毎日少しずつ書き続けていましたが、単純に物語構成がなかなか思いつかず、時間が経ってしまいました…。
その代わりといってはなんですが、今回は史上最長の内容です!汗
また、いつのまにかお気に入り400件超え、本当にありがとうございます!!
拙い小説ではありますが、一度でも気に入っていただけた方がこんなにいらっしゃるということで、本当に感謝しかありません。
ありがとうございます!
ああ、あなた、聞こえますか?
湿った音が耳鳴ります。
ちょろり、ちょろり、ちょろり、ちょろり
不思議ですね。深い深い、海の底でも、水は滴るものでしょうか?
ああ、それが、
導きよ、あなたの声が見えました。はっきりと歪んで、濡れています。
これが私、私だけの啓示……私だけの……
ウフフフフッ……
あんなに小さかった……私でも……
*
約150年前
狩人の悪夢・実験棟1F
水が滴るような音が輪郭を帯び始めると、シャルロットは目を覚ました。
電脳仮想空間の浅海で、専用機の皆とそれぞれ扉に入った後、シャルロットは深い海の中に潜り込んでいくように意識をなくしていった。
恐らく一瞬の出来事だろう。だけど、まるで眠りに落ちていくかのように優しく包み込んでくれるような、長い感覚を憶えた。
同時にシャルロットは、それを思い出して身震いがした。
温かく包み込んでくれる世界の殻の外は、手を伸ばすととても冷たい海の底だったからだ。
暗く、蕩けた、まるで産湯のような……
「ここは……?」
自分が倒れていたことに気づき、シャルロットは身体を起こす。
見上げると、どこまでも高く続く螺旋階段のようなものが中央にあった。しかし目を凝らすと、全ての階層に繋がっているわけではないらしい。奇妙な仕掛け階段……まさか回転でもするのだろうか?
地面はところどころ剥がれており、建物自体の老朽化が伺える。
大階段を支える大きな柱、その根本に目を下ろした。
「……!?」
信じられない光景だった。
そこは大きな水溜りになっており、その側で頭部の肥大した人間たちが蠢いていたからだ。
彼らの顔は見えない。頭を布で覆われており、その中で膨らんでいるのだろう。一瞬その中身を想像してしまい、シャルロットは込み上げる気味の悪さを必死に無視し、考えないようにする。
皆同じ服を身にまとっているが、ここは何かの病院なのだろうか?
『誰か……』
弱りきった様子で、目の前にいる人間が声を発する。
シャルロットはゆっくりと近づく。
男と思われるその人間は、水溜りの中で何かを探しているようだった。
『誰か……俺の目玉を知らないか……』
男は水溜りの中に手を突っ込み、静かに波を立たせている。
(この臭い……まさか……)
シャルロットは思わず鼻をつまみ、呼吸をなるべく抑えるようにした。
まるで塩酸のような刺激臭を感じたシャルロットは、思わず男から距離を取ろうとする。
(!?)
水溜りから現れた男の両手は真っ赤に
(酷すぎる……これがマリアの記憶なの……?)
マリアがかつて自分に教えてくれた、彼女自身の素性。
それは人が聞けば、誰しもが嘘だと言っても仕方のないような、現実味のない真実。
彼女が、この時代の人間ではないこと。
彼女が、獣を狩る狩人として手を汚していたこと。
彼女は死に、やがて悪夢に囚われていたこと。
これが、彼女の言っていた
タッタッタ……
上から、誰かが走る音が聴こえた。
大階段の先、二階に視線を移す。するとそこには見知った人物が走っていた。
「────ラウラ!?」
二階にいたラウラは、何かから逃げるように走り去っていく。
「ラウラ!待って!僕だよ!」
しかしラウラはこちらを見向きもせず、そのまま走り続ける。
(声が届いていない……?)
だめだ、このままでは彼女を見失ってしまう。
シャルロットが大階段を上ろうとしたその時、突然大きな地響きが起きた。地響きと同時に、大階段が回転しながら上がっていく。あっという間に、一階から繋がる階段がなくなってしまった。
電脳世界では皆とバラバラになるかと思ったが、ラウラと同じ場所に来たのなら好都合だ。一人よりも二人の方が、安全を期待できる。
(ラウラと合流しないと……でも、どうやって?)
周囲を見渡していると、左右に扉を見つけた。シャルロットは迷った末に、右の扉へと足を運ぶ。
扉の前に着き、そばに書かれている小さな看板を見る。そこには『実験棟1階 研究室』と刻まれていた。
耳をすませてみると、部屋の中からかすかに湿った音が聴こえたような気がした。
(この音……)
水が滴るようなその音は、先ほど無意識の中で耳にしたものと同じような輪郭を帯びていた。
シャルロットは扉に手をかけ、ゆっくりと押してみる。
(鍵はかかっていない……)
木の軋む音が響き渡る。
シャルロットが中を覗き込むと、そこには恐ろしい光景が広がっていた。
部屋中に散らばった薬品や書籍、血の跡。
その中央には、古びた木製の手術台のようなものに手足を拘束された、頭部の肥大した人間。
彼らは何かの罹患者なのか……?先ほど目にした『実験棟』という言葉が脳裏から離れない。
手術台に拘束されているその罹患者は全身を痛々しい器具で刺されており、すでに絶命しているようだった。
シャルロットの全身に、嫌な汗が吹き出してくる。その光景は、これまでの人生で目にしてきたどの景色よりも最悪なものだった。
『……マリア様?それとも、別のお方?』
暗い部屋の奥から、誰かの声がした。その声を聞いた途端、シャルロットの直感が何かを訴えた。
奥から聞こえた女性の声は、シャルロットの声にそっくりだったのだ。
奥の方に目を凝らすと、小さな蝋燭の火に照らされた、一人の罹患者が椅子に座っているのが見えた。
側には点滴用スタンドのようなものがあり、そこに備えられた輸血瓶から管が下り、彼女の腕へと繋がっている。
彼女もまた他の罹患者たちと同じく、頭部が肥大していた。
そして彼女はマリアの名を口にした。もしかしたら彼女は……
シャルロットは息を呑み、声を掛ける。
「あの……もしかして、あなたは……」
すると、椅子に座る彼女の頭部が蠢いた。直感だが、それが彼女なりの喜びであることを、シャルロットも感じ取った。
『貴女はまさか……こっちに来て。もっと声を聴かせて』
シャルロットはゆっくりと彼女に近づく。
痛々しい注射針の刺さった彼女の手は、とても綺麗だった。
「……僕のことが分かるんですか?」
すると、再び彼女の頭部がゆらめく。中から、湿った音が聴こえたような気がした。
『ええ、もちろんよ。貴女は私の、遠い家族なのね。きっとそうだわ。もう目は見えないけれど、心で分かるの』
ああ、なんて嬉しいことかしら。
彼女はそう言って、小さく手を開いたり閉じたりした。それが彼女なりの喜び方だった。
彼女もまた全身を椅子に縛りつけられており、シャルロットに触れることは叶わなかった。
『ふふ……驚いたかしら?こんな姿で、怖いでしょう?』
シャルロットはほんの少し俯き、また彼女を見る。
「……ううん。怖くない、よ」
シャルロットの言葉に、彼女も小さく喜んだ。
『いい子ね……私、嬉しいわ。もうここには、誰も来てくれないと思っていたから』
どこからか小さな隙間風が吹く。小さく揺れた蝋燭の火が、彼女の影を柔らかくする。
『貴女、名前は?』
シャルロットは一息置いて、答えた。
「シャルロット。シャルロット・デュノア」
『シャルロット……そう、美しい名前ね』
「あなたは……アデラインさん、だよね?」
シャルロットが聞くと、彼女も嬉しそうに動いた。
『そうよ。嬉しいわ……家族の貴女から、私の名前を呼んでもらえるなんて』
「僕の、ご先祖様……」
シャルロットは唇を噛み締める。
「昔、お母さんから……あなたは白くて長い、綺麗な髪だったって……そう聞いた」
『……』
「そんな綺麗なあなたを、自分のせいで変わり果てた姿にさせてしまったことを、後悔している人がいた」
『……そう』
複雑な心境だった。
かつてマリアはシャルロットに、アデラインに許されないことをしてしまったと打ち明けた。
シャルロットはそれについて、マリアを恨むようなことはしなかった。
それがアデラインの運命であり、アデラインが精一杯生きてくれたおかげで、シャルロット自身もマリアに出会うことができたと心の中で信じているからだ。
しかしシャルロットは、アデラインを取り巻くこの壮絶な状況に対して何もできないことにただ悔しさを感じた。
自分の先祖が若くして亡くなった運命を、今更変えることはできない。織斑先生も言っていたように、過去に介入はできないのだ。
だが、目の前の人間を救えないということは、こんなにも歯がゆいことなのか。
(シャルロット……あなたのそばには、いつもお母さんがいるから……────)
ふと、母親の言葉が脳裏に過った。
『
アデラインの声に、シャルロットはハッと顔を上げる。
『お守り。マリア様から頂いた、大切なもの……』
シャルロットは自分の胸元にある鍵を見る。そして、それをゆっくりと手のひらに包む。
『────先祖さまが住んでいたところにね、露台があったらしいんだ。白い花が一面に咲いた、小さな中庭の露台。先祖さまは生きてる間に視力を失くしてしまったんだけど、せめて外気と花の香りが先祖さまの癒しになるように……だって』
かつてシャルロットがマリアに言った言葉が思い起こされた。
この露台の鍵は、マリアがアデラインに渡したもの。しかし彼女が花の香りを理解できなかったことは、マリアは知らない。
『……ああ、マリア様はお嫌いでも、私、「血の聖女」でよかった……そうでなければ、
「……ねぇ」
シャルロットは露台の鍵を握りしめ、アデラインに尋ねる。
「マリアを……恨んでる?」
しばらくの沈黙が流れた後、アデラインは囁くように答えた。
『────そんなことないわ……マリア様は、私をいつも見守ってくれていたから』
表情はわからないが、彼女はきっと微笑んでいるだろうということは、シャルロットも感じ取った。
「マリアは、近くにいるの?」
『ええ、きっと』
「どこにいるの?」
『どこかにいるわ……そう遠くない、どこかで……しばらくは、マリア様もここに来ていないから……』
「しばらくって、どのくらい?」
『数日、数ヶ月……いえ、数年かもしれない』
「それって……」
シャルロットは息を呑む。シャルロットの想像を分かっているかのように、アデラインは続きを口にした。
『……そう、あの人もまた、囚われているの。この狩人の悪夢に……いえ、もしかしたら、彼女自身がこの悪夢を作り出しているのかもしれない』
「……」
『私がここにいるということは、きっとマリア様もどこかにいる。そうでなければ、私は……』
アデラインのスラリとした細い指が、少し震えた気がした。
『シャルロット』
「……うん」
『お願い、あの人を解放してあげて……私もまた、ここに囚われるしかできないから……。貴女に、託したいの』
シャルロットは彼女をまっすぐに見て答える。
「マリアは……ずっと自分のことは二の次で、いつも僕たちのことを気にかけてくれてた」
『……』
「……マリアは、僕たちの世界に来た意味を探している。僕も、それを手伝いたい」
すると、アデラインも優しく微笑んだ。
『……ありがとう』
木の軋む音がした。
振り返ると、部屋の扉がゆっくりと開いていた。
『ここに来る前、もう一つ扉があったでしょう?そこが露台なの。その鍵で、きっとそこを開けられるわ』
「この、御守りで……」
アデラインはゆっくりと頷く。
『さぁ、行って……私もその鍵と一緒に、貴女のそばにいるわ────』
小さな蝋燭の火のそばには、枯れた白い花が横たわっていた。
その茎には、古びた可愛らしいリボンが巻かれていた。
僕はそれを最後に、部屋を後にした。
その時、一匹の黒い蝶が
もう一つの扉をゆっくりと開ける。
扉を開けた先は、雲の隙間から陽の光がうっすらと降り注いでいて。
手すりの一部が崩れ、瓦礫が落ちている小さな露台があった。
露台の端に立った僕の目には、白い花が一面に広がる中庭が映った。
陽の光が降り注ぎ、それを受けた草花が生き生きとしている。
星の輪のような雰囲気を纏わせた草花を、罹患者たちが静かに楽しんでいるように見えた。
彼らには、あの花の香りがわかるのだろうか?
お母さんはあの時、あの花の香りを分かってくれていたのだろうか?
星輪草のそばにいる罹患者の頭部は、うっすらと透けていた。
そこには暗い夜空が果てしなく広がっていて、絶え間なく隕石の嵐が吹き荒れていた。
誰からも見捨てられた、どこまでも孤独な場所。
無限に続く、夜空の水平線。
生と死を隔てるもの。
『大空を飛べる者』と『地を這う者』の境界線。
手すりの先の世界に解放されることは、僕のお母さんにとって“死”を意味していた。
ISという翼を得た僕には、地を這うお母さんの姿さえ残っていなかった。
彷徨う罹患者たちを見て、もしかしたら「宇宙」とは、
白く美しい花々で覆われてる場所のことをいうのかもしれないと、僕はふと思った。
├─────────┤
三年前
ブルターニュ地方 ブレスト
窓の外は大きな雨粒が降り注いでいる。
夕方の空は曇天が覆っていて、灰色の窓に映る私の顔は、降りしきる雨粒に埋もれていく。
灰色に映る世界の中で、私のお母さんも静かに眠っていた。
お母さんの腕に繋がった管を満たす抗がん剤も、雨粒が洗い流してくれたらいいのに。そうすれば、お母さんは苦しい気分にならなくて済むのに。
母親の治療薬をこんな風に思うなんて、ひどい娘だろうか。
*
お母さんが倒れたのは一週間前のことだった。
生まれた時からお母さんと一緒だった私は、ブレストの街の近く、ラナンゲ辺りでひっそりと暮らしていた。学校は歩いて30分ほどの場所にある、ブレストの街の端。
お父さんの話は聞いたこともないし、聞こうとしたこともない。学校に通っていくにつれて、自然とクラスの子と自分とは少し違うことを察したけれど、私はお母さんがいてくれるだけで幸せだった。
お母さんを無事に病院へ運ぶことができたのは、不幸中の幸いだった。
一週間前、フランスでは全体的に大雨が降っていた。その時聴いていたラジオでは、イギリス南部でもその年初めての雪が観測されたと言っていて、まだ秋の始まりの頃だということで、異常気象であると報道されていたのを覚えている。
あの日、二階の自室でラジオを聴きながら勉強をしていた最中、突然部屋の電気が消えた。
私はたまに起こる停電かと思い、扉を開けて一階にいるであろうお母さんに大きめの声で伝えた。
「ごめんお母さん、ブレーカー見れる?」
数秒経っても返事が返ってこない。
窓と屋根を打ちつける雨の音はいよいよ強烈になっていき、雷も鳴り響いていた。まだ日中だというのに家の中はかなり暗い。
ひとまず一階に下りようと階段に向かう。お母さんはテレビを観ているだろうと思っていたが、リビングに姿はなかった。
「お母さん?どこにいるの?」
それでも返事がないのでシャワーでも浴びてるのだろうかと思い、シャワールームに向かうが、扉を開けても誰もいない。
とりあえず廊下の隅にあるブレーカーの戸を開けスイッチを切り替えるが何の反応も示さない。
「停電用の簡易スイッチもダメか……直るまで大人しくするしかないね」
こういう時のために、家のそばには一応小さな自家発電の設備があるのだが、それも機能しなかった。
「お母さん、大丈夫?今どこにいるの?」
いつまで経ってもお母さんの返事がない。
私は直感で、なんとなく不安な気分になった。そしてふと、足先に冷たいものが触れたのを感じた。目を凝らしてよく見ると、それは床に大きくこぼれたミルクだった。
それは壁を曲がったところの台所から流れてきていて、私はすぐに台所へと向かった。
キッチンの上はミルクとカップが倒れていて、アイランドキッチンの陰に、お母さんの足が横たわっていた。
「お母さん!?」
私はすぐにお母さんのもとに駆けつけると、意識はあったが、ひどく苦しそうにしていた。
「お母さん、どうしたの!?大丈夫!?」
「シャルロット……」
声に力がない。汗をひどく掻いてるけど、ただの風邪とは思えなかった。お母さんはそこまで身体が強くない人というのも、子供ながらに知っていたのだ。
私はリビングにあったクッションを持ってきて、お母さんの頭の下に敷く。
「救急車呼んでくる!ここでじっとしてて!」
私は急いで受話器のところへいくが、電話は何一つ反応を示さなかった。停電だから電話がつけられないのは当然だというのに、その時の私は焦って頭の処理が追いついていなかった。
「そうだ、近所の人、確か車があるはず」
私は毛布を取ってお母さんの身体にそっとかける。
「お母さん、近所の人に頼んでくるね!ごめんね、もう少しだけ我慢してね」
お母さんは苦しそうにしていて、とても返事のできる様子ではなさそうだった。一刻も早く急がなければ。
私はレインコートを羽織って、扉を開ける。雨は先ほどよりも勢いを増しており、前も満足に見えないくらいだった。
近所までは走って3分くらいの距離。私は全速力で駆け抜け、近所の家を目指した。
その後、事情を聞いてくれた近所の人が急いで車を出してくれて、私の家まで戻り、お母さんを近くの総合病院まで一緒に送ってくれた。
車内で流れていたラジオでは、停電はフランスのみならず世界各地で起きていたらしく、信号も消えてしまったため交通網にもかなり影響が出てしまっているとのことだった。
幸い総合病院には10分足らずで到着し、停電による病院の混乱もまだそれほど大きなものではなかったため、素早く救急搬送された。
そしてその日の夜、担当医の先生から、お母さんは急性骨髄性白血病だと伝えられた。
いわゆる、血液のがんだった。
*
ppp、ザザッ……
『……一週間前に世界各地で発生した大停電ですが、現在もその原因は不明です。ヨーロッパ各国でもその影響は大きく、特に英国では、国際列車ユーロスターの脱線という非常に痛ましい事故も起きました。死傷者は100人以上、行方不明者も少なくないとのことです。この場をお借りして、哀悼の意を表します……────』
病室に持ってきた私のラジオからは、毎日大停電の話ばかりが報道されていた。
三年前、篠ノ之束博士が突然発表した
発表したのは三年前だが、博士自身、ISの構想と開発を始めたのは実際には七年前とのことらしい。そのため、記事や本によって三年前と七年前に表記が分かれている。
ISには、あらゆる面でこれまでの科学を覆すような技術が搭載されていたが、ISを最も特徴づける要素の一つが「女性にしか扱えない」というものだった。
“女性にしか扱えない特別な新技術”……その事実は世界中の女性の心を鼓舞するものであり、やがて“人間的にも優れている”というイメージを作り上げた。
その代表的な産物が女性権利団体であり、組織の発言力は世界的にも無視できないほどの規模となりつつある。
ニュースを聴いていると、今回の脱線事故の調査を厄介にさせているのは女性権利団体のでっち上げた勝手な陰謀論のようだ。彼女たちを批判する人たちも多いが、彼女たちに賛同する人たちも多いようで、私はまだ画面越しでしか見たことのないISを好まなかった。
陰謀論など全く信じる気はないが、ISがなければ世界は混乱していなかったんじゃないかと、心のどこかで思いたくなる自分がいたのだ。
そしてそんな自分を、私は嫌いだった。
私はラジオの放送局を変えて、適当な音楽番組にした。世間の流行には、そこまで敏感ではなかった。
「……ん」
お母さんが小さく息を漏らし、ゆっくりと目を開けた。
「おはよう、お母さん」
お母さんのそばに近寄って、小さく声をかける。
「シャルロット……」
お母さんはぼんやりとした目で、僕を見て微笑んだ。僕の大好きな、お母さんの笑顔だ。
「外、また雨なのね。今は何時かしら?」
「もうすぐ18時だよ」
「そう……変な時間に寝てしまったのね」
お母さんはゆっくりと身体を起こし、ヘッドボードにもたれる。
「お母さん、食欲ある?」
「あまりないわね……お薬のせいかしら。今日は大人しくしておくわ」
「そう……」
窓に降る雨の音をしばらく聴いていると、ラジオから聴き馴染みのある歌が流れてきた。それは私が幼い頃から好きな、古い歌だった。
「お母さん、よくこの曲歌ってくれてたよね。料理作るときも、よく鼻歌で歌ってたし」
「ふふっ、そうね」
まだ大戦中の時に歌われた、古い曲。少しざらつきながらも品のある女性の歌声が、病室内に響き渡った。
「また聴かせてよ。私とお母さんが大好きな、あのお花畑に行ってさ」
*
「今から言うことは非常に辛いことだけど、家族である君は知っておかなければならない。君のお母様だが……」
お母さんが入院して数日経った頃、私はお母さんの余命を知らされた。
もって半年。
恐らく、春は迎えられないだろうと伝えられた。
「……寛解も見込めないのですか?」
図書館の本で見かけたことのある言葉。大きな病気を経験したことのない私にとっては、実感のない言葉だった。
「……いや、決してそうではないよ。確かに白血病は難病だが、医療も着々と進歩している。しっかりとした治療を行っていけば、あとはお母様の頑張り次第だ」
「そう、ですか」
今まで画面越しでしか聞いたことのなかった病気の存在は、突然私たちの前に現れて、私の重力を奪っていった気がした。
頭がふらつきそうになるのを、先生との会話でなんとか紛らわせた。
「抗がん剤での治療を始めていくけど、お母様にとって一番の薬は君の存在だと思う。話せる時は、できるだけそばにいてあげてほしい」
先生の言葉にきちんと返事をできたか、私の記憶は曖昧だった。
*
入院して三週間が経った頃。
お母さんの髪は次第に抜け始めていった。
お母さんの着替えを手伝う時も、ベッドの上に髪の毛が落ちてしまうのを、私は見ないふりをしていた。
今思えば、この時の私はまだ、お母さんの病気を認めたくなかったのかもしれない。
そんな私を見て、お母さんはしばらく何かを考えこむ様子を見せた。
次の日。
病室に入ると、お母さんが私に手招きをした。
「どうしたの?」
そばに近寄ると、お母さんは優しい笑顔で何かを渡した。
私の手に置かれたそれを見下ろす。
渡されたのは、小さなバリカンだった。
「シャルロット……お母さんの髪、剃ってくれないかしら?」
思わぬ言葉に、私はたじろぐ。
「で、でも……」
お母さんは優しく笑い、私の手を温かく包む。
「お母さんだってあなたと同じで、一人の女なの。せめて綺麗な状態のまま髪とお別れしたい。それに、娘であるあなたにやってほしいから」
「でも……こんなに綺麗なんだよ!?確かに抜けているかもしれないけど、自分から切ることなんて「シャルロット」────」
お母さんの目が、真っ直ぐに私を捉える。
「お願い」
お母さんの言葉に、私は唇を噛み締める。
しばらくして、私は小さく呟いた。
「──── わかった」
俯いたままの私の言葉を聞いて、お母さんは優しく微笑む。そして私をそっと抱き寄せた。
「ありがとう。愛してるわ、シャルロット」
お母さんのいる病室は個室で、中には大きな化粧台があった。
その前でお母さんは散髪用のケープを纏い、椅子に座る。
「じゃあ、お願いね♪」
「う、うん……」
お母さんに促され、私はバリカンの電源を入れる。
安っぽい機械音に私は内心怯えるが、決してそれを顔に出さないようにした。
お母さんの頭に傷をつけないよう、ゆっくりと当てていく。
私にとっても自慢だったお母さんの綺麗な髪が、はらはらと落ちていく。
幼い頃からお母さんのことばかり見上げていた私にとって、こうして見下ろすことは初めてだった。
お母さんは髪が落ちていく間、ずっとニコニコとしていた。私を落ち込ませないように。
そんなお母さんの背中は、昔よりも小さく感じた。
*
入院から三ヶ月が経った。
一年も終わりに差し掛かる季節、世間ではクリスマスムード一色で、病院内も所々にクリスマスツリーが飾られていた。
学校も少し前から冬休みに入り、私は病室でお母さんと一緒に過ごしたり、宿題を済ませたりといった生活を送っていた。
ある日の午後、お母さんの病室に入ると、お母さんが私に微笑みながら手招きをした。
「シャルロット、こっちに来て」
買ってきた果物の袋をテーブルに置く。
「どうしたの?」
「あなたに渡したいものがあるの」
お母さんはベッドの中に隠していた小さなプレゼントボックスを取り出す。
「クリスマスプレゼントよ」
「本当!?ありがとう……いつのまに用意してくれてたんだ。開けていい?」
「もちろん」
私は椅子に座って、プレゼントボックスに巻かれた白いリボンをゆっくりと解く。
箱を開けて出てきたのは、小さな鍵だった。
見たことのない鍵に、私は首を傾げる。
「これって……鍵?」
お母さんは頷く。
「この家に代々伝わる鍵なの。遠い昔のご先祖様が友人から貰ったもので、とても大事にしていたんですって。この家ではお守りみたいな存在よ」
「お守り……」
「その昔、ご先祖様が住んでいたところに、露台があったというわ。白い花が一面に咲いた、小さな中庭の露台。ご先祖さまは生きてる間に視力を失くしてしまったんだけど、せめて外気と花の香りがご先祖さまの癒しになるように、ご先祖様の友人が贈ってくれたの」
「……」
お母さんはネックレスのチェーンに繋がれた露台の鍵を手に取る。
「シャルロット、こっちに寄って」
お母さんは私の首元の後ろで、チェーンをつけてくれた。
胸元には、露台の鍵がある。
「ごめんなさいね……本当は可愛らしい洋服とか買ってあげたかったんだけれど……」
「ううん、すごく嬉しいよ!ありがとう、大事にするね」
少し落ち込んでいたお母さんの顔が、パッと明るくなる。
「ありがとう、シャルロット。愛してるわ」
お母さんは温かい手で、私を抱き寄せてくれる。
「ご先祖様もお母さんも、その鍵と一緒に、いつでもあなたのそばにいるわ────」
*
年が明け、春になる直前。入院から五ヶ月ほど。
時々体力面で辛い日はあるものの、当初の先生の予測を上回るように、お母さんは元気に過ごしていた。半年と言われていた余命は着々と延びつつあり、先生も喜んでくれていた。
ある休日の昼頃、お母さんの病室に訪れると、お母さんは珍しくテレビを見ていた。
テレビは生中継のようで、画面の中ではISの世界大会の様子が届けられていた。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、今日もいい天気ね。いつもありがとう」
「いいよ、好きでやってるから」
病室の扉を閉めて、テーブルに着替えや果物の袋を置いて整理する。ISに苦手意識のある私と違い、お母さんはテレビに夢中だった。
「ISの大会?すごく盛り上がってるね」
古い着替えを洗濯用のカバンに入れながら、お母さんに話す。テレビのスピーカーからは実況アナウンサーの興奮気味な声が聞こえてくる。
『────年に一度のIS世界大会。本日、待ちに待った第二回モンド・グロッソの決勝戦が開催されます!世界中の注目が集まる最終決戦に、現地アリーナでは早くも満席の状態です』
チラリと画面を横目で見ると、大勢の人たちで埋め尽くされた観客席の様子が映し出されていた。
「本当に多いんだね。クラスでも抽選チケットが当たらなくて落ち込んでる子がいたよ」
そう呟く私をよそに、お母さんは画面を食い入るように見つめていた。
お母さんはそんなにISが好きだっただろうかと思いながら、果物を袋から取り出す。
私は、以前見かけたニュース番組での説明をふと思い出した。
ISが登場し間もなくして、世界の軍事バランスが崩壊するのを阻止する為、「アラスカ条約」というISの軍事利用の禁止などを定めた条約が国家間で締結された。
「モンド・グロッソ」とは、その条約に参加している国を中心に行われるIS同士での世界大会。格闘・射撃・近接・飛行など、部門ごとにさまざまな競技に分かれ、各国の代表が競い合う。
各部門の優勝者は「
『さぁ、そして現在映しているのは、両ピット内に待機してます本日の決勝戦出場の二人です!右の画面には日本代表、第一回モンド・グロッソ総合優勝者、“ブリュンヒルデ”の称号を持つ織斑千冬選手。左の画面にはイタリア代表、アリーシャ・ジョセスターフ選手です。その実力は他国代表者たちを大いに圧倒!現在世界ナンバー2と評されており、織斑選手の地位を覆すかといった期待が高まっています』
「凄いわね……空を飛ぶのって、どんな気持ちなのかしら」
お母さんが呟く。
私はリンゴの皮を剥きながら尋ねてみた。
「お母さん、ISに乗ってみたいの?」
「そうね……シャルロットも考えたことない?鳥のように、もし自由に空を羽ばたけたら……なんて」
「そうだね……でもISが出てから、なんか色々変わっちゃった気がするから」
「ISは悪くないわ。それをどう乗りこなすか、よ」
『映像を切り替えてみましょう。まずは日本代表・織斑千冬選手サイドの整備ピット内の様子です』
切り分けたリンゴを小皿に盛りつけ終わり、私はベッド横のテーブルに置く。お母さんにフォークを渡し、自分も横に腰掛けテレビを観る。
『整備ピット内では、試合に先行して機体の最終整備が着々と進められています。織斑選手の専用機は『
リンゴを食べるお母さんの手が、ふと止まった。その目は『
「────お母さんね、まだ桜を見たことがないの」
リンゴの甘みが口の中で広がるのを感じる。
「日本に行ったことは?」
「いいえ。お母さん、あまり外の世界を知らないの。パリですら、私には十分すぎるほど広くて怖かったから」
画面の向こうでは、いつの間にかイタリアの選手が機体のそばで準備を始めていた。日本の方はまだ姿が見えていないらしい。
もうすぐ、試合が始まろうとしている。
『決勝戦の時間が迫ってきていますが、依然として離着陸ゲートに織斑選手が現れてきません。一体どうしたのでしょうか……────』
「────じゃあさ」
私は思いついたように提案した。
「病気が治ったら、桜見に行こうよ」
それを聞いたお母さんは、優しく微笑む。
「ふふ、そうね。でもその前に、お母さんとシャルロットがよく行ってた、あそこのお花畑に行きたいわ」
「うん、楽しみにしてるね」
その後、画面の向こうではイタリア代表選手の不戦勝が決まった。
日本代表の選手はいつまで経ってもゲートに現れず、観客席では大ブーイングが起こっていた。
テレビでは「逃げた」とか「ISが整備不良だった」とか「大会主催側に金を握らせていたんじゃないか」とか勝手な憶測が飛び交っているなかで、わずかに映し出されたイタリア代表選手の苦い表情が、その日なぜか頭から離れなかった。
せめて画面の中でだけでも桜が空に舞う姿をお母さんに見せてほしかったと、私も心のどこかで日本代表の選手に勝手な嫌味を言いたくなった。
リンゴの甘さは、いつしか苦味に変わっていた。
*
春の暮れ。
病院にはフェンスで隔てられた関係者以外立入禁止のエリアがあり、フェンスの向こう側には小さな花畑が存在する。
ある日の夕方、私はお母さんを車椅子に乗せて花畑の前に遊びにきていた。
春とはいえ、海からの風が来やすい地方なのでまだまだ寒く、私はニット帽を被ったお母さんを見下ろして話しかける。
「お母さん、寒くない?毛布、もっと持ってこようか?」
「大丈夫よ、ありがとう。もう十分暖かいから」
「そっか」
病院は少し高台になった場所に位置していて、花畑の向こう側には少し先の街並みが見える。
私は、以前看護師さんから耳にした話を口にした。
「ここのお花畑、そう遠くないうちに埋め立てられる予定なんだって。新しい病棟を作るみたい。ほら、去年大停電が起きたでしょ?あれでフランス中で交通事故が多発して、どこも病床が
「そう、なのね……」
「やるせないよね、なんか。すごく綺麗な場所なのに」
小さな風が吹き、私は右手をポケットにしまい込んだ。
少しばかりの沈黙が続き、ふとお母さんが話し始める。
「────あのね、シャルロット」
「どうしたの?」
「少し前に、あなたにお守りを渡したでしょう?小さな露台の鍵」
私は首にかけられた鍵を見る。
「外気と花の香りがご先祖さまの癒しになるように、ご先祖様の友人が贈ってくれた鍵……これには、まだほんの少しだけ続きがあるの」
「続き?」
「────ご先祖様は、その花の香りを理解できなかった」
風がやみ、静寂な空気が張りつめる。
「もはやご友人との思い出も曖昧になっていくほど、病気は進行していた」
「……」
「ご先祖様を満たすのは、深い深い、湿った海の音だった。彼女は最期まで、何かになれることを望んでいた……」
「お母さん」
私は静かに、グリップを握る。
「…私も、いつか……」
お母さんが小さく呟いた。その目は街並みの遥か向こうを見つめていた。見えない、何かを。
空が曇り、細雨が降り始める。
「────もう、帰ろう」
何も言わないお母さんの車椅子を押し、病院へと引き返す。
振り返り際、ふと視界の端に映った金網のフェンスが、私の心で
足元をすくうかのようにふと現れた、死の存在。
お母さんが金網を超えて、自由に花畑を歩ける日は来るのだろうか。
生と死を隔てる金網は、たとえISという翼を得たとしても、きっと……
私はそれ以上考えるのをやめ、お母さんと一緒に病室へと帰っていった。
その日から、お母さんは元気をなくしていった。
*
「呼び出された理由は分かってるわね?」
「……」
ある夏の日、私は学校の職員室にいた。
放課後、担任の先生に呼ばれたのだ。先生の机に広がっていたのは、少し前に受けた定期テストの、私の答案用紙だった。
点数は平均点以下で、クラス内でも下から数える方が早い。
「ここ最近のテストの点数のことよ。定期テストもそうだけど、小テストの結果も芳しくないわ。年が明けてから、どんどん学力が下がってきてるの」
「……はい」
「本来、あなたは優秀な生徒だったはずよ。苦手科目もなかったはずなのに……普段から勉強はできているの?」
「……」
黙ってしまった私を見て、先生は深くため息を吐く。
そして私の目を真っ直ぐに見た。
「シャルロットさん、あなたのお家の事情は分かっているつもり。お母様のことから自分の生活のことまで、何から何まで一人でやっていることも……その年でそれだけやっているなんで、本当に立派だと思うわ」
立派だと思うなら放っておいてほしいと、私は心の中で悪態をついた。
「そんな大変な状況だから、先生も気持ちとしてはあまり口を出したくはないのだけれど……勉強は、あなたの将来の道を作るのに必要なことなの。だから、毎週5分ずつくらいでも構わないから、勉強に時間を割いてみて。悩みがあるならいつでも相談に乗るし、希望するなら補習もしてあげるから」
先生の目線に、私は俯いてしまう。
同情の混じったその目を、私は避けるようにして生きてきた。
私は去年の冬頃から、誰にも知られないよう秘密で新聞配達のアルバイトをしていた。
お金を貯めて、
それは高額で、私の貯めていたお小遣いではとても手の届くようなものではなく、少し前から私は焦っていた。
当然睡眠時間は短くなり、授業の予習・復習もままならないまま毎日を繰り返していたのだ。
自分の状況を、誰にも言いたくなかった。
私は先生から答案用紙を受け取る。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言い、私は職員室を後にする。
夕暮れは以前よりも長くなり、夕陽が傾いていく中、私は病院へと向かった。
「どうしたの?」
病室に入るやいなや、いきなりお母さんにそう言われた。
「……何もないよ」
「何かあったのね……あなたのことだもの。すぐ分かるわ」
「……」
お母さんは真っ直ぐに私見ていて、私はそれに気づかないように荷物を置いた。
「シャルロット」
「なに?」
「あなた、最近勉強はどうなの?」
「っ……」
お母さんの新しい着替えを机に置きながら、私は答える。
「どうって、べつに、普通だよ」
「ウソね。本当のことを言って」
「……」
お母さんの古い着替えを袋に詰める。
「この時期、定期テストがあるでしょう?もう結果、返ってきてるはずよね?見せて」
「……まだだよ」
「シャルロット」
滅多に聞かない語気の強目なお母さんの言葉に、私はビクッと震える。
お母さんはじっと私を見ていた。
私は渋々、鞄から先生から渡された答案用紙をお母さんに渡す。
お母さんは一通り目を通した後、私を見た。
「────普段、勉強はどのくらいしてるの?」
私は俯いて、小さく答える。
「……ちゃんとしてるよ」
「前のあなたはよく頑張ってたじゃない。テストもクラスでいつも上の方だったわ」
「……だから、ちゃんとしてるってば」
「シャルロット、正直に────」
「うるさいな!!」
私は乱暴に鞄を叩く。
「私が頑張ってないっていうの!?」
「いいえ、そうじゃないわシャルロット、ちがうの────」
「何が違うの!?お母さんが言いたいのはそういうことでしょ!私だって大変な思いをしてるのに、周りの人は皆、私のことを分かってなんかいない!」
お母さんの目が静かに震える。
それに気づかないふりをして、私は声を荒げた。
「昔言ってくれたよね?『あなたより大切なものなんてない』って……あの言葉は嘘だったの!?大切に思ってくれるのなら、なんで今の私を責めるの!?」
お母さんが焦ったように声をかけてくる。
「あなたのことは何よりも大切よ、シャルロット。だから────」
「だったら何も言わないでよ!!私のことを分かってくれないお母さんなんて、大っ嫌い!!」
「っ……!」
私は鞄を持って、乱暴に病室の扉を閉め、その場を後にした。
外にも聞こえていたのか、廊下を歩いていた数人の患者たちが私を見ていたが、誰もかれもが同じような哀れみの視線を向けてきているような気がして、私はそのまま立ち去った。
それからしばらくの間、私は病院に足を運ぶのをやめた。
最後に見たお母さんの顔が脳裏に焼き付いて、それを消し去りたくて仕方がなかった。
*
病院に行かなかくなってから二週間ほどが経った、ある休日の朝。
家のカーテンも閉めたままベッドに閉じこもっていると、突然一階から電話が鳴り出した。
居留守しようとしばらく無視し続けていたが、コール音が中断されても、何度もかかってくる。
しつこいコール音に苛立ち、乱暴に毛布を取っ払って一階に降り、受話器を取る。
「……はい」
「その声、もしかして娘さんのシャルロットさんですか!?○○総合病院の血液内科受付の者です!」
「そうですけど……」
「あなたのお母さんの容態が今朝から悪化しています!今すぐ病院に来てください!」
「っ……!」
私は受話器を戻し、急いで外に出る仕度を済ませ、勢いまかせに家を飛び出した。
そして全速力で駆け抜け、20分ほどで病院へと到着した。
病室の扉はすでに開いていて、中には担当医の先生と、2人の看護師さんが点滴などで忙しそうにしていた。
「お母さん!」
お母さんのもとに駆け寄ると、お母さんは静かに目を開け、私を見た。幸いにも意識はあるらしい。
「シャル、ロット……」
「お母さん……」
かなり弱々しくなったお母さんの声に、私は唇を噛み締める。お母さんは眠るように、再び目を閉じた。
すると後ろから、担当医の先生が静かに説明してくれた。
「早朝の時より少しだけ容態は回復したが、君のお母様は依然として油断はできない状態だ。ここからさらにひどくなると、いわゆる“危篤状態”となる……君も言葉くらいは聞いたことがあるだろう。ここは……お母様の気力次第だ」
「っ……」
「正直、近いうちに
状況も落ち着き、先生たちは病室を後にし、私とお母さんの二人きりになった。
少し高くなった太陽の光が、窓から差し込みお母さんの顔を照らす。
心電図の音が規則的に響くなか、お母さんの透明な呼吸器に私の顔が映っていた。
お母さんの手はわずかに温かく、力は込もっていなかった。
(何やってるんだろう、私……)
今まで考えないようにしていたお母さんの死が、ふと私の背中を震わせた。
入院当時から痩せ細った手。力のない呼吸。
もうあまり長くはないということも、うっすらと感じていた。
『お母さんね、まだ桜を見たことがないの』
『鳥のように、もし自由に空を羽ばたけたら……』
『ご先祖様は、その花の香りを理解できなかった』
『…私も、いつか……────』
私は、お母さんの手を強く握り、耳元で囁く。
「お母さん、もう少しだけ頑張ってね。すぐに戻るから」
私は病室を出て、病院を後にし、全速力で駆け抜けた。
*
「貯金箱は……あった。あとは雨具と、水筒と……」
自宅に戻ってきた私は、急いでリュックに必要なものを詰め込む。
水筒に水を入れ、リュックを背負い、家を出た。
(ご近所さんは旅行に出かけてるみたいだった。全部自分でやるしかない)
もともと誰かに頼ることなんて、しようと思ってなかった。だから別に、かまわない。
この時のために、私は新聞配達のアルバイトを続けていたのだ。
一台の
ブレストの街には、個人で経営されている小さな電気屋さんがある。
何度かそこを通ったことがあり、外から見えるショーウィンドウの中には新品から中古品まで様々なカメラが並んでいるのだ。
新品は高くて買えないが、中古品なら今の貯金額でもなんとか届くかもしれない。
小さな希望を胸に抱えながら、私はブレストの街まで駆け抜けた。
*
目的の店に着き、ショーウィンドウを見る。
「そ、そんな……」
しかし私を待ち受けていたのは、非情な現実だった。
一番安い中古品のビデオカメラでも、私の貯金額ではまだまだ足りなかった。少し前まで見かけていたもっと安い型のものは、すでに売り切れていたようだった。
だからといって私は引き返すわけにもいかず、意を決して店の扉を開いた。扉を開くとすぐ目の前に、中を掃除していた店主が立っていた。
「いらっしゃい」
「あ、あの!あそこにあるビデオカメラなのですが……」
「うん?ああ、あれか」
「あの……大変身勝手なことを言うのは承知です。どうか買わせていただけませんか!?」
私の言ったことがすんなり理解できなかったのか、首をかしげる店主。私はリュックから貯金箱を出した。
「その……ちょっと足りないんです。必ず後日、足りない分はお支払いします!」
「“ちょっと”って言うけれど、どのくらい足りないんだ?」
「えっと……」
私の貯金額を伝えると、店主は少し不機嫌な顔を見せた。
「ダメだダメだ、話にならん。すまないが、他を当たってくれ」
店主は私を店の外に連れ出し、扉を閉めようとする。
「ま、待ってください!必ず後日払いますから!」
「あのね、こっちも商売でやってるんだ。第一、君がちゃんと返しに来る保証なんてどこにもないじゃないか」
「お願いします!その……お母さんに少しだけでも花畑を見せてあげたいんです!お願いします!」
「いい加減にしてくれ。これ以上しつこいと警察を────」
「
私と店主が押し問答をしている横から、突然誰かが声を掛けてきた。
純白のワンピースに、ピンクのカーディガンを着た女性だった。
同い年くらいだろうか。しかしその顔はよく見えなかった。
青いリボンが巻かれた、つばの広い白のハット帽を少し深く被っていたからだ。
目を丸くした店主は、ため息を吐きながら、愚痴をこぼすように返事をした。
「イギリスの人かい?すまないが、英語は分からないんだ。個人的にも、あの国は好きじゃなくてね。まぁ、俺の言ってることも分かんないだろうが」
しっしと嫌味たらしく手を払う店主。
するとワンピースの女性は何か考えたような仕草を見せたあと、再び話しかけてきた。
「────何かあったのですか?」
驚くべきことに、ワンピースの女性は流暢なフランス語でもう一度話しかけてきたのだ。
「な、なんだい……あんた、フランス語話せるのか」
バツの悪そうな顔をする店主。
店主は機嫌悪そうに、私を指差した。
「この子がね、しつこいんですよ。お金が足りないくせにウチの大事な商品をくれって。こっちも商売でやってるから、困ったものでしてね」
大人から責め立てられる恐怖と不安で、私の心はもうボロボロになっていた。
もうこの店はダメだと思い、逃げるようにその場を去ろうとしたその時だった。
「────いくらですか?」
ワンピースの女性から、予想だにしない言葉が出たのだ。
それは店主も一緒だったらしく、もう一度聞き返す。
「い、今なんと?」
「ですから、その商品はいくらですか?
「!?」
「え、ええ。ちょっと待ってください」
店主が値段を確認しワンピースの女性に伝える。
それを聞いた女性は、いつのまにか女性の後ろに立っていた付き添いの人に支払いをするよう言いつけた。
お金を受け取った店主は、私に中古のビデオカメラを渡し、そそくさと店の中へと姿を消した。
私はすぐさま、彼女に頭を下げた。
「あ、あの!本当にありがとうございました!!私のためにお金を出させてしまって、本当にごめんなさい……」
「お気になさらず」
ワンピースの女性は淡々とした口調で返事をする。
私は急いで紙を取り出し、ペンで書き綴った。
「あの、これ……私の名前と住所と、電話番号です。あと、この貯金箱もお渡しします。買っていただいたにも関わらずとても失礼だとは分かってるんですが、実は今とても急いでいて……。後日、この電話番号に連絡をください!足りない分は絶対にお返ししますので!」
私はワンピースの女性に諸々渡し、もう一度頭を下げ、背を向けた。
走り出そうとした、その時。
「お待ちなさい」
女性が私を呼び止める。
「どこへ向かうのです?」
私は振り返り、弱々しく返事をする。
「ロ、ロスカンヴェルの方に……」
「……ロスカンヴェル?聞いたことありませんわね。
そう呼ばれたメイド服の女性は、華麗な手つきでタブレット端末を指で数回叩く。
「はい、お嬢様。ここから車でおよそ一時間ほど。ちょうどここから見える、海の向こう側にある半島がその場所でございます」
ブレストの街は海に隣接していて、そこから向こう岸にあるのがロスカンヴェル半島だ。
ワンピースの女性は海の向こうをしばらく見た後、私の方を見る。
「
突かれたくなかった部分を言われた私は、自信なく答える。
「は、はい……」
「信じられませんわね。いくらなんでも、歩きでは12時間はかかるのではなくて?」
「っ……」
冷たくキッパリと言ってくる女性の言葉に、私は俯くしかなかった。
しかし静かに、私は自分の意思を伝える。
「……行かなければいけないんです。どうしても……」
震える拳を握りしめる。
しばらくの沈黙が流れた後、ワンピースの女性が口を開いた。
「────チェルシー」
「ですが、お嬢様……」
「構いません。会合の時間も、余裕を見積もって設定してあるはずです。それに、貴女の腕ならいくらでも早く着くことができるでしょう?」
「まぁ、お戯れを。かしこまりました。それでは、向かいましょう」
するとメイドの女性は、近くに停まっていた黒い高級車に入っていった。
どういうことか分からなかった私に、ワンピースの女性が振り返る。
「何を呆けているのです?早くなさってください」
「え、え?どういうことですか?」
何をいまさらといった表情で、女性は答えた。
「────
*
車に乗せてもらい、今は海の上のイロワーズ橋を走っていた。
車はメイドの女性が運転し、後部座席には私とワンピースの女性が座っていた。
ワンピースの女性は車に乗ってから、ずっと難しそうな本を読んでいる。
乗ってからというもの、まだ一つも会話を交わしていない。ワンピースの女性も話す素振りを全く見せず、私は思い切って言葉を発した。
「あ、あの……」
「……」
女性はこちらを見向きもしない。
「お、お名前を伺ってませんでした……改めて、私はシャルロットです。その……お名前を教えてもらえませんか?」
女性はページをめくる手を止め、私を見る。
「私を知らないのですか?」
思わぬ女性の言葉に、私は焦ってしまった。
「ご、ごめんなさい!もしかして、有名人の方とかでしょうか……?その、あまり世間のことは知らなくて……」
女性はしばらく私をじっと見た後、再び本の中身に視線を落とした。
「……いえ、知らないのであれば別に構いません。その方が好都合です。今は私も、誰かに外を歩く姿を見られたいわけではないので」
「そう、ですか……」
女性の表情がほんの一瞬暗く感じたのは、気のせいだろうか。
そしてまた、しばらくの沈黙が流れ始める。橋も渡り終え、車はいつしかダウラの街まで来ていた。
すると、ふと運転席にいるメイドの女性からルームミラー越しに声をかけられた。
「シャルロット様はどうしてロスカンヴェルの方へ?」
その質問に、一息置いて私は答える。
「あそこには……大きなお花畑があるんです。一面に白い花たちが咲いたところで……私とお母さんのお気に入りの場所なんです。もう、ずいぶん前から行ってませんけど……」
「……」
ワンピースの女性は無言で本を読んでいる。出会ってから彼女はずっと何を考えているか分からない顔をしていた。
「お母さんは今病院にいて……多分、あまり長くはないんです。今朝から容態も悪化して、さっきも意識を落としたように眠ってしまって……。だから、お母さんがよく連れていってくれたそのお花畑をカメラに収めて、お母さんに見せてあげたいんです」
「そうだったのですね……」
メイドの女性が落ち込んだ声で答える。
「でも私……実はお母さんと少し前に言い合いになって、お母さんに大嫌いって言ってしまったんです。それでしばらく病院にも顔を出さなくて……今朝、家に電話が来て、お母さんの容態がよくないと……」
高速道路ですれちがう車の音が、やけに大きく聴こえた。
「言い合いは些細なことでした。今思えば、本当に些細な……。昔、お母さんの大事な手鏡を割ってしまったことがあったんです。その時にお母さんが、『あなたより大切なものなんてない』って言ってくれて。でも最近の学校生活でのことを聞かれて、カッとなってしまった私は、『あの言葉は嘘だったのか』って言ってしまったんです」
「……」
「今でも分からないんです……お母さんの容態が安定していないのに、自分は外へ行ってる場合なのかって。本当は今も、ずっとお母さんのそばにいてあげるべきなんじゃないかって……私は、一体どうすれば……」
私は声を震えるのを抑えるために、俯いた。溢れそうになる何かを、必死に出ないようにする。
少しの沈黙が流れた後、口を開いたのはワンピースの女性だった。
「────そんなこと、誰も知りませんわ」
女性は冷たい声でハッキリと言う。
私は女性を見上げると、彼女は本を閉じていた。
「
「っ……」
誰にも頼らないと思っていた手前、こう思ってしまうのは身勝手だが、冷たい人だと思った。
しかし女性は、「ですが」と言葉を続けた。
「何が正しいか、何が悪いのか、答えなんてないんです。たとえ世間が決める答えがあって、それが自分の意に反するものだったとして、貴女はそれに従いますか?そんなもの、あったってなくたって、生きていくしかないんです。目の前の出来事に流されるか、立ち止まるか……そんなの、誰だって分かりません」
「……」
「自分が今最大限にできることが正しいと思うのであれば、周囲のものはなんだって利用すればいい。私たちのことだって、貴女が時間を急ぐためなら、足にでも何でも利用すればいいだけの話です」
淡々と、ワンピースの女性は話し続ける。私は彼女の瞳が、ほんの少しだけ揺らいだように見えた。
「親を亡くした者からのアドバイスがあるとすれば、そのくらいです。この世界に、『
彼女の言葉に私は驚く。
女性は腕を組み、
「────少し話しすぎました。あまり眠れてないのです、少しだけお休みをいただきます」
それっきり、彼女は何も話さなくなってしまった。よく見ると、化粧で隠してはいるが、彼女の目にはうっすらと隈ができていた。
私も黙ることにし、外の景色を眺める。
彼女に言われた言葉が、ずっと頭から離れなかった。
*
ロスカンヴェル半島
ポワント デ エスパーニョール付近
「こ、この辺りです。ありがとうございます」
私がそう言うと、車は草むらが囲む荒道の上で停まった。周囲に人影は全く見えなかった。
するとメイドの女性がこちらに振り向く。
「シャルロット様、帰りもお送りいたします」
「え、いいんですか!?」
「いずれにせよ、我々も帰り道は同じです。この長い道のりを、シャルロット様お一人では危険ですし、ここで置いていっては我々も無礼に値します」
「そ、そんな……行きしだけでも本当にありがたいですよ」
メイドの女性はにっこりと静かに笑う。
「しばらくここでお待ちしていますので、シャルロット様はご用件をお済ませください。お嬢様も出られますか?」
すると小さな声で、ワンピースの女性が呟いた。
「いえ……私は、ここで休みます」
「そうですか。ですがせっかく海沿いまで来ましたので、窓は開けさせていただきますね」
「……ええ」
ワンピースの女性が眠たげに答える。
「ほ、本当にありがとうございます!じゃあ、少しだけ行ってきます」
「ごゆっくり」
メイドの女性が微笑む。
私は車を出て、目的の場所へと走っていった。
半年以上ぶりに来た花畑は、全く何も変わっていなかった。
なだらかな坂になった花畑の向こうには海があり、その向こうにはさっきまでいたブレストの街がある。
誰からも見捨てられた、どこまでも孤独な場所。無限に続く水平線。
白く美しい花々で覆われたこの場所を、幼い頃から私は、空に一番近い場所だと思うようになっていた。
この白い花々と一緒なら、空も、遠い世界も、宇宙だって飛べるのだ。
誰も見向きもしないような場所でも、私とお母さんはここに魅入られていた。
私は中古品のビデオカメラを構え、花畑と海を画面におさめる。
そして、すぅっと息を吸った────。
*
ブルターニュ地方 ブレスト
総合病院付近
近くに病院が見える坂道の入口で、私は車を停めてもらった。
「あの、本当にありがとうございました!!あなたたちは……私の恩人です」
車内で何度も頭を下げる。
窓にはポツポツと水滴が落ちてきていた。
「雨……海沿いは天気が変わりやすいんですね。シャルロット様、お身体を壊さないよう」
メイドの女性が笑って挨拶をしてくれる。ワンピースの女性は何も言わなかったが、ここまで気遣ってくれたことを私はとても嬉しく感じていたため、再び彼女にお礼を言って車を出た。
車を出て病院へ向かおうとした、その時。
「お待ちなさい」
ワンピースの女性から呼び止められた。
何だろうと思い振り返ると、彼女は窓越しから何かを手渡してきた。
「これ……」
それは私が先ほど渡した貯金箱だった。
「そ、そんな……十分ではないですが、これはビデオカメラのお金です。せめて受け取ってもらえませんか?」
しかしワンピースの女性は力強く私に貯金箱を突きつけ、私は慌てて受け止めた。
「────それは貴女が持っているべきです」
女性は静かに、しかし力強く私に言った。
「今はご自身と、ご自身の身の回りのことだけを考えなさい。それでも貴女の気が収まらず、私にお礼をしたいと言うのであれば、私を見つけて会いにいらっしゃい。その時は、受け取るかどうかまた考えて差し上げますわ」
ワンピースの女性は再びハット帽を深く被り、顔を隠した。どこまでも謎めいた人だった。
「シャルロット様、どうかご武運を」
メイドの女性がそう言うと、車はゆっくりと病院とは反対の方向へと走り去っていった。私は車が見えなくなるまで、彼女たちに頭を下げた。
やがて雨もだんだんと強まっていき、私は急いで病院へと駆け抜けた。
*
受付でプロジェクターを貸し出してもらった私は、小走りで病室へと向かう。
病室に入ると、お母さんは寝込んだまま、窓の外を見ていた。
私はお母さんのそばに行く。
「お母さん、私だよ」
「シャルロット……」
呼吸器でくぐもった小さな声。
弱り切ったお母さんに、私は元気になってもらえるよう明るく話しかける。
「あのね、お母さんに見てほしいものがあるんだ。用意するから、少しだけ待ってて」
私は少しばかり濡れてしまったリュックを置き、ビデオカメラを取り出す。
机を動かしてプロジェクターを置き、ビデオカメラとケーブルで繋いで、部屋の電気を暗くした。
「お母さん、目の前の壁見られる?」
私がお母さんに囁くと、お母さんはゆっくりと視線を移した。
それを確認すると、私はプロジェクターの電源を着けて、壁に映像を投影した。
壁に映し出されたのは、私とお母さんのお気に入りの白い花畑だった。お母さんはそれを見て、目を丸くした。
「さっきね、撮ってきたんだ。お母さんにどうしても見せたかったから」
しばらくすると、映像とともに歌声が流れてきた。
お母さんが幼い頃からよく歌ってくれた曲を、私がビデオカメラを持ちながら歌っていたのだ。
私はちょっぴり恥ずかしく思いつつも、お母さんをチラリと見やる。
お母さんの目から、一筋の涙が静かに流れていた。
「ありがとう、シャルロット……」
私は、こみ上げてくる涙を必死におさえ、笑う。
お母さんは、静かに呟いた。
「綺麗ね……」
お母さんの見つめる花畑を、私も眺め続ける。
病室のなかで歌声が響くなか、私の横で、ちいさなしゃっくりのような声が聞こえた。
振り返ると、お母さんはじっと花畑を見つめたままだった。
「……お母さん?」
反応がない。瞳も全く動いていなかった。
「お母さん、お母さん!?」
私は慌ててナースコールボタンを押す。30秒ほどで、看護師さんたちが慌てて入ってきて、お母さんに声をかけ続け、処置を施していった。
間もなくして、お母さんは息を引き取った。
心電図の波が線に変わっていく中で、私はその様子を見ていることしかできなかった。
*
一人になってしまった私に、一人で全てをできるほどの力はなかった。
かつてお母さんを病院まで送ってくれたご近所さんに事情を話し、葬儀は私とご近所さんだけの簡単なものにした。何もわからなかった私に、ご近所さんは色々手を差し伸べて協力してくれた。
アルバイトでこれから返済しようと思いながら、受付でこれまでかかった入院費のことを聞こうとすると、
「これまでの治療費・入院費は全てお支払いいただいています」
と答えられた。
「え……?そんな、長期でしたし、正直お母さん一人だけでは支払えないような金額だったと思います!いったい誰が……?」
私がそう聞くと、受付の人は困ったような顔をして答えた。
「それは、
そう言ったきり、お金に関する質問は受け付けてもらえなかった。
病院の人たちにもお礼を言い、私は病院を後にした。
お母さんが亡くなって一週間が経った頃。
私は埃の溜まっていたリビングなどを掃除していた。
そして、そういえば最近郵便ポストの中を全く見ていなかったことに気づき、私は外に出た。
ポストの蓋を開けると、いくつかの広告や新聞が入っているなか、一通の手紙が出てきた。
手紙を手に取ると、それは「シャルロットへ」と書かれた封筒だった。お母さんの文字だと、ひと目で分かった。
急いで家の中に入り、封を開ける。
====================
親愛なるシャルロット
驚いたかしら。
この手紙を貴女が読んだとき、お母さんが生きているかどうかは分からないけれど……。
貴女に謝りたいことがあって、この手紙を綴っています。
お母さんはきっともう、長くは生きられないから。
昨日、お母さんが貴女に学校のことを聞いて怒らせてしまった時。
あの後、ひどく自分を責めたわ。どうして私はあの子の話をしっかり聞いてあげなかったんだろうって。
本当にごめんなさい。
貴女には貴女の伝えたいことがあるはずなのに、お母さんはそれを聞いてあげられなかった。
貴女は学校で忙しいなか、毎日お母さんの様子を見にきてくれて、着替えや果物も持ってきてくれて、自分の生活も一人で頑張っていたのに。
娘のことを何も見てあげられなくて、ひどい母親で、本当にごめんなさい。
でも、どうしても伝えたいことがあるの。
生まれた時から、貴女のことを何よりも大切に想っているのは本心よ。
貴女を胸に抱きかかえた時、なんて可愛い娘なんだろうって思った。命をかけて、貴女を守ると誓ったわ。
それなのに、不甲斐ない私の身体のせいで、お母さんはもうすぐ人生が終わってしまう……。
でも、忘れないでほしい。
貴女に渡したお守りに、お母さんの心は宿っている。お母さんだけじゃない、貴女のご先祖様たちの心も……。
お母さんは、いつでも貴女のそばにいるから。
愛してるわ、シャルロット。
お母さんより
====================
「ごめんね……お母さん……大嫌いなんて言って、本当にごめん……!」
涙が止まらなかった。私は手紙を胸に抱え、その場でうずくまる。
溢れ出す涙の粒が、リビングの床に落ちていく。
「お母さんのこと、大好き……!うっ……ひっく……!」
誰もいない家の中で、私は声を上げて泣いた。
*
数日後。
お母さんの手紙の入った封筒の中に、もう一枚の小さな紙が入っていることに今更気づく。
====================
p.s.
今まで黙っていたけれど、貴女には父親がいます。
お母さんから連絡して、貴女が何不自由なく暮らせるよう約束させました。
お母さんがこの世を去った時、きっと迎えがくるはずです。
黙っていてごめんなさい。
強く生きてね、シャルロット。
====================
「おとう、さん……?」
学校では聞いていた、言葉だけの遠い存在。
お母さんの文章に疑問を感じていると、突然インターホンが鳴った。
玄関を開けて出てきたのは、スーツ姿の男性だった。
「シャルロットさんでございますか?」
静かい言う男性の声に、ゆっくりと頷く。
「そう、ですけど……」
「私、デュノア社に勤めている者です。この度のお母様のこと、お悔やみ申し上げます」
男性は頭を下げた後、再び話し始めた。
「お母様からお話は伺っておりますか?」
「もしかして……迎えがくるとか」
「左様でございます。貴女の父上様よりお迎えに上がるよう任じられております」
知らないところで話の進んでいる状況のなか、私は戸惑いを隠せなかった。
「急、ですね……」
しかし男性は急かすことなく、頭を下げた。
「申し訳ございません。こちらとて、今すぐお連れするような無礼な真似はいたしません。三時間後、またここへ参ります。それまで、準備など諸々お済ませいただくようお願いいたします」
男性は車に戻り、またどこかへと行ってしまった。
「デュノア」とは、フランスでは誰もが知るような名前だった。
*
まるで他の人間から隠されるように高層ビルの最上階に連れてこられた私は、そこである人物と出会った。
その人物はアルベール・デュノアと名乗った。私の実父らしい。その後ろでは妻と名乗る女性が冷たい目をして立っていた。
聞けば、私のお母さんは彼にとって愛人だったらしく、後ろで立っている女性が正妻だという話らしい。
そんな彼に、私は心の底で沸々と怒りがこみ上げていた。私のお母さんが苦しんでいる間、一度も顔を見にこなかった人間が父親を名乗る?そんな馬鹿な話があってたまるものか。
私が彼に怒鳴ると、彼はなぜか悔しそうに肩を震わせ、黙っていた。しかしそれを聞いた後ろの女性が突然私を引っ叩き、「泥棒猫」と言い放った。
彼と話した時間はものの十分ほどであり、それ以降、私は彼の姿を見かけることはほとんどなくなった。
たまに遠くで見かけても会話はしない。正妻と名乗る女性には冷たい視線を向けられる。
シャルロット・デュノアとなってから、私は孤独な生活を送っていた。
それからしばらくして、様々な検査を受けていく過程で、私はIS適性が高いことが判明した。
非公式ではあったが、テストパイロットの試験も受けた。父に会ったのはそれが二回目で、結局出会ってから話した時間は一時間にも満たなかった。
やがて、デュノア社は経営危機に陥った。
量産機のISシェアが世界第三位とはいえ、結局リヴァイヴは第二世代型だった。
第三世代型の開発の着手が主流になり始めているなかで、デュノア社は完全に他国から遅れをとっていた。
このまま進歩が見られない状況が続けば、デュノア社のIS開発許可が剥奪される……政府からそんな警告が届くさなか、世界中を震撼させるニュースが届いた。
『
それは日本で見つかったといい、私と同い年の男の子だった。
男の子は、あのブリュンヒルデ・織斑千冬の弟であることも報じられた。かつてあの病室の画面の中で姿を消した女性の弟。
その報道に目をつけた父親は、突拍子もないような計画を秘密裏に動かせた。
『
普通に考えれば、まともな計画ではないことが誰でも分かった。
それでも父親は計画を強行し、私に広告塔になるよう命じた。
ここで会社的に幸いとなったのは、私のテストパイロットは非公式で行われていたということだ。
フランス政府にも女性としての私の存在は通達されておらず、私はすぐさま男性の仕草・知識・格好を学ばさせられた。社内の人間が言うには、私の顔立ちは中性的で都合が良いらしい。お母さんからもらった大事な顔を傷つけられた気がして、私は社員たちを憎んだ。
同じ男性なら、世界初の男性IS操縦者に接触しやすい。
そして、その男性データを盗用してこいと。
私はスパイとしての任務を負わされた。
そして数週間後。
何度も読み返したお母さんの手紙を、出国前にもう一度読んでいた時、社員の人間からそろそろ出発するよう言い渡された。
手紙をポケットにしまい、首にかかったお守りを握りしめる。
『お母さんは、いつでも貴女のそばにいるから────』
生前、お母さんが言ってくれた言葉を胸に抱え、
約200年前
実験棟
固く閉ざされた数々の病室から響いてくる呻き声の中、私はいつも行く奥の部屋へと足を運ぶ。薬品の棚を五つ通り過ぎ、そこから床の傷を三つ跨げば、彼女のいる部屋へと辿り着く。
彼女はあの部屋にいるだろうか。
此処へ来る時は、そんなことをいつも考えてしまう。ある日突然、この部屋から姿を消してしまうんじゃないかと、いつも不安になる。『彼女が外へ出れるはずもないというのに』──── 一瞬でもそんな言葉が頭に浮かんでしまった自分に、ひどく嫌悪感を覚えた。
目的の病室の前に辿り着いた私は、扉をノックしようと手を伸ばしたところで、動きを止めてしまった。
もし、本当に彼女がいなかったら……?
この閉鎖された暗い棟の中で、私に光を照らしてくれるのは、もう彼女だけなのだ。
彼女が私の前から姿を消した時、私はどうすればいい?こんなことを言うこと自体烏滸がましいことであるとは分かっているが、しかし私には……。
深く息を吐き、私はいつもする、彼女とのお決まりの合図をした。
ノックを長くニ回……短く三回……。
私は耳を澄まし、反応を待つ。
しかし、返ってきたのは静寂だけで、私の心は不穏にざわつき始める。
やはり彼女はいないのだろうか?いや、今此処で考え込んでしまったところで、何も変わらない。
私は取っ手を握り、ゆっくりと扉を開ける。軋んだ音が、建物の中で響き渡る。
扉を開けて、私は目の前の光景にホッと胸を撫で下ろした。彼女は、いつものように椅子に座っていた。しかし、此方に気づいた様子はない。
何となく不安になった私は声をかけてみる。
「やあ」
すると、彼女が此方を見た。
「マリアさま?」
「夢でも見ていたのか?」
「ふふ、そうみたい」
私は部屋に余った椅子を引き寄せ、彼女の前で座る。
「身体の具合は?」
「ええ、変わりなく。マリアさまがいつもお話してくださるおかげかしら」
「そうか……」
彼女の微笑みに、私はホッとした。彼女の存在が私にとってどれだけ大きなものなのか……そういうことを、私は彼女とこうして同じ空間を共有する時にいつも思う。
「マリアさま、今日はどんなお話をしてくれるのですか?」
彼女の問いかけで思い出した私は、今日の本題に入る。
「そうだな……君は、花が好きか?」
「ええ。綺麗な色をした、小さくて可愛らしい……よく覚えています」
「たくさんの花を眺められる、とっておきの場所があるんだ。これを君にあげよう」
私は胸にしまっていた小さな鍵を取り出し、彼女の手を取って、それを優しく握らせる。
「まぁ、素敵。これはどこの鍵なのですか?」
「此処からすぐ近くの所だ。君が此処から出れるくらい身体が良くなれば、一緒に行こう」
私が微笑むと、彼女も微笑んだ。そんな小さなことに、私は溢れんばかりの幸せを感じた。彼女が微笑み、返事をする。
「それならその時には、この降り続ける雨も止むといいですわね」
「雨?雨なんて降っていないさ」
「あら、ではこの雨漏りも、きっと気のせいなのね。ふふ、私ったら、まだ夢の中にいるみたい」
『身体の具合は変わりない』──── 彼女はそう言ったが、言い換えればそれは、『良くもなっていない』ということだ。私から見ても、彼女の身体は見るからに日に日に痩せ細っている。
彼女はこうして明るく話してくれるが、その一方で苦しんでいる時間もあるのだろうと考えると、私は心を痛めずにはいられなかった。
愛する彼女を失いたくない。彼女をこんな目に合わせてしまったのは私のせいなのに、そんな我儘をいつも思ってしまう。
目の前の彼女に償うためには、私はどうすれば良いのだろうか────。
あることを思いついた私は、椅子から立ち上がる。
そして彼女の前で片膝をつき、手のひらを差し出した。
「────私と踊らないか?」
すると彼女は、不思議な笑みを見せた。
「まぁ、いきなりどうされたの?」
「ずっと座っていては、治るものも治らない。どうだ?私と一曲、踊ってみないか」
「ですが、此処には楽器なんて無いですわ。それに私、目が見えませんもの」
「大丈夫だ。私が手を取ってリードする。私も、君がゆっくり合わせられるよう歌おう」
「まぁ、マリアさまのお歌が聴けるの?ふふ、素敵ね」
彼女の優しい微笑みが、暗い病室に広がる。一本の蝋燭に火をつけ、机に置いた私は、改めて彼女に笑顔で問いかけた。
「私と一曲、踊ってもらえないか。ミ・レディ」
私の手のひらに、彼女が優しくその手を重ねる。
「喜んで」
*
彼女の肩に手を回し、もう片方の手を握って、私と彼女はゆっくりと踊る。私と彼女の足音が、病室の中で反響する。
「そう……1、2、……ふふ、上手いじゃないか」
「私、上手く踊れてるかしら?」
「ああ。君がパートナーで良かった」
「マリアさま……知らない間に、また少し背が伸びたのかしら。マリアさまの手も、大きくて温かいわ」
「私はいつもと変わらないよ」
「ふふふ」
彼女が上機嫌になったところで、私も合わせて歌を口ずさんでみる。
......You'll never know......just how much I miss you......
1、2、1、2。
リズムに合わせて、私たちはゆっくりと回る。
......You'll never know......just how much I care......
1、2、1、2。
私の歌声に、彼女も微笑んでくれる。彼女も慣れてきたのか、足での音の取り方も上手くなってきた。
......You went away......
「ふふ、私、まだ夢の中なのかしら。マリアさまと、こうして踊っているなんて」
......and my heart went with you......
「夢でも構わないさ」
......I speak your name......
1、2、1、2。
......in my every prayer......
「夢でなら、必ず君と逢えるのだから」
気づけば、蝋燭の長さも短くなっていた。あと少しで、この時間もやがて闇を迎える。しかし、私と彼女のこの幸せに、そんなことは関係などなかった。
「私、幸せよ。マリアさま」
彼女が、私の胸の中でそう囁いた。
「ああ」
溢れ出るこの感情を、私は歌声にし続ける。
「私もだ」
蝋燭の灯りが、暗闇の中の私たちを温かく照らしていた。
*
『……ュ縺ソ霎シ繧薙□蝣エ蜷医逋コ逕溘縺セ縺吶……』
ああ。
願うならば。
私の願いが、叶うならば。
最後に、マリアさまの歌声を聴きたかった……。
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二年前
ロスカンヴェル半島 車内
眠っていた
うっすらと目を開くと、チェルシーが遠くの方を見つめて、静かに呟いた。
「綺麗な歌声……」
その歌声に感動しているのか、チェルシーは感嘆の吐息を洩らしていた。
私も、心地よいその歌声に、久々にゆっくりと眠れる気がした。
本当に、美しい歌声……────
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『露台の鍵』
実験棟一階、露台の扉の鍵。
時計塔のマリアが、患者アデラインに渡したもの。
せめて外気と花の香が、彼女の癒しとなるように。
だが彼女は、それを理解できなかった。
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Reference:
Warren, H. (1943). You’ll Never Know [Recorded by V. Lynn].
On Golden Voices (Remastered) [CD]. Stockholm, Sweden:
X5 Music Group. (2010)