平安時代と現代では、碁のルールが違う。
基本は同じだが、大きく違うのは対局前に両者が盤上にあらかじめ石を置いておくことにある。安土桃山時代、本因坊算砂の頃に石を置かずに打ち始める方式への移行があった。従ってそれ以降の江戸時代のルールも平安時代とは異なっている。
ごく簡単にルールのすり合わせをした後、ヒカルが佐為に合わせる形で、両者、石を置いての対局となった。佐為が黒石、ヒカルが白石である。
開始直後、二人の間に漂う空気は比較的おだやかなものだった。
気安い相手が相手である、ということも大きかったのだろう。
だがそれはごく短い時間で途絶え、空気は急速に緊迫したものとなった。
―――――これほどとは……!
佐為は慄然とした。
ついぞ感じたことのない、恐怖にも似た感覚が襲ってくる。
決してあなどっていたわけではない。
心のどこかで幼い姿への緊張のゆるみがあったのかもしれないが、それもごくわずかなものだったはずだ。なにしろ自分はヒカルが歩んできたこれまでの軌跡を話に聞いて知っていて、それを真実だと確信していたのだから。
――――平安の時代では全く考えられない打ち方。
それに加え、この読みの深さは――――
全く知らない碁の形が、目の前にある。
序盤から石の形、その流れに得体の知れない感覚を覚え、中盤になる頃には全く戦える気がしなくなっていた。
――――これが数百年の時を経た囲碁。
私が今までに見てきたものより、もっと深い、深遠を見定めるまでに至った碁の行く末……!
勝てない、と思ってからも佐為は悔しさをわずかしか感じなかった。
悔しさより焦燥、そして憧憬に似た感動が強く、今目の前に繰り広げられている碁をもっと見たい、もっと打ちたいと思う気持ちだけが大きくなっていく。
――――もっと、ずっと打ち続けていたい。
ヒカル、あなたの碁は――――
この先に求めてやまない一手がある。
そう感じながら打つ碁は、佐為にとって確かに幸福以外の何ものでもなかった。
しかしやがて終わりがやってくる。
石を置く手が止まる。盤上をただ眺めるだけになっても、二人はしばらく一言も言葉を発しなかった。
―――ヒカルは失望したのではないでしょうか?
なおも沈黙が続いてようやく、佐為の胸に苦い思いが強くこみ上げてきた。
ヒカル、と呼びかけようとした佐為の声にかぶせて、ヒカルが静かに言った。
「………お前はやっぱり凄いなあ、……佐為……」
『え?』
現代で会った時には140年ぶり。
そして江戸時代の今では、さらに数百年の歳月が碁と佐為を隔てていた。
もちろん今の佐為は現代まで研究され続けてきた定石も知らない。それどころか算砂の頃にようやくできた布石という概念すら、まだ知らないのだ。
「……それなのに、ここまで打てるんだなあ……」
佐為が碁の未来に感動したのならば、ヒカルは碁の過去に感動していた。
本流、原石だけが持つ真実の美しさ。
これからどのように輝き大きくなるか、知り尽くした原石。根源を見出した感動は、むしろヒカルの方が大きかったのかもしれない。
ヒカルは指先で目頭を押さえた。
そしてごまかすようにぶんぶん、と頭を大きく振り、身を乗り出して佐為に言った。
「なあ佐為、お前はこれから俺とも、この時代の人たちとも、もっともっと、どんどん打つんだ。布石を知って。定石を知って。この先の未来の碁も、全部。
俺が教えてやる。そうすればお前はもっと強くなる。どんどん、俺よりも、誰よりも強くなっていくぞ、絶対だ」
『ヒカル……』
佐為は思わず涙ぐんだ。
ヒカルが感じていたのは、自分が心配したような失望などではない、遠くかけ離れたものだったのだ。
ヒカルと違って涙ぐんでいるのを隠そうともせず、佐為はヒカルの顔を見つめて真剣に言った。
『ヒカル、さっきの言葉、取り消します。見ていてください。
私は必ず強くなります。そして私があなたと並び立てるほどに強くなれたらその時こそきっと、あなたと私の二人、一人の碁打ちとして他の人たちと相対しましょうね』
「そこはお前、俺よりも強くなるって言えよ」
『碁は一人では打てないんですよ』
そう、同じくらいに強さを知る打ち手が二人。
その向こうにこそ、きっと神の一手が。
『そういうことなんですよ、ヒカル』
強く言う佐為に、ヒカルはやれやれと肩をすくめてみせた。
「おまけのつもりの人生だったのに、精一杯、前のめりに頑張らなきゃいけなくなっちゃったみたいだなあ」
『もちろんですよ、ヒカル。
一分一秒だって無駄にはできません。
さあ、さっそくもう一局、打ちましょう』
「まあまてまて、せっかくだから検討しようぜ」
『おお!それは良いですね!そうしましょうそうしましょう、さあ今すぐにそうしましょう』
「よしよし、そうこなくっちゃ。んじゃ、ま、最初の一手から……」
ヒカルと佐為は、再び一心不乱に碁盤に向かい始めた。
「あなた、虎次郎は」
「ずいぶん静かにしているな」
畑仕事を終えて家に戻ってきた父、輪三と母、カメは押入れを眺めていた。
「もうすぐ夕飯です。あなた、そろそろ出してやってくださいな」
「……………」
「きっと泣きつかれているんです。一日中押入れの中に入っていたのですから、虎次郎も反省したでしょう」
父はため息をついて言った。
「出してやってもいいが、きちんと謝れなかったら許さんからな」
「………!ええ、それじゃあ」
母はほっと息をついて、押入れの戸に手をかけた。
「虎次郎、反省しましたね?お父様にあやまりなさい……」
がらりと開いた戸を前に、父と母はぽかんとして言葉を失ってしまった。
「だからそこはノビると上手くないんだって…………いやいや、それだと右辺が……いやまて、ここでハネると…………ふむふむ」
三歳児の息子はぶつぶつと独り言をいいながら、碁盤にかじりつくようにして石を置いていた。
しかも戸が開いたことにすら気が付かないほどの熱中ぶりである。
「虎次郎」
「白が弱いように見えるけど、先に進むとそれほどでもないんだよ……その前にここで………」
「虎次郎!」
「!!?うわああ!?」
まさに飛び上がって驚いた虎次郎は、あわてて碁盤の上に並べられていた石をがちゃがちゃとかき回した。
すがるように碁盤に抱きつきながら、おそるおそる両親の顔を見上げる。
「虎次郎……お前ったら……すっとそうやって碁を打っていたの?」
「ごめんなさい!」
虎次郎は押入れの中から転がり出ると、ずざざざざ、と音が出るほどに床の上に滑り出て、そのまま頭を下げた。
「ごめんなさい!もういたずらしません!
具合がよくなって、周りに誰もいなかったから寂しくなっちゃって!碁石で遊びたくなっちゃったんです!今度からは絶対に勝手に道具を出したりしません!散らかしたりしません!お手伝いもするから許してください!」
「手伝いってお前」
父はあきれて母と顔を見合わせた。
3歳児で手伝いも何もあったものではない。
「……手伝いはできるようになってからでいい。
今言ったように、道具を使いたいときにはきちんと断ること。散らかさないこと。
それから言われたら、碁石で遊ぶことはすぐにやめること。守れるか?」
「守ります!本当にごめんなさい!勝手なことをしてすみませんでした!」
「分かったなら、いい」
「それであの……ご不浄……」
「!?早く行きなさい」
「はい」
ご不浄、つまりトイレである。
息子が部屋の外に向かう背中を見送りながら父は再びため息をついた。
「……3歳らしくないせがれだな……?」
一方、ヒカルの方はと言えばますます3歳児らしくないことを頭の中で考えていた。
(くううう、検討し足りねえ。後で寝る前に頭の中でもう一度検討するぞ、佐為)
『はいヒカル、ですがさっきの謝り方はすごかったですねえ、父御も母御も驚いてましたよ』
(ふっふ、必殺スライディング土下座だぜ!)
『おおお、かっこいい!』
(とにかくだ、いい子にしてれば碁盤と碁石を使わせてもらえそうだぜ、これからは極力いい子のふり作戦でいくぜ)
『ヒカル……!いい子のふりなんて……!いけませんよ!』
(だって中身じいさんだし)
しかしこの時、久しぶりの対局で、やはり二人とも浮かれていたのだ。
母が、父とは異なった目で自分を見ているのに気が付かなかったのだから。
「虎次郎、お座りなさい」
次の日、縁側に碁盤と碁石を置いて、母が言い放った。
「今日からお母様と碁を打ちますよ」
(え!?あれ!?母ちゃんが碁を教えてくれるのって5歳位からじゃなかったっけ??フラグ前倒しで立てちゃったか??)
『ふらぐって何ですか、ヒカル?』