いわゆるデートというやつではないだろうか。
ローズヒップさんを食事に誘ったのは良いものの、前日になって突然そんな思考に囚われた。
デートだとしたら人生初の出来事であることは間違いないし、いったいどのように対応するのが正解なのかわかりかねる。髪型はしっかり整えたほうがいいんだろうか。服装は普段の白衣ではまずいだろう。ぼくは押し入れの中にしまいこんだシャツとサマージャケットを取り出し、すっかり背が伸びなくなったことを感謝した。
おそらく向こうはこんな年上の男と食事をする程度でデートとは思ってくれないだろうが、少なくとも彼女に恥ずかしく思われない程度には身ぎれいにしておきたい。ぼくはそれから夜遅くまで整髪料を付けて髪型を整え、何度も鏡の前に立って服装がおかしくないかチェックをおこなった。
自分でも情けない話だが、研究以外で女性と出かけるという経験が初めてということもあり、まるで高校生になったかのように気持ちが浮ついてしまうのを感じる。とはいえ勉強ばっかりしていたぼくがあのまま高校に通い続けたところでそんな経験を出来たかは疑問だ。あと冷静になって考えてみると二十一の男が女子高生と出かけることを考えて色気づいているのも道徳的に問題がある。
結局ぼくは鏡の前で何度も「お礼をするだけ」と繰り返し、精神統一を行ってから眠りについた。理性こそが人間を人間たらしめる。ぼくは理性ある人間だった。
とはいえ翌日待ち合わせ場所にたどり着けばそわそわと緊張してしまうのも無理はない。無理はないと思う。
なんだか足が熱を持ったようになり、ぼくは靴の中でもぞもぞと指を動かし続ける。昔から緊張したり不安になったりすると足が熱くなる。思えばサンダル以外の履物も久しぶりだ。密閉された革靴がこんな状態にさせているんじゃないかと、靴を脱ぎ捨てて足を拭きたくなる欲望を抑えつつ彼女のことを待った。
日差しがまぶしく、肌に痛い。ここ数年ですっかりひきこもりのような生活が板についてしまい、他のひとたちのように民間と関わりを持つこともないぼくは完全に世間とずれていた。
いや、そういえば一度だけコンビニでアルバイトしてみたことがあった。お金に困ってとかではなく、自分もそういうことをしてみたいと思ってのことだったが、覚える仕事が多すぎるしレジに立つと緊張してしまって三日ともたなかったことを覚えている。
再び実験の結果を思い出す。ぼくから研究を取ったら何が残るだろう。きっと何も残るまい。展延性関連の特許があるから生涯生活に困ることは無いだろうが、ただそれだけだ。ぼくはきっと早晩自分の居場所を見失って頭がおかしくなってしまうに違いない。
気分が落ち込んでくるのを感じると、ちょうどそのとき道の向こうに見慣れた赤毛が目に入ってきた。こちらに気が付いて遠慮がちに手を振る彼女にぼくも緊張しつつ手を振り返し、なんとなく気まずい思いになりながら信号が変わるのを待つ。いままでの人生でこれほど信号待ちが長く感じたことがあっただろうか。
ようやく信号が青に変わると彼女が駆け足でこちらに近寄り、元気よく挨拶をしてくれる。昼ごろの駅前にその声はよく響いたが、いまぼくは周囲からどのように見られているのだろう。通報されたりしないと良いが。
「加賀さん、今日は普段と違う格好ですの」
「さすがにぼくだって女性と出かけるときに白衣とサンダルでは来ませんよ」
そう答えると彼女は首をかしげて「女性……」と呟いていたが、すぐに笑顔でこちらに向き直る。まさか自分が女性であるという実感がないわけではないだろう。
「それより、ローズヒップさんは制服姿なんですね」
「うっ、聖グロは校則で外出する時も制服と決められてますの……」
苦い顔で答える彼女に、それは若いのにつらい話だと同情する。きっとこの歳の女の子ならば可愛い服を着飾っておしゃれをしたいだろうに、お嬢様学校というのは常にそうした自覚を求められるのかとため息が出た。
いつまでも駅前にとどまっていては暑さにやられてしまうと提案し、ぼくは彼女と連れ立って近くの大きなショッピングモールに向けて歩いていく。道すがら彼女に尋ねたところによると聖グロには他にも厳しいものから意味不明なものまで様々な校則があるそうだ。ぼくは授業もそっちのけで開催されるアフタヌーンティーの話を聞いて笑い、それは楽しそうだなあと笑う。
「加賀さんの学校にはそういうおかしなことはありませんでしたの?」
「ぼくは良くも悪くも普通の学校だったよ。それにぼくは途中で行かなくなっちゃったから」
ぼくのその言葉にローズヒップさんの表情がサッと変わり、少しだけ身を反らしながら不安げな表情でこちらを見上げる。
「もしかして、不良でしたの……?」
その言葉に一瞬遅れて笑い声をあげ、ぼくを不良だと思うならいじめられていたと思う方がよっぽど可能性が高いなと想像する。ぼくは馬鹿にされたと思ってむくれる彼女に謝り、すぐに高校時代の話をはじめた。彼女は当初ふんふんと興味深げに頷いていたが、やがて眼を大きく見開いてすごいと褒めてくれる。
「じゃあいま私たちが戦車で突っ込んでも掠り傷で済んでいるのは加賀さんのおかげですのね!」
彼女の言葉にぼくは曖昧に返事をし、本当ならばかすり傷ひとつ負ってほしくはないのだが、と頭をかく。
ぼくはなおも言い募る彼女をまあまあと抑え、目星をつけておいたショッピングモール内のパフェの店へと彼女を案内する。ここは以前から自分一人でも来ていた店であるため味やフルーツの新鮮さに関して一切心配がない。職業柄甘いものを食べて脳に糖分を回すのが恒常化しているためこういった甘味の店に詳しくなったのだが、彼女は喜んでくれるだろうか。女性のすべてが甘いものを好きだとは限らないが、統計的に多くの女性が甘いものを好むというデータは多く見たことがある。
入店してテーブル席で向かい合うと、彼女は落ち着かなげに当たりを見渡していたが、やがてメニューが運ばれてくると目を輝かせて品定めをはじめた。どうやらパフェは嫌いではないらしい。ぼくは誰にも気づかれないように安堵のため息をつき、彼女に向けてよければぼくの分まで選んでください、と声をかける。
「ぼくはもう何度も来ているので大体食べちゃってるんですよ。いくつか迷ったらぼくのぶんも一緒に選んでいただいて良いので、はんぶんこしましょう」
その言葉に彼女はこれまで以上に熱心にメニューを吟味し始め、結局イチゴがふんだんに使われたものとバナナとチョコソースがかかったものを選んだ。まずぼくがバナナとチョコソースのものを食べ、半分程度食べたところで容器だけを彼女と交換する。どちらも甘くひんやりとしており、夏の午後に食べるにはぴったりだった。
ぼくは嬉しそうにパフェをほおばる彼女を見ながら喜んでもらえたことに安堵し、実験に付き合ってくれたお礼を出来たようでほっと一息ついた。それでぼくも安心してのんびりとパフェを食べ終え、それから手元におかれた水をひと口含む。するとローズヒップさんもいつのまにか目の前のパフェを食べ終わり、考え深げにこちらを眺めていた。
「やっぱり実験はうまくいきませんでしたの?」
そう尋ねられ、ぼくは深く息を吸い込んでから「そうですね」と答える。彼女の身の安全のことばかり考えていたが、どうやらいつのまにか暗い表情をみられていたらしい。
社会人として失格だなあと思いつつも、社会人としての自覚などどう持てばいいのかもわからず苦笑する。
「そうですね。今回は完全に失敗しました」
ぼくの答えに彼女は目に見えて申し訳なさそうな態度になり、その様子に慌てて次の言葉を紡ぐ。
「ですがここまでの失敗で次の道が見えてきました。無駄じゃありません。次の実験では必ず成功させて見せます。……ローズヒップさんのおかげです!」
彼女がほほ笑み、ぼくは絶対にばれないように安堵のため息をもらす。足が熱くてたまらず、靴の中で指をこすりあわせるようにしてもぞもぞと動かした。思い返してみるといままでに被験者の協力を募った実験などしたことがないわけで、彼女の心理状態のケアもこちらの仕事の範疇じゃないかと思い直す。
ぼくがしっかりしなくてどうする。ぼくはもう一度彼女の方を見て微笑み、大丈夫だということをしっかりと態度で表現する。その様子に安心したのか彼女はリラックスするようにもう一度椅子に座り直し、それからもう一度ぼくに向けて口を開く
「……でも、どうして加賀さんはここまで戦車の安全性にこだわりますの?」
そう問われ、なぜそんなことを質問するのだろうと考える。ぼくはこの実験について疑問を抱いたことは一度たりともなかったが、彼女からするとそうではないらしい。ぼくが黙ったまま次の言葉を待っていると、遠慮がちに言葉が紡がれる。
「ダージリン様がおっしゃっていましたけど、他のカーボン研究者の方はみんな軌道エレベーターのことで頭がいっぱいで、ほぼ全てのひとがそちらに尽力していると聞きましたわ。それなのに何故加賀さんは戦車の安全性を?」
そういえばそんなこともあった! とぼくは久しぶりに軌道エレベーターの件を思い出す。業界ではずいぶん前から注力されてきた研究だったが、先日ついに大手民間放送でその研究について特集が組まれ、世間的にも注目度が高まっていると掃除のおばちゃんが話していた。あのときもいまのローズヒップさんと同じような疑問を投げかけられ「あんた出世コースから外れたね」と皮肉っぽく笑われたが、ぼくは笑って一顧だにしなかった。
「お答えすると、あれはぼくの夢ではないからです」
ぼくの返事に彼女が首をかしげ、「夢?」とこちらが言った言葉をもういちど繰り返す。
「そう、夢です。多くのひとが同じものに向っていくとき、そこで同じ夢を見なければならないとぼくは思っています。部活とか企業とか、そうでしょう。聖グロリアーナの夢はなんですか?」
「……全国大会優勝ですわ!」
「そうです。それが全員の見る夢だ。そして軌道エレベーター研究チームはもちろん全員が軌道エレベーターという夢を見ている。だけどぼくは違うんですよ」
はっきりとそう言い切ると、彼女はそれ以上理解できないように、再び困った表情でこちらを見詰める。カーボン研究者一丸の夢をみないこの男はいったい何を夢見ているのかという表情だ。
「では、加賀さんの夢というのは」
「……それは秘密です」
ここまできてそれはないですわ! と彼女が悔しがるが、こればかりは照れくさくて言えそうもない。ぼくはなおも食い下がる彼女に苦笑いを浮かべながらお手洗いにたち、洗面台の前で鏡に映った自分の表情を見る。
夢。そうだ、ぼくにはぼくの夢がある。だが、それは果たして研究所全体の方針を無視してまで進める価値のあるものなんだろうか。自分は責任ある立場に置かれているというのにそれを果たさず、子供のようにわがままを続けているだけではないか。……たとえそうだとしても、その夢を胸にくすぶらせたままでは生きていけないことはわかっていた。
ぼくは病気だ、とひとりごち、お手洗いを後にした。
戻る途中で会計を済ませ、それから席にもどってふたりで店を後にする。
ショッピングモールをぶらつきながらも彼女は相変わらず先ほどの件が気にかかっていたようだが、モール内の雑貨屋に気を取られてからはすっかりそれを忘れてくれたようだった。どうやら聖グロではアクセサリーの類も禁止されているらしく、物欲しそうに美しいヘアピンを眺めていたが、やがて名残惜しそうに諦める。
ぼくはなんとなくその様子が気にかかり、その日彼女を送り届けてから一人で店に舞い戻り、彼女が気にしていたヘアピンを購入した。ガーベラの意匠あしらわれた清楚で美しいもので、彼女の髪にそれがつけられたところを想像すると、なんとなく胸が暖かくなるのを感じる。ぼくはそれをプレゼント用に包んでもらい、実験が成功した暁には彼女にプレゼントしようと考えていた。
愚かにもというか、考えなしに。
七月になった。
実験の不調を聞きつけて軌道エレベーターの研究チームから誘いがかかったりもしたが、ぼくは相変わらず耐衝撃実験を繰り返している。向こうはぼくが発見した展延性を主軸に巨大なカーボンをどこまでも広げ、それを円筒にすることで軌道エレベーターにしようとしているようだが、そんな巨大なカーボンなんて作れるわけがない。
壁を乗り越える必要があるんだ、とぼくは考える。ぼくも、そして向こうも。
ぼくは次の実験のために戦車全体をゲル状物質で覆うことを考えていた。特殊なカーボンは外からの衝撃を緩和することは可能であるが、内側からの衝撃には頑なであり、搭乗者に大きな負担を強いることになると考える。それを解決するためには戦車の内側から搭乗者を守り、内部に激突した際の衝撃応力を小さくするしかないと感じていた。
そのためのゲル状物質だった。シリコンを原料としたこのゲルはニ十世紀の初頭に登場し、現在でも社会生活で活用されている。ぼくはカーボンコーティングの上にさらにこれを塗って二重構造にし、外と中から搭乗者を守ることを考えていた。内装全体をコーティングするような量のゲル物質は間違いなく金銭的に大きな負担となるが、人命には代えられないし、いざ施行となれば連盟から助成金も出るだろう。
副所長に見せると「また金のかかる真似を」と怒られたが、前回までの試験がそこまで資金のかからないものだったので大きくは反対されなかった。ぼくは机の引き出しにしまったガーベラのヘアピンを意識する。――彼女が憂いなく走れる道を用意することがぼくの仕事だと思った。そしてそこに何か不慮のことが起こった時、手を伸ばして引き上げられるようにする。
ぼくはますます研究所内で立場を失っていったが、他の何も気にするつもりはなかった。
ぼくは研究を通じて再びあの夏のぼくと出会う。単なる夏の課題だったが、その他の宿題よりもはるかに力を入れて取り組んだことは確かだ。
きっかけになったのはなんだった?
戦車道の年間事故発生数。そしてそれを下げるには選手の意識改革ではどうにもならないと知ったからコーティングに目を付けた。
ただのカーボンではないことはわかっていた。ありとあらゆる不活性ガスを検討し、最終的に窒素を主とした三種の不活性ガス雰囲気下において三千度で加熱することにより、カーボンは高い展延性を獲得する。ぼくはそれで世界を変えた。そのつもりだった。だが昨年の戦車道全国大会で完全に目を覚まされる。引き下がっていたとはいえ事故は相変わらず起こり続け、全国大会決勝では選手が命の危機にさらされた。
ぼくは何度も何度も無人実験をくりかえしながら考える。今度こそ大丈夫だ。今度こそぼくは自分でも納得できるぐらいに世界を変えてみせる。まるでそれを呪いのように自分に言い聞かせながら実験を繰り返した。
目の下に隈が浮かび、浮かない天気の毎日が続く。今年は冷夏で七月に入ってもまだ雨が降り続いていたが、研究室にこもるぼくには何の関係もない。そして何度目かの夜があけ、四度目の実験の日が来た。
研究所の職員や学生たち、それからクルセイダーと連れ立って歩いていると、昔家族で観たアニメ作品を思い出す。あの映画の主人公は技術者で、こんな風にして大きな機械を引きずりながら夏の太陽の下を歩いていた。クルセイダーは自分で走ってくれるからあれよりはマシだと思って車体をなで、流石にこの時代に牛で戦車を運ぶことになっては困ると笑う。
天気は生憎で黒い雲が重くのしかかっていたが、まだ雨が降り始めてはいない。ぼくは時折差し込む陽の光を受けて鈍く輝くクルセイダーに「頼んだぞ」と声をかけたが、その姿をこのあいだ陰口を叩かれた学生にこちらを見られて黙り込む。それ以外にも今回協力を快諾してくださった方々やさらには副所長までいらしており、これまでの実験とは違って大変な大所帯だ。
観覧客が増えるのは良いが、それが緊張感になってぼくを締め付けるのを感じた。特に舗装もされていない道を会話もないまま歩き、普段通り巨大な鉄板が打ち立てられた実験場にたどり着く。考えてみると目の前にただ巨大な四角い板が建てられているのはかなり不可思議な光景だが、もしかするとあれがぼくの福音になるかもしれないと思うとなんだか少し神々しく見えてくる。くだらないことだ。
ぼくは笑いながらクルセイダーに捕まり、よじのぼってキューボラを引いて開く。運転席に座ったローズヒップさんが首だけをこちらに向けて自信満々にほほ笑み、小さく手を振る。どうやら彼女は緊張という言葉とは無縁らしく、すこしだけうらやましく思った。ぼくは半分だけ身体を乗り込ませて彼女に手を差し出し、それをお互いにぎゅっと握りあう。
ぼくがクルセイダーから離れるとすぐにカウントが始まり、エンジンを稼働させた戦車が力強く震えはじめる。その姿はいまにも目標に向かって放たれる矢のように見えた。
五秒の後、鈍重な様子で発進したクルセイダーがあっという間に最高速度に達し、平野の向こうに設置された鉄板へ向かってまっしぐらに突貫していく。鼻先に雨粒が当たるのを感じた。戦車はなおも雨粒をかきわけ、土煙と雑草の入り混じった粉塵を巻き上げながら、全てを振り切るように走り続ける。ややあって周囲に轟音が響き、車内の状況を計測していた計器が衝突の影響を算出し始める。
これに関してはなんの問題もない。ぼくはサンダルがつっかかるのを感じながら戦車に向けて走り出し、いままさにキューボラから顔を出したローズヒップさんに駆け寄る。洗車の上からぼくを見つけたローズヒップさんは一瞬嬉しそうに顔をほころばせたが、ややあって暗い顔で俯いてしまった。
ぼくは弾む息を整えて彼女に声をかける。
「……どうですか」
「体感ではあまり……」
そうですか、と答える言葉も消え入りそうだった。二度目で前方左側の装甲にローズヒップさんが腕をつき十分打撲になりえる衝撃が与えられたことが計測され、三度目で戦車内部に張り巡らされたゲルに亀裂が入った。衝撃応力を下げることはできてもゲル素材自体の限界を超えて横方向の衝撃が走り、それで内部コーティングはだめになってしまう。
またも実験は失敗だった。ぼくは雨が降っているのも構わず白衣のポケットに手をつっこんでそこらじゅうを歩き回った。見物に来ていたみなさんはそれぞれにひきあげていったが、そんなことをする気分にはなれない。大勢のまえで実験が失敗した恥じらいが胸のなかで湧き上がり、ちっぽけなプライドが全身の血を熱くするのを感じた。雨がサンダルから靴下にしみこみ、歩くたびに湿った音を立てる。
そのとき、撤収する人たちの中から「一発屋」という言葉が聞こえた気がした。
一発屋、一発屋、一発屋だ。確かに間違いじゃない。ぼくは一発屋だ。だけど世の中に一発当てられない人間がどれだけいる? ぼくは一発当てた。……それで良いじゃないか。いや良いわけがない。富や名声のためにやっている研究ならあの夏休みで終わっているんだ。ぼくが研究をつづけたのは、夢を……。
「加賀さん」
「……ローズヒップさん」
不意に声をかけられて思考が中断される。声を発したのは実験を終えて制服に着替えたローズヒップさんで、白いレースの傘をさして心配そうにこちらを見詰めていた。
「もうみなさんお帰りですわ。加賀さんも行きましょう」
その言葉とともに傘を差し出され、ぼくはその手をとって彼女が濡れないように傘を傾ける。ふたりで歩きはじめると、彼女が少し膝をひきずるように歩いているのが見えた。
「ローズヒップさん、それ」
それはよく見るとほんの少しのすり傷で、彼女の脚を覆うタイツを破いて少しだけ血がにじんでいるのが見えた。ぼくは実験場を抜けると大丈夫だと食い下がる彼女の言葉を無視してタクシーを捕まえ、研究所まで運んでもらうことにする。実験にも失敗して協力者には怪我をさせ、ぼくの胸にこのまま消え入りたくなるような後悔の念が押し寄せてきた。
こんなつもりではなかったという言葉が頭に浮かび、甘ったれた言い訳をするなと自分に言い聞かせる。
タクシーから降りたぼくは彼女の手をとってできる限り負担をかけないように進み、自分の研究室の椅子に彼女を座らせる。ここで待っていてくださいと声をかけるとすぐに廊下で掃除のおばちゃんを捕まえ、救急セット一式とあたたかいお茶を用意してもらうように頼んだ。ぼくの研究室を覗き込んだおばちゃんがにやにやといやらしい表情をしていたが、本当に怒りますよ! と声をかけるとおほほと笑い声をあげて逃げ出していく。
ぼくは再び研究室に戻り、彼女の脚の様子を見る。
「打撲にはなっていないですね。ただのすり傷みたいだ……。傷のまわり、タイツを丸く切り取っても良いですか?」
「大丈夫ですわ」
その言葉に従ってタイツを切り取ると、まるで石膏のように滑らかな彼女の膝があらわになる。朱を吹いたように赤く染まったすり傷が痛々しく、ぼくは謝罪の言葉を口にしながら消毒液を吹きかけた。彼女の表情がわずかに痛みにそまり、それが我がことのようにつらく感じる。彼女の膝を脚に乗せたまま治療を続けていくと、ずっと言葉少なだった彼女が口を開く。
「お役に立てなくてごめんなさいですの」
「ぼくの方です。絶対にけがをさせたりはしないと思っていたましたが、大会もあるのにこんなことになってしまった」
「……大会はその、準決勝で負けてしまいましたの」
心臓が大きく跳ね、すぐに「失礼しました」と謝罪を口にする。いったいなにをやっているんだと自分自身を責め、そして被験者の様子すら全く考えることなくひとりよがりに実験を進めていた自分のことを心の底から恥じた。そうなるとぼくは準決勝に負けて間もない彼女のもとに、ただ事務的なばかりの実験の実施要項を送りつけたのか。自分の馬鹿さ加減に吐き気がしてきた。
「か、加賀さん。泣かないでくださいまし」
彼女にそう言われ、いつのまにか自分の頬を涙が伝っていることを知り、自分のみじめさに嗚咽を漏らした。天才少年だのなんだのと崇められても、ぼくはあまりにも子供だ。神童も二十過ぎればただのひととはまさにぼくのことじゃないか。気の利いたことのひとつもできないし、恥知らずにもこんな時に涙があふれて止められない。
ぼくが泣きやむまでしばらくの時間がかかり、その間彼女はずっとぼくのことを見ていてくれた。
「負けはしましたが、後悔はしていませんわ。私たちはダージリン様の指揮のもと全力を出し切りましたし、私にはまだ来年も再来年もありますもの!」
見上げた彼女の表情はすでに次を見ていて、その顔がまぶしくてぼくはまた少し目を伏せる。この意志だ。前に進み続け、それを恐れない意志。初めて見た試合で見せた不屈の闘争心と、話すごとに感じられるそのひたむきさがぼくを惹きつけてやまない。
彼女だ。彼女こそが再び実験をする原動力なんだとぼくは気づく。
ぼくの心の中にやけっぱちの力が湧き上がり、こうなればなんでも言ってやるという気持ちになる。白衣の裾を握りこみ、大きく息を吸った。どうする。そうだ、実験が成功したら、いやもう実験とか研究とかどうでもよくないか。いやどうでもよくは、でももううまくいかないしどうでも。ぼくにはこのひとさえ……。
そう思った瞬間、彼女の脚が気にかかって他に何も考えられなくなった。
「失礼します」
「えっ!? ひゃぁああ!」
悲鳴をあげるローズヒップさんにも構わずぼくは胸元から眼鏡を取り出し、怪我をしてタイツが破れた彼女の脚を掴む。怪我をよけるように丸く切り裂いた彼女のタイツをひっぱり、その破れた穴に指を入れて強く引っ張る。
――なぜタイツは穴が開いても全体が切れないんだ? たとえば伝線することはあってもそれで全体が破れることは無い。穴が開いても崩壊することは無い。ぼくはタイツを広く伸ばしその構造をしっかりと目に焼き付ける。家庭科で習うような単純な編み方ではないが、かといってそれほど複雑なものではない。しかしこの蜘蛛の巣状か格子状の網目が互いに強固に結びつきあい、一部をほつれさせても全体を崩壊させずに保っているのだ。
「これだ……」
これをカーボンで作ればいい。
「はいはーい。おばちゃんがお菓子とお茶を持ってきてあげたか、ら……ね……」
「ちょっとそこに置いとい……」
振り返るとそこでおばちゃんが硬直していた。この状況をよく考えてみる前に、ぼくはもう一度ローズヒップさんの顔を見上げる。そこには羞恥で真っ赤に染まった彼女の顔があり、涙目で唇をわなわなさせていた。次にぼくだ。膝の上に彼女の脚を乗せてタイツの穴に指を突っ込み、しかもそれを唇がつきそうなほど近くで眺めている。最後に掃除のおばちゃんだ。大変だ。
「待て、これは学術的な研究行為であり」
最後まで言い切ることなくぼくはローズヒップさんから鉄拳を受けて倒れこみ、それから物言わぬ掃除のおばちゃんによってモップで殴られ続けた。
展延性だ! こいつが、ほかでもない過去のぼく自身がぼくの視野を狭くしていたことに気が付く。いつまでたってもぼくはこいつを全体に塗りたくることばかり考えていたし、軌道エレベーターの連中もそうだ。自由に形を変えられるからと言ってそれにこだわり続ける必要がどこにあるというのか。
ぼくは翌日真っ赤に腫れた頬を冷やしながら加工実験場に赴き、特殊なカーボンの加工工程をひとつかえてもらう。過去に自分で行った不活性ガス雰囲気下での過熱を止め、ダイヤモンドと合成させて超高温の常温過熱を行うのだ。かつて展延性実験の副産物として発見し、それ以降は見向きもしていなかった加工法だが、とんでもないことだった。これはふたつでひとつの実験結果だったのだと今ではわかる。
出来上がった繊維質の合成体を用い、ぼくは何本ものしなやかなロープとして加工してもらう。準備はすべてばっちりだ。ぼくはそのうちの一本、直径三ミリほどの太さを持つそれを重さ二十トンのコンテナに括り付け、見事に巨大重機で持ち上げられるところを見た。
「こりゃすごい……」
隣に立った加工実験場のひとが感嘆の声を漏らし、こいつをどう使うんですかと尋ねてくる。
ぼくはその言葉に笑顔で「タイツを作るんです!」と答えた。