さて、サトシ。
そろそろ続きを話そうか。何、大丈夫だとも。十分に休んだとも。それに、早く話し終えてしまいたい。あまり長い間話したいとは思わない。しかし、話さなければならない。
サトシ、聴いてくれ。背負ってくれ。
――――どこからだったか。
そう、妻が、かえってこなかったというところだったね。
最初は何かの間違いかと思ったよ。
きっと実験が長引いているんだと思った。
しかし連絡は無く、私はナツメと共に家で待つほかなかった。
二週間待っても妻は帰ってこなかった。
私はムロを信用し、黙って待ち続けた。
三週間待っても妻は帰ってこなかった。
さすがのナツメも妻の行方を気にしていた。
二か月が経つ時、私は我慢の限界だった。
ナツメを連れ、足早にムロの研究所へ向かい、そして―――絶望した。
研究所に出向くと、ムロはすぐに出迎えてくれた。
その雰囲気は別段、二か月前と大差なかったし、むしろ上機嫌とも思えた。
私は問いただした。
一週間で終わると言っていたハズが、もう二か月だ。妻は無事なのか。実験はどうなったのか、と。
私はこの時に気づくべきだったのかもしれない。
この男の、ムロの思考が、何か黒いものに覆われてうまく読めないということに、もっと強く違和感を覚えるべきだったのだ。
しかしこの時の私はそんなことすら気にも留めないほどに心配だったのだ。妻のことが。
そんな私の心境など気にも留めず、ムロはにこやかにこう宣言したのだ。
実験は成功したよ。君のおかげだ。
私は茫然としたよ。
ナツメにはその意味がよくわからなかったようだけどね。それは唯一の幸いだったのかもしれない。
しかし、私はすぐに我を取り戻し、再び問いかけた。
成功したのであれば、なぜ妻は帰ってこないのだ、と。
私は確かに聞いた。実験は一週間で終わると。そしてムロは今「実験は成功した。」と言ったのだ。
ならばなぜ、妻は私の元に戻っていないのか。私の妻、ナツメの母は一体どこにいるのだと。
ムロはうんうんと何度か頷いた。
その顔は笑顔で、いつものように迷いも躊躇も無い、自信に満ちた顔だった。
まるで私が今ここにいることすら、想定していたかのように。
科学者とはこと「想定」という不確定要素の追求に関しては、エスパー以上に超能力染みている。
そのことは私自身、当時は信じれられなかったが、今となっては私は科学者という存在そのものに恐怖を覚える。
顔をあげて、目を薄く開けてこちらを見つめたムロは、私にこう言った。
―――実験は一週間で終わると言ったが、君の妻が一週間で戻るとは、言った覚えがないのだがね。
その時、私は本気でこの男を殺してしまおうと思った。
だが、私には理性があった。それにナツメもいる。ここで人を一人バラバラに跡形もなく消し飛ばせば私の気は多少晴れたのかもしれない。しかしそれではナツメに消えない強烈な記憶を植え付けえてしまう。それに、妻の行方をまだ聞いていない。それを確認しなければ、私はさらに自分の中に闇を作り出すことになってしまう。
ニコニコとしているムロに、妻の行方を尋ねる。
ムロはこう答えた。「ついてきなさい。ただし、ナツメちゃんはダメだよ。君も、その子に実験など見せたくないだろう?」
その時のムロの表情は本当に優しげで、悪意の欠片も無いようなものだった。
とても印象的で今でも目に浮かぶ。
あの悪魔のような男の笑顔は、ひどく頭にこびりつく。
――ともあれ私もナツメを連れていきたいとは思わなかった。ナツメの目の前で私が取り乱してしまうと、さらに不安にさせてしまう。
この時はナツメも幼かったから、人の頭の中を正確に視ることはできていなかったのが幸いだった。
ナツメを研究員に預け、その部屋で待機してもらい、私はムロと共に研究所の奥へと足を進めた。
私自身も何度も出入りしている場所だ。特に珍しいこともなく進んでいったが、ある階段を降りている途中でムロは足を止めた。私もムロの背中を前に、足を止めた。
ムロが壁を前にし、壁に手を触れると、重々しい音と共に人が一人通れるほどの通路が現れた。
二コリと微笑を零すと、ムロはその隙間に身を滑らせた。
私もそれに続き、暗い通路に足を踏み入れた。
通路はオレンジ色の蛍光灯が不規則に弱弱しく灯り、灰色のコンクリートを照らしていた。
二つの足音が響き、時々低い機械の駆動音が聞こえる中で私とムロは無言でゆっくりと歩く。
私は後ろからついていったからムロの顔を確認することはできなかったし、何故か頭を視ることもできなかった。
その時は気が動転していたと思っていた。
長い通路を数分歩くと、扉が見えた。
これまでの通路の雑さからは想像できない、高度なセキュリティに守られた扉だ。この先に妻がいるのだろうか。
ムロが指紋認証と目の虹彩認証を同時に行うと、電子的な高音が鳴り、機械的な駆動音が三度響く。
随分厳重なセキュリティだな、と私はムロに問いただす。
それはもちろん、トップシークレットだからねえ、とムロは答える。
何の意味もない会話をし、ムロは重そうな扉を両手で押し開けた。
暗かった通路に強烈な光が差し込む。
あまりの明度の違いに私は目を閉ざした。
―――さあ、目を開けたまえ。君の求めたものだよ。
ムロの声が聞こえ、少しずつ目を開ける。
徐々に目を慣らし、光の先にあるものに視線を定める。
そこには見慣れた顔はたしかに存在した。
私は、膝をつき、身体を震わせ、自分の目を疑った。
―――どうだい?美しいだろう。これが研究の成果だ。君の妻はまさしく、実験を成功に導いたのだ。
ムロはそう高らかに宣言した。
微塵も躊躇う事無く、一片も後悔した素振りを見せず、自慢気に、実験は成功した、と宣ったのだ。
彼はこの光景を何度見たのだろう。
一体どれだけ、これを目の当たりにしたのだろう。
何も感じずにいられたのだろうか。ムロは、他の研究員は、ただただ研究の成果だけを追い求めることに疑問を抱かなかったのか。
―――きっと抱かなかったのだろう。
そんなことなど、どうでもよいくらいこの研究の結果が魅力的だったのだ。
そうでなければありえない。ありえて良いハズが無い。
なあムロ———
なんだい?
君は何も感じなかったのかい?
感じたとも。素晴らしい研究の成果に対する、喜びを。
私は泣き崩れた。
頭と脊椎だけで液体の中に管でつながれている妻の姿を前にして。
―――――――――――――――――――
「―――・・・・・」
「そうだ、サトシ。君が今考えている事を、私も考えた。一体、どうしてそのような行動がとれるのか、甚だ疑問だったとも。あまりに残忍で、非道で、救いようのない外道だ。」
「それで、その後はどうしたんですか・・・?」
「その後か。その後は―――」
―――――――――――――――――――
―――無駄だよ。この研究の成果は私の理論をより強化したのだ。どうだい、エスパー能力は使えるか?ははは。使えまい。私の研究は、さらなる高みへと昇り詰めるのだ!
私は全力をこめてこのムロともどもこの研究所を破壊しようとした。
だが、能力は発動しなかった。
この男はエスパーの理論を解析し、それを防ぐ研究も行っていたのだ。
ムロの思考が常に黒い靄に覆われていた感覚の答えを、ようやく理解した。
あれは私の感情によるものではなく、エスパーを遮断する実験そのものだったのだ。
私がその違和感に最初から気づいていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。だが、すべては遅すぎたのだ。
エスパー能力が失われたこの状況で、私が成せることは皆無に等しい。
叫んだところでどこにも声は届かない。
研究施設の一室。
この場所には私のすすり泣く声と、妻だったものが入った大きなシリンダーが放つコポコポという気泡の音だけが響いていた。
失意に沈んでいると、ムロが口を開いた。
―――君の奥さんだがね、これでも生きているんだよ。感動の再会をさせてあげたくてね。これも科学の進歩の賜物だ。彼女は非常に役に立った。おかげで当初の目標は大方達成できた。
だが、まだ足りない。今度はもっと大きな力のエスパーが必要だ。
わかるかい?おっと、今は思考は視えないね。ははは、そう、ナツメちゃんだ。両親がエスパーとして生まれたあの子の潜在能力は想像を遥かに超えるものだよ。あの子の力があれば、研究はさらに進歩するだろう。
―――ナツメに手は出させない・・・
そうか。我々の庇護下から外れると、そう言うのかね?今更普通の生活に戻れるとでも?無理だね。より強力なエスパー能力。コントロールも覚束ない状態で、一体どうやって通常の生活が送れると?
理解も無い、仲間も居ない、そんな状況で、どうするのかね?君が守れるかね?
―――理解したまえ。感情に流されて大事な娘を失いたくはないだろう?
それとも、ここに連れてこようか?ナツメちゃんを。
お母さんと対面させてあげるのも優しさだろうからね。優しいお父さんも大変だ。ははは。なに、安心したまえ。ナツメちゃんはあんな姿にしないとも。非常に有用な実験体だ。大事に、大事に扱うとも。ああ、これから楽しみだ。ははははは。
私はどうすることも出来なかった。
ただただ、自分の愚かさと無力さを痛感し、妻とナツメに懺悔し続けるしか、私に残された道は無かったのだ。
最初からこの男など信用しなければ。
妻を娶ることなど夢物語と一蹴していれば。
一生を道化として過ごしていれば。
数えるのも億劫になるほど後悔した。何度も死のうと思った。
だが、私が死んだところで一体何が変わるというのか。
生物学的にという理由だけで変わり果てた姿で生かされている妻。
一体どんな実験をされているか想像もできない愛娘。
私はそれからただの一度もナツメに会っていない。
完全に切り離された。
情報を漏らさないための生贄のようなものだ。
私と妻、そしてナツメの関係に関する資料、情報は徹底的に改ざんされ、すでに証拠など何も残っていない。
私は一人になった。
何もできない、何もできなかった、ただの一人のエスパーになった。
こんな能力、捨ててしまいたかったが、捨てようと思って捨てられるものでもない。これは呪いのように私にのしかかる。
意識せずとも周囲の声は私の脳へ入ってくる。
一番聴きたい声はもう二度と聴こえないというのに。
次第に私は自分というものがよくわからなくなってしまった。
そして、どうでもよくなったのだ。
笑ってくれていいのだ。全てを見捨てた男だと。
全てを諦めた男だと―――
―――――――――――――――――――
「―――これで、私の話は終わりだサトシ。もはや私には何も残ってはいない。」
「ナツメは―――なぜジムリーダーに?」
「さあ、わからない。私がそのことを知ったのも、偶然頭の中に聴こえたからでね。ただ生きているというだけで、私には救いだった。たったそれだけで、私が生きている意味があるのだと思うしかなかった。」
「何故・・・その話を僕に?」
「・・・さあ、なんでだろう。サトシ。君が万が一ナツメを倒せたとして、何が変わるというわけでもない。だけどね。ナツメは。ナツメは。とても優しい子なんだ。だけど、あそこに行ったトレーナーの大半は、自分を壊す。」
「自分を・・・壊す?どういうことですか?」
「わたしもよくわからない。わからないんだ。恐怖か、混沌か、深淵か。とにかくぐちゃぐちゃになっているんだ。本当にわからない!ああああ!!わたしはサトシをあの場所へ送るのか!!また!わたしの様に!!」
エスパー親父はそういって、自分の頭を強くテーブルへ叩きつけた。
「ちょ、何してるんですか!?」
サトシの制止になど耳を貸さず、エスパー親父は何度も何度もテーブルに頭をぶつけ続ける。
「わたしは!もう!失いたくは!ないのだ!なのに!!」
エスパー親父はゆっくりと顔をあげ、血で滲んだ額を抑える。
「―――この掌からは、すべてが零れ落ちていく。」
壮絶な過去