ポケモンタワーの各フロアの天井はそこそこ高い。ピカチュウがしっかりと立ってもまだ余裕があるところを見ると、ゆうに三メートルはありそうだ。
狭苦しい空間だと霊も休まらない、という気を利かせたのかもしれない。それ自体は非常に素晴らしいことだと思う。
だが、サトシの身長の倍はありそうな天井の高さに届く身長の持ち主で、尻尾はそれよりもさらに長い化け物がサトシを見下しているともなれば、広い空間であることは決してプラスでは無いと、この時ばかりは思える。
狭ければ逃げられる可能性も高くなったというもの。墓石が乱立しているとはいえ、相手にとってもそれは障害となるハズ。
小柄な分サトシが逃げる方に多少の分があるのでは、と考えたのだが、あいにく身長制限はこのフロアには無い。
目の前の血みどろな化け物にとって、行動を制限するものは雑多に並べられた墓石しかないだろう。
もっとも、それすらも邪魔になるかどうか怪しいほどの膂力を持っていそうではあるのだが。
「グシュウウゥウウウ・・・・ガララグガギ」
眼球の無い眼窩をサトシに向ける。目が無いのに視線を感じるとは思えないのだが、サトシは間違いなく視られている、という感覚を覚えている。
サトシは尻餅をついたままガラガラから目を離さないでいる。いや、離せないでいる。
一瞬でも目を逸らしたら、左手に持つ鋭利な骨で貫かれるか、サトシ三人分ほどの長さを誇る尻尾で薙ぎ払われるか、はたまた血管が浮き出てパンパンに張りつめた脚でぺちゃんこにされるか。そんな未来が容易に想像できる。
そういえば、とサトシは思う。
サトシ自信が直接的に死の危険にさらされた経験はほとんどない、という事実。
ポケモンバトルの後、死の運命をたどるのではという展開はいくつかあった。
だが、数秒後にはサトシの首が胴体と切り離されているかもしれない、という直接的な暴力にさらされることは無かった。
あくまで、「健全な裏バトル」の枠の中で戦っていたのだ。猪口才な頓智を使って辛うじて勝ち進んできたサトシにとって、知恵も知識も不要な、単純な暴力による争いを前にすることがどれだけ危険なことであろうか。
作戦も、感情も、何もない。
あるのはただただ怨恨。肉体を失って尚、何かを恨み続けて現世に漂う怨霊。
緊張―――
だが、この緊張は少しの切っ掛けでプツリと切れ落ちる。
瞬きも呼吸も出来ない空気の中で、意を決してサトシが動く。
「―――ピカチュ」
最後まで告げることなく、サトシの横を一筋の黄色い閃光が通り抜ける。
そして、サトシの十数センチ先まで迫っていた鋭利な骨を持つ手を握りつぶすかのように掴んで止めた。
数メートル離れていた距離を一瞬。
ピカチュウの反応が一秒でも遅れていたならば、今頃サトシの顔面は大きな穴が開いていただろう。
「う、うおおおおおおおお!!!」
手と足をバタつかせて後ろに全力で下がるサトシ。
冷や汗どころではない。
全く見えなかったのだ。幽霊さながらとでも言おうか、動作の始点すらもサトシの目で認識することができなかった。
いや、本当に幽霊なのだとすれば消えたりすることも可能なのか?
それであれば物理的に接触できることが説明できないが、そんなことはもう今考えていても仕方がない。
ドッと大量に吹き出した汗で全身がぐしゃぐしゃになり、心臓が普段の三倍速く鼓動を打つ。一度たりとも瞬きしてはならないと見開いた目。もちろん泣きそうだ。
サトシにできることは格好悪いことなどお構いなしに、手も足も全身を使って後ろに下がることだけだ。
視線を外すことはできない。
ピカチュウがガラガラの腕を止めているとはいえ、ピカチュウを遥かに上回る身長と筋肉。
過剰にドーピングされたであろう血管の浮き出た腕はピカチュウのそれよりも一回りは太い。
明らかに基礎能力がピカチュウよりも上。それに加え、思考しながら動く生物と、思考を放棄した化け物では根本的に反応速度に差が生まれる。
さらに言うならば、ピカチュウは守るべき主人という枷が嵌っている。相手は当然、命すらも守るべき対象には含まれていない。
通常のポケモンバトルにおいては自分の命は自分で守る、などとのたまうことが出来たが、今回は無力。
空元気すらも張る意味を持たない程に強力で、絶望的。
兎に角、目を離さずに少しでも離れることがサトシにできる最善。気を緩めれば即刻、死が待っている。
(やばいやばいやばいやばいやばいってこれ!!!)
サトシが脳内危険アラートを大音量で鳴り響かせている中、ガラガラが空いている右手を大きく振りかぶり、ピカチュウに向かって振り下ろす。
ピカチュウは後ろにのけぞり躱す。必然的に掴んでいたガラガラの左手を離すことになるが、振り下ろした右手が床を大きく陥没させたことを考えると致し方ないことだ。
なにはともあれ、ピカチュウが時間を稼いでいる間になんとか階段まで戻って逃げなければ―――
と、そこまで考えていたことが一瞬で真っ白になった。
ガラガラがピカチュウを押しのけてサトシに向かって走ってくるのを目撃してしまったために。
左手の骨をサトシに向け、一気に突き刺そうと身体をひねる。
景色がゆっくり流れる。このゆっくりな流れの中、サトシだけが普通に動けるのならば回避もできるかもしれないが、現実は非常だ。
所謂、走馬灯のようなものを見ているのだろうか。
しかし、サトシをめがけ突進していた化け物がガクンと急停止し、後ろに引っ張られるようにサトシから猛スピードで離れていき、墓石をいくつかなぎ倒して床に追突した。
ピカチュウがガラガラの長い尻尾をガッチリと腕で挟むように締め付けて前進を止め、綱引きの要領で引っ張り、床に打ち付けたのだ。
「はっ、はっ、はっ、はあっ―――」
ありえるだろうか。
目の前で自分の攻撃を止めていた相手を無視し、逃げ回っている人間へ一直線に向かってくることなど。
ましてやその相手はピカチュウ。
能力だけでいえば非常に高い相手。油断すれば手痛い反撃を食らうことは必至。
にも関わらず、理性を飛ばした化け物は自分へ敵意を向ける相手ではなく、逃げ惑う人間を殺そうと向かってきた。
ポケモンバトルではありえない。
そもそもポケモンが意図的に人間を襲う話など聞いたことが無い。
基本的には人間に友好的な存在で、トレーナーアタックなどという凶事が存在するのも、トレーナーの命令ありきのことだ。
目の前のポケモンらしきものは、そんな都市伝説を信じる方がおかしいと言わんばかりに襲い掛かってきた。
いや、これはポケモンという区切りではなく、この目の前の化け物が有する何か。
この世に縛りつけられている理由。
唯一、達成すべきと無意識化に刷り込まれている目的。
「人間を・・・恨んでいる?」
崩れた墓石の中に音も立てずに立ち上がる黒く巨大な影。
中身の無いハズの眼窩が赤く光り、同じ穴から流れ落ちる液体をさらに紅く照らし上げる。
手に握りしめる尖った骨をさらに強く圧迫し、浮き出た血管を破裂させ、血が噴き出る。
ピカチュウはガラガラを放り投げた後、サトシの前に滑り込むように移動している。
ガラガラの空っぽの目には何が映っているのだろうか。
ほんの数秒の空白。だが、それを維持する理由は少なくともガラガラには無い。
故に、その空白の時を絶つのも憎しみに憑りつかれた亡霊だろう。
ガシ、とガラガラは近くの砕けた墓石を右手でつかみ、ヒビが入るほどの握力で把持した石を振りかぶって―――投げた。
片手で投げられる大きさだっただろうか?と無粋なことを考える余裕が多少生まれたのは、前にピカチュウが陣取っていたことによるものだろうか。
なにせ、サトシの周りに見えている多くの墓石は一辺五十センチメートルはあろうかという巨石。
墓石としては小さいのかもしれないが、片手で投げられるかと言われれば、サトシは今後こう答えるだろう。
「投げられる存在に遭遇したくない。」
放物線でなく、直線で飛んでくる質量の塊。
ピカチュウが電撃を蓄えた拳で撃ち落とす。
右に逸れる形で床に叩き付けられた墓石はいくつかの欠片に砕かれ、サトシの周りに散らばる。
だが、それに意識を奪われている時間は無い。
次々に巨大な石がロケット砲のようにピカチュウとサトシを襲う。
振りかぶって投げる。
投げ放った手でそのまま別の石を掴み、返す手で投げる。
本当に片手で投げているのかと疑問を抱くほどにその繰り返す所作は非常に速い。
そのすべてがこちらに猛スピードで飛んでくる。
それはピカチュウを狙ったものか、サトシを狙ったものか。
ピカチュウは回避することは許されない。
すぐ後ろでサトシが行き場を失い身を縮こまらせている。
事実、ピカチュウの後ろから少しでも横に出たらガラガラの放つ塊はサトシの胴体を半分にしてしまうだろう。
撃ち落とすしか無い。一発一発が即死の威力を持つ破壊の塊。
如何に電気で強化しているとはいえ、生身の拳。
尻尾でのたたきつける攻撃であれば岩を砕くこともそこまで難しくは無い。
だが、身を捻って繰り出す尾撃はこの連続で飛来する攻撃を相手にするには隙が大きい。
故に手詰まり。
兎に角、投げる石が無くなるまでピカチュウは拳が血に塗れようとも骨が砕けようとも打ち払い続けるしかないのだ。
もちろん、部屋を埋め尽くすように乱立する墓石とはいえ無限ではない。
ある程度の時間が経過するとガラガラの周囲には崩れた墓石は無くなり、攻撃の手は収まる――
ハズも無く、巨躯とは思えないスピードでガラガラそのものが飛びかかってきた。
「・・・!・・・・・!!!」
サトシはがむしゃらに後ろに下がる。
ばら撒かれた墓石の欠片に躓きながらバタバタと逃げ惑う。
それを庇うようにピカチュウはガラガラの攻撃を防ぐ。
未だに攻撃対象はサトシのようだが、逆に考えればピカチュウは攻撃されないということ。
自分の防御をあまり考えずに攻撃に移れることはサトシを守る事にもつながる。
飛びかかるガラガラをあえて回避せず、ピカチュウも大きく前へ踏み込んで懐に入り、全身で三メートル近い巨体を止め、そのままがら空きの腹に両手で拳を突き立てる。
一撃一撃が必殺の威力。肉がちぎれ、骨が砕ける音を毎回響かせる拳の連打を打ち込み、反転して尻尾のたたきつけるをお見舞いする。
下に振りぬかれた尻尾をまともに頭に食らって床にへばりつくように叩き付けられたが、その反動でそのまま立ち上がり、長大な尻尾で周囲の墓石ごとピカチュウを打ち払う。
尻尾の根本部分で直撃したにも関わらず、大きく弾かれ墓石を派手に破壊しながら床に倒れる。
すぐに飛び上がるように立ち上がり、サトシへ向かおうとするガラガラの頭を高速移動で蹴り飛ばすが、脚を掴まれ床に叩き付けられる。
だが、すぐに身体を横に回転させ、ガラガラの後頭部を尻尾で叩き付け、顔面から床へと打ち抜く。
「・・・・・・・・」
サトシは何もできなかった。
飛散する墓石と床の欠片から頭を守ることしかできない。
すでに逃げる先の階段の場所すらわからなくなってしまっている。
何もできない。
しかし、サトシには経験がある。
戦いにおいて、サトシが何かできる場合の方が少ない。
そしてそういう時にこそ、狭まった視野が徐々に広がり、全体を見渡せるようになる。
恐怖に打ち震えるだけの普通の少年、という位置づけにするにはサトシの危機的な経験は多すぎる。
つまりは見えるのだ。いろいろなものが。破壊の権化と化している亡霊だけではなく、この室内の状況。
そして見つけてしまう。この状況にあまりに不釣合いな存在がいることに。
六階には生き物どころかガラガラ以外の幽霊はいない。
そのハズなのに。
墓石の影をトコトコと歩く小さい姿が見えてしまった。
ありえるのか―――?そんなことが?
「――――カラカラ・・・?」
自分の頭より随分と大きいブカブカな頭骨をかぶり、キョロキョロと頭を振りながら歩いている生き物がいる。
亡骸と幽霊しかいないハズの、このポケモンタワーに。