喫茶店の止まない喧噪の中、ポケモン大好きクラブの会長が口を開く。
「さて、まずは、そうじゃな。サトシ君も少し成長したようじゃし、自分のことがわかってきたのではないかな?」
「・・・どう、でしょうね。」
「ほっほ、考える余地が出来ただけでも上等じゃな。どうやら本当にいろいろとあったようじゃな。」
サトシは無言で正面の老人を見つめる。老人はその視線に気づきながら、特に意識するでもなくサトシを見返す。
口元を笑顔のそれに歪ませ、まるで孫に人生の教訓でも教えているかのようだ。
無論、サトシにとってその笑顔は歪の象徴でしかない。早く済ませてしまいたい、という思いから、無言で次を促す。
促された老人も、小さく頷くと続きを嬉しそうに話し始めた。
さて、サトシ君。早速だが、君はなかなかに有名人のようだ。
―――そんな驚いた顔をしなくても、よく考えずとも自明だろう?
人型のピカチュウを連れまわし、右も左もわからないような少年が次々と裏のジムリーダーを下していっている。
一度や二度ですら驚愕だが、ニビシティ、ハナダシティ、クチバシティ、タマムシシティ、ヤマブキシティ。五度ともなればそれはもはや奇跡とも思えるほどの偉業だ。
裏の世界というのは情報の質がモノをいうが、君の情報は黙っていても耳に入る。
なんせ、裏のジムリーダーはただでさえ高すぎる壁。普通は一人倒すだけでも相当に貴重な逸材なのだよ。
それをすでに五人。しかもあのナツメまで下しおる。ほっほ、これはわしにも想像できんかったよ。
エスパーポケモンはその特殊さ故、ドーピングするにも非常に難しいタイプなのじゃが、それを限界まで強化しているヤマブキジムリーダー。
しかもそれを操るリーダーが―――まあそれはあえて言うまい。サトシ君には痛いほど、わかっていることじゃろうしの。
ん?わしはどこまで知っているのか?ほほ、それは言えんな。先ほども言った通り、情報は質が大事。つまりは、より良い情報を得るためには、それ相応の代価が必要ということじゃよ。
サトシ君も、そのような経験があるのではないかな?ほっほ。
わしがサトシ君にいろいろとお話をするのはだな、いつぞやのお礼と、あとは単純な興味本位じゃ。
いくつ歳を重ねても、興味というのは尽きることを知らないのでな。世の中には不思議な物事が溢れておる。
―――ほほ、そんな渋い顔をするな。分不相応という言葉もある。サトシ君はこのまま進めばよいということじゃ。それに進むだけの理由があるのじゃろう?他人からの情報など、君にとってはさほど重要なものではないのではないかな?
―――ふむ、強くなったのうサトシ君。わしはとても、嬉しく思う。
君のようないたいけで純真な少年が自分から裏の世界に飛び込んできた、なんてことを知った時は、なんて世の中なのだ、と悲観したものだ。もっとも、本当はわしと同じ穴の狢だったわけじゃが―――ほっほ、そう怒るでない。一つや二つ、頭のネジが外れてでもいない限り、裏の世界に飛び込む人間などおらんじゃろ。サトシ君は立派な狂い人じゃよ。少しは馴染んだかの?んん?どうじゃ?自分が狂っているという自覚は?裏の世界に生きる人間の思考というものが多少なりとも理解できてきたのではないか?自分という人間がいかに歪な存在か理解できたかの?
―――――ほっほ、そういきり立つな少年。注目されてしまうぞ?ここは公共の場所なんじゃからな。いかにも、普通の世間話をしているようにしないと、誰に聞かれていることやら。ま、そんな気にすることでもないがの。
―――さて、サトシ君が前に進む決断をし続けているというのには、正直なところ意外でもあるんじゃ。
いつ折れてもおかしくないか弱い存在。
自分の周りのことにひどく影響を受けやすい、とても安定しているとは言い難い精神。
一人では、決して進むことなどできなかったじゃろうな。
支えているのは、ポケモン達か。
ほっほ、わしからしたら到底考えられぬことじゃが、まあそれはよい。前振りが長くなってしまったが、今日話したいと思っておることは、そのあたりに関係することじゃ。
サトシ君。君は今まで、自身のポケモンをどれだけ失ったかね?
普通のポケモンにしろ、ドーピングされたポケモンにしろ、死ぬときは死ぬ。それは裏も表も関係ないことではある。
だが、サトシ君は、その自分の手の届く範囲において、何かを失うということを非常に恐れておる。
異常なまでに、じゃ。
普通の人間ならそうだろう。もちろん、その通り。だが君は普通ではないだろう?
君はすでに普通の人間という範疇から逸脱しておるということを理解したまえ。
普通の人間は、使命感などという不確定で不明確な要素で命のやり取りなどというふざけたことはしないのじゃ。
身の保身、安全、安定。それらのものを何より愛し、大事にする。それが、普通の人間じゃ。
君はそうではないのだろう?わしもそうじゃが―――変化を求める者というのはいつだってそうじゃ。
世界の理から外れようとするには膨大なエネルギーが必要。そしてそれを持つ者というのは大抵普通の生き方なおせんのじゃ。君のように、な。
しかし君はそのことを認めようとせんな。
もちろん、論理から外れることを選択するのはとても勇気のいることじゃ。たとえ自分にとっての真実だと明白なのにも関わらず、一歩踏み出すことはなかなかに難しい。その一歩を踏み出せた君になら、何があっても歩み続けることができると、そう思う。
じゃがな。君はまだ知らないことが多すぎるのじゃ。
勉強不足だとか、そういうことを言っておるのではなく、単純に経験じゃよ。経験値の無さが問題じゃ。
なんの経験値かというと、もちろん裏の世界のじゃ。このあらゆる思想、宗教、価値観、恐怖、真実、混沌、生と死が渦巻いているこの世界。君は知ってからどれだけの時間がたった?
以前会った時はまだ狂気の一旦に触れた程度、今は幾分か迷いが吹っ切れたようではあるが、それもまだ入り口にすぎん。むしろそうなってからようやくスタートに立つのが裏の世界というものだ。
サトシ君はいろいろと過程をすっ飛ばしてしまっておるのじゃ。もちろん、それに伴う理由というものもあると思うが、だがそれ故に脆い。脆すぎる。その脆すぎる人間が何故ここまでやってこれたのか。君にはわかるかね?
―――そうじゃな。君と共に歩んで来たポケモン達の存在。それが全てじゃ。
君という存在は、ポケモンと共にある。故に、ポケモンが死ねば相応の影響を受ける。それは君自身、多く経験しておるじゃろう。きっと毎度のように危機に陥っていると思うが、それを救ってきたのもまたポケモン達ということじゃろう。
一般的に見れば、愛あるポケモントレーナーと、ポケモン達との友情じゃろうか。映画でも撮れそうな美徳じゃな。
じゃがこれは現実。君が危機に陥って、自身の命を失う危険に晒された時にポケモンが救ってくれる。
この状況が今まで何度あったかね?君は何度殺されかけた?んん?どうじゃ?何回命を拾ったのかね?
―――サトシ君。君の存在はあまりにもか弱い。この裏の世界で生きていくにはなおのこと、いろいろな物事を天秤にかけながら進まなければならない。そして、裏の世界では命という尊い物ですら、単なる代価でしかないのじゃよ。
そんな過酷な世界において、君はポケモンにあまりにも依存しすぎている。
サトシ君の価値観や思想に関してはわしも非常に興味をもつが、このまま放っておくと、わしの残り少ない良心というものが悲鳴を上げるでな。アドバイスじゃ。
いいかね。君がここまでやってこれたのは、多くの物事を横に置いてきたからじゃ。考えるべきことを考えず、決めるべきことを決めず、ただ単に『目的』という形の無い物に振り回されてきているだけじゃ。それが大事なこともあろう、行動力こそが道を示すこともあろう。だが、ずっとそれではいかん。君は、考えねばならんのじゃ。
ただ進むのでは、行き止まりになった時に対処する方法が無いのだと知るべきじゃ。
ほっほ、考えようとしたことくらいはあるはずじゃ。
考えてはならぬと無意識に抑えてしまっただけじゃろう。悪いことではない。むしろ年齢と経験を考慮すれば、やむなしと言える。そうでもしなければ、心が耐えられんかったのじゃろう。
じゃが、今は。今は違うじゃろう?
君は、ようやくスタートに立ったんじゃ。そうでなければその顔はできん。ヤマブキで何があったのかは知らんが、きっとそういうことなのじゃろう。
受け入れ、前進する。
それができるようになって、ようやく前が向けるのじゃよ。
前を向いたら、考えなければならん。
行き当たりばったりで行動するには、この旅はあまりにも無謀だと、今はわかるじゃろう?
君の信念、思想、達成すべき目的、愛すべきポケモン達、そして自身の命。
全ての物事は天秤に載せる部品でしかない。
比べれば片方は落ちる。それが天秤というものじゃ。常に心の中に天秤を持つのじゃよ。
目の前にある物事に対して、差し出すものは何か。優先すべき事象は何なのか。それを冷静に判断できてこそ、裏の世界を生き残る術というものが身についていくのじゃ。
よいかサトシ君。自分を持ちなさい。自分を否定してはならぬ。狂気が渦巻いていようとも、日常から切り離されようとも、君自身は君自身なのじゃ。
戸惑いは恐れ。恐怖は死。正しく自身を認識していなければ、物事は悪化する一方じゃ。
わしが言いたいことというのはそれじゃ。
ほっほっほ、ちと難しい話じゃったかな?まあそれもよい。
じっくりと自分でかみ砕き、理解し、周りに流されず、自分の判断で進むのじゃ。たとえ何があろうともな。
―――ん?なんでそんなことを教えてくれるのかって?ほっほ、それはな。老後の楽しみというやつじゃ。
サトシ君という存在が世界を変えるのであれば、さて一体どのような世界になるのか楽しみじゃ!善きにしろ悪きにしろ、楽しみにしておるとも。ほっほっほ。
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喫茶店から出る頃には、周りはすでに夕暮れ時となっていた。
遊んでいた子供も家に帰り、今頃は暖かい食事を待っている頃合いだろう。
「・・・・・」
日常であったはずの光景も、今のサトシには遠い昔のことのように感じた。
まだ数か月程度。それでも日常と隔絶された世界では、それ以外の記憶を猛烈な速度で過去へと押しやる。
―――戻れるだろうか。今でも、自分は元通りになれるだろうか。
「―――・・・」
無言で小さく首を振る。
その答えは、考えずとも出ている。出てしまっている。
「さて、わしは帰ることにするよ。夕食の準備をせねばならんでな。ほっほ。」
ポケモン大好きクラブの会長は、そう言ってスタスタと歩き去ってしまった。
本当に言いたいことを言いたいだけ言って、満足して行ってしまった。まったく、あの老人は本当に好きになれない。
「考えろ、か。」
口をついて出るのは会長のありがたいお言葉。
悔しいが、ズンズンと図星を刺されながら聴いていただけに何も言えない。
人の心の中が視えるのだろうか?
だからこそあのような歪んだ存在になってしまったのかもしれない。
結局『狂ったままでいいんだよ』って結論をにこやかに話していただけに、決して信用してはいけない人間ベストスリーに見事にランクインだ。まったくめでたくない。
―――考えるべき。それはわかっている。わかっているのだが。
何気なくピカチュウの方を向く。
いつの間に取ったのか、シルフスコープをつけて周囲をぐるぐると見まわしている。
それを取り上げて、自分につける勇気は、今は無い。
「それでも、僕は進まないといけない。考えながら。進む。」
「ピカピッチャ」
ピカチュウが服のすそを引っ張る。
一緒に進もうぜ相棒!みたいなノリかと思ったが、口からよだれが出ているところを見ると晩御飯の催促のようだ。
夕日が名残惜しそうに水平線から姿を消す。
今日は夕食をとり、明日クチバシティを出立することにする。
そして、よだれの垂れたピカチュウを連れて夜のクチバシティでレストランを探すのだった。