なお、後書きに関しては、物語上あえて自分で考えた設定を書いています。決して史実を忠実に参照したわけではありません。
目が覚める。
飛行機特有の、低い重厚音が耳に入ってくる。
マリアはゆっくりと瞼を開けた。体感で、長い間眠っていたのだなと分かる。
「よく眠れまして?」
セシリアは既に起きていたらしく、紅茶を嗜んでいた。
セシリアは使いの搭乗員に、マリアにも紅茶を淹れるよう言った。
「ああ……紅茶、ありがとう」
マリアはテーブルに置かれた紅茶を飲み、身体を温める。
「イギリスはちょうど、昼を過ぎたあたりですわね」
「そうか……日本ではとっくに夜だな」
日本とイギリスでは時差がおよそ9時間。日本の方が日付は早く進む。
マリアはゆっくりと伸びをし、身体を解した。
窓に目をやると、真っ暗な電子カーテンの外に、うっすらと地上が見えるのが分かる。
マリアは電子カーテンの明るさを調節し、外が見えるようにした。
マリアは、雲の下を覗く。
するとそこには、日本とは全く違う自然や建築物が広大に渡っていた。
その光景に、マリアは目を丸くする。
「綺麗でしょう?イギリスの街は」
セシリアが、こちらを見て微笑む。
「ああ……そうだな」
時間が経つにつれ、徐々にジェット機は高度を下げていく。
やがて、もう地上はすぐ目の前にまで迫り、セシリアとマリアは降りる準備を始める。
そして、ジェット機は滑走路に着陸。
扉が開き、外に出たセシリアはこちらを振り返り、笑顔で言った。
「ようこそ、イギリス・ロンドンへ─────」
◇
イギリスの玄関口と呼ばれるこの国際線空港には、ターミナルが5つもあることから分かるように、世界的に見ても利用者の数はかなり多い。
セシリアとマリアはゲートを抜け、空港の出入口へと向かう。
するとそこには、オルコット家専用の黒い自家用車があり、その前には一人の女性が立っていた。セシリアはその女性を見つけるやいなや、すぐに駆け寄っていく。
「チェルシー!」
「あらあら、お嬢様。お元気なようでなによりです」
チェルシーと呼ばれたメイド服姿のその女性は、抱きしめてきたセシリアを温かい笑顔で迎える。
セシリアはチェルシーから腕を離し、マリアへと紹介する。
「マリアさん、こちらはチェルシー。私の専属のメイドですわ」
「初めまして、マリア様。チェルシー・ブランケットと申します。お嬢様からお話は伺っています」
「ああ、よろしくチェルシー。それと、私には『様』は付けないでくれないか……」
チェルシーはマリアの表情を見て、事情は分からないが何かを察した。
「申し訳ありません。以後、違う呼びお名前でお呼びいたします」
「すまない」
「さて、お二人ともお疲れでしょう。お荷物、お預かりいたしますね」
チェルシーはそう言うと、セシリアとマリアのスーツケースをトランクに入れ、二人のために車の扉を開く。
二人は中に入り、やがてチェルシーが運転を始めた。
「ところでお嬢様、例の織斑様とは進展しましたか?」
「い、いきなり何を言い出すの⁉︎」
セシリアは途端に顔を赤くする。
マリアもそれを聞いて、笑いを見せた。
「マリアさん、お嬢様と織斑様は上手く進んでいらっしゃいますか?」
「ああ、帰国したら二人で出掛けるらしい」
「まぁお嬢様!デートでございますね!」
「ち、ちょっとマリアさん⁉︎もう……恥ずかしいですわ……」
セシリアは恥ずかしさのあまり、手で顔を隠すようにする。
「実は心配だったのです。お嬢様はシェイクスピアをよく嗜みになるので」
「悲劇で終わってしまうな」
「好きなんだから仕方ありませんわ!」
シェイクスピアの名を、マリアは随分と久しぶりに聞いた。その作品の内容は、200年以上経った今でも覚えている。
マリアは、ふと思った。
『イギリスへ行けば、何か思い出せるかもしれない──────』
セシリアがかつて自分に言ってくれた言葉。
そして、自分でもそうあってほしいと心の何処かで願っている。
自分がかつて過ごしていたヤーナムは、本当にイギリスにあったのか。
もしかしたら、その名残が少なからず残っていないだろうか。
学園の図書館の全ての蔵書を読んでも見つからなかったことが、此処にはあるのではないだろうか。
マリアは、思い切って二人に尋ねる。
「セシリアの家は、どの辺りだ?」
「ノーフォークという小さな街ですわ。また少しお時間がかかってしまいますが」
「そうか……その、一つ頼みがあるのだが」
「?」
「その……街を少し見て回りたい」
マリアがそう言うと、セシリアの顔がパッと明るくなる。
実はセシリアは、マリアを無理矢理連れてきてしまったのではないかと内心不安でいた。
マリアが何か記憶を取り戻す手助けになればいいかと思いイギリスへ連れてきたが、もしかしたら違う過ごし方もしたかったのかもしれないとも思っていた。
しかし、マリアの言葉から察するに、彼女も少なからずイギリスに興味を持ってくれているということだろう。
「ええ、是非!チェルシー、少し観光をしましょう!」
「かしこまりました。では、ロンドンの中心街へ─────」
一向は、首都・ロンドンの中心街へと向かう。
◇
「お待たせしました。どうぞ、お降りください」
チェルシーは二人のために扉を開く。
車から降りたマリアは、目の前に見えた光景に衝撃を受けた。
それは、まさしく自分が
「これは……」
マリアは呆然とする。
横にセシリアとチェルシーが立ち、彼女たちも同じ所に目を向ける。
「『
「あら、ご存知ですの?今どきその正式名を言う方は、あまりいらっしゃらないですわ」
「そう呼ばれてないのか?」
「一般的には『Big Ben』と呼ばれています。あの時計塔には5つの鐘があり、元来『Big Ben』はその内の一番大きな鐘の愛称だったのです」
「よく知ってましたね、チェルシー」
「幼い頃、お嬢様が教えてくださったことですよ」
「あら、そうでしたかしら?」
マリアは、街の中に立った時計塔を見て、感じる。
やはりこの国には、記憶の手掛かりを掴める何かがある─────。
あの時計塔の中で、私は殺された。
しかし、街並みは自分の知っているものと随分変わってしまっている。
時代が変われば街も変わるのは当然かもしれないが、ヤーナムは少なくとも巨大な建造物がたくさんあった。
そして時計塔も、自分の記憶にあるものとは少し外見が違う。
街全体が、その姿を変えている。
これは、
マリアは、何もかも不可解なことに対し、静かに唇を噛み締めた。
「中をご覧になりますか?」
時計塔を熱心に見つめるマリアに気付いたのか、セシリアが尋ねる。
マリアは少し考えた後、複雑な表情をして、
「……いや、いい………他へ行こう」
と答え、車に戻っていく。
セシリアはどうしたのだろうと首を傾げ、自分も車に戻った。
◇
その後、様々な観光場所へと連れて行ってもらえたが、記憶に繋がるような光景には出会えず、一向はノーフォークの地へ。
ノーフォークに入り、小さな街を抜け、今は深い森林(樹海とも言うべきか)の中で、人が歩く姿は見えない。
マリアがセシリアに聞くと、実は既に領地内へと入っているのだとか。
「一体どこからどこまでがオルコット家の領地なんだ?」
マリアがセシリアに尋ねると、セシリアは顎に手を添え、考える。
「小さい頃、お母様が教えて下さった表現ですと……」
「ああ」
「窓から見える景色全部、らしいですわ」
「………」
ケロッと言うセシリア。
15歳の少女がこんな衝撃な教育を受けていたとは、驚きである。
「……なら一夏もいずれはここの領主となるわけか」
「だ、だから何をおっしゃいますの⁉︎」
やがて一向は森を抜け、オルコット家の屋敷へと着いた。
『
正式名称、クロック・タワー。
英国を代表する時計塔で、国会議事堂の北側の端にそびえ立つ。
すぐそばにはテムズ河が流れ、船も多く行き来する。
なお、この時計塔は、大昔に大火災の影響で一度焼失し、今日の時計塔の姿は再建されたものである。
その大火災の原因は、歴史的にも未だに解明されておらず、謎に包まれている。