『ああああ~~~すみませんすみません!
まさかあなたを倒れさせてしまうなんて~~~!』
(いいからいいから。前もこんなんだったし、気にしてねーって)
あの後ヒカルは朝まで昏倒していた。
しかし皆が寝静まった夜のことであったし、寝相が悪いなあ、と思われる程度に留まった。
ちょうど仰向けにひっくり返ったところが元々寝ていた布団の上だったのである。
(しっかし碁盤を出しっぱなしにしちまったのはごまかせなかったな。
あの兄ちゃんは絶対そういうことしなさそうだから、兄ちゃんのせいにした所ですぐバレちまうと思って正直にあやまったら、めちゃくちゃ怒られちまった)
『ううう、本当にすみませんすみません』
食事も無視して碁石で遊んでばかりいるのをとがめられている所だったので、これは許してもらえなかった。
哀れ、碁盤と碁石は3歳児では絶対に手の届かない押入れの上段にしまわれてしまったのである。
(だけど、確か前に佐為から聞いた話じゃ、虎次郎は以前から碁盤のシミが見えてたって話じゃなかったっけ?それを誰に言ってもそんなの見えないって言われてたんじゃなかったっけか?でもなんか今回、虎次郎はそんなこと周りに聞いてないっぽいんだよな。
どういうことなんだ?この違いって)
『あの……』
(おう、なんだ、佐為)
『あなたは本当に不思議な子ですね……いえ、子と呼ぶのもためらわれる。
ひどく大人びているどころか、私の名前も知っている。
一体どういうことなんです?』
(……佐為)
ヒカルは真剣な顔になり、佐為に向き直った。
(お前には全部話すよ。
今までのこと、おれがやっちまったこと、信じられないかもしれないけど)
話は長時間に及んだ。
午前中から始まり、途中昼寝をしろと厳命されて寝たふりをしながらも話は続き、全て話し終わる頃には日が暮れかける頃になっていた。
『そうだったのですか……そんなことがあったのですね……』
(お前、信じられるのか、こんな話)
『はい』
佐為ははらはらと涙をこぼしながらうなずいた。
『ヒカルの気持ちは聞いていて痛いほどに伝わってきました。
途中まではそんなことはありえない、と正直に言うと思いました。
でも最後のほうでは本当のことだと確信していました。
あなたの話が嘘だということの方が、私にはずっと信じられないことです』
(佐為………ありがとう。
だけどお前……俺のせいで、お前は……)
『私が消えてしまったことを言っているのですか、ヒカル?
でもそれは違うと思います。きっとそう……天命だったのです』
(天命だって?)
『聞いている時には、なぜ私が神の一手を極められないのか、と妬ましくも思いました』
(碁打ちならな)
ヒカルは3歳児にはとても似つかわしくない、ひどく苦い笑いをその顔に浮かべた。
(碁打ちなら、誰だってそうさ。高みを目指せば目指すほど、自分こそが神の一手を極めたいと思う。あの時の俺には分からなかったが、今の俺なら分かる)
『ええ、私だってそうですよ。
でもそれ以上に私は、寂しかったのだと思います』
(………………)
『あなたに会えなくなるのが寂しかったのではないでしょうか?
あなたは私の最高の弟子であり、友人であり、好敵手でした。
あなたの話を聞いていて私はそう思いました。
そんな相手と別れなければならないことほど哀しいことはありません。
なぜなら碁は…………』
(一人では打てないから)
『ええ、そう……神の一手を目指すのならば、なおさらです』
(そうだな、……その通りだ)
かつて佐為以外で一人だけ、ヒカルと共にそのような碁を打てたかもしれない好敵手がいた。
しかし彼は、二人がそこまで到達する前にこの世を去ってしまった。
『だからこそあなたにお願いしたい。私と碁を打ってほしい。
私はあなたと碁を打ちたいと思います』
ヒカルはわずかに目を見開いて佐為を見返した。
(私が打ちたい、じゃないんだな)
『ええ、そうです。
私はあなたと打ちたい。今目の前にいるあなたと打ちたいんです。
きっと私があなたの元から消えなくてはいけなかったのも、あなたがここへ来たのも、大きな意味があるのではないでしょうか』
(佐為)
ヒカルは自分の中から長い間消えなかった霧がはれていくような気がした。
(佐為……俺はお前にそう言ってもらえて嬉しい。光栄だと思う)
『そんな……ヒカル』
佐為はよよよ、と泣きながら首をぶんぶんと左右に振りながら照れている。
器用だな、コイツ。烏帽子も髪も崩れてねえよと思いながらヒカルは続けた。
(だけどな、佐為。
ここからが相談なんだが……俺は本因坊秀策っていう棋士をこの世から消したくないんだ)
『え?それは……』
(いやまあ聞けって。
秀策は本当に偉大な棋士だ。その棋譜は大勢の碁打ちに大きな影響を与え続けてる。
そんな棋譜を、碁打ちを消すなんてことは俺には絶対にできないし、したくない)
『もちろんです、私だってそうですよ』
(だから佐為、俺は虎次郎の……秀策が生きてきた通りに生きてみるつもりだ。
つまり――――――江戸にのぼって御城碁に出る!)
『………おお!』
佐為は涙を止め、大きく乗り出すように顔を上げた。
『……御城碁って?』
(………お前………いやまあ仕方がないか……
つまりだな、今は江戸の征夷大将軍が実質的に政治を取り仕切ってるんだ。その将軍の前でやる真剣勝負のことだよ)
『おお!帝の御前での御前試合のようなものですね!』
(もっと規模がでかいぜ。なにしろ家元四家が本気で競い合う場だからな。日本一の碁打ちを決めるような試合だぜ)
『日ノ本一……!?』
こんなことが言えるようになるなんて俺も年を食ったなあ、とひとり心の中で思うヒカルをよそに佐為の顔色が変わった。
(佐為、その秀策としての碁を、お前が打つんだ)
『ヒカル……?』
(元々、秀策の碁は全部お前が打ってたんだ。お前がそのまま打っていけば、秀策の碁は消えない。名局が後の時代にも残るだろう)
『待って下さい、ヒカル』
(本当の虎次郎がどうなったか、っていうのだけは気になるけど……
でもそうやっていけば、本因坊秀策は消えずにすむ)
『ヒカル!』
「おろろろろろろろろろろろr」
『えええええ!?ヒ、ヒカル!?ヒカル、どうしたんですか!?』
「いや、お前、お前のせいで落ち着けおまおろろろろろろろr」
「ああ!?虎次郎!?
母様!虎次郎が!虎次郎が大変です―――!!」
「きゃああああ!?虎次郎!!?」
「おろろろろろろろろr」
『ヒカルうううううううう!!』