マチスの敗北を告げる無機質な声。
その音が鳴る仕組みを知っているのはマチスのみであるが、何故鳴っているのか理解が及ばない。
この音声が流れるのは、腕時計にあるスイッチを押した時ダケ―――
そして、挑戦者の勝利と反復していることから、マチスが敗北したということ。
しかし、マチスはスイッチを押していない。
ならば何故、声高々と敗北宣言が行われているのか。
鳴り響く声を、上を仰いで聴いていたが、その発生源である自分の時計にゆっくりと視線を落とす。
そこには、短い手で一生懸命に腕時計のスイッチを押す、サンドの姿があった。
「バカナ・・・ナニヲシテイル」
マチスの声にビクッと反応したサンドは、そそくさとサトシの元へ駆けて行き、その懐に収まった。
よしよし、よくやったと撫でる反面、その視線だけはマチスから外さない。
理解できない、という風のマチスに対して、サトシは告げる。
「ボタンは、自分が押さなきゃダメなんて、一言も言ってなかった。」
ルールの抜け穴。
マチスが設定したルールはあまりに簡単で、盲点が多い内容だった。
それはサトシ自身には不都合の多いものであったが、マチスにとっても同様のリスクがあった、とそういう訳だ。
相手を不利にするために、あえて緩いルールにしていた事が裏目に出た。
それを利用されること。
考えなかったわけではない。
だが、「自分自身に敗北を認めさせる」という行程が非常に重要であったため、マチスにとって「自分以外がスイッチを押す」ことなど一笑に付すレベルの事で、そんな意味の無いことをする人間などいないと、そう思ってしまっていた。
それは駄目だと言えるだろうか。
そんなジョーク染みた勝ち方が認められるものかと、言えただろうか。
言えたとしても、それは、ルールをそのままの意味で受け取り、純粋な気持ちで勝負に挑んだ者だけだろう。
しかし、マチスは違う。抜け穴を用意し、自分がそれを利用することで勝負を有利に運んでいた。
そんな人間が、ルール外のことだなどと妄言を吐けるハズがない。
サトシもそれがわかっていたからこそ、こういった作戦にしたのだった。
「イツカラデスカ―――イツカラ、コンナサクセンヲ」
マチスが静かに問う。
激昂するかと思っていたサトシは面食らったが、その表情から、単純に疑問をぶつけているだけなのだと判断すると、慎重に話はじめた。
「相手のスイッチを押す、ってのは最初から考えてた。でも、まさかそんな頓智が通るとは思ってなかったから、話だけに留めたけど―――」
まさかマチスからその頓智を使ってくるとは思わなかった。
その時点で、サトシの廃案は再度活力を帯び始める。
勝機が、勝筋がひっそりと息を吹き返したのだ。
そして、その案は冗談混じりとはいえ、サトシのポケモンに漏れなく連携されており、結果的にそれが功を奏した、というわけだ。
「ミーノコウドウガ、ウラメニデタト、ソウイウコトデシタカ・・・」
勿論、それだけが勝因ではない。
むしろサトシは絶体絶命の危機にまで追い詰められていたのだ。
その危機をチャンスに切り替えたのは言うまでもなく―――
「ピッカー」
「ピカチュウ!ありがとう!!」
この黄色いでっかいのである。
あの状況、ライチュウが何故か上から降ってきたことで、マチスが一瞬隙を見せた。
そしてそれが無ければ、近寄られたマチスに下手したら命を奪われていたかもしれない。
なんとも運の要素が強い勝利であった。
最も、作戦が成功したところでピカチュウが敗北していたらどうしようも無かったため、ピカチュウの勝利にも安堵の息を吐く。
一頻りお互いの健闘を称えあったら、再度マチスの方へ意識を向ける。
先ほどまでの勢いはどこへやら。マチスは尻餅をついた姿勢からほとんど変わらず、優柔不断に視線をキョロキョロさせて、ブツブツとなにか呟いていた。
それを見て怪訝な表情をするサトシ。
声を掛けない、という選択肢は無いため、問答無用で話しかける。
「――――マチス?」
声を掛けられたマチスは、ビク と肩を震わせる。
同時にヒッという悲鳴にも似た小さい声が聞こえた。
「――――?」
明らかにマチスの様子がおかしい。
とはいえ、不用意に近づくのも考え物だ。
いきなり首を絞め落とされていつの間にか奴隷だなんて、笑えないにも程がある。
それでもこのままじゃ埒があかないので、ゆっくりとマチスに近づき、マチスさーん、と小声で声を掛ける。
近づくにつれて徐々にマチスがボソボソとつぶやいている内容が判別できるようになってきた。
そして、その内容をきちんと聴こうと耳を澄ませる。
負ケタ負ケタ嘘ダ信じられなイ嫌ダ嫌ダ拷問ダケハ痛イノダケハ無理ヤメテ耐えられナイソンナ無理ニ決まッテアアアア情報ナンテモッテイナイ全部ゼンブハナスカラタノムカラ助ケテソンナソレハ無理無理ムリムリ助けてたすけたすけテソンナそれは曲らなイタイイタイイタイ殺さないデタノムから頼むかラ命だケはムリむりムリムリそれはヤメテやめ引っ張らないイデそんなミーがマケルなんてアリエナイありえないありえなイ拷問は尋問はされたくナイ死んでしまウ死ぬ死ぬシヌイタイイタイ無理むりむリムリリリリイイイイアアアアアリエナイミーがナンデ負けるハイボク逃げニゲ逃げないト殺されころころコロコロコロコロ殺されるルルル―――――――――
「ひい!!!」
サトシは咄嗟に飛び退き、後ろにいたピカチュウに当たってしまった。
ガシ、とサトシの肩を掴み、転ばないようにするピカチュウ。
自分の頭程もある手に両肩を掴まれているとなにかしらの危機感を覚えてしまうが、今はそれどころではない。
サトシはあらためてマチスを観察する。
歯をカチカチと鳴らし、寒さで凍えているかのように身体を震わせながら両手で自分を抱きしめている。
(怯えている・・・?)
そうとしか思えない。
敗北したことで、過去に拷問されたことを思いだしたのだろうか。
マチスは最初に会った時に言っていた。
敗者は、勝者の所有物であると。
その考えが真理であり真実であると。
つまりは、自分がその道理の中に嵌りこんでしまった為に、葛藤に耐えられなくなってしまっているのだ。
敗者はその時点で権利ある人間では無い。ただのモノになってしまう。
そして、モノになってしまった人間の行く末など、自身が一番よく分かっている。
そこに反抗するなどという選択肢は存在しない。
そう思えないほどに自分に刷り込んでいるのだ。
勝者が得て、敗者が失う。
奇しくも、マチスが崇拝していた軍人という生き方に、自分自身が雁字搦めにされて、思考の檻に捕らわれ、自身の考え方に恐怖し、慄いている。
憐れだ、とサトシは思った。
しかし、同情などできない。
マチスは同情されようも無いほどに奪いすぎていた。
一つの生き方として納得できる範囲を超えていた。
サトシは別に正義の味方ではないし、偽善者でもない。博愛主義者でもないし、無償で人を救い導く聖人君子でもない。
だが、サトシは自分の愛すポケモン、スピアーを亡き者にされている。
それだけで、マチスを救うなどという選択肢は根元から絶たれていた。
本当はブチ殺してやりたいところだが、それは両肩に載せられている大きな手が止めるだろう。
サトシとしてもそれくらいの正気はまだ保てているつもりだ。
まずはやるべきことをやろうと、決意した口調で目の前の憐れな男に告げる。
「マチス!」
「ヒィ!!」
顔を上げて、身体を引きずって後ろへ下がる。
身長がそこまで高くないサトシではあるが、必然的に見下す立ち位置となっている。
なるべく感情を押し殺して、サトシは要件を伝える。
一つ目は、ジムバッジを渡すこと。ここに来た本来の目的を忘れてはいけない。
二つ目は、奴隷となっていた人達を解放すること。
マチスはすぐさまオレンジバッジを差し出し、奴隷の解放も約束した。
そして―――
「―――スピアーを、地上に埋葬したい。」
バラバラになったスピアーを集め、布で包み込む。
今は、今だけは感情を出してはいけないと思って、努めて押し殺してはいたのだが、この時ばかりは目尻に水滴が溜まる。
グシグシとその水滴を擦りつけ、手が震えながらも大事に友達を抱え込む。
「ライチュウは・・・―――」
ライチュウは、動くことはなかった。
上から落ちてきた状態そのままで地面に横たわり、黒焦げになった胴体を晒していた。
ピカチュウがやった、のは明白ではあるのだが、さすがに責めるつもりは無い。
敵であったし、仕方ないとは思う。でも、ポケモンに罪は無い。
サトシは、スピアーと同じく埋葬してあげようとライチュウに近づくが―――
「ライチュウハ、ソノママデオネガイシマス・・・」
小さく、だがハッキリと言ったその言葉を聞き、サトシは立ち止まった。
マチスは下を向き、表情を隠している。
一体何を思っているのだろうか。
長年連れ添った相棒がいなくなり、悲しいのだろうか。
それとも、立派に戦った戦友が誇らしいのか。
どちらにしても、軍人ではないサトシにその気持ちがわかるハズも無い。
マチスに同情することはなかったが、マチスの相棒であったライチュウの気持ちを一番汲めるのはマチスであろう。
「・・・わかった。このままに、する。」
「アリガトウゴザイマス・・・」
静かなやり取り。
そこに交錯した思いはお互いに知れず、理解も出来ない。
癒えることの無い心の傷がジクジクと痛み、それでも強くあらんとする少年は、はたから見ると非情に痛々しい。
それでも少年は前へ進む。
進んでいないと、押しつぶされてしまいそうに思うから。