狩人の夜明け   作:葉影

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一部、心無い表現と思われる描写がありますが、あくまで創作の話として捉えていただければ幸いです。


追憶 -Ⅱ.凰鈴音:『家族/無限』

『聖堂街の上層は、古い教会の指導者たちの住まいです。あなたが血の救いを求め、そして許されるのであれば、訪れるのもよいと思いますよ────』

 

 

 

 

 

 

約150年前

古都ヤーナム・聖堂街上層

 

 

「だれ……?」

 

誰かが今、囁いたような……。

鈴が目を開けると、そこはある階段の前だった。周囲には古びた棺桶が朽ち捨てられ、それを見下ろすように背中を丸めた気味の悪い人間の石像が不規則に並んでいる。見上げると、階段の先には大きな建物があった。

 

(何かの聖堂……?こんな立派な建物、見たことないけど……)

 

代表候補生はISの知識を深める以前に、他国の情勢や文化など、あらゆる背景を頭に入れておかなければならない。しかし鈴は今まで他国についての勉強をしてきた中で、このような大聖堂を持つ国があることを知らなかった。ある意味で現代離れしたその景観の様子に、鈴は首を傾げる。

 

(マリアの過去に侵入するとは聞いたけど、本人の気配はしない……。本当にマリアの記憶の中?それとも、それに関係した()()()()()に飛ばされた可能性も……)

 

周囲を見渡すが、他の専用機持ちの姿はない。恐らく、ここにいるのは自分一人のようだ。

空は禍々しい青紫の雲に覆われており、それが鈴の膝をわずかに震わせる。

 

「……とにかく、先へ進まないと」

 

階段をゆっくりと上っていくうちに、自分のいる場所が随分と標高の高い場所だということがわかる。

街はかなり下のほうにあり、その光景は鈴に大きな違和感を覚えさせた。

 

(車も人も何もない……街の交通網も存在しているようには見えないわね……まるで昔の世界みたい)

 

階段を上りきると、閉じられた大きな鉄の門が立ちはだかった。

 

「ひっ!?」

 

鈴の背筋がたちまち凍りつく。

階段を上った先に出くわしたのは、なんとも気味の悪い、目のような渦を頭部に四つほど持った、足のない小さな怪物たちだった。その小ささは、まるで何かの幼子を彷彿とさせる。幼子たちは、鈴の姿に気づいていない様子だった。

 

(なんなのよこれ!?動物とも思えない……こんな生き物が存在しているなんて聞いたことない!)

 

幼子たちはゆっくりと地面を這い、どこか別の方向へと進んでいるようだった。鈴はひとまず幼子たちを後にし、正面の門のそばへと近寄る。

門の内側には円形の広場があり、その奥には閉じられた建物の扉があった。

 

(あれは……)

 

見たこともない国のはずなのに、鈴はなぜか、その建物の意味を本能で理解した。

これは、()()()だ。

自分を生んだ者に捨てられ、何者にもなれない赤子たちが寄り添える、最後の居場所。

門の鉄柵を握っていた鈴の手が、次第に強くなっていく。脳裏に、あの日の夜が過ぎ去っていく。

 

『大丈夫だよ、鈴。寂しくなるけど、俺も頑張るからさ。鈴もきっと大丈夫だ……────』

 

(────!)

 

はっとして、目の焦点を合わせる。鉄柵の先に、()はいなかった。

今度こそはこの直線の向こうへ行けると思ったのに。

肩を落とし、ため息をつく。すると、視界に一匹の黒い蝶が現れた。

黒い蝶はその(はね)をきらきらと煌めかせて、後ろの方へと飛んでいく。

鈴がその後ろをついていくと、先ほどの幼子たちが集まっている場所に来た。

幼子たちは何かを見上げており、鈴もその方向を見てみると、青紫の雲の空にどっぷりと浸かった赤い月が上っていた。

 

(確か臨海学校の福音の時も、こんな赤い月が……────)

 

月を見上げる幼子たち。人間と外見がまるで違うためその表情は伺えないが、月を見上げるその視線は熱烈なものにも見え、悲嘆のようにもみえた。

 

黒い蝶が、さらに光沢を瞬かせる。

 

ああ、そうだ。

 

私もかつては、この子たちのように見捨てられていた日があった。

 

いや、本当はそうではなかったかもしれない。でも、当時の私にはそう捉えることしかできなかった。それでも私は、家族を愛していた。

 

何者にもなれなかった私は、ただこの子たちのように、空を見上げるしかなかった。

 

夜空に浮かぶ月だけが、私を温かく抱擁してくれる……────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




二年前
鈴・実家
転校十日前の夜


『────!!』

向こうの部屋から、机を大きく叩く物音が響き渡る。
暗い部屋の中で勉強机に向かってる私は、一向に今日の宿題が捗らなかった。数学の参考書に書いてある方程式が、まるでボールが隣の放物線から転がり落ちるように、私の目から滑り落ちていく。

『中国に帰国する』。
一ヶ月前、そう伝えてきた両親の顔は、ひどく怒り、疲れているものに見えた。
あまりにも突然だった。
理由は両親の離婚のためと言い渡されたが、それ以上深く聞くことはできなかった。

『どうして先のことを何も考えてないの!?光熱費とガス代も満足に返せる余裕がないのに……いい加減現実を見てよ!』

ほんの半年前までは、和気藹々とした家庭だった。
実家は中華食堂を営んでいて、部活が終わり、学校から帰れば夕食を食べにくる顔なじみのお客さんたちがいつもにこやかに挨拶をしてくれる。
「鈴ちゃん」と皆から元気に話しかけてくれるのが楽しみで、私の日課になっていた。厨房で忙しい父や注文を聞くためにせっせと歩く母も、そんな光景を見て笑ってくれていた。

『女が男の事情に口を出すな!大体お前がいつも発注していた食材が高すぎたんだろう!』

半年前、中国で新型ウイルスの感染症が突如発現し、それがどんどんと規模を広げた。
日本に関しても例外ではなく、新型ウイルスの蔓延はとどまることなく、やがて世界的大流行(パンデミック)となった。
国と国、街と街、そして人と人は分断され、互いに孤立した日常を送る。世界のあり方は一変し、その魔の手は実家の中華食堂にも及んだ。

『よく言うわね!世間の状況を無視して高い調理設備を買ったのは誰よ!?私は今買うときじゃないってあれほど言ったのに……それに訳のわからない宗教なんかにまで手を出して……!』

客足は一気に途絶え、店を続けることも困難になり、ついに店を閉めることを余儀なくされた。
お金の問題もあるが、新型ウイルスが発現したのが中国というのもあり、私たち中国人は近所からかなり冷たい視線を向けられた。幸い学校のクラスではいじめなどは起きなかったが、それでも他クラスからの一部差別的な視線は少なからずあったように思う。

『観音大士を馬鹿にするな!このお布施も、店を続けるためにやってたんだぞ!それに、鈴音のためを思ってだ!』

『そんなことであの子が治るわけないじゃない!』

『黙れ!高い治療薬を毎月買うよりも余程良いに決まってる!』

呼吸が上ずってくる感覚。
だめだ、動悸が収まらない。ああ、眩暈もしてきた。
こういう時は深呼吸だと、先生に教わった。
視界を漂ういくつもの放物線が揺らめくなかで、先生がお母さんに小声で話していたことを思い出す。

『────ええ、娘さんは恐らく……そうですね。精神面に少し問題が……』

『症状とお話を聞くに……パニック障害の一種かと……』

『学校は……ええ、様子を見てください……基本的に自宅療養を勧めますが……そうですね……外出を制限することも必要になってくる病気ですので……』

銀紙から安定剤を取り出し、コップに入った水で身体に流し込む。そして机に突っ伏し、向こうから聞こえる怒号をなるべく聞かず、机の上にある時計の音に耳を澄ませるようにした。

カチッ、カチッ、カチッ……

『金は俺がなんとかする。何度も言うが、男の事情に口を出すな』

カチッ、カチッ、カチッ……

『男……なにが男よ?あなたのどこが男らしい?』

『店を閉めた途端家に(こも)りきりで、転校の手続きも帰国するためにやらないといけないことも、全部私に任せっきりで……私は少しでもお金を稼ぐために短期間の派遣も────』

バンッ!!

『うるさいな!もういいよ!』

『目を覚ましてよ!こんな大変な時にお布施だなんて……いっそ食費に全部充てればいいじゃない!』

カチッカチッカチッカチッ……

『何を言っている!観音大士のご加護無くして、鈴音の病気が治ると思うか!?黙ってろ!』

カチカチカチカチカチカチ

『分かったわ!じゃあ観音様にお金を全部あげて!国に帰ってもあの子と私は貧乏に暮らせば良いのよね!』

問い四放物線mと直線nが点Aと点Bで交わっているAが(-4,-2)切片(0,-6)のときBの

『私が生活費のためにお母さんからいくら貰ってきたか知ってる!?それがどれだけ情けないことか分かる!?』

点Aと点Bが交わらない。点Aと点Bは交わらない。

『情けないだと?鈴音が()()()()()()()のもお前の教育が行き届いてなかったせいじゃないのか!?自分の情けなさを棚に上げてよくそんな大口が叩けるな!近所に知れ渡らないように俺がどれだけ苦労したかも知らないくせに!』

『苦労ですって!?何もしていないあなたに險?繧上l縺溘¥縺ェ縺?o?√≠縺ェ縺溘′豬ェ雋サ縺励◆縺帙>縺ァ縺ゅ?蟄舌′讌ス縺励∩縺ォ縺励※縺?◆譛?蠕後?譌?。後b蜈ィ驛ィ縺ェ縺上↑縺」縺溘▲縺ヲ縺?≧縺ョ縺ォ?』

『縺?縺」縺溘i縺昴?豢セ驕」縺ィ繧?i縺ァ遞シ縺?□驥代〒莠御ココ縺ァ陦後▲縺ヲ縺上l縺ー……』

カチッ……────


















両親に気づかれないように、家を出た。
もうすぐで春になろうとする今の時期も、夜はまだ寒い。
転校までまだ十日あるが、先生から外には出ず自宅で安静にするよう言われているので、もう学校に行くことはない。
一夏とももう一度くらい会いたかったが、放課後での会話が最後となってしまった。もう彼と会える日は大人になるまで願うことはできないだろう。

雨上がりに取り残された水溜りが、私の足を中心に波紋を広げる。
水面に映った月が不規則に歪む。
ふと、以前図書館で何気なく目に入った「無限集合論」の本の内容が頭に浮かんだ。
要素の個数が無限である集合……線上のすべての点の集合……平面上のすべての点の集合……。水溜りという有限な世界の中で、無限の夜空が広がっている。
図書館の隅でその本を読んでいた私が漠然と抱いたのは、「死」への恐怖だった。生は有限であるのに対し、死は限りなく続く、という恐怖。

父のお布施には、もう一つ捧げるものがあった。
観音様の手のひらに、自身の血を捧げる。おかげで父の手の傷は日に日に増していった。料理では全く怪我をしていなかった父の手は、見ているだけで痛々しいほどに変わっていた。「血の救いだ」と、夜中暗い部屋の中で父が呟いていたように思う。母はそんな父を、ひどく気味悪がっていた。




歩いていると、公園に着いた。
一夏とも家はそれほど遠くなく、小学生の頃はここで二人でよく放課後に遊んでいた。今日限りで、もうここへ来ることもないだろう。そう考えると寂しくなってくるが、今の私は私のことをどこか冷静に見ていた。

ブランコに腰掛ける。微弱な揺れとともに、寂しい金属音の擦る音が小さく響き渡る。

『鈴音……その、よく聞いてね。中国に帰ったら、鈴はお母さんと暮らすの。もうお父さんには会えないわ』

そうなんだ。びっくりしたけど、お父さんとお母さんがそう決めたなら。

『突然ですが、凰さんが転校することになりました。今すぐ転校するというわけではないのですが、色々事情があり、学校に来られるのはあと数日間だけです。それでは凰さん、何か皆に一言を』

みんな、ごめんね。

『ねぇ、聞いた?○×組のあの子、転校するんだって』

『そうなの?でもあのウイルスって中国からよね。いなくなってくれて安心だわ』

そうだよね。私はいらない子だもん。

『この大変な時に病気だと?お前は一体何をやってたんだ!』

『私だって大変だったのよ!毎日派遣から帰って夜中に鈴音のお弁当も作ってたのに、あなたは何も……!』

ごめんね。私のせいで、お父さんもお母さんも大変な思いをしてたんだよね。

私なんて、いない方が幸せだよね。

















気づけば、涙が止めどなく溢れていた。
胸の内の感情が抑えられない。涙とともに、震える声が口から漏れていく。
ただ誰かに、そばにいてほしかった。ずっとこのまま孤独になっていくのが怖くて仕方がなかった。
明日を夢見ることもできないこんな日々は、私にとってあまりに重く、抱えきることができなかった。

ブランコで一人小さく泣いていると、目の前にすっとハンカチが差し出された。

「鈴」

顔を上げると、そこには一夏が立っていた。

「一夏……」

涙で彼が歪む。
彼を見た途端、またさらに涙が溢れてきた。その様子を見ていた一夏が驚いた顔で私の前に屈む。

「お、おい、大丈夫か?ほら、拭いてやるから顔上げて」

「うん……」

一夏がハンカチで私の涙を優しく拭いてくれる。彼の手は、どこまでも温かかった。

「あ、そうだ。これ」

一夏が持っていたビニール袋から、温かいお茶を私に渡す。

「さっきコンビニで買ってきたんだ。本当は千冬姉の分だったけど、それはまた後で買えばいいし」

「ありがと……」

一夏が隣のブランコに座り、同じお茶のペットボトルの蓋を開ける。私も蓋を開けて飲み、胸の中にじんわりと温もりが広がるのを感じた。

「────ごめんな、こういうことしかできなくて」

一夏は照れ臭そうに、しかし暗い顔で呟く。

「ううん、嬉しい」

本心だった。もう彼とは会えないと思っていたから。

「びっくりしたよ、鈴が転校するって聞いた時は。突然だもんな」

「そうよね……ごめんね」

「謝るなって。寂しいけど、こればっかりは家の問題でもあるからさ。俺にできることは、鈴とこうやってゆっくり話すことくらいだし」

二つの影が、砂の地面をゆっくりと揺れる。

「その……色々あって、家からはもう出られないんだ。だから、千冬さんにもよろしく伝えておいて」

「……ああ、分かった。千冬姉も鈴の家の中華、美味しいってよく言ってたよ」

「そうなんだ……嬉しいな」

再び、沈黙が私たちの影を行き来する。
すると一夏がブランコから降りて、少し離れたジャングルジムへと歩いて行った。私も後を追うように、ジャングルジムへと向かう。

「そういえば鈴と初めて遊んだ放課後も、確かこの公園だっけ」

一夏がジャングルジムを上りながら言う。

「そうね……あの時はまだ私も日本語が全然出来なくて……」

「でもよ、今思うとあんまり関係なかったのかもな。俺、鈴が言いたそうなこと、あの時の俺なりになんとなく分かってたつもりだったし」

「そう……なのかな」

一夏は、今の私の気持ちがわかる?

「一夏は……」

「?」

「……その、怒らないで聞いてほしいんだけど」

「ああ」

私もジャングルジムの中に入りながら、その先の言葉を紡ぐ。

「一夏は、お父さんとお母さんがいなくて寂しくないの?ずっと千冬さんと二人きりなんでしょ?」

うーん、と一夏がしばらく考え込む。

「寂しいって感覚はないかな。俺にとってはそれが当たり前だったから。別に両親が今もいたとして、会いたいって気持ちはないよ」

「そう……」

「鈴に会えなくなる方が、俺はよほど寂しく感じるな」

一夏の言葉が私の胸を締めつける。
私が言葉に詰まっていると、一夏はジャングルジムから飛び降り、目の前の大きな滑り台のてっぺんへと上っていった。ジャングルジムの背丈を越える、児童公園としては珍しい遊具だ。

私はいつまでも動くことができず、ただ檻の中に留まっていた。

「────大丈夫だよ」

「え……?」

月の逆光で、見上げた先の一夏の顔が、闇に染まる。一夏がどんな表情をしているのか、どんなことを思っているのか分からない。
よく見ると一夏は私を見ていなくて、夜空を眺めていた。

「大丈夫だよ、鈴。寂しくなるけど、俺も頑張るからさ。()()()()()()()()()

ちがう、ちがうの一夏。
それは私にとって、一番聞きたくなかった言葉。
その言葉は、私の孤独を確たるものにする。

ねぇ、一夏。

3つ数えるから、振り向いて。

ひとつ、ふたつ、みっつ……

7つ数えるから、振り向いて。

ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ……


じゃあ、()()数えるから、それまでに振り向いて。

ねぇ、一夏……────




























最後まで一夏は振り向かなかった。
直線の檻に囚われた私と、放物線の船に乗る彼は、永遠に交わることはない。

夜空に浮かぶ月だけが、小さな私を見下ろしていた。



├─────────┤

『孤児院の鍵』

「聖歌隊」の生所、孤児院の扉の鍵。
大聖堂の膝元にあった孤児院は、かつて学習と実験の舞台となり、
幼い孤児たちは、やがて医療教会の密かな頭脳となった。

教会を二分する上位会派、「聖歌隊」の誕生である。

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