晴天の青空と穏やかな陽気は、人々を外へと誘わせる。本日は日曜日ということもあり、街中はカップルや家族連れたちで賑わっていた。そんな中、早苗は緊張した面持ちで、先日と同様にカフェの一角に腰を下ろしている。そんな彼女の向かいには、優しい微笑みを浮かべる男性の姿があった。
ああ、緊張する……正直なにを喋ればいいのか、全然思いつない。っていうかこれって、やっぱデートってことになんのかなあ……。そう思いつつ向かいに座る石神をチラリと盗み見ると、彼は穏やかな表情でティーカップに口をつけていた。
昨日の正午頃、早苗のもとにLINEのメッセージが届いた。相手は先日、彼女をナンパ男から救った石神からである。メッセージの内容は、先日訪れたカフェへの誘いであった。誘いを受けるべきか否か、悩む早苗――彼女は取りあえず親友に相談を持ちかけてみた。
すると返ってきた答えは、一も二もなくOKしなさい、というものだった。簡単にいってくれちゃって……まあ、予定はないからべつに行ってもいいんだけど。でも男と二人きりでお茶なんて、一体いつ以来だろう?
陸上女子の早苗にとって、男女関係はつねに二の次だった。そんな彼女に突然ふって湧いた色恋話。臆病になるのも、当然といえば当然の話である。そして現在――以上の理由から、早苗は会話のないティータイムを
全然、間がもたない。無言の沈黙がこわい。ああ……正直、早く帰りたいなあ。早苗が小さく溜め息をもらすと、石神は小首を傾げながら彼女の顔を覗き込んできた。
「緊張してる?」
「正直、かなり……」
「僕もだよ」
「……うそばっかり」
「どうして、そう思うんだい?」
石神がティーカップに手を伸ばしながら静かに早苗を見つめると、彼女は少し不貞腐れたように口元をすぼめた。
「だって、全然そんなふうには見えないですもん」
「あいにく、顔には出ない性質でね」
よく通る低い声と、このいい回し……顔は全然似てないんだけど、やっぱりどこかあいつを思い出してしまう。
「あのう、これって……やっぱりデートってことになるんですかね?」
早苗が俯き加減のまま呟くと、石神は微笑みながらテーブルの上に両手を組み合わせた。
「僕はそのつもりだけど、迷惑だったかな?」
「いや、迷惑ってわけじゃ……」
「因みに荒川さんは彼氏持ち?」
早苗が無言でかぶりを振った。
「じゃあ、好きな男とかは?」
「好きな男ですか……いないですよ、そんなの」
「いま少し間があったね。ということはやっぱりいるわけだ、好きな男が」
からかうような、石神の言い回し――勝気な早苗は一瞬で頭に血が昇った。
「だから、そんなヤツいないっていってんでしょっ!」
「どうだい、少しか緊張は解けたかな?」
声を荒げて否定する早苗に対し、石神はニコッと微笑みを浮かべた。すると彼女は、張りつめていた緊張が解けてゆくのを感じる。そして途端にフッと笑いが込み上げてきた。
やっぱこの人、全然緊張なんかしてないじゃんっ! それにたいして歳も変わらないってのに、この子ども扱いっぷり……でも、悪い人じゃないみたいだ。彼女はそう思いつつ「ええ、おかげさまで」と、不機嫌そうに返した。
その後、二人はカフェでお茶を楽しんだあと、あてもなく街中をぶらついた。需要はあるの? と思ってしまうようなマニアックな趣味の雑貨屋。行列必須の人気スイーツたい焼き店。石神の行きつけだという、中古レコード屋。
最初こそ借りてきた猫のように物静かな早苗であったが、街中を歩き回ってるうちにいつもの自分を取り戻していった。根っからの体育会系――明るく活発なチャキチャキ陸上女子の復活である。そして楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
「また誘ってもいいかな?」
別れ際、石神は夕暮れの白狐の駅前で早苗に問いかけた。その瞳は優しく彼女に注がれている。
「うん、いいよ」
「ほんと?」
早苗がハニカミながらコクリと頷くと、石神はホッと胸をなで下ろす仕草をした。夕日が差し込める白狐駅――二人は照れくさそうに、小さく微笑んだ。
「それで、初デートはどうだったのよ?」
放課後の廊下を歩きながら、小夜がヒソヒソと尋ねると、早苗は「だからデートじゃないって、何度言ったらわかんのよっ!」と、これまた小声で答えた。
「わかった、わかった。デートじゃないのね」
小夜は溜め息を漏らしながらかぶりを振ると、呆れ顔で更にこう続けた。
「で、楽しかったわけ?」
「……まあ、それなりにね」
「良かったじゃんっ!」
まるで自分のことのように喜ぶ親友――早苗はそんな彼女の優しさを感じながら、目的地の図書室を目指した。
図書室に到着すると、衝撃的な光景が早苗の瞳に飛び込んできた。なんとあの朴念仁が、瞼を閉じたまま一人の女子生徒と向かい合っているのだ。えっ? もしかしてキス……いいや、それにしては二人の間合いが遠すぎる。っていうか、小夜は……。早苗は恐る恐る、隣の親友に目を向けた。だが予想とは裏腹に彼女は、至って平然としていた。
「ちょ、ちょっと、あんたいいの? あれっ!」
「いいのよ。あの子とは色恋沙汰は皆無だし。それにあれは純粋にゲームを楽しんでるだけだから」
「ゲームって?」
早苗の問いかけを無視して、小夜はゆっくりと如月たちのもとへと向かっていった。遠目から見ると二人は瞼を閉じながら、時折なにかを呟いていてるようだ。ゲームって、あいつら一体なにやってんだろう。
まあ、あの仏頂面のことだ、また訳の分からんことでもやってんだろうけど……。早苗は苦笑いを浮かべつつ、小夜の背中を追いかけていく。そして二人が如月の目の前まで来た時だった、彼はゆっくりと瞼を開いた。
「チェックメイト」
相変わらずの低くよく通る声が静かな図書室にこだますと、如月の向かいに座っていた女子生徒が瞼を開きながら微笑を浮かべた。
「5勝6敗……私の負け越しですね」
「なんとかギリギリのところで、先輩としての面目はたてたよ」
如月は軽く吐息を漏らすと、外していたメガネをかけ直した。そして珍しく薄い笑みをこぼすと、「いい勝負だった」と、いって握手を求めた。
すると後輩女子は、「今度は負けません」と、キリッとした表情でそれに応えた。
「ねえ。互いを健闘しあってるところ悪いんだけどさあ、あんたらさっきから一体なにやってるわけ?」
「なにって、チェスに決まってるだろ。僕がチャックメイトっていったの、聞こえてなかったのかい? それなら早めに耳鼻科へ行ったほうが――」
「聞こえてたわよっ!」
「じゃあ、いちいち尋ねなくても分るだろ?」
「だから、チェス盤もないのにどうしてチェスが出来んのかって聞いてんのよっ!」
「脳内チェスよ」
如月の要領をえない説明に、苛つきはじめた陸上女子。そんな彼女に親友が優しくレクチャーをはじめた。
脳内チェスとは文字通り、盤や駒を使わず頭の中で対戦するチェスである。そう聞くとなんとも難解なように思うだろうが、2手メイトを頭の中で解ければ、個人差はあるが1~2週間ほどで習得が可能だ。因みに将棋やオセロなどのボードゲームも、同様のことが可能である。
脳内チェス? ……こっちはチェスのルールすら知らないっつうのっ! 早苗はそう思いつつ、黒縁メガネの対戦相手に視線を移した。艶やかなセミロングの黒髪と、吸い込まれそうな切れ長な瞳。日本人形を思わせるその容姿は、派手さこそはないが凛とした美しさが漂っていた。
黒い瞳……どこか如月と似ている。ふとそんな思いが頭を過ったちょうどそのとき、目の前の後輩女子が優しい微笑みを向けてきた。
「はじめまして、大堂若菜です」
「えっ! 大堂てもしかしてあの?」
「そう。日本を代表する大財閥、大堂グループの御令嬢よ」
小夜はそういって若菜の肩にそっと手を置いた。さっき感じた凛とした品のよさ……超がつくほどのお嬢なら当たり前か。早苗が一人で納得していると、小夜は呆れるようにさらにこう続けた。
「あんたねえ、後輩ちゃんがこうやって礼儀正しく自己紹介してんだから、ぼーっとしてんじゃないわよ」
「ああ、ごめんごめん。私の名前は――」
「荒川早苗さんですよね」
若菜は微笑みを浮かべたまま、早苗の言葉をさえぎった。
「あら、どうして私のことを?」
「三島さんと同様に有名人ですからね」
「有名人? 因みにどんなふうに?」
「男女ともに人気がある、陸上部きってのスーパースター」
「褒めすぎよ」
無表情を浮かべながら小夜がぼそりと呟くと如月も同感だね、と咳払いと共に吐きすてた。
「余計なお世話よ」
早苗はふくれっ面で如月の華奢な背中を小突くと、ゆっくりと若菜に視線を移した。
「ありがとう、お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないです。客観的な事実をいったまでですよ」
先程と同様に若菜は薄い微笑みを作った。確かに表情は明るい、だが早苗にはどこか暗い印象に映った。不思議な子……同性であればどんな子なのか、一目見れば大概のことはすぐにわかる。だけどこの黒い瞳と涼しい声をもつ後輩女子ことは全く読めなかった。
「それじゃ、私たちはこれからとーっても大事な話があるから、ここいらで失礼するわね」
小夜はニヤケ顔を浮べながら、素早く早苗の腕を取った。すると彼女は溜め息と共に、大げさに肩を落としはじめた。
ああ、やっぱり根掘り葉掘りコースかあ……今日は長くなりそうだなあ。早苗はウンザリした表情を作ったが、親友はそんなことなどお構いなしとばかりに、グイグイと彼女を図書室の一角へと誘っていく。もう、勘弁してよ……。
先程、若菜から感じた微妙な違和感――だがこの時にはすでに、そんな思いなど溜め息とともに早苗の中から綺麗さっぱりなくなっていた。