森の中は人工物とは思えない程に真に迫り、迫力のある植物の猛襲だった。
不規則に並んだ木々、歩くのも困難な草むら、ぶら下がれる程太い蔓など、ここが室内だとは到底思えない程リアルで、サトシの感覚を狂わせた。
要所要所にマーキングがされており、それのみが現在地を知るための唯一の情報だった。
そのマークをたどって、十分かけてようやくサトシは自分のセーフティゾーンへたどり着いた。
「ここが安全地帯・・・九メートルって言ってたけど、周りが森だとこんなに狭く感じるのか・・・」
全ての方角を森の木々が遮断している。
上にぽっかりと空いた穴だけが天井を見ることができ、唯一そこだけが人工物であることの認識を得ることができる。
周囲を背の高い木々が覆うというのは、ここまでの圧迫感を感じることになるのか。
九メートルの円というのはそこそこの大きさのハズだが、実際立ってみると数字以上に狭く感じる。
この安全地帯という場所も、ただ単に木が無い、というだけで、露出した地面はそのままだ。
どんな場所かは確認したので、今度は森をぐるりと一周してみることにする。
マチスの安全地帯も確認しなければならない。
時間も少ないため、サトシとポケモン達は再度、森の中へ足を踏み入れた。
―――――――――――――――――――
「オー、テキジンシサツデスカ?ゴクロウナコトデスネ。」
相変わらず言っていることはジョークなようでも、顔は全く笑っていない。
マチスが不正を働いてはいないだろうかと一応立ち寄ってみたのだが、特に両陣営とも違いは無いようだった。
森の中は何処も彼処も入り組んでおり、マーキングと地図無しでは歩き回るのも困難だった。
マチスは完全に森の構造を把握しているだろう。
この時点で、マチスの絶対有利は動かないということになる。
サトシとポケモン達は、安全地帯に戻ってきていた。
ぐるっと森を回り切るのに三十分。
いくらなんでも広すぎる。
タケシとカスミのジムはここまで広大ではなかったハズだが、これもマチスがバトルを有利に進めるための仕掛けということなのか。
バトルが始まるまであと二十分。歩きながら考えてはいたが、このバトルに勝利するための作戦はまだ思いついていない。
うーんうーんと考えるサトシの周りを、スピアーが心配そうにくるくると飛び回る。
サンドは背中によじ登り、クラブはカシャカシャとはさみを鳴らす。
コイキングは未だにボールの中だ。
肝心のピカチュウは、安全地帯の周囲をきょろきょろと観察しているようだ。
一応、やる気にはなっているらしい。そうでなくては困るのだが。
なにせ、今回もピカチュウの所為で余裕の無いままバトルする羽目になっている上に、リーダーのマチスはブチ切れ状態だ。
考えうる最悪の状態で戦う事になっている。
後の祭りとはいえ、ピカチュウは一体何を考えているのか。
きっと何も考えていないんだろうな。
考えるまでもなく結論がでた問題は置いといて、本題を考える。
マチスはこの森でどのようにバトルを展開させるのだろうか。
そもそも、戦うのはポケモンなのに、何故安全地帯というものをわざわざ作り、そこにトレーナーを配置しているのか。
ポケモンへ直接命令することが出来なくなる―――でもそれはマチスも同じハズ。
森の中では単純にポケモンの練度のみが勝敗を決することになる。
命令できるのは安全地帯に戻ってきたときのみ。
――――――果たしてそうなのだろうか。
何か、見落としている気がする。
しかし、今それを考えている時間は無い。
時間は無常にも刻一刻と迫ってきている。
何も対策を立てないままバトル開始となるのが一番まずい。
残り時間は十分。
サトシは深く瞑目し、現状取りうる、もっとも安全な守備的作戦を考え、自分のポケモン達に伝えた。
―――マチスの出方が全く分からない。
使うポケモンはライチュウ。
これについては間違いはないだろう。
恐らくライチュウ対ピカチュウのバトルになるのだとは思うが、だとしたらなおさら、トレーナーが身を隠す意味が分からない。
多対一の対策だとしても、トレーナーが負けを判断する意味は一体どこにあるというのか。
サトシは腕につけた時計を見る。
一見普通の腕時計だが、ボタンが二つついており、それを同時に押すことで負けとなる。
トレーナーが負けを認めることで、バトルが終了する。
それだけ聞くと、健全なバトルだ。
最も、負けを認めてしまったら奴隷生活が幕を開けるのだが。
それを置いたとしても、優しすぎる。
ポケモンバトルだというのに、バトル以外の要素が多すぎて判断ができない。
判断力を鈍らせる、という作戦なのだとしたら大当たりだ。
本質はライチュウ対ピカチュウのみ。
そう断じればサトシも楽ではある。
だが、あのマチスがそれだけで終わるだろうか。
ぐるぐる、ぐるぐると思考が巡り、結論の出ない疑問を延々と繰り返す。
サトシも、わかってはいるのだ。結論など無い事を。
だが、これはサトシにとって現実逃避の一種であった。
考えなければ、耐えられない。
思考に身を寄せなければ、恐怖に打ち勝てない。
今までも死に触れることは何度かあった。
しかし、サトシ自身が、生きながらにして絶望への恐怖を味わうのは初めての経験。
今までは死ぬかもしれないという事実に理解はしつつも、どこか夢のような、非現実的な響きだった。
当然だ、人間は一度しか死ぬことはできないのだから。
死ぬことへの準備など出来るハズもない。
ただ、死ぬことは出来ずとも、殺すことはできる。絶望を与えることはできる。
その、『人間を絶望の縁へ叩き落とす覚悟』を、マチスはサトシに見せつけた。
死ぬことへの恐怖という形の無い、曖昧であやふやなものではなく、お前を殺す、恐怖の底へ叩き落とす、絶望を感じろ、という攻撃的で残忍で残酷な宣言をその身に受けたのだ。
サトシが怯え、震えるのも無理は無い。
ただの一般人が殺すだの死ねだの言うのとは意味合いが異なる。
本物の軍人。実際に何度となく人間を苦しめ、苦しめられてきた張本人。
メンタルで勝てるハズは無い。
サトシ個人で勝利を得るのは不可能と言っていい。
唯一の勝機は、この空間を作り上げたピカチュウしかいないとは、皮肉にも程がある。
今更。今更ながら、サトシは裏の世界へ踏み込んだことを後悔した。
しかしそれも手遅れ。
この世界へ来るか来ないかの判断は、トキワシティジムにてすでに完了している。
十四歳の少年は自分の決断においてこの場所にいる。
もはや取り消せない事実だ。
「残り時間、五分―――――」
もはや何も考えられない。
サトシの、過去最大に絶望的な戦いが、幕を開けようとしていた。
サトシ、順調に崩壊中。