如月ハルの人間考察   作:はるのいと

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第四章「木枯らしの季節に 8」

 19時、クラブNASU。

 従業員たちは開店前に行うホールの清掃や、DJたちとの打ち合わせに追われていた。そんな中、メインのバーカウンターには、一人の男がいつものようにペリエに口をつけている。早苗は彼の姿をとらえると、気合を入れるかのように深呼吸を一つした。

 

「こんばんは」

 

「やあ、時間通りだね」

 

 権藤保は自身のオーデマ・ピゲの腕時計に目を向けた。そしてスツールを引くと、微笑みながら早苗に腰を下ろすように促す。彼女はありがとうございます、と言ってゆっくりと腰を下ろした。

 

「なにか飲むかい?」

 

「いいえ、大丈夫です」

 

「そっか……」

 

 権藤は少し残念そうに呟く。そしてペリエを一口含むと、またいつものように微笑みを浮かべた。

 

「それにしても、早苗ちゃんが連絡をくれるなんて驚いたよ」

 

「迷惑でしたか?」

 

「まさか、キミみたいな可愛い子ならいつでも大歓迎さ」

 

 小夜の言う通り、この男はやっぱり口が上手い。そう言った意味では、あの石神と通じるものがある。

 

「相変わらず女をおだてるのが上手ですね」

 

「そうかい? まあ、どっかの朴念仁(・・・)に比べればそうかもしれないね」

 

 権藤はそういって静かに早苗を見据える。すると全てを見透かしたような瞳と目が合った。

 

「……やっぱり、なにか飲もうかな」

 

「おっ、そうこなくっちゃ」

 

 程なくしてバーテンが、早苗の前にカクテルグラスを置いた。グラスの中にはレモン色

の液体が、綺麗な気泡をあげている。

 

「これなんていうカクテルですか?」

 

「アプリコットフィズ」

 

 早苗の問いかけに、権藤は即座に答えた。あの男は下戸だけど、なぜかお酒のことは詳しい。以前に小夜がそう言っていたことを、早苗は思い出していた。

 彼女はゆっくりとグラスを口元へと持ってゆく。するとブランデーの甘い香りが鼻腔をくすぐってきた。そして一口含むと、レモンの爽やかな酸味が口一杯に広がった。

 

「おいしい……」

 

「それは良かった。因みにそのアプリコットフィズの、カクテル言葉ってなにか知ってるかい?」

 

「カクテル言葉? なんですかそれ」

 

「花言葉や宝石言葉があるように、カクテルにもカクテル言葉、というものが存在するんだ」

 

「へえ、そうなんだ……それでアプリコットフィズのカクテル言葉とは?」

 

「”振り向いてください”」

 

 権藤は涼しげな声で答えると、ゆっくりと早苗に視線を合せる。そして真顔のまま「因みに早苗ちゃんには、振り向かせたい人はいるのかな?」と、続けた。

 

「い、いませんよ、そんな人……」

 

「ふうん、そっか。でも、それもまた寂しい話だね」

 

 権藤の言葉に早苗は自嘲した笑みを浮かべた。すると暫しの間、二人きりのバーカウンターに沈黙が訪れる。そして程なくしたころ、彼は空気を変えるように口を開いた。

 

「それじゃあ、世間話はこのくらいにしてそろそろ本題に移ろうか。僕に聞きたいことがあるんだろ?」

 

 早苗は先ほどまでの憂いだ表情を隠し、凛とした瞳を権藤に向けた。そして先日の出来事と如月の関係性、加えて権藤の関与についても尋ねた。

 

「やっぱりそのことか……まいったなあ、実は如月君に固く口止めされていてね」

 

「教えて頂けないんですか?」

 

「悪いけど、こう見えても口は堅いんだ……っていったらどうする?」

 

「小夜に告げ口します」

 

 間髪入れずに早苗は答えた。すると権藤は苦笑いを浮かべながらかぶりを振る。そしてすぐに真顔に戻ると「それは反則だろ?」と、言って彼女を見据えた。暫しの間、二人の睨みはいは続く。程なくして権藤はにやりと白い歯を覗かせた。

 

「分かった、僕の負けだよ」

 

「じゃあ、教えてくれるんですね?」

 

「小夜ちゃんには嫌われたくないんでね。でも約束だよ、如月君には絶対に内緒だ。ああ、それと少々エグイ話になるから、そこのところは覚悟しといてくれよ」

 

 権藤の問いかけに、早苗は頷きながらゴクリとつばを飲み込んだ。すると彼は小さく吐息を漏らすと、事の真相を語り始めた。

 石神たちは知り合った女性を、酒やクスリで意識を朦朧とさせては輪姦していた。そしてその際の行為を録画しては、それをネタに強請を行う。具体的には売春の強要などだ。

 

 得た金は車や洋服、クスリや酒に消えていった。権藤はそのことを数ヶ月前に、耳にするようになったという。最初はよくあるガキのいたずら、と思い気にも留めていなかった。だがそうも言ってられない出来事が起こってしまった。

 

 石神たちは決して手を出してはいけない、女性を襲ってしまったのだ。相手は沢崎組の幹部――増田啓一の愛娘、聡美だった。権藤はいち早くその情報を手にしていた。彼が飼っている福沢諭吉が好きな犬が運んできたのだ。

 

 聡美はショックと羞恥心から、暴行の事実を隠している。輪姦(まわ)れた女に同情する気はさらさらない。だがヤクザの幹部に恩を売っておくのは悪くない選択だ。幸い増田とは何度か顔を合わせたことがあった。

 頭もきれるし金を稼ぐ才覚もある。使える男だ。時期を見て石神たちの犯行を教えてやろう。権藤はそう考えて、彼等の拉致を計画した。

 

「そんなある日、この店に如月君が突然現れたんだ」

 

「如月がここに?」

 

「ああ。昔のような血の通ってないドス黒い瞳をしてね」

 

「……あいつは権藤さんになんの用で?」

 

「彼は――」

 

 

 

「お久しぶりです」

 

「おや、これは随分と珍しいお客さんだ」

 

 権藤はにやりと口角を上げると、如月の顔を静かに見据えた。

 

「隣いいですか?」

 

「ああ、構わないよ」

 

 如月はどうも、と言って軽く頭を下げると、ゆっくりとスツールに腰を下ろした。そして程なくして現れたバーテンダーにペリエを注文した。すると暫くの間、二人の間に無言の沈黙が流れだす。その静寂を破ったのは権藤だった。

 

「それで今日は一体なんのようなんだい。まさか急に僕の顔が見たくなった――んなわけないよな?」

 

「増田聡美の件です」

 

 如月のよく通る声が、二人きりのバーカウンターに響き渡る。するとグラスを持っていた権藤の手がピタリと止まった。

 

「……どこでその情報を?」

 

「某大手検索サイトのトップニュースに載ってました」

 

「面白くもない冗談だ……また(・・)あの(・・)()を使ったのかい?」

 

「まさか、わざわざあの守銭奴便利屋に頼むまでもないですよ」

 

 権藤は飽きれるようにかぶりを振った。そして溜め息を一つ漏らすと、如月に鋭い眼差しを投げかけた。

 

「これはガキが関わるべき案件じゃない。今回は大人に任せろ」

 

「あいにく身内が絡んでるんでね、ヤクザに恩を売りたいだけの人に任せておくわけにはいかないんですよ」

 

 闇の住人と、暗い瞳をした青年の睨み合いは数十秒続いた。無言の闘争。先に口を開いたのは如月であった。

 

「それに、あなたは僕に借りがあるはずだ。それを返して頂きたいんです」

 

「キミに借り? はてさて何のことかな」

 

「惚けないでくださいよ。二年前、あなたが三島小夜に余計なことを吹き込まなければ、僕の腹部に風穴が開くことはなかった。違いますか?」

 

 如月はTシャツの裾をめくりあげた。そこには生々しい銃弾の傷跡があった。彼はいつもの無表情で権藤を見据える。

 

「確かにキミのいう通りだ。でもさっきもいった通り今回の件は大人に任せた方がいい。勿論、早苗ちゃんの安全は僕が保証する。だから――」

 

「それが余計なお世話だ、といってるんです」

 

 如月はそういってグラスの氷を人差し指で弾いた。するとバーカウンターに涼しげな音が響き渡る。そして彼は冷えたペリエを一口含むと、権藤に鋭い視線を浴びせた。

 

「さっきもいいましたよね、彼女は僕の身内です」

 

「……なるほどね。じゃあ、キミの希望を聞こうか」

 

「彼等はその筋の方々に拉致されるんですよね?」

 

「ああ、そうなるね」

 

「じゃあ、その前に少しだけ話をさせてもらえませんか?」

 

「話し? それだけでいいのかい」

 

「ええ、充分です。それともう一つ質問があるんですが」

 

「なんだい?」

 

「最終的に、石神たちをどうするつもりですか?」

 

「殺すのは勿体ないからね、日本の裏側に海外赴任(・・・・)でもさせようかと思ってる」

 

「なるほど、若くて健康な人材は肉体労働にもってこいですからね。でも増田さんはそれで納得しますかね?」

 

「その点は大丈夫だ。あの人はそこまでバカじゃない。たとえ身内が絡んでいても一銭にもならない殺しはしないさ」

 

「そうですか、それを聞いて安心しました。石神には楽に()かれては(・・・)困るんでね」

 

 如月のその言葉に、権藤は一瞬怪訝そうな表情を浮かべだが、すぐになかを理解したのか「容赦がないね」と、いって口角を上げた。

 

「それじゃ、拉致決行日が決まったらこちらへ連絡をください」

 

 スツールから腰を上げると、如月は一枚のメモ書きをテーブルの上に置く。その紙切れには、彼のLINEアドレスが明記されていた。

 

「ああ、分かった。いうまでもないが小夜ちゃんには内緒だよ」

 

「ええ、あなたにいわれるまでもないですよ――」

 

 

 

「これが事の真相だ。因みにあのボーズ頭の彼は、如月君に呼ばれてあの場所に訪れただけだ。キミを無事送り届けてくれ、という指示以外は恐らくなにも聞いてないだろう。だが彼も早苗ちゃんのことを、相当心配していた。それは分かるね?」

 

 早苗は静かに頷いた。だが予想もしなかった現実離れした話。全てを聞き終えた彼女は、呆然と権藤を見つめる。すると彼は乾いた喉をペリエで潤すと、さらにこう続けた。

 

「如月君がやつらのことを調べ始めたのは、いつからだと思う?」

 

「いつからって……」

 

「デート中に偶然街で出くわした、あの日からだそうだ」

 

「えっ?」

 

「小夜ちゃんが石神の本質を見抜けたくらいだ。なら彼が気付かないわけないんだよ」

 

 だからあの時、あいつは石神の安い挑発にのらなかったんだ……。早苗は純喫茶イケダでの、如月の様子を思い出した。

 

「なぜ如月君はこの件に首を突っ込んだと思う? キミをやつらから救うという目的だけなら、さっきもいった通り僕に任せておけば済むんだ」

 

 確かに権藤さんのいう通りだ。私の身の安全は、この人たちによって保障されていた。ならわざわざ危険を冒してまで、如月が首を突っ込む必要はない。なのに、なのにどうしてあいつは……。

 

チャンス(・・・・)だよ」

 

「チャンス?」

 

「如月君はね、石神に何度も ”荒川早苗から手を引け” と忠告してきた。 ”いまならまだ間に合う” といった思わせぶりな台詞を並べ立ててね」

 

「そ、それがなんだっていうんですか?」

 

「今頃、石神は日本の裏側で恐らくこう思ってるはずだ。  ”あの時、素直に如月の忠告を聞いていればよかった……” とね」

 

「一体、どういうことです?」

 

「如月君がこの件に首を突っ込んでまで、石神に与えたかったもの。それは一生ぬぐうことの出来ない絶望的なまでの後悔だよ」

 

「ま、まさか――」

 

「想像してごらん? 石神はこの先、死ぬまで後悔し続ける。そしてそれは彼だではなく、周りにいた仲間たちも同様だ。 ”石神が素直に忠告を聞かなかったばかりに、俺らはこんな酷い目に遭ったてるんだ” とね。そしてその思いはすぐに憎悪へと変貌する。石神はこれから言葉も分からない異国で、仲間たちに蔑まれながら孤独という名の拷問を味わうことになるんだ」

 

「あ、あいつが、そんなことを……」

 

「彼は大切な人のためなら、いくらでも冷酷になれる人間だよ。あの無表情の顔の下にはね、マグマのように煮えたぎった狂気が眠っているんだ」

 

「そ、そんなの嘘よ……」

 

「ここ数年はキミらと平凡に過ごしていたから、そのなりを潜めていたようだけど……今回の件で、どうやら()こしてしまった(・・・・・・・)ようだね」

 

 起こしてしまった……全ては私のせいだ。石神なんかに騙されたばっかりに、あいつは私のために……。

 

「私のことはもうほっといてよ、ってあの時いったのに……ほんと、お節介なんだから」

 

 早苗は微笑みながら独り言のように呟いた。すると彼女の頬にゆっくりと涙が伝う。すると権藤は溜め息を漏らしながら、純白のハンカチを手渡した。

 

「勘違いしないでほしいんだけど、いまいったことはすべて僕の憶測だ。他人が本当はどう思っているかなんて誰にも分らないさ。でもね――」

 

 権藤はそこで一呼吸置く。そしてグラスの氷を人差し指で弄びながら「ただ一つはっきりしているのは、彼にとってキミはとても大切な人だ、ということだ。それは単純に恋人の親友だから、という理由だけじゃないと思うよ」、と続けた。

 

 その言葉を聞いた瞬間、心の中のろうそくにそっと小さな火がともった――そんな早苗の心を見透かすように、権藤はゆっくりと彼女に近づいてゆく。そして直に吐息が感じられるほどの距離になると、甘い声色でこうささやいた。

 

「奪っちゃいなよ、小夜ちゃんから」

 

「な、なにいいだすんですかっ!」

 

「好きなんだろ? 如月君のこと」

 

「そ、そんなこと――」

 

「キミが石神に惹かれたのは、どこか彼に雰囲気が似ていたからだ。違うかい?」

 

 話し方や仕草。出会ってすぐに ”あいつに似てる” そう思った……。

 

「……あ、あいつは小夜の彼氏でなんですよ?」

 

「それがどうした」 

 

「小夜は……あの子は私の親友なんですよ?」 

 

「それがどうした」 

 

「だから、だから私は――」

 

「素直になりなよ、楽になるから」

 

 悪魔の魔法のような甘く心地の良い声……その誘惑にのれば、行きつく先は間違いなく地獄だ。頭では分かっている……分かっているはずなのに私は――早苗はスツールから素早く腰を上げる。そして財布を取り出しながら「……帰ります」と、力なく呟いた。すると権藤は片手をかざして彼女を制した。

 

「大丈夫、ここは僕のおごりだ」

 

「ありがとうございます……そ、それじゃ」

 

 早苗は軽く頭を下げると、逃げるように出口へと向かった。するとそんな彼女の背中に、権藤の涼やかな声が届く。

 

「如月君のこと、僕は応援するよっ!」

 

 一刻もこの場から去りたかった。悪魔の声に耳を傾けていると、どうにかなりそうだった。 ”奪っちゃいなよ、小夜ちゃんから” 闇の住人がいった台詞が頭の中で木魂する。あの言葉を聞いた時、一瞬心が揺れた。私は小夜を裏切ろうとしてる……。早苗はそんなドス黒い感情を振り払うように、ネオン輝く街中を足早に進んだ。

 

 

                        ☆

 

 

 その日を境に早苗は風邪と称して、学園を休み始めた。一人になってゆっくりと考える時間が欲しかったからだ。そして三日間じっくりと熟考したすえ、彼女は一つの決断をした。

 

「もしもし、如月?」

 

「ああ。風邪の方はどうだい?」

 

「うん、もう大丈夫」

 

「それはよかった。それで今日はどうした?」

 

「明日の祝日なんだけど、なにか予定入ってる?」

 

「いいや、特には」

 

「じゃあさ、ちょっと付き合ってくんない?」

 

「べつに構わないけど……買い物とかなら、僕なんかよりも――」

 

「国立競技場に12時ジャスト……お願い、理由は聞かないで必ず来て」

 

「……分かった、必ず行くよ」

 

 一瞬の間のあけると、如月はどこか覚悟を決めるようにいった。体を動かすしか能のない女が、三日間必死で考えた結論。最後はやっぱりこれで白黒つけるっ! 早苗はスマートフォンに映る、如月の電話番号を静かに見つめた。

 

 

                        ☆

 

 

 静まり返った休日の国立競技場。そこには陸上部のユニホームに身を包んだ早苗の姿があった。柔軟を終えた彼女は軽く息を吐くと、トラックの中へと向かってゆく。前方を見ると、100メートル先にはタイム計測器がみえた。その隣では如月がスターターピストルを上空に掲げながらで佇んでいる。

 

「位置について――」

 

 如月の低くよく通る声が、競技場に響き渡った。すると早苗は手首を軽く回しながら、スターティングブロックに足をかける。早苗は今日の走りで、もし新記録を出せれば如月に告白すると決めていた。そしてそれが無理であった場合は、きっぱりと彼のことは諦める、と。三日間熟考して出した結論――それはなんとも体育会系女子らしい潔いものであった。

 

「用意――」

 

 二人きりの競技場は、耳鳴りがするほどの静寂に包まれていた。やっぱり、私はこの瞬間がなによりも好きだ。もう、迷いは吹っ切れた。だから……だから今日のこの走りにすべてを賭けるっ!

 

 次の瞬間、鼓膜を(つんざく)号砲が辺りに響きわたった――。

 早苗はいつものように意識的に呼吸を短く吐き、目の前のゴールだけを見据える。キックの瞬間のたびに、心拍数が上がり鼓動が早まる。腕の振り足の運び、今日は驚くほどに体が軽い。流れる景色、まるで自分以外は止まっているようだ。そして彼女は、胸を突きだしフィニッシュを迎えた。

 

 タイムはっ? 早苗は計測器に目を向ける――。

 

 そして息を整えながら、トラックをゆっくりと歩きだした。すると呼吸のほうはすぐに戻ったが、心臓の鼓動はいまだ収まらない。早苗はピタリと歩みを止めると、前方で佇む如月を静かに見据えた。見つめ合う二人――その距離はおおよそ20メートルほどある。

 程なくして競技場に、再び静寂が訪れた。そんな中、一羽の鳥がさえずりながら羽ばたいてゆく。それと同時に早苗は意を決して口を開いた。

 

「権藤さんから、全部話は聞いた」

 

 如月は眉間にしわを寄せながら、舌打ちを一つ鳴らす。そして溜め息を漏らすと、静かに彼女を見つめた。

 

「余計なお世話だったかな?」

 

「……そんなわけないじゃん」

 

 暫しの沈黙のあと、早苗はそう言って拗ねたように唇を尖らせた。そして後ろ手を組みながら、ゆっくりと如月のもとへと近づいてゆく。

 

「私なんかのせいで、とっても重い十字架(・・・)を背負わせちゃったね……」

 

「慣れてるから、平気さ」

 

「そう? でも権藤さんはいってたよ……」

 

「あの胡散臭い色黒男はなんといってた?」

 

 如月は俯きながら口ごもる早苗を静かに見据える。すると暫しの沈黙のあと、彼女は額に手を当てながらこう答えた。

 

「あんたの目が、昔に戻ったみたいだったって……」

 

 早苗の言葉に、如月は自嘲した笑みを浮かべる。 そして小さく「そっか……」と、呟いた。

 

 途端にどこか寂しそうな表情を浮かべて口ごもる朴念仁――ねえ? いつものように軽く口で返してよ……。早苗はそう思いながら如月を見つめた。

 

「お願いだから、間違ってもあっち(・・・)()にはいかないでね」

 

「……ああ、約束するよ」

 

 如月がそういって頷くと、二人の間に暫しの沈黙が訪れる。無言のまま見つめ合う二人。程なくして、早苗がその沈黙を破った。

 

「今日、もし新記録が出せたら……私はある人に告白しようと思ってたの」

 

「そっか……それで記録のほうはどうだったんだい?」

 

「おかげさまで新記録樹立です」

 

 早苗は微笑みを浮かべながら・計測器に一瞬目を向ける。そしてすぐに胸を張って如月に視線を移した。

 

「よかったな……おめでとう」

 

「全然、気持ちがこもってないんですけど……」

 

「そんなことはないさ」

 

「嘘つき……じゃあ、どうしてさっきからずーっと、そんな困った顔してるの?」

 

 如月の目の前まで来ると、早苗は見上げるように彼の顔を覗きこんだ。そして眉間にしわを寄せながら「心配しなくても告白なんてしないわよ。だって、あんたのそんな情けない顔なんて、もう見たくないもん……」と、続けた。

 

「……相変わらず手厳しいな」

 

「これでも優しくしてるほうよ」

 

 早苗は瞳に涙を溜めながら、微笑みを浮かべる。そして暫しの沈黙のあと、乾ききった喉を鳴らすとこう続けた。

 

「ねえ、最後に一つお願いがあるんだけど……」

 

「なんだい?」

 

「ちょっとだけ……ちょっとだけでいいから、目を瞑っててくんない」

 

 早苗は俯きながら呟いた。くぐもった彼女の声――如月に拒否権はなかった。

 

「……分かった」

 

 如月はそういって静かに瞼を閉じた。すると早苗は背伸びをして、彼にゆっくりと近づいてゆく。如月のことはこれで諦める。だから最後に一度だけ……。早苗がそう心に誓った時だった、小夜の笑顔が彼女の脳裏に浮かんできた。その瞬間、あの日に権藤にかけられた魔法は竜巻のように吹き飛んだ。我に返った早苗――。

 

 彼女は依然、瞼を閉じたままの如月を見つめた。この朴念仁がどれだけ小夜を大切にしてるか、私は誰よりも分かってる……。それなのに……それなのに、こいつはバカ正直に私に付き合ってくれた。いつもの無表情な顔を引きつらせながら……。清水が言うように、ほんとこいつは身内に激甘だ。

 

「私のせいで傷が出来ちゃったね……」

 

 早苗はそう言って、如月の赤黒く腫れた口元に手を当てた。そしてそのまま優しく頬を両手で包み込んでゆく。すると彼はゆっくりと閉じていた瞼を開いた。

 

「前にもこんなことがあったな」

 

「うん。覚えてるよ」

 

「その時もキミはいまみたいに泣いてたっけ」

 

 如月はそういって優しく早苗の涙を親指で拭う。すると彼女は小さく微笑みながら「小夜に叱られるよ」と、呟いた。

 

「彼女はこんなことでは怒らないよ」

 

「そう?」

 

「いくら嫉妬深いといっても、今回の相手はキミだからね。涙を流してるのに、なにもしないでいたら逆に叱られていたはずだ」

 

「そうかもね……でも、やっぱりこのことは秘密にしてほしい」

 

 早苗は俯き加減で呟く。そんな彼女を如月は静かに見据えた。

 

「分かった」

 

 小夜が知らない二人だけの秘密……そんな大げさなものじゃない。ただ……ただ男友達に涙を拭ってもらっただけ。そうよ、なんてことはないわ……。早苗は必死で自分にいい聞かせた。そして静かに瞼を閉じた。

 

 これからの残り少ない学園生活、私は何事もなかったように過ごすだろう。明日になれば、また4人で昼食を囲みバカ話を繰り広げているはずだ。この仏頂面の軽口にも、いつものようにツッコミをいれるてることだろう。そう、何事もなかったようにすべてを忘れて……。

 

 でもいつしか彼のことを完全に吹っ切れたとき、私は今日という日を思い出すのだ。木枯らしの季節に巻き起こった、私が主役(・・)の失恋物語を……それがいつになるかは分からない。でもその時は必ず訪れるだろう。だからいまはまだ大好きな彼に、私は99.9パーセントの感謝の気持ちと0.1パーセントの嫌味をこめてこういうのだ。

 

「……朴念仁」

 

 早苗は満面の笑みを如月に向ける。その表情はとても清々しく、以前の元気な陸上女子に戻っていた。

 

 

 

 

                             「木枯らしの季節に」完


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