狩人の夜明け   作:葉影

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また期間が空いてしまいました…申し訳ありません。
一ヶ月遅れたけどセシリア誕生日おめでとう。


追憶 -Ⅲ.セシリア・オルコット:『Black box』

貴公、我ら一族の呪いに列し、また異端として教会の仇となる。

敢えてそれを望むのであれば、

穢れた我が血を啜るがよい……────

 

 

 

 

 

 

約200年前

古都ヤーナム・市街地

 

 

目を開くと、そこは先ほどまでいた電脳仮想空間の浅海部ではなく、夜に染まった街だった。

夜空には白い月が上がり、街の地面をうっすらと白く濡らしている。セシリアは街の高台のような場所にいた。

街の光景はゴシック風な建物で埋め尽くされており、少し離れたところに大聖堂が見える。街のもっと遠くには山々が並んでおり、ここが山間部であることが伺える。それは、幼い頃スコットランドのエディンバラに観光旅行に行った時の光景を彷彿とさせた。

 

人気の全くない街。

しかし高台から街を見下ろし、よく目を凝らしてみると、数人の人間と大きな犬がのろのろと歩いているのが見えた。

 

「……!?」

 

セシリアは息を呑む。

彼ら人間たちの姿は恐ろしく腐敗し、またその犬も血だらけになりながら狂ったように吠えていたのだ。

その姿はまさに()だった。

 

ふと、パズルのピースが組み合わさったような感覚が起きた。

それはオルコット家に伝わる、()()()

イギリスIS研究所からの帰り、オルコット家の領地内に広がる深い森の中で見つけた廃家……そこでマリアに話した、ある昔話。

 

『イギリス国内でも遥か東に、古都ヤーナムという街がありました。人里離れた山間にある忘れられたこの街は、呪われた街として知られ、奇妙な風土病『()()()』が蔓延っていました……────』

 

(まさか、ここは……)

 

つまり、ここは19世紀のイギリスということ────?

セシリアの心に、困惑の感情が広がる。

オルコット家に伝わる昔話が「御伽話」と言われる由縁は、その内容が本来の史実とは異なった歴史を描いているからだった。そしてさらにセシリアが長い間引っかかっていたのは、「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」という奇妙な点だった。

 

『信じられないかもしれないが、私はこの時代の人間ではない。2()0()0()()()()に生まれた、一人の『狩人』だった……』

 

()()()()で生まれた私は、狩人として生き、そしてある事件によって死んだ。それが何かは思い出せない……が、それを思い出そうとすると、とても悲しい痛みが、私の心を覆うんだ……』

 

イギリスで月の香りの狩人に襲われた日の夜、マリアが打ち明けた言葉を思い出す。

マリアが嘘をつくような人物ではないと分かってはいたものの、今まで半信半疑だった。月の香りの狩人という非現実的な存在を目にしてまでも、彼女のことを信じきれずにいた。

しかしこの電脳世界が本当にマリアの過去を描いているというのならば、オルコット家に伝わる御伽話は全て真実と言えるのかもしれない。そう考えれば、今自分を取り巻く街の建造物たちが、19世紀のヴィクトリア朝を代表する建築様式だということにも納得できる。確かにイギリスにはこのような建築様式をもたらした歴史があったのだから。

 

 

ギィ……

 

後ろから木の軋むような音が聴こえ、セシリアは振り返る。

振り返った先には古びた民家があり、そこから全身を暗い色のコートで身を包んだ二人の人物が静かに去って行った。フードも被っており顔は伺えなかったが、コートから覗く指先の長く白い手と、小さな幼い手が繋がっている。母親と子……恐らくその関係であろう二人は、しかし民家を振り返ることはなかった。

不意に気になったセシリアは、目の前の古びた民家の扉をゆっくりと開ける。

 

「っ!?」

 

家の中は見るも無惨に荒れ果てており、目の前には男の死体が転がっていた。頭部が血塗れになり、ひどく損傷している。その男を囲むように大量の酒瓶が転がっており、ヒビの入った酒瓶には男のものと思われる血も付着していた。恐らくこの酒瓶で殺されたのだろう。いくら電脳世界とはいえ、背筋が凍る感覚に襲われる。

散らばった酒瓶の他に、ボロボロの籠から転がり落ちた野菜や果物、割れた小さな花瓶、水びたしになりぐったりとした白い花……。

 

(これは……)

 

セシリアは床に落ちた白い花の横にある、綺麗に光る何かを発見した。

手に取りよく見ると、それは小さな髪飾りだった。しかしその髪飾りは手の中で突然バラバラに崩れてしまい、星の欠片となって床に散らばり落ちていく。指と指の隙間から、砂のように星の欠片は消え去っていった。

 

(今の髪飾りは……)

 

思い当たる節があったセシリアは、民家を後にする。外に出て横を見ると、幸いにもまだ遠くの方で先ほどの親子を見つけることができた。

 

(あれは……あの子は、マリアさんなのでしょうか……?)

 

セシリアの直感からくる推測は、次第に大きく心の中で渦巻いていく。

先ほど家から二人が出てきた時も、家の前にいた自分の姿に気づく様子はなかった。恐らく彼女たちには自分の姿が見えていないのだろう。

セシリアは二人を見失わないように、闇夜に染まった街を駆け抜けていく────。

 

 

 

 

 

 

(凄い……一体何なんですの、この立派なお城は……?)

 

セシリアが親子の後を追いかけ、長い時間が経った。

白い月に照らされた街を抜けた後、今度は深い森に入っていったのだ。その深い森は、まるでオルコット家領地内にある森を彷彿とさせた。

とても人が通る道とは思えないような道を、母親と思われる人物はとても慣れた動きで、しかし子どもがしっかりとついていけるような足どりで進んでいったのだ。普通の人間ならばすぐに迷ってしまうほどの荒れ果てた道なりだった。

やがて森を抜け、今に至る。目の前には、雪が降りしきる山に囲まれた、大きな廃城があったのだ。

 

(ここはもしかして……)

 

オルコット家に伝わる御伽話……その中で、オルコット家はかつて『カインハースト一族』と呼ばれていた。

遥か太古の昔、宇宙には強大な支配者である『ゴース』という神がおり、宇宙を支配するゴース、またそれに従属する神々は皆『上位者』と呼ばれていた。『カインハースト一族』とは、その上位者と交わった穢れた血を引く一族のことであった。彼らは古い血縁の先にあり、閉鎖的であり、また豪奢であったが、あるとき忽然と姿を消し、交わりも途絶えたという。

古い貴族たちの城であったカインハーストとは、まさに目の前にあるこの廃城のことなのではないだろうか?セシリアは頭の中で推理する。ともすれば、ここはオルコット家の先祖たちが暮らしていた場所……。

 

城の中に入り、幾つもの広間を抜ける。カインハーストは今のオルコット家の領地とは比べものにならないほど立派な城であったが、一方で今まで見てきたどの貴族のものよりも冷たい世界に感じられた。

 

さらに多くの広間や蔵書だらけの部屋、階段を上り、やがて最上部へと到達した。

城の屋外は荒れた吹雪で視界は悪い。電脳世界のためセシリアは寒さを感じることはなかったが、あまりの雪に思わず腕で顔を隠してしまう。

すると、親子が静かに歩みを止めた。母親は何処か虚空を見つめている。

しかし母親の視線の先には何も無かった。

 

『お母さま、なにもないよ?』

 

娘が横に立つ母親を見上げる。

 

『……そっか。あなたは初めて来たものね』

 

母親は屈んで、娘と目線を同じ高さにした。母親はフードを脱ぎ、そして娘のフードも取り顔をあらわにする。

そして目を閉じ、娘の額に自分の額をくっつけた。

 

『マリア、目を閉じて』

 

母親は、何かまじないのようなものを唱えていた。セシリアもその様子をずっと見守る。

 

(やはりあの子はマリアさん……そしてあの方が、マリアさんのお母様……)

 

 

ふと、セシリアの母親の記憶が(よぎ)った。

()()()()()()()()()()()────。

かつてマリアが言っていた言葉とともに。

 

 

母親がいくつかのまじないを唱えたあと、マリアに目を開けるよう呟く。

すると突然、彼女たちとセシリアの周りを吹雪が吹き荒れた。

マリアは怖がっているのか、その小さな手で必死に母親の手に抱きついている。

 

次第に吹雪が落ち着くと、先ほどまで何も無かった虚空に、城のさらなる最上部が現れた。

人間の目に触れることを避けるその姿は、カインハーストの「閉鎖的」という性格をまさに象徴していた。

 

(城の隠匿を解いた……ということは、やはりあの方は一族の……)

 

母親はマリアの手を握り、幻の最上部へと入っていく。

セシリアもそれについていくと、内部に長い階段が待ち受けていた。

階段の横には、規則的に並び置かれた、馬に乗った騎士兵達の銅像。銅像は城内の薄暗い灯りを微かに反射させていた。

 

(この場所は……)

 

セシリアはどうしてか、以前もこの場所に来たような感覚を憶える。

しかしどれだけ過去を掘り起こしても、そのような記憶は思い浮かばなかった。セシリアの心に、ただはっきりとしない違和感だけが残る。

 

階段を上りきると、そこは広く開いた場所だった。

辺りには乱雑に置かれた西洋風を思わせる人々の石膏像。

床にはいくつもの蝋燭の火と、誰のものかも分からない血が染みついていた。

目の前には二つの椅子があり、女性がただ一人座っていた。女性は鉄の仮面を被っており、その顔を完全に隠していた。

 

(まさか、あの方は……)

 

「不死の女王・アンナリーゼ」──── 頭の中で、その名が思い浮かばれる。

かつてカインハーストの城の中でひっそりと座していた、不死の女王。女王は常に仮面を被っており、その顔を見た者はほとんどいなかったという。しかし女王の金髪は、妖しいほどに美しく保たれていたのだ。金色の髪は、カインハースト一族直系に位置する者たちの象徴でもあった。

 

(あの方が、(わたくし)のご先祖様……?)

 

オルコット家領地内のあの森で、マリアの因縁の相手である月の香りの狩人に出会った時。

月の香りの狩人は、不死の女王に会ったことがあると言っていた。

どういう理由で彼女がアンナリーゼに会えたのかは推測できないが、「狩人」にとっても深い関わりがある場所であることは想像できる。

 

マリアの母親と仮面を被った女性の会話に耳を澄ましていると、やはり彼女はアンナリーゼで間違いないようだった。女王の隣にはもう一つ椅子があったが、一人で座っているのを見る限り、不死という運命は第三者から見ても残酷なものに思われた。しかしある時、女王は忽然と姿を消したという。所詮不死など(まやか)しに過ぎなかったのだ……それが、オルコット家の御伽話で伝えられていた内容である。

 

不意に、女王がこちらを見た気がした。

セシリアがその視線に一瞬肩を震わせるが、気づけば女王はマリアたちに目を向けていた。

 

『この子を匿ってほしい』

 

マリアの母親が女王に伝える。マリアは怯えているのか、母親の背中に隠れていた。

女王はそんなマリアを見て、冷たく嘲る。

 

『私にこの娘の身を保障しろと?』

 

『もうあの家には居られない。この子が()()()()()()()()は、もうここしか無いの』

 

『去れ。破落戸(ならずもの)(そそのか)され我ら一族を離れた者に、此処にいる権利など無い』

 

『世話を見てほしいなんて言わない……ただ、ここに居させてあげて………このままだと、この子まで危ない目に遭ってしまう………』

 

『………』

 

電脳世界の景色が、高速で歪む。

移り変わったその場所は、城内のどこかの部屋。そこにはマリアと、マリアの前で屈む母親の姿。

母親はマリアに、少しだけの別れを告げていた。

マリアは嫌だと駄々をこね、母親に抱きつく。

マリアは母親を離さまいと、必死にその背中に腕を回した。

しかし母親は、何度もマリアに説得した。

これが最後じゃない。

暫くしたらここにまた帰ってくる、と。

それでもマリアは、母親から手を離すのが嫌だと首を振った。

そんなマリアに、母親はとうとう涙を流して、訴えた。

 

『お願いだから……』

 

『お願いだから……私の言うことを聞いて、マリア………』

 

母親の涙を見て、力なく顔を落とすマリア。

 

『すぐ、帰ってくるよね………?』

 

母親が口を開く。

その言葉が聞ける寸前で、電脳世界が再び歪んでいった。

 

 

景色が移り変わった先は、また先ほどと同じ部屋だった。

それが先ほどから数日経っているということは、なぜかすぐに分かった。

部屋で一人足を抱えてベッドの上で座るマリアの元に、扉が開かれる。

部屋の扉を開いたのはアンナリーゼだった。セシリアも彼女の方を見ると、その仮面の中から恐ろしい言葉が放たれた。

 

『──── 母親が殺されたようだ』

 

『!?』

 

マリアが顔を上げる。嘘だと信じたいその表情に、しかし女王はその視線を変えることなく。

 

『それを伝えに来た。ではな』

 

あっさりと、アンナリーゼは部屋を出ようとする。するとマリアは飛び上がり、その小さな身体から出るとは思えぬ声量で、アンナリーゼに刃向かった。

 

『嘘だ!!!』

 

痩せ細ったその手で、アンナリーゼに殴りかかるマリア。

しかしその瞬間、アンナリーゼはマリアに振り返り、その腕を前に突き出す。するとマリアは見えない何かに吹き飛ばされたように、壁に打ちつけられた。

 

『母親から、貴公が出ていこうとした時は止めるよう言伝を預かっていてな……悪いがそうさせてもらうぞ』

 

『出せ!!ここから今すぐ!!!』

 

『……ふん、せいぜい(わめ)くがいい。何度首を振ろうと、事実は変わらぬ』

 

そう言うと、アンナリーゼは部屋を再び閉める。

監禁されたマリアは泣き叫び、その悲痛な姿はセシリアの心を酷く痛めた。

 

さらに電脳世界の時間は経つ。マリアはやがて、自身の母親を殺したのはあの女王ではないかという考えに至ったようだ。

その姿を見ている一方で、セシリアのある記憶が甦った。

それはクラス代表決定戦……初めてセシリアとマリアが対峙した、その後のことだった。

 

『オルコット……私も君に謝りたいことがあるんだ』

 

『私にはかつて、あまり好ましく思わない人物がいた……いや』

 

『あの時……初めてオルコットと話した時、私は無意識に君をその人物と重ねてしまっていた……同時に、()()()()()()()()()()()とも感じていた』

 

『変なことを言ってしまってすまない。とにかく、私は君のことを何も知らずに、オルコットという人物を決めつけてしまっていた。すまなかった』

 

そしてさらに数年の時間が経つ。

監禁はずっと前から解かれていたようだが、マリアは部屋の中でひたすら鍛錬に励んでいた。それは、ただ復讐のためだけに。憎き人物を殺すための力を欲するためだけに。

しかしマリアは今、城からの脱出を図ることのみを考えていたようだ。城の中だけの鍛錬ではたかが知れている。外の世界で力をつけたその先に、女王を殺すことができるはずだと。そんなマリアの背中を見て、セシリアは複雑な気持ちになった。いつも見ていた優しい彼女の姿とは真逆のものだったからだ。

 

電脳世界の景色が歪む。

ついにマリアは部屋の扉を開いた。

幼い頃の彼女とは比べものにならないほどに、どんどん走り抜けていく。セシリアも、彼女の姿を追うことはしなかった。

 

セシリアが女王の間に移動すると、アンナリーゼは窓の外を眺めていた。

セシリアも少し離れた窓から、彼女と同じ方向に目をやる。城のずっと先の地面、城の正門の前で、マリアが一度だけこちらを振り返っていた。

しかししばらくすると、マリアも背中を向け、深い森へと駆け抜けていく。

その背中を隠すように、吹雪が吹き荒れた。

 

 

 

 

 

 

『──── 追わぬのか?』

 

セシリアが驚いた顔で、アンナリーゼを見る。アンナリーゼは、窓の外を見つめていたままだった。

 

(わたくし)が、見えるんですの?」

 

電脳世界に、ほんの一瞬、ノイズが走る。

女王の白い手が、窓に濡れた雪化粧をなぞった。

 

『ああ……僅かに、な。貴公の声もはっきりと聞こえるわけではない。だが、分かる』

 

「……」

 

『貴公も、一族の者なのだろう?』

 

窓についた雪化粧が、女王の指にならって、生き物のように動いていく。

 

『我ら一族の呪いは、時を超えても続く……か』

 

煌びやかな金色の髪がなびく。すると女王の指先の結晶が、魔法のように金色に輝いた。

 

「マリアさんは……彼女も、一族に列した方なのですか?」

 

セシリアは固唾をのむ。しかし女王の口から出てきたのは意外な結果だった。

 

『……あくまで傍系の者だ。血の繋がりであれば、貴公の方が強いだろう』

 

セシリアの中でずっと気がかりだった疑問が、少し晴れた気がした。

マリアと自分が似ている……その推測は、概ね正しかったと言える。つまりマリアと自分は身近ではないが、同じ血を引いた者同士だったということだろう。

ここが電脳世界ゆえなのか、いまいち現実感がわいてこないセシリアだったが、ひとまずこの事実を受け止めることとする。

 

『貴公、名は?』

 

相変わらず窓の外を見つめているアンナリーゼ。

 

「セシリア……セシリア・オルコットですわ」

 

『良い名だ。我らカインハーストは、オルコット家として生き続けているか。現当主は貴公の母親か?』

 

「……いえ、私ですわ」

 

『ほう?』

 

セシリアは少し深い息を吐き、言葉を続ける。

 

「両親は、他界しました。……三年前に」

 

『……そうか』

 

吹雪が強く吹き荒れる。

 

『“不死”とは身勝手なものでな。死と縁が無いような響きだが、我らを取り巻くのは常に“死”だった』

 

「……」

 

『誰もが、やがて老いて死ぬ。どれだけ強くても、賢明であろうとも、……愛した者でさえも』

 

冷たい声音の中に、ほんの少し感じられる温もり。

 

『故に我らカインハースト一族は、死を迎える最期の時まで気高く、誇り高くあることを心している。その生命の残り香は、世界で一番美しいのだ』

 

かつて母から聞いたことがある。

オルコット家の祖先は、常に誇り高く生きることを大切にしていた、と。

その家訓は、その心は、これまでもこれからも、受け継がられていかなければならないのだと。

 

『我ら一族の血を根絶やしにしようと目論む者も多くてな。時を経ると同じく、我もゆっくりと姿を幾度か変えている。そうしてこれまでの時代を生き抜いてきた……だがこの気高き心だけは、決して揺らぐことはない』

 

その声は、いつの間にか自身のよく知るものへと変わっていた。

懐かしい声。親しみのある声。

 

()()()からずっと、求めていた声。

 

女王がその白く細い指先を、自身の鉄の仮面に添える。

指を離した瞬間。

女王の仮面が雪の結晶となって消えていった。

 

消えた仮面からのぞいたその顔を見て、セシリアは目を見開く。

 

『我らがこうして会えたのも、きっと何か意味があるのだろう』

 

女王はこちらを見て、僅かに微笑む。その微笑み方は、あの人が時折見せたものとそっくりだった。

電脳世界に、ほんの一瞬、再びノイズが走る。

 

『我ら一族を守る言葉を授ける』

 

いやだ、別れたくない。

もっと、もっとこの場所で……

 

『貴公に、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

セシリアは咄嗟に、女王に手を延ばす。

 

 

「おか────」

 

パリィン!

 

電脳世界の景色が突然激しく揺れ動く。

稲妻のようなノイズが周囲で幾度となく走り出し、強い吹雪がセシリアを取り囲む。

さらに吹雪にいくつもの小さな羽が飛んでいるのが見えた。

よく目を凝らすと、薄い(はね)にきらきらとした光沢を煌めかせた黒い蝶たちだった。それは瞬きをすれば、()()()()のようにも見えた。

 

BEEP!!BEEP!!

 

対消滅(annihilation)ノ危険性アリ。“Project World Purge”ヲ強制更新シマス』

 

「待って!待ってください!」

 

セシリアの叫びは吹雪に閉じ込められ、女王に届くことはない。

こちらを見ていた女王(システム)は、すでに崩壊(再構築)しかけていた。もはやその姿は吹雪(電子)の中へ溶け込もうとしている。

 

吹雪の向こう側から、大きな黒い影が迫ってきた。

僅かに光るその影は、激しい警笛とフラット音を鳴らしながら、息をする間もなく女王のもとへと迫る。

 

「待っ────!」

 

吹雪から現れたのは大きな列車であり、列車は女王の身体へと激突する。

その瞬間、爆風がセシリアを襲った。

 

セシリアの意識が、白い世界へと包まれる。

 

その真っ白な雪に、黒い翅を溶かしながら……────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




三年前
オルコット家・邸内


絶対にいい音など存在しない。
この世に「絶対」などという言葉はない。


窓から薄暮が差し込む、夕刻。
右手の小指が黒鍵(こっけん)をゆっくりと離れた後、(わたくし)は演奏を続けられなくなった。
まだ序奏だけだというのに、指も心もひどく疲れ切ってしまったように感じる。Coda(終結部)まで演奏していた日々が、遠い昔のように思えた。

コンコンッ

「失礼いたします」

私はその声に返事をすることもなく、ただ最後に触れた♯ソが寂しそうにこちらを待っているのを見て見ぬふりをした。

「お嬢様……」

「入室の許可はしておりませんわ」

心配気な顔でこちらを伺うチェルシーの手には、トレイに乗ったティーポットとカップ、小さなスコーンがあった。アフタヌーンティーのつもりだろうが、そんな頼みをした覚えはない。

「頼んだ覚えはなくてよ?」

「ですが、お嬢様……もう随分長い間ピアノの前に座っておられます。根を詰めすぎては、演奏会に影響が……」

「心配なさらなくて結構。私は疲れてなどおりませんので」

嘘だ。
本当は今すぐ鍵盤を叩きつけたいくらいに、私は苛々し、疲弊していた。
幼い頃から自分を見ている彼女のことだ、恐らく彼女も今の私が嘘を吐いていることなど、一目瞭然だろう。
だが(いち)メイドに胸の内を察されることは、今の私にとって何より腹立たしく感じる。

「業務に戻りなさい。まだ庭園の花の手入れの途中なのでは?」

「ええ、ですがお嬢様のお身体を(いたわ)るのも、我々メイドの務めでございます」

沸々と苛立たしさが募ってくる。気を紛らわすためにピアノの上にあったメトロノームの振り子を動かした。
一定の間隔で刻まれる音は、しかしまだ私の熱を下げることはできないでいた。

「それがあなたの務めならば、放っておいてください」

「……勝手ながら、今のお嬢様のご様子は心配でなりません。無理のしすぎが重なれば、()()()()────」

「無礼者!!」

チェルシーの肩がビクッと震える。ティーポットの中の紅茶が揺れて、トレーに(こぼ)れた。

「再三申したはずです、この部屋から出て行きなさいと!使用人が貴族の娘に、ましてや楽器も持たない者が音楽をしている人間に盾突くなど甚だ烏滸(おこ)がましいですわ」

「た、大変申し訳ございません!お嬢様!」

慌てて頭を深く下げるチェルシーだが、私は声を荒げて睨みつける。

「出て行きなさい!今すぐ!」

「し、失礼いたします!」

慌てて彼女は扉の向こうへ姿を隠した。扉の閉まった音が、鈍く重苦しい余韻を空気に伝わらせる。
鍵盤蓋を閉じ、その黒い地面の上で手のひらを握りしめた。


『しばらくの間、家を空ける』────。
二日前の夕食のことだった。お母様がそう告げてきたのは。
しかも両親が家を空ける期間はおよそ三週間ほどとのことだった。
それを聞いた私は、「何故今なのか」という悲しみが溢れ、何度も予定をずらせないかと尋ねた。
一週間後は生まれて初めてのピアノの演奏会が控えていたのだ。私にとって記念すべき、初の舞台だ。
お母様も私をいつも励ましてくださり、私はその期待に全力で応えられるよう必死に練習を重ねてきた。

『本当にごめんなさい。でも、どうしてもお母さんとお父様で行かなければいけないの。分かってちょうだい』

私は咄嗟に、父を睨みつけた。
肩を(ちぢ)こませ、申し訳なさそうな顔をする、覇気のない父。何故こんな父親にお母様の時間が奪われなければいけないのだ。それに同行するお母様もお母様だ。

『お母様だけでも残ってくださることはできないのですか!?』

『大事な用事なの。たくさんの人が関わっているから、予定を崩すことはできないわ』

『すまない、Cecile(セシル)……』

『お父様には話しておりませんわ!今私はお母様と────』

『っ……』

バンッ!

まだ残っている夕飯を後に、私は晩餐室を出ていった。
自室に入り、鍵を閉め、ベッドに潜り込む。誰の顔も見たくなかった。
ISの登場以降、開発が進んでいく中で、世界は女尊男卑の風潮が強まりつつあった。
私は決して女尊男卑の世界が好ましいとは思えない。だが世界がそんな方向にずるずると引っ張られていくにつれ、父親の態度はより卑屈で臆病なものへと変わっていった。もともと婿入りだったこともあってか、本人もそれを気にしているらしく、家でも外でも堂々とした姿を見られたのは随分昔のことだ。いつしか女尊男卑という言い訳を盾に過ごす父親が嫌いになった。
お母様もそんな父親に痺れを切らしたのか、もう両親が一緒に行動していることは全くなかった。言葉を交わすことさえも。

それなのに、何故このタイミングで。
わざわざ両親二人で行かなければならない用事?三週間も?
確かにお母様はいくつも会社を経営している成功人だ。普段から忙しいというのは見ていて理解しているつもりだ。
しかしどうしても許せない。外から見れば、ただの娘の我儘だと笑われるかもしれない。だが私にとって、これはそんな幼稚な言葉で収められるようなことではないのだ。
毛布を強く握りしめると、不意に目から小さな涙が零れた。それを認めたくなくて、私は顔を枕に押し付ける。

それ以来、両親とは会話を交わしていない。


気づけば夕陽は森の中に隠れ、うっすらと夜の気配が屋敷を蝕み始めていた。
響板から覗く細長い弦たちが、その暗闇に身を染め始めてる。
いつも学校に行っている間に済まされるので会ったことはないが、このピアノには専門の調律師がいるらしい。どの楽器店の何という名前の方か知らされていないのだが、その人の調律の腕は素晴らしく、私がピアノを安心して弾けるのもその方のおかげだと言ってもいいだろう。今の私を見れば、「ピアノの前に座る資格がない」と怒るだろうか。

気が進まないが、もう夕食の時間だ。
明日の朝に両親は出てしまうため、今日がひとまず家族で過ごす最後の夕食になる。

部屋を出る前、チェルシーが置いていった紅茶とスコーンが目に入った。
少しの間その前で立ち止まり、しかし手を伸ばすことなく、部屋を後にする。







結局誰一人として会話を交わすことはなく、黙々と夕食を食べ終わり、早々に部屋に戻った。
時刻は23時。窓から覗く満月も、随分と高い位置にある。この屋敷の消灯はとっくに過ぎており、きっと自分以外の人間は深い眠りについていることだろう。
私はなんだか眠れなくて、ベッドの上でヘッドボードにもたれたまま、ただ夜が過ぎるのを待っていた。
お母様の謝罪が、何度も頭の中で響いては消えていく。チェルシーの申し訳なさそうな顔が反芻される。思い出すものは、どれも私を疲れさせるものばかりだ。
何度か枕に顔を埋めたりするが、一向に瞼は重くならない。毛布の中に潜ったところで、身体が無駄に運動を求めようと訴えかける。
夜中特有の疼きが鬱陶しくなった私は、水を飲んで落ち着こうと部屋を出た。


小さなランタンの中に蝋燭を灯し、部屋を出て、使用人達がよく使う一階の調理場に向かう。
グラスにいっぱいの水を入れて、それを一気に飲み干した。
知らないうちに喉が渇いていたのだろう、身体の隅々に水分が行き届くのが気持ちよく、しばらく目を瞑りその感覚に浸る。この落ち着きのままベッドに潜れば、きっと眠れるだろう。

調理場を離れ、自室に向かう。
自室は二階廊下の一番奥にあり、なるべく足音を立てないよう階段を上がる。
階段を上がり終えると、目の前の部屋の扉の隙間から明かりが漏れていることに気づいた。先ほど来た時はなかったのに……。
その部屋は父の部屋だった。母とは別の部屋で過ごしており、母は中央ホールを挟んで反対側の二階で過ごしているため、こちら側は私と父だけということになる。

普段なら絶対に立ち止まることなく、見過ごしていくはずなのに。
だがその日の夜は無性に気になってしまい、父に気づかれないよう扉の近くまで行く。
耳をすませてみると、父は誰かと電話をしているようだった。夜中で声を小さくしているのか、断片的にしか聴こえない。

『……ああ、そうだ。なんとなくの予感だが……』

『……これが最後の会話になるかもしれない……ふっ、君には少し過ぎた冗談かな?』

『……そう受け取ってもらえるとありがたい……』

『……昔のよしみだ。すまないが、面倒を見てやってくれ……』

『……ありがとう』

ガチャッ

父は受話器を置き、深いため息をついて、こちらに歩いてきた。
私は咄嗟にその場を離れ、自室の方へと向かう。
しかしあと少しのところで父が先に出てきてしまい、私は自室のそばにある窓で外を眺めている振りをとった。
父も当然こちらに気づき、小さく声をかけてくる。

Cecile(セシル)、どうしたんだい?こんな夜更けに……」

「……お父様こそ」

私は変わらず窓の外に広がる深い森を眺める。父はどんな顔をしているのだろう。

「父さんは案外夜型でね……ここの消灯時間は、私にとっては早いんだ」

気まずそうなのか、照れ臭そうなのか、そんな声。

「君は?」

「……私も、その……眠れませんの」

深い森が小さく揺らめく。静かな夜風が吹いたようだ。
しばらくの沈黙が流れると、再び父が小さな声で謝りだした。

「すまない、Cecile(セシル)……急に家を空けることになってしまって……」

「……もう気にしておりませんわ。仕方のないことですもの」

「……すまない」

弱々しい父の声。
この名前のない時間はいつ終わりを迎えるのだろうか。私が何度か淡白な応答をすれば大体父は引き下がるのだが、今夜に限って父はまだそこにいる。
すると突然、父が思いもよらぬ言葉を発した。

Cecile(セシル)、その……」

「……」

「父さんに、演奏(ピアノ)を聴かせてもらえないだろうか……?」

「……え?」

父の頼みに、私は振り向く。

「ずっと前から必死に練習してきた君を裏切るようなことになってしまった。親として、到底許されるとは思っていない……今更虫がいいと言われるのも当然だ。だが、それを承知の上で……君の演奏を聴きたい」

父が頭を下げる。
まさかそんな頼みをされるとは思ってもいなかったので、私は沈黙と困惑を噛み締める。
普段なら話も取り合わないだろう。しかしなぜかこの夜は、誰かに演奏を聴いてもらえるということに無性に喜びを感じていた。時間が経って、幾分か冷静になっていたのだろうか。
しばらく考えた後、私は口を開く。

「……分かりましたわ」


部屋に入り父に椅子を勧めると、「ありがとう」と言って静かに座った。
鍵盤蓋を開く。自室の大きな窓からは月光が差し込み、ちょうど譜面台と鍵盤を照らしてくれていた。きっと『月光・第一楽章』はこんな夜に作られたのかもしれないと頭を過ぎったが、私が演奏会で弾くのはベートーヴェンではない。

譜面台に楽譜を開き、座る位置を整える。
もう夜も更けているため、ソフトペダルを踏み込もうとしたが、父がそれを制した。

「気にしなくていい。君のありのままの演奏を聴かせてくれ」

そう言われて、私もペダルを踏み込むのをやめた。
深く息を吐き、小さく呟く。

「────『Chopin(ショパン) - Nocturne No.20 in C sharp minor, Op. posth(夜想曲第20番 嬰ハ短調 遺作)』です」

黒と白の鍵盤にゆっくりと両手を乗せ、弾き始めた。
序奏は“p(ピアノ)”から始まり、ゆるやかに、夜を纏う湖にゆっくりと足先を入れるように。その後の“pp(ピアニッシモ)”で奏でられる音が、全身を包んでいく。
三部構成で描かれるこの夜想曲(ノクターン)は、悲しさを思わせるメロディから始まる。
分散和音による左手の伴奏、右手で奏でる旋律。この曲で特徴的な“trill(トリル)”も、滑らかに奏でることができている。弾き始めた当時は、この厄介な記号に随分と悩まされてきた。
中間部では少し明るさを纏わせたメロディに変わる。冒頭とは違う顔を見せる一面も、私がこの曲を好む理由だ。
後半は前半と同じメロディかと思いきや、その旋律は一気に緊張を高め、やがて頂点に達する。

父は何故、あれほどまでに何度も、私の演奏を聴きたいと願ったのだろう。
あの時、父は電話越しに誰と話していたのだろうか?
()()()()()』……いや、所詮私の勝手な妄想だ。誰しも頭の中でならどんな人物でも殺めることができる。学校の友人も、幼い頃からのメイドも、……愛すべき母でさえも。
父が私のピアノをこうしてそばで聴くことなど一度もなかった。それは娘に対する気不味さから始まったものだったかもしれないが、時が経つにつれ、もう父は私のことなど興味も持っていないのではないかと考えるようになった。
父は私を避けていた……いや、避けていたのは私の方ではないか?
幼い頃、自分で始めたいと両親に願ったピアノは大人になるにつれ、楽しみから父を避けるための言い訳になっていたかもしれない。
ピアノは楽しい……それは偽りもない事実だ。だがそれ以上に最近は苦しみを感じ、ピアノはいつしか私を縛りつけ、黒と白の鍵盤の上で囚われた私を殺めていた。
それなのに、苦しいはずなのに。
父に演奏を聴いてもらえている今の私は、恐ろしいほどに楽しく演奏している。
まるで嘘のように、だがしっかりとした実感を指先で味わいながら、鍵盤の上で心が踊っている。

気づけば私は、笑みを隠せないでいた。


演奏が終わり、私は最後まで音の余韻に浸りながら、ゆっくりと鍵盤から指先を離した。
ゆっくりと、父の方へ顔を向ける。
すると父は、今の私を包み込むような温かい微笑みを向けていた。幼い頃、よく父が見せていた笑顔だった。

「──── 素晴らしい演奏だったよ、Cecile(セシル)。私の人生の中で最も美しい音色だった」

「そんな……大げさですわ」

「嘘じゃない、本当にそう感じだんだ。『Lento con gran espressione(ゆっくりととても表情豊かに)』……君はこの音楽を見事に体現し、演奏しきった。とても誇らしいよ」

「……ありがとうございます。このピアノには専門の調律師の方がおられるのでしょう?いつも私の学校の間にお越しになるようですから会えていませんが、いつかお目にかかりたいですわ。私が満足して演奏できるのも、きっとその方のお陰ですから」

「……そうか」

父はどうしてか、ほんの少し、顔を俯かせた。
その時の父の感情は、今でも分からないままだ。







翌朝。
朝食を終わらせるやいなや、両親は慌ただしい様子でそれぞれ部屋で荷物を整理していた。
自室にいた私も、少し離れた父の部屋から物音が聴こえてくる。
慌ただしい物音をよそに、窓を開けると外は快晴だった。しばらく外を眺めていると遠くの方から迎えの車が来た。車は門の前で止まり、その様子を見下ろしていると、チェルシーが迎えの者と世間話を始める。私も中央ホールに向かうことにした。
中央ホールにはすでに複数人の召使いたちが両親の荷物を持って待機しており、まもなくして両親も部屋から出てきた。
召使いたちは迎えの車のトランクに次々と荷物を運んでいく。迎えの者と話を終えたチェルシーも私の横に来た。
両親が私とチェルシーに向き直る。

「では、そろそろ行ってきます。ごめんなさいね、セシリア。帰ってきたら真っ先にあなたの演奏を聴かせてちょうだい」

「ええ……お待ちしておりますわ。お気をつけて」

「チェルシー、娘のことはしばらく貴女に任せるわ。何かあったらいつでも連絡なさい」

「かしこまりました、奥様。お気をつけて行ってらっしゃいませ」

私は笑顔を浮かべることもなく、淡々とお母様にしばしの別れを告げる。私よりも背の高いお母様は、私の額に優しくキスをする。そして小さな声で、幼い頃から聞いていたお守りの言葉を囁いた。

「──── ()()()()()()()()()()()()()()()()()

お母様は先に車へと向かう。
残された父と対面する私。私が何を言うべきか言葉を探しあぐねていると、先に父が口を開いた。

「……Cecile(セシル)、昨日の演奏は素晴らしかったよ。ありがとう」

「いえ、そんな……」

すると父は一息置いて、ふと私に尋ねた。

「────Cecile(セシル)、君は『()()』という言葉をどう思う?」

「才能……ですか」

私はしばらく考えた末、結局上手い答えが出ず、逆に聞き返してしまった。

「どうしてそのようなことを?」

父は顎をさすり、口を開く。

「君はそう遠くない未来、その言葉にぶつかる日が来る。その時、君は深く頭を抱えることになるだろう」

「……」

「君に覚えていてほしいのは、()()()()()()など存在しないということだ。この世に『絶対』などという言葉はない。あるのは相対的な音だけだ」

「相対的な音…?」

「ああ。その音を見つけるにはきっと何年も何十年も……いや、見つけられずにこの世を去る人間もいる。それがピアノという世界だ。そして誰しもが思う、『自分には才能がないのではないか』と」

「……では、一体どうすれば?」

反射的に私は聞き返してしまう。すると父は何故か誇らしげに笑った。

「それは次に会う時のお楽しみだ」

「な!ずるいですわ……」

優しく笑う父に、私は問いかける。

「お父様は、見つけたのですか?」

父はこれまでの人生で楽器に触れたことがあるのだろうか?
父が口を開いたその瞬間、車から聞こえた声によって遮られた。

「貴方、そろそろ時間です。あまり長話は……」

「ああ、分かった」

お母様の言葉に、父はすぐ行くと返す。結局答えは聞けなかった。

「ピアノを弾く人間ならみんな分かってるとは思うが、彼らはひとりなんだ。弾き始めたら、結局はひとりなんだ」

「ひとり……」

「だからこそ、そのひとりを全力で支える人間もいる。君の周りにも。そして君自身も、ひとりになった誰かを支える日が来るだろう。いつか君にそんな人ができた日は、私たちに紹介してくれ」

父はハットを被り、別れの挨拶をした。

「それでは、Cecile(セシル)。元気で過ごしなさい」

そのまま背を翻し、車へと乗り込む。
二人を乗せた車は出発し、私はその姿が見えなくなるまで見送っていた。
小さくなった車から目を離さないまま、私は横にいるチェルシーに声をかけた。

「チェルシー、昨日は申し訳ありませんでした」

すると彼女は驚いた顔をしてこちらを見た。

「いえ、謝罪をいただくなんて……。お嬢様がお気になさることは全くございません」

「それでも、ですわ」

お父様の言葉が、私の頭の中でずっと繰り返されていた。







両親が出て一時間が経った頃。
快晴だった空は急に曇り始め、なんとイギリス南部でその年初めての雪を観測した。
ロンドンで雪が降ることは珍しく、しかもまだ秋だということで、テレビでは異常気象だと報道された。
私は自室で楽譜を見ながらピアノを弾いており、そんな私にチェルシーが温かい紅茶を淹れてくれた。
やはりチェルシーの淹れた紅茶はとても美味しく、指先まで温まる気がした。







両親が出ておよそ三時間後。
突然屋敷中の電気が落ちた。どうやら停電らしく、部屋に入ってきたチェルシーからも復旧作業中だと伝えられた。この屋敷で停電になるのは生まれて数回ほどだったので非常に珍しい出来事だった。
何気なく部屋のラジオをつけると、どうやらイギリス中の多くの場所で一時的に大停電が起きているようだった。住宅だけではなく、街中の交通網にも大きく影響が出ているらしい。
ラジオのキャスターが、決して慌てることのないようスピーカーを通して話していた。
まだ原因は確認されておらず、復旧の目処は立っていないということだった。
だが私は特に慌てることなく、窓から差し込む曇り空の光でピアノを弾き続ける。







両親が出て四時間後。
再び淹れた紅茶を飲んでいると、血相を変えたチェルシーがノックも忘れて部屋に入ってきた。

「お嬢様!!」

驚く私と対照的に、肩で息をするチェルシー。その顔は蒼白で、私も思わず心配をする。

「ど、どうしたんですの?そんなに慌て────」

「旦那様と奥様の乗った列車が……!」


その先の言葉を聞いた私の指から、紅茶のカップが落ちた。







一週間後。
私とチェルシーは両親の墓石の前に立っていた。
雨の降る空の下、チェルシーは私の横で傘を差して立つ。トークハットに、少しの雨粒がついた。
私たちの周りでは、あまり顔を合わせたことのない親族たちが泣いていた。
墓石に置かれたユリとカーネーションの花束。
両親はこの花々に囲まれることも叶わなかった。娘と対面することさえも。

イギリスと大陸ヨーロッパを繋ぐ国際列車ユーロスターに乗っていたらしい両親は、あっさりと帰らぬ人となった。
両親の乗っていた列車は、アシュフォードを過ぎたあたりの森林地で脱線したとニュースが流れた。
脱線の原因は、その日発生した大停電によるものだった。イギリス国内のみならず、世界各地で謎の大停電が発生。幸いにも数日で電力は復旧したが、各国でインフラや交通網に甚大な被害を与えたという。
大停電による列車の制御不能。さらには大雪によるホワイトアウトで、目の前の線路も見えない状況だったという説も出ている。
死傷者が100人を超える、歴史的鉄道事故。
多くの人間が黒焦げとなって発見されたなか、両親の遺体はどこを探しても見つからなかった。
私とチェルシーもすぐに現地へ向かったが、警察や救助隊の協力もむなしく終わった。
「行方不明」という線は、ないと言うに等しい。
考えたくもないことだが、もう元の姿を留めていないだろう。

「うっ……」

私の横に立つチェルシーが小さくすすり泣いている。
涙も込み上げない私は、ただ真っ直ぐに、両親の名が刻まれた墓石を見ていた。
出席者たち全員が花束を置き終わり、祈りの言葉が捧げられる。
その場でのしきたりがひとまず終わり、出席者たちが場所を移動する中、私は最後までその場に留まっていた。
人生というものは、流されることを受け入れる連続だ。あらゆる人間に、出来事に、環境に、感情に、世界の赴くままに流されていかなければならない。
私は、このまま流されていくべきなのだろうか。それともここに留まるべきなのだろうか。
チェルシーの傘を抜け、私は暮石のそばまで近寄る。そこにはいないはずの両親を見下ろす。
雨に濡れた私の髪は、母親から受け継いだ形見だ。

「──── チェルシー」

涙を浮かべる彼女が、顔を上げてこちらを見る。私は暮石に視線を移し、彼女に告げた。

「私は、この家を……オルコット家の名を守ります。貴女のことも。何があっても──── 」

「お嬢様……」


雨はずっと、冷たいままだった。







両親が亡くなってから、あっという間に時間が過ぎた。
手元には、両親の遺した莫大な遺産だけが残った。
私の思っていた通り、両親が亡くなってから親族たちは皆人間が変わったように私に接しはじめた。
皮肉にもオルコット家の遺産がいかに莫大なものか、一人になってからようやく気づかされた。
現当主の私を見る親族たちの目は皆、欲に塗れた獣のような目をしていた。
あらゆる隙を見つけようとする親族や周囲の権力者からオルコット家を守るために、私は寝る間も惜しんで勉強をした。オルコット家を守るためにはなんでもしてきた。
チェルシーは毎日のように私に休むよう伝えてきたが、紅茶を飲む時間すら私は惜しくなっていた。
崖の端にようやく立てている極限状態の中、勉強の途中で気絶に陥ることもあった。

この時の私は、今思えば病んでいた。

だが、それが現当主として背負うべき重責だと感じていた。



遺産を守る一環で受けたIS適性テストで、A+の判定が出た。
政府から国籍保持のために様々な好条件が出された。
両親の遺産を守るため、即断した。

ある日、テスト操縦を行うためにイギリスIS研究機関へと初めて赴いた。
私を迎えたのは、ショートカットの茶髪で切れ長の目をした、白衣を身に纏う女性だった。
名前はエマというらしい。私よりも少し背の高い、気さくな女性だった。
彼女は私に会うやいなや、私をそっと優しく抱きしめた。

「ご挨拶が遅れてごめんなさい。あなたのご両親のこと、とても残念に思っているわ……」

背中に感じる彼女の指先に、なぜか父の記憶を思い起こした。

「学生時代、あなたのお父様にはお世話になったの」

「私のお父様に……?」

「お父様の過去を聞いたことは?」

「いえ、その……そういった話をしたことはありませんでしたわ」

「そう…」とエマは呟き、私からそっと腕を話す。
優しい瞳で、彼女は話し始めた。

「今はこうして科学者をしているけど、私、昔は()()()()調()()()を目指していたの」

「それが、父と何の関係が?」

「────当時、私はあなたのお父様の弟子だった」

私は驚きで目を見開く。
弟子?父は音楽の道を辿っていたのか?
父がそんな話をしたことなど一度もなかった。
そんな私の表情を見て、エマは彼女なりに察したようだ。

「そう……お父様、あなたにピアノをしていたこと、伝えていなかったのね。彼は非常に優秀な調律師だったわ。何人もの一流ピアニストから声がかけられるほどに」

「父が……」

「あの人の調律したピアノの音を聴いてね、私の腕を上げるためには彼しかいないと思ったの。それを伝えて頭を下げるとね、優しく笑って私を戒めたの。『私はそんな浅ましい人を弟子にしたくはありません』ってね。きっと彼は私に、彼以外のいろんな人の腕を見て聴いて、感じてほしかったんだと思う。もっと色んな世界を見てほしかったんだと思う」

「……」

「そこから二年ほど、私は色んな国に行ってあらゆる音楽に触れた。そしてそれを経験した上で、もう一度彼へ弟子入りしたいとお願いしたの。彼の織りなす音が一番だと思っていた二年前とは違って、私は音に優劣なんてないと学んだ。それでも私は彼の技術を、信念を学びたいとお願いしたら、意外にあっさり頷いてくれてね」

エマは過去を思い出し、優しく笑う。

「でも彼のそばで勉強をしていく中で、私にはもう一つ目標ができた。当時私は大学で宇宙工学を専攻していたんだけど、篠ノ之束博士が発表した『IS』に携わりたいと思い始めてね。音楽と宇宙技術……どちらの道で生きていくかを長い間考えて、私は後者を選んだ。あなたのお父様に必死に謝ってそれを伝えると、彼は喜んでくれたの。『君の行きたい道を行きなさい』とね。私の身勝手なわがままを、彼は怒るどころか応援してくれた」

「……」

「彼から学んできた音楽に対する姿勢は、私のISへの研究に大きく繋がったわ。だから彼は私の人生の恩師なの。ある時突然、彼は『調律師をやめる』と連絡してきてね……その理由は最後まで分からなかったわ」

いつも私のピアノを調律していたのは、父だったのだろうか?
今となっては、もうそれを確認することもできない。

「────あなたのお父様から電話を受けていたの。あなたが私のもとに来た時は、()()()()()()()()()()、とね……」




事前に受けたIS適正テストでA+の判定が出ていたにも関わらず、私はその後大きな壁に当たることになる。

装備時の、原因不明のIS損傷────。

何度ISを装備しても、たちまち機体が変形・損傷を起こすのだ。
身体検査を何度も繰り返したが、原因が分かることはなかった。
考えられるあらゆる対抗策を、私はなんでも実践した。だが、ある時不意に足が立ち止まった。

「自分には才能がないのではないか?」

ふと思いついたその疑念は、たちまち大きな渦となり、私の心を蝕み始めた。
何をやっても報われない。
周囲の期待に応えられない私に価値はあるのだろうか?

そんなある日、私は自室のピアノに久々に触れた。
そこで甦ったのは、あの夜の父との記憶。

そうだ。才能がなければ、それを別の何かに置き換えればいい。
経験や、訓練や、努力や、知恵、機転、根気……私にはまだそれらをする義務がある。弱音を言っていられる暇はない。才能があるから生きていくんじゃない。そんなもの、あったって、なくたって、生きていくしかないのだ。あるのかないのかわからない、そんなものに振り回されるのはごめんだ。もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。


絶対にいい音など存在しない。
この世に「絶対」などという言葉はない。


ISのコアの仕組みは篠ノ之束博士しか分からないブラックボックスであり、世界はたった一つのコアに翻弄されていた。
父の考えていたことも、娘の私には今も分からない。


さらに訓練を積んでいたある日、エマの作り上げた蒼い雫(ブルー・ティアーズ)は損傷を何一つ起こすことなく私に最適化された。
エマは涙を流し「おめでとう」と言ってくれたが、私にとっては全てエマのお陰だった。
その甲斐あって、まもなく私は第三世代装備ブルー・ティアーズの第一次運用試験者として選抜された。
政府から、稼働データと戦闘経験値を得るために日本のIS学園に入学するよう進言された。
イギリスの代表候補生として選ばれた途端、あれほど私を憎んでいた親族たちは、手のひらを返したように媚びへつらうようになった。
女に媚びへつらう男。
女尊男卑社会に胡座をかき、力もないのに強くなった気でいる女。
そんな愚かな人間たちに、私は絶望した。
そんな人間たちの姿は、見直しかけていた父の記憶をあっさりと塗り替えてしまい、母の顔色ばかり伺う父の姿を想起させた。
私の中の父の記憶は、再び複雑なものへと変わった。

ある日、エマから信じられない一言が告げられた。
『あなたともう一人、機体の製作を請け負うことになった』と。
聞いてみれば、その人物は学園内で気絶状態で発見された女性だという。
その女性のIS適正は『S』────それはブリュンヒルデの織斑千冬や他のヴァルキリーのレベルだ。
しかしISについて何も知らないらしく、それは少し前に発見された世界初の男性IS操縦者である織斑一夏を想起させた。
私は彼を憎んでいた。努力も何もしてこなかった者が、なんの障壁もなしに力を手にすることの傲慢さが許せなかった。それは()()()と呼ばれた女性に対しても同じだった。
自分がしてきたことが無駄だったと言われたような気がして、身がすくむような思いをした。
それを聞かされた私は、その日エマと会話をすることなく研究所を後にした。
イギリスを出るまで、エマと直接会う気分にはなれなかった。


出発日、チェルシーが私を空港まで送り届けてくれた。
車を降り、私は荷物を持つ。

「お嬢様……」

彼女は心配そうな顔で私を見つめる。
学園で待っている憎い人物たちのことを考えるたびに、私の心は荒んでいった。この先起こるであろう学園での日常に、私は辟易としていた。

「チェルシー、家のことは任せますわ」

「は、はい。その、お嬢様……」

「なんですの?」

私の声に、彼女は少し怯えたようにも見えた。

「いえ、その……学園で良き日々を送れますよう、陰ながら応援しています」

「……」

私は答える言葉も見つけられず、小さく彼女に手を振って、搭乗口へと向かった。

窓越しに映った彼女の顔は、今でも忘れられない。



├─────────┤

『血の穢れ』

カインハーストの血族、血の狩人たちが
人の死血の中に見出すという、おぞましいもの。

血の遺志の中毒者、すなわち狩人こそが、宿す確率が高いという。

故に彼らは狩人を狩り、女王アンナリーゼは捧げられた「穢れ」を啜るだろう。
血族の悲願、血の赤子をその手に抱くために。

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