ポケットモンスター 「闇」   作:紙袋18

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第八十話 死は常に近し、また生も近し

「は、え、は?」

 

 思考が止まる。息が詰まり、呼吸ができない。

 この目の前にある、黄色いモノは一体なんだろう。

 いや、知っている。僕はこれを、この形を知っている。

 でもそんなハズは無い。そんなハズは無いのに、そんなことが起きている。

 だって、僕のポケモンにした指示は―――なんだっけ?あれうまく思い出せないなんだっけなんだっけなんだっけ??

 

 

 動揺し、視線があやふやになり、瞳孔が上下左右に細かく揺れる。

 それでも視界には、苦楽を共にした自分の友達が、随分とその身体を小さくして、二度と光を灯すことが無くなった双眸を晒している。

 

 

「か、は」

 

 

 声が出ない。

 嘘だ。これは何かの嘘。冗談の類。

 マチスはよく、ジョークを飛ばしているではないか。

 そう、これは嘘。嘘嘘嘘嘘。

 

 ヒクついた顔で、縋るような気持ちで少しだけ顔を上げて、黄色い物体を放ってきた張本人に目を向ける。

 ジョークだと、そう言うハズだ。

 だって、だって――――

 

 

 

 

 ―――――スピアーは空を飛んでいたのだから、やられる事は無いのだから

 

 

 

 

 

 マチスはサトシの顔をじっくりと観察し、ゆっくりと笑みを浮かべる。

 

 いい顔ですネ、サトシサン―――

 

 そんなことを思いつつ、マチスは口を開く。

 

 

 

「サトシサン」

 

 

 

 サトシは無反応だ。

 というよりも、次の言葉を待っている、と言った方が正確か。

 期待を込めて。ジョークですハハハと、そう言ってくれると信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 友を理不尽に奪われる気持ちはどうですカ?

 

 

 

 

 

 ああやっぱり。

 この男は最低だ。嫌、最低なんてものじゃない。存在そのものが悪で、嗜虐趣味に染まっている。

 過去に抱いたことのない、クソのような嫌悪感。

 だがそれよりも。

 長く連れ添った仲間が一部だけになり、目の前に転がっている。

 その事実だけで、十分だ。

 相手がどんな人物だろうとも、許せない。

 

 以前にも、このような気持ちになったことはある。

 トランセルのとき。

 忘れることなど出来るハズも無い。

 押し隠しているだけで、いつでもその思いはサトシの心の中で薄皮一枚で隔てられていた。

 駄目だと。

 この気持ちを表面に出してしまったら、実行に移してしまったら、自分は抑えられなくなる。

 

 

 

 ドクンドクンと、心臓が身体全体に振動を伝える。

 血の巡りが身体を熱くし、脳みそをさらに加熱する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、ダメだ、耐えられ――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気付いたら、飛び出していた。

 形振り構わず、何も考えず、一直線に、絶叫しながら、悪魔のような人間に向かって駆けだした。

 

 呼吸などできない。

 声とも思えぬ叫びが森に響き、数メートルあった距離をあっという間に縮めていく。

 

 

 ニヤリと顔を崩すマチス。

 もはや表情の機微など知る由も無い。

 怒り、憎しみ、悲しみ、様々な感情が一遍に押し寄せる。

 マチスに向かって振りぬいた十四歳の少年の拳は、笑みを零した軍人にあたる事無く空を切る。

 

 勢いは止まらず、故にマチスが少しだけサトシの進路を足で塞ぐと、何の抵抗も無く簡単に地面に突っ伏した。

 咄嗟に手を付き、身体を二回転ほどさせてうつ伏せで止まる。

 嗚咽を発するサトシ。同情に値するし、憐れでもある。

 だが、マチスはそのような感情をたとえ抱いていたとしても、それはネガティブでなく、ポジティブだ。

 嬉々として憐れみ、嬉々として同情する。

 

 

 顔を下にして声にならない声を漏らすサトシの背中に右足を載せ、じっくりと力を入れ、徐々に地面に押し付ける。

 

 サトシが抵抗できる力ではなく、数秒後には地面に頬をこすりつけ、地べたに這いつくばる。

 

 

 

 サトシは、イージーなルールに守られていた安全地帯を、勢い余って抜け出してしまった。

 

 

 

 つまり、もうサトシの身を守る壁は存在しない。

 感情によって勝負をふいにしてしまったのだ。

 冷たい地面に顔を擦りつけ、だんだんと頭が冷静になる。

 

 

「(ああ―――もう、疲れた――――)」

 

 

 自暴自棄。

 

 極度の緊張感から解き放たれたサトシに残ったモノは、何も無い。

 愛情込めて育てたスピアーが、あっという間に殺された。

 命を絶たれた。

 一体誰の所為で、そういう結果になってしまったのか。

 

 殺したマチスが悪い。うん、確かに最もだ。

 殺されたスピアーが悪い。確かに、これもまた真実だろう。

 

 だが、サトシにとってその二つは頭になく。

 

 

 

 マチスという凶悪な人間の本質を理解せず、その手の及ぶところにスピアーを投げ出してしまった、自分が最も悪いのだと、そう感じていた。

 

 

 

 極論。

 しかし、人は絶望や悲しみに追われた時、それ以外の事を考えることができようか。

「もしも」とか「たとえば」とか「だったなら」とか、そういう机上の空論が通じるのは研究室だけだ。

 ここは紛れも無く戦場で、一つの判断ミスで勝敗が決してしまうほどに繊細で、サトシは判断を間違えた。

 

 その結果が今である。

 

 サトシのスピアーが死に、自身はまんまと安全地帯の外に誘導され、地べたに這いつくばって土塗れになっている。

 

 本来は、逆の立場でなければならないのに。

 悪が土をなめ、正義が拳を天に突き上げる。

 ハッピーエンドとは常にそういう物語にならなければならない。

 

 ―――そうならないのは、ここは紛れもなく現実で、悲惨で悲劇で悲哀な事実が突きつけられている。

 

 

 

 

 ぼーっとする頭に、マチスの声が反響して聞こえてくる。

 

 

 

 

 ここに向かっている時ニ、木々の随分上に飛んでいル虫が見えたのデネ。

 木に登っテ、隙を見てナイフを投げて落としましタ。

 この森には他にポケモンはいまセン―――つまりこれはサトシサンのポケモンであるというコト。

 まだ生きていたのデ、まず翅を少しずつ刻んデ、節を折るように、肢を細かく捥ぎ取り、危険な針を根本から切り取リ、腹を捌き、首を撥ねましタ。

 ミーと云えども虫を捌いたのは初めての経験デシタ。

 なかなかいい勉強になりましたヨ?

 死に瀕した虫ケラが、どんなふうに悶え、苦しむのカが、ヨーーーークわかりましタ。

 こんな経験をさせてくれたサトシサンにはお礼をしなければイケナイと思ったのデ、スピアーの首だけ綺麗なまま持ってきタのデス。

 どうですか?サトシサン。嬉しいでショ?嬉しくて嬉しくて、涙が止まりませんカ?

 ホラホラ、サトシサンの大事なフレンドがこっちを眺めていますヨ?飛ぶための翅もなけれバ、もがく為の肢もありまセンけどネ。ハハハハハ。

 

 

 

 

 

 サトシは動けない。

 背中を力強く踏みにじられていることもあるが、力が出ない。

 精神が、サトシを動かすことをあきらめている。

 自分のポケモンの悲惨な最期を事細かく聞かされ、それが全て自分の責任だと背負い込む。

 

 十四歳の少年にとっては許容できる限界を超えてしまっていた。

 ピカチュウというストッパーがいたからこそ保てていた平常心も、もはや機能しない。

 ここに倒れているのは、心が空っぽになりかけた、廃人じみた子供。

 

 それを心底嬉しそうに見下す元軍人。

 だが、この男はまだ辞めるつもりはない。

 やめてと懇願されたところで、止めるきなど毛頭ない。

 

 まだ手ぬるい。

 マチスはこの程度で、終わらせるなどという発想はなかったし、もっと苦しめなければ割に合わないとまで思っていた。

 

 怒りと楽しみ、その両方を共存させた感情。

 マチスにとってサトシは極上の遊び道具であると同時に、憎むべき敵でもあったのだ。

 

 

 

 だが、もはやサトシにとってもそれすらもどうでもよくなりかけている。

 さっさと敗北を認めてしまおうか、ああ、でも奴隷は嫌だなあ、いっそこのまま楽にしてくれないかなあ、などと考えてすらいる。

 

 

 

 マチスはまだごちゃごちゃとサトシを追い詰めるようなことを口にしているようだが、もはや聞こえないし、聞く気にもならない。

 

 

 

 

 

「―――――――――」

 

 

 

 

 すべてをあきらめて、時計のスイッチを押そうと手を動かし始めた時、ふと違和感を感じる。

 

 

 

 

 

 マチスの死角になっている、サトシの足があるあたりの地面。

 そこが少しだけ動いたように感じた。

 

 

 

 取るに足らないような違和感。

 だが、他に考えることも無い中でのそのちょっとした現象は、サトシに残されたごくわずかの理性を取り戻すのに十分だった。

 

 

 

 

 

「(なにか・・・・なにかわすれて・・・・・)」

 

 

 

 

 

 ものの数秒。

 考えた時間はその程度。

 

 だが、その短い時間に、サトシは自分のすべきことをしっかりと思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 クッソ・・・・覚えてろマチス。反撃、開始だ!!!

 


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