拠点に出回り、軍の上層部は出口戦略、つまり戦後経営に向けた方針を提示し始めた。

 

 「テートクの机の上の書類……見たんだヨ、私……。だから、あの時練度上限に届かなきゃ、届く時なんてなかったヨ。私達は戦争を通して出会ったヨネ。でも、その指輪があれば、戦争が無くても一緒に居られるんじゃないかなって……指輪は、艦娘にとって消えない絆の証ナンダヨ」

 

 終わる見込みがあることと終わったことは違う。戦後大綱のせいで弛緩の兆候を見せた拠点もあり、実際に戦争が終わるまでには、金剛が目にした書類にあった予想時期よりも長い時間がかかった。それでも戦争が終わるまでに金剛の練度が上限に達したかどうかは、五分五分といった所だった。

 

 

 「俺がっ」

 

 

 男が突然声を上げ、金剛がびくっと身を竦める。

 

 「指輪があろうがなかろうが、戦中だろうが戦後だろうが、俺が……どんな気持ちで今まで過ごしていたと思う? 分かってくれていると思っていた、いたんだが……形にしなかった俺が、お前を追い詰めたのか……」

 「分かっていまシタヨ、モチロン。それでも想いが届いたカタチも欲しかった……いい女は欲張りなのデース。でも…てんw欲張りすぎちゃった、カナ……」

 

 充実した戦力とは言えない、規模も大きくない泊地を率いていた佐官だが、喪失艦一だけで長い戦争を乗り切った戦歴は十分評価され、軍に残れば出世が確実視されていた。だが戦後処理を済ませた後、男は誘いを断り独りで暮らしていた。生き残ったかつての同僚は、莫大な退職金を元に事業を始める者や軍に残り栄達を果たす者など様々だが、男の選択は理解されなかった。

 

 かつての部下-ー艦娘達は男の元を代わる代わる訪ね、身の回りの世話をしたり、思い出話をしたり、時には皆で集まり宴会になったりと、付かず離れず時を重ねている。絆は、上司部下、あるいは戦友からいつしか友人へと形を変えながら途切れる事なく続いていた。唯一、男と似ていて異なる喪失感を抱えた榛名だけは、思慕へと想いの形を変え募らせたが、男に受け入れられることはなかった。

 

 「……榛名なら、テートクを任せてもよかったのに……オコトワリしちゃうなんて、想定外デシタヨ」

 「俺が受け入れるとお前が思っていたことが想定外だよ……」

 

 再び風が流れ、月に雲がかかり、男は唐突に理解した。金剛はあれからの長い時間、ずっと男のそばにいると言った。けれど、男はその姿を見ることも、その声を聞くこともなかった。なのに今、男は金剛を目に映し、声に耳を躍らせ、久しぶりの会話に心を躍らせている。その意味するところは――。

 

 「金剛……俺を、迎えに来たのか……」

 

 呼びかけに答はない。それでも金剛は顔を上げ、涙で濡れた頬をそのままに、精一杯の笑顔を見せる。すっと腰を動かし、男との距離をぐっと詰め肩が触れ合う距離で隣り合う。深い皺の刻まれた顔をくしゃりと歪め渋く笑った男は、細く枯れた腕を伸ばす。見た目以上に力強く肩を抱かれ引き寄せられた金剛は、小さくあっ……と声をあげるが、男にそのまま身を預ける。注がれる視線に金剛は上目遣いで男を見上げる。奇麗な形の唇が塞がれるのを待つように僅かに開かれる。男の吐息が金剛の唇に届く。

 

 

 「時間と場所をわきまえなヨ……」

 

 

 顔を伏せ気味に背けた金剛は、唇と唇の間に細い指を差し込み口づけを遮る。男の唇は金剛のそれに届くことなく、指の手前で押しとどめられた。戸惑う男に、華やかな、それでいて悲し気な色を瞳の端に宿した笑みを揺らしながら、すっと金剛は立ち上がる。

 

 「Follow me……ついて来て下さいネ」

 

 一言そう告げると、金剛は振り返らず、後ろ手でスカートを押さえるようにして、ゆっくりと縁側を進んでゆく。月明かりを纏うその姿、ぼんやりと向こうがうっすらと透けて見える。操られるように男もゆらりと立ち上がる。和服姿の男は目で金剛を追い、細すぎる体を軋ませながらついてゆく。

 

 よく考えればもっと早く気付けた、と男は肩を竦める。金剛がどこに男を連れてゆくつもりなのか、分からないが構わない。迎えが来たということは、そういうことなのだろう。今生(こんじょう)での役割を終えたのだ、と一人納得した。

 

 男は人生の大半を軍で過ごした。深海棲艦と呼ばれる謎の存在との戦いは過酷だったが、その中で戦後の今も続く絆を結べる艦娘(仲間)と出会えた。幸せだった、と言っていい。死にあって生を実感する、異常だと言われればそうかもしれない。ならば戦争という行為自体が異常なのだ。異常な季節で生まれた、激しく、命を燃やし続けたからこそ生まれた魔力に、男は囚われ続けていた。

 

 「平和な時間を二人で愛おしんで生きてゆきましょう」

 

 逆プロポーズまでさせたのに、榛名の想いに応える事ができなかった。いくら平和だと言われてもピンとこず、砂を噛むような色褪せた日々が続いていた。ガラス越しに物を見て、ラップ越しの物を食べる、そんな感覚。

 

 だがなぜだ? 男はふっ、とほろ苦く笑う。そんなの分かり切っている。愛する金剛()は、戦争(幸せ)の頂点とも言える時に、帰ってこなかった。男の時はそこで止まっている。

 

 お互いに向けていた想いは同じだが、あと一歩、届かなかった。今、季節は再び動き出した。

 

 男は気が付いた。この縁側がこんなに長いはずがない。それに前を行く金剛との距離が離れてしまった。茶色の髪が揺らし金剛が縁側を曲がり姿を消す。頼む、届け、と手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 「提督っ! 良かったっ!! もうだめかと……」

 

 伸ばした手は、きつく固く握りしめられた。言葉にならなかったのだろう、榛名が空間を抉るような勢いで抱き付き、激しく身を震わせて泣いている。ベッドを中心にして左右には見知った顔……叢雲、浦風、磯風、矢矧、阿賀野、霧島、長門、他にもまだまだいて、病室が艦娘でぎゅうぎゅう詰め。みな涙と鼻水で奇麗な顔をぐしゃぐしゃにしている。

 

 「どうして……」

 

 誰も知らない言葉の意味。どうして金剛は俺を連れて行ってくれなかったのか。男は呆然とする。

 

 「金剛お姉様が……」

 

 誰も知らないはずの言葉の意味。どうして榛名が知っているんだ。男は唖然とする。

 

 「金剛が夢に出てきたんだ。貴様の家に行けと、必死の形相で訴えてな。私や榛名だけじゃない、ここいる皆はもちろんだが、今こっちに向かってる連中も含め、貴様の元部下全員の所に、だ」

 

 男は長門の言葉が途中までしか耳に入っていなかった。ぐすぐす泣きながら抱き着いて離れない榛名を押しのけ、両手で顔を覆い、人目も憚らず泣いてしまった。没してなお男を守る金剛の想いの深さへ向けた涙、男以外のこの部屋の誰しもがそう理解していた。男は、男だけにしか分からない想いで、感情の奔流を止められずにいた。

 

 連れてゆくためではなく、追い返すためーー金剛は男を連れていってくれなかった。この世界で、それでも生きてゆく、それが金剛の望むことなのか。落ち着きを取り戻し項垂れる男の目の端に、ベッドサイドにあるワゴンが目に留まった。高雄がてきぱきとした口調で説明を始める。

 

 「貴重品とか着替えは全てそちらのワゴンにあります。一刻を争う状態でしたので、手近な物を取り敢えず持ってきました。足りないものがあったら仰ってくださいね」

 

 時計、携帯、財布、鍵、そしてネックレス。ペンダントヘッドにしていた銀のペアリングは、一つに減っていた。

 

 

 「あまり無理はしないで欲しいデース、ホントに……。一緒に逝ってもよかったんだケド……これで良かったのデース。やっぱりムードとタイミングはわきまえないと、ネ……。いつか、一緒に紅茶が飲める日が来るまで、私、待ってますカラ」

 

 男の枕元に立つ金剛は、目の端に涙を浮かべ病室を眺めていた。届かないと知りながら、愛おしそうに男の髪を撫でようと伸ばした左手、その薬指には鈍く光る銀色のリングが輝いていた。


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